あの日、公園で“紳士”と出会ってから──僕の毎日は、ほんの少しだけ変わった。
夢はまだ見つかっていない。
でも、あの日よりは前を向けている気がする。
ジェントル・クリミナル。
どこか芝居がかった男だったけれど、彼の言葉は、確かに僕の心を揺さぶった。
“きっかけがあれば道が生まれる”
その言葉が、胸の奥にずっと残っている。
僕は今日も、トガちゃんと特訓を続けている。
避けて、受けて、フィールドを張って──
時には笑いながら、時には必死で。
彼女と過ごす時間は、どんな訓練よりも心を軽くしてくれる。
そんな日々の積み重ねが、少しずつ僕を強くしてくれた。
そして──
今日は、小学校の卒業式だ。
六年間。
僕にとっては、長いようで、一瞬のようでもあった時間。
包帯に巻かれた日々。
孤独だと思い込んでいた幼少期。
進化と変化。
そして、夢を探すための最初の“気づき”。
そのすべてを抱えたまま、僕は今日、ひとつの節目を迎える。
◇◇◇◇
卒業式が終わった。
式のあと、クラスのみんなとのお別れも済ませた。
校庭では、家族に囲まれた同級生たちが、嬉しそうに、あるいは少し泣きそうな顔で写真を撮っている。
そんな中、僕はひとり──
卒業証書が入った筒を片手に、いつもの校舎を眺めていた。
今日まで毎日のように通っていた場所。
明日からは、もう“日常”ではなくなる。
胸の奥が、少しだけきゅっとする。
寂しい……という気持ちも、確かにある。
でもそれ以上に、これから始まる中学校での新しい人たちとの出会いに、ほんの少しだけ期待している自分もいた。
トガちゃんはどうだろう。
あの子はもう、少しずつ前を向けるようになっている。
中学では、きっと新しい“居場所”も見つかるだろう。
そんなことをぼんやり考えていると──
「福音くん、ここにいたんですね!」
聞き慣れた、明るい声。
振り返らなくてもわかる。
トガちゃんだ。
いつもと変わらない調子なのに、どこか特別な響きがある。
卒業式が終わったあとだと、なおさら。
「探しましたよ。……一緒に写真、撮りたくて」
そう言うトガちゃんは、どこか照れたように見えた。
その頬の赤さが、春の光にほんのり溶けていく。
「いいね。じゃあ校門の前で撮ろうか」
僕がそう言うと、トガちゃんは嬉しそうに小さく跳ねた。
そして校門の前まで歩いていくと──そこには、トガちゃんの両親が待っていた。
「パパ、ママ。この人が……福音くんです」
紹介され、僕は一瞬だけ胸がきゅっと締め付けられる。
(この人たちが……トガちゃんの “両親”)
僕は姿勢を正し、丁寧に頭を下げた。
「初めまして。新世 福音と申します。
いつもトガさんには、お世話になっております。
学校生活を楽しめたのも、彼女のおかげです」
二人は驚いたように目を丸くし──ほんの少しだけ、優しい表情を浮かべた。
「……そう。ヒミコと仲良くしてくれてありがとうね」
「こちらこそ、いつも一緒にいてくれて……本当に感謝しているわ」
トガちゃんは照れくさそうに笑いながら、両親にスマホを渡す。
「パパ、ママ。二人で……ツーショット撮ってください」
「えっ、僕が? そんな、大丈夫かな……?」
「だいじょうぶです。今日の福音くん、とってもステキですから」
照れずにはいられない言葉に、僕はつい視線を逸らしてしまった。
でも次の瞬間、トガちゃんがそっと僕の腕をつまんで隣に並ぶ。
シャッター音が、春風の中にやさしく響く。
卒業の日の、僕とトガちゃんの初めてのツーショットだった。
◇◇◇◇
写真を確認したトガちゃんの両親は、どこか満足そうに頷くと──
「じゃあ私たち、担任の先生にご挨拶してくるわね。
ヒミコ、福音くんと待ってて」
「うん、わかった!」
そう言い残して去っていく背中を見送り、僕とトガちゃんは校門の横で二人きりになった。
春風が制服の裾を揺らし、校庭のざわめきが遠くに聞こえる。
「……終わっちゃったね、小学校」
「そうですねぇ……なんか、あっという間でした」
「うん。楽しかったけど、いろいろあったなぁ」
トガちゃんは小さく笑った。その表情には、少しだけ寂しさが混じっている。
「でもね、福音くん」
「うん?」
「わたし、この学校に通えて……ほんとうに良かったです」
「どうして?」
問い返すと、トガちゃんは迷いのない瞳で僕を見る。
「だって──福音くんに出会えたから、です」
胸がどくん、と鳴った。
それは不意を突かれたからだけじゃない。
トガちゃんの言葉が、あまりにもまっすぐで、真剣で、温かかったからだ。
「……そう言ってくれるのは、嬉しいよ」
声が少しだけ震えた。
トガちゃんは嬉しそうに笑い、太陽みたいにまぶしい笑顔を見せた。
その瞬間、小学校の思い出が、全部宝物のように感じられた。
トガちゃんは、制服のスカートを指でつまみながら、ぽつりと続けた。
「……最初は、苦痛でした」
「え?」
「自分を押し殺して“普通のふり”をして生活するのが。
毎日、息を止めてるみたいで……すごく、苦しかったです」
そう語る声は、小さくて、でも確かに震えていた。
「でも──福音くんと出会えてから、変わったんです」
「……僕と?」
トガちゃんはまっすぐ顔を上げ、僕を見る。
その瞳は、春の陽に照らされたように透きとおっていた。
「あなたと話して、笑って……隣にいられる場所が増えて。
“自分でいていいんだ”って、はじめて思えたんです」
胸の奥が熱くなる。
「なにより……福音くんといると、わたし、ひとりじゃないって感じられたから」
風がそよぎ、桜の花びらが二人の間を舞い落ちる。
トガちゃんは自分の胸にそっと手を当て、続けた。
「あなたは……“わたしの血が好き”っていう、
普通じゃないって言われてきた部分も受け入れてくれました」
その言葉には、ずっと押しつぶされていた痛みと、
それ以上のあたたかさが滲んでいた。
「それだけじゃないんです」
トガちゃんは小さく息を吸い、まっすぐ僕を見る。
「わたしに嫌われるかもしれないのに……
血のことを赤木先生に相談してくれましたよね」
胸が少しだけ苦しくなる。
自分の勝手な行動だったはずなのに、
彼女はそれを責めるどころか、感謝してくれる。
「そのおかげで、私は……パパやママとちゃんと話すことができました。
最初は怖かったけど、今は、昔じゃ考えられないくらい自然に話せてます」
語るほどに、トガちゃんの瞳はゆっくりと緩んでいく。
春の光を受けてきらきらと輝き、少しだけ泣きそうにも見えた。
「血だって……
医療用として、ちゃんと人前で飲めるようになりました。
誰にも責められずに、“普通”の個性として扱ってもらえるようになったんです」
そう言ったあと、彼女はそっと微笑んだ。
泣き笑いの混じった、どこか大人びた微笑みだった。
「全部……福音くんのおかげなんです」
風が吹き、桜の花びらがふわりと舞い落ち、
二人の距離を柔らかくつないでいった。
トガちゃんの言葉を聞いているうちに、
胸の奥がじわりと熱くなった。
こんなにもまっすぐに、
こんなにも深く誰かに必要とされたことが、
僕は今まで、一度もなかった。
「……そうか」
思わず、小さくつぶやいていた。
その瞬間、はっきりと理解したんだ。
──僕が生まれた意味が、ここにあったんだって。
親に捨てられて、
どうして自分だけが“こう”なのか分からなくて、
生きていることさえ不安だったあの頃。
孤児院で育っても、
誰かの力になれるなんて思わなくて、
ずっと“与えられる側”でしかなかった僕が──
初めて、誰かの“救い”になれた。
それが、こんなにも嬉しいことだなんて。
なにもできないと思っていた僕に、
こんな役目があったんだ。
トガちゃんが言葉にしてくれたことで、
ようやくその事実が胸の底まで届いた。
僕は静かに息を吸い、
気づけば、自然と彼女へ向けて微笑んでいた。
僕は胸の奥の熱をそのまま言葉に変えた。
「……ありがとう。
そんなふうに思ってくれて、本当に嬉しいよ」
そう言うと、トガちゃんは一瞬だけ目を丸くした。
でもすぐに、小さく息を吸い込んで──
まるで何かを決心したみたいに、僕をまっすぐ見上げた。
「……あのね、福音くん」
声は震えていなかった。
ただ、すごく素直で、すごく真剣だった。
「わたし……福音くんのこと、大好きです」
顔を少し赤くして、胸の前でぎゅっと手を握りしめながら続ける。
「普通に話してくれたり、
わたしの“好き”を否定しないでくれたり、
困ったときは助けてくれたり……
そういう全部が、すごく嬉しくて。
だから……これからも、ずっとよろしくお願いします」
僕は自然と微笑んでいた。
「……うん。
これからもよろしく、トガちゃん」
そう返した瞬間、
彼女の笑顔は、春の陽だまりみたいにあたたかかった。
トガちゃんは僕の返事を聞いたあと、
ほんの少しだけ視線を彷徨わせた。
まるで、今の言葉よりも勇気がいることを言おうとしているみたいに。
そして──小さく手を上げた。
「あの……福音くん。
えっと……ひとつだけ、わがまま言ってもいいですか?」
「うん。なんだい?」
トガちゃんは、胸の前で指をもじもじと絡ませながら、
でも最後はしっかりと僕を見つめた。
「……わたしのこと、ヒミコって呼んでほしいです」
「ヒミコ……?」
彼女はこくりとうなずく。
「福音くん、わたしのこと“トガちゃん”って呼んでくれてるけど、
それ、ちょっと他人行儀っていうか……
もうすこし、近くに感じたいっていうか……」
言いながら、両頬がほんのり赤くなっていく。
「パパとママ以外で……
自分の名前を、ちゃんと呼んでほしい人って、
ふくいん君が初めてなんです」
胸の奥がじんわりと熱くなる。
僕はゆっくりと頷いた。
「……わかったよ。
じゃあこれからは、ヒミコって呼ぶ」
その瞬間、
ヒミコは花が咲くみたいにぱあっと笑った。
「……はいっ!
福音くんに呼ばれるの、すっごく楽しみにしてました!」
嬉しさと照れが混ざったその笑顔を見て、
僕も自然と笑顔になる。
「じゃあ……改めてよろしく、ヒミコ」
「はいっ、よろしくお願いしますっ!」
◇◇◇◇
「そうだ、ヒミコ」
「はい? なんですか、福音くん」
名前を呼んだだけで、ヒミコは嬉しそうに小さく跳ねる。
その反応に、僕の胸も少しだけ温かくなる。
「中学って……ヒミコはどこに行くの?」
ヒミコは一瞬きょとんとして、
でもすぐに口元をゆるめた。
「わたし、福音くんと同じ中学ですよ?」
「あ、そっか……」
言われてみれば、地域的に当然だった。
でも心のどこかで「離れてしまうかもしれない」と思っていたからか、
安心して肩の力がぬける。
そんな僕を見て、ヒミコはくすりと笑う。
「ふふ、そういうところ……なんかかわいいですよ? 福音くん」
「っ!? いや、その……」
動揺を隠せない僕が言葉を詰まらせると、
ヒミコは満足げに胸を張って続けた。
「でも本当に、同じ学校でよかった。
だって、福音くんがいない学校なんて──」
そこで、彼女は言葉を切り、少しだけ顔をそらした。
「……すごく、さみしいですから」
その小さな声は、春風に紛れてしまうほど控えめなのに、
はっきりと僕の胸に落ちてくる。
僕は穏やかに微笑んで返した。
「僕もだよ。
ヒミコがいてくれるなら……きっと中学も楽しくなる」
ヒミコはうれしそうに何度も頷いた。
「はいっ! これからも、よろしくお願いしますね。
福音くん!」
◇◇◇◇
ヒミコと別れたあと、僕は孤児院へと戻った。
食堂には、先生たちと子どもたちが準備してくれた小さな飾りつけがあって、
「卒業おめでとう!」と明るい声が飛び交っていた。
ケーキを食べて、写真を撮って、笑って。
こんなにあたたかい夜は、いつぶりだろう。
お祝いが終わり、子どもたちが眠りにつくころ。
片付けを手伝っていると、
女性の先生──穏やかな声の高瀬(たかせ)先生が僕を呼び止めた。
「福音くん、ちょっと来てくれる?」
振り向くと、先生はほほ笑みながら小さな封筒を持っていた。
「卒業、おめでとう。
それと……先生たちからの“卒業祝い”よ」
「僕に……? ありがとうございます」
封筒を受け取り、そっと開ける。
中には、手のひらほどの小さな金属の機械が入っていた。
──携帯電話だった。
「これ……携帯、ですか?」
高瀬先生は小さく頷いた。
「そうよ。
もう中学生になるし、そろそろ必要かなって。
福音くんは、いろんなことを一人で抱え込んじゃうところがあるから……
困ったときにすぐ助けを呼べるようにね」
「僕に……こんなもの……本当に?」
「もちろん。
あなたが頑張ってきたから、先生たちみんなで話し合って決めたの」
どこか照れたように笑う先生。
僕は携帯を握りしめた。
金属の冷たさが、胸の奥であたたかく変わっていく。
「……ありがとうございます。
本当に……ありがとうございます」
深く頭を下げると、
高瀬先生は優しく僕の頭に手を置いた。
「こちらこそ。
自分を大切にね、福音くん。
あなたには、まだこれからたくさんの未来があるんだから」
携帯の重みは、
誰かが僕を信じてくれている証のように感じられた。
◇◇◇◇
翌日。
小学校を卒業して、中学校入学までの春休みが始まった。
ぽかぽかとした陽気の中、孤児院の庭のベンチで日向ぼっこをしていると、
軽い足音が近づいてくる。
「福音くん!」
明るい声に顔を上げると、ヒミコが両手を振りながら駆け寄ってきた。
「おはよう、ヒミコ」
「おはようございますっ!」
春の光みたいに眩しい笑顔だった。
僕はポケットから、昨日もらったばかりの携帯電話を取り出した。
「そういえば……卒業祝いに、先生からこれをもらったんだ。携帯」
画面を見せると、ヒミコの瞳がぱあっと輝いた。
「わぁ……! 本当に!?
これで、家でも福音くんと連絡できるんですね!」
声も表情も隠しきれない喜びそのものだ。
胸の奥がくすぐったくなる。
「うん。ただ、まだ全然使い方がわからなくて……。でも、覚えるよ」
「じゃあっ、まずは“連絡先交換”ですっ!」
ヒミコはスマホを両手で抱えるようにしながら、期待いっぱいに身を乗り出してきた。
「そんなに緊張するようなことじゃないと思うけど……うん、交換しようか」
「はいっ!」
2人で画面を操作し、“友達登録”の通知が同時に鳴った。
「……できたね」
「はい……! ふふ……すごく嬉しいです」
頬をほんのり赤くして微笑むヒミコの横顔を、
柔らかい春風がそっと撫でていった。
連絡先を交換したあと、自然な流れでヒミコが言った。
「じゃあ……スマホの使い方、わたしが教えますね!」
「助かるよ。こういう機械って、触るの初めてで」
僕は両手でスマホを握りしめ、慎重に画面を押していった。
まるで壊れものを扱うような動きに、ヒミコはぷっと笑った。
「ふ、福音くん……お、おじいちゃんみたいです……!」
「そ、そんなにかい……? 人が使ってるのは見たことあるんだけど……。
実際に触るのは、ほんとに初めてなんだ」
僕が不器用に操作するたびに、画面が別の機能へ飛んだり、謎の通知が勝手に開いたりする。
だけど──
「でも、最近のスマホってすごいね」
「え?」
「気づいたら画面を触らなくても、いろいろ動かせて」
ヒミコがきょとんとした。
「……へ? そんな事できるんですか?」
「え? 違うのかい? みんなそうじゃないの?」
「そうじゃないです! ……ちょっと見せてください!」
言われて画面を向けると、ヒミコの目がさらに丸くなる。
「ふく、福音くん……これ……なに……?」
僕のスマホ画面は、
ヒミコの明るいホーム画面とはまったく違っていた。
暗い背景に、幾何学的な線が走り、
円形のウィンドウが複数
「かっこいいから“MAGIシステム”って呼んでるんだ」
「ど、どうやって出したんですかこれ!?
……というか、スマホでこんな画面、見たことないです!」
「うーん……。普通に触ってたら、勝手にこうなったような……?」
ヒミコは、何とも言えない顔で僕とスマホを交互に見比べた。
「……ふ、不思議ですねぇ……これ……」
結局、原因はよくわからないまま。
でもヒミコの戸惑った笑顔を見ていると──まあ、いいか、と僕は思った。