僕のヒーローアカデミア 偽りの福音   作:ペプシ飲みたいマン

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第拾七話 昼休みに降りた福音

 放送部に入ると決めて入部届を提出した翌日。

 

 僕は、教室へ向かって歩いていた。

 この春、僕の世界はゆっくりだけど確かに広がり始めている。

 そんなことをぼんやり考えながら、教室の前まで来た──そのときだった。

 

「──やあ、新世くん!」

 

 声が廊下に響く。

 顔を向けると、放送部の部長──放送ラジオ先輩が立っていた。

 昨日のテンションの高さはなく、どこか気まずそうな顔をして。

 

「……部長? どうしたんですか?」

 

 声をかけると、ラジオ先輩は眉尻を下げて、ものすごく言いづらそうに口を開いた。

 

「本当に申し訳ない! まずは謝るよ、新世くん!」

 

「えっ、いきなり……」

 

「……放送がね、今日の昼からになってしまったんだ」

 

「…………」

 

 言葉の意味を理解するのに数秒かかった。

 

「え? ええと……今日、ですか?」 

 

「そうなんだ。今日の昼休み。つまり──あと数時間後さ」

 

「…………」

 

 僕は静かに立ち尽くす。

 

「ま、待ってください。僕、まだ何をするのか一切わかってないんですが」

 

 昨日入部届を渡して、

「今後の準備はまた明日話そう」と言われた。

 だから僕は、今日じっくり放送部の仕事を教わるものだとばかり思っていた。

 なのに──

 

「今日、本番……?」

 

 部長は胸に手を当て、苦しそうにうめいた。

 

「……どうも先生方は去年の時点で、放送部を“なくすつもりだった”らしくてね」

 

「……じゃあ、僕たち新入生が入ったのって……」

 

「まったくの想定外だったみたいだね」

 

 ラジオ先輩は力なく笑った。

 

「先生方も慌てたみたいで……“もし今後活動実績ゼロなら、そのまま廃部”って話を昨日突然言われてね」

 

「……実績ゼロ……?」

 

「だから今日の昼休みに“テスト放送”を突発でやってみて、

 いい結果が残せたら──存続できる」

 

 そこで、ようやく僕は察した。

 

「……部長」

 

「……うん」

 

「もしかして、そこで“僕の声”を……?」

 

 ラジオ先輩は、ほんの少しだけ申し訳なさそうに笑った。

 

「君の声なら──先生方に“必要性”を示せると思ったんだ」

 

「…………」

 

 僕は黙って目を伏せる。

 不満はない。

 怒りもない。

 だけど──

 

「……重すぎますよ。さすがに」

 

 今日はまだ入部初日だ。

 部活の内容のすり合わせすら終わっていない。

 なのに、いきなり“部の存続を賭けて話せ”と言われるなんて。

 部長は深く頭を下げた。

 

「……ごめん」

 

 その声には嘘がなかった。 

 

「だけど……すまない、新世くん。

 私たちはもう、本当に後がないんだ」 

 

 胸の奥を、小さく揺さぶる声だった。

 放送が止まり、二人だけで続けてきた部活。

 聞いてくれる人はいなくて。

 誰にも見向きもされなくて。

 それでも続けてきた。

 

 ……僕は昨日、入部を承諾した。

 あのとき、部長も副部長も──本気で泣きそうなほど喜んでいた。

 

 なら。

 

「…………わかりました」

 

 自分でも驚くほど静かな声が出た。

 ラジオ先輩は、ゆっくりと顔を上げた。

 

「……ありがとう」 

 

 その目は、昨日よりも必死で。

 だけどどこか救われたようにも見えた。

 

「じゃあ──昼休み、放送室で待ってる」

 

 そう言って、ラジオ先輩は踵を返し、走り去った。

 

 僕はしばらく、その姿を見送るしかなかった。

 

「……今日の昼か」

 

 放送部の存続がかかった“初めての仕事”。

 ──たった数時間後に迫っている。

 

 胸の奥で、静かにコアが脈打った。

 緊張か。

 覚悟か。

 それとも、未知への期待か。

 

 

 ◇◇◇◇

 

 

 昼休みのチャイムが鳴った瞬間、僕たちは教室を飛び出した。

 ヒミコと声田くんと並んで、廊下を早足で歩く。

 

「いやいやいやいや! いくらなんでも急すぎるだろ!」

 

 声田くんが、戸惑いながら叫ぶ。

 

「昨日入部届出したばっかなんだぞ!? “明日には本番”って何のドッキリだよ!」

 

「わたしも、さすがに“数日準備してから”だと思ってました……!」

 

 ヒミコも同意して、頬をぷくっとふくらませている。

 その姿がほんの少し可愛く見えるのは、きっと僕が落ち着いていないせいだ。

 

「部長、相当追い詰められてるんだろうな……」

 

 そう言いながら、僕たちは放送室の扉の前に到着した。

 深呼吸一回。

 そして扉を開ける。

 

「──来たかい、新世くん! そして君たちも!」

 

 放送 ラジオ先輩が、ほっとした笑顔を向けた。

 副部長の天知 無線先輩は、相変わらず淡々とした表情で立っている。

 

「きて早々ですまない。さっそくだけど──今日の放送内容を伝える」

 

 ラジオ先輩の言葉に、僕たちは姿勢を正した。

 

「まず、急に“長時間喋れ”なんて誰も望んでない。私たちもわかってるからね」

 

 無線先輩が口を開く。

 

「だから今日は、“新世に喋らせる量を最小限にする方針”でいく」

 

「……あ……」

 

 僕は思わず胸をなでおろした。

 正直、全てを任せられるんじゃないかと覚悟していたから、それだけで肩が軽くなる。

 

「よかったぁぁ!!」

 

 声田くんは心の底から安堵の声を漏らし、ヒミコも胸に手を当てて息をついた。

 

「でも……だったら、場はどう繋ぐんですか?」

 

 声田くんが真面目な顔で尋ねる。

 

「それについては──“音楽”でいく!」

 

 部長は拳を握りしめて宣言した。

 

「もともと放送部はお昼に“BGMと雑談”を流すのが本業だった! 

 先生たちもそれを期待している! だから今日は“音楽リクエスト放送”として再開する!」

 

「曲の合間に、僕が短くコメントを入れる……って形ですか?」

 

「そう! 曲紹介+締めの一言! これなら新世くんの負担も最小限!」

 

 無線先輩も頷く。

 

「もちろん、“君の声を聞かせること”が最大の目的だからね。

 長く喋らなくても、存在感は示せる」

 

「なるほど……」

 

「喋ると言っても……何を言えばいいんでしょう?」

 

 ヒミコが手を挙げて尋ねる。

 

「それについては──」

 

 ラジオ部長が、一枚のプリントを机に広げた。

 

「台本を用意した!」

 

 そこには、短いコメント例がいくつも記されている。

 

 ◆例①

『続いての曲は、先生からのリクエストです。

 皆さんも残りの休み時間、どうぞゆったりお過ごしください』

 ◆例②

『曲を聴く時間も、大事な休息です。

 教室の窓を開けて、風と一緒に楽しんでくださいね』

 

「うわ……めっちゃ“ラジオのそれ”だ……!」

 

 声田くんが食い入るように見つめている。

 

「新世くんには、この中から2~3個読んでもらうだけでいい。

 内容はテンプレっぽいが……気にしないでくれ」

 

「十分すぎるほど助かります」

 

 僕は素直に頭を下げた。

 その瞬間──少しだけ胸の奥が熱くなる。

 部長と副部長が、“僕が喋れる範囲”をちゃんと考えてくれた。

 だが一つ気になることがある。

 

「……すみません」

 

 台本を見ながら、僕はそっと手を挙げた。

 

「こういうときって……どんなふうに喋ればいいんでしょうか」

 

 部長は「お、いい質問だ」と指を立てて笑った。

 

「そうだな。僕は“自分をプレゼントマイクだと思って”喋ってるよ」

 

「……プレゼントマイク、ですか?」

 

「うん。完全に彼になったつもりで、“声のプロ”になりきるイメージだね!」

 

 ラジオ先輩は胸を叩くような仕草で言った。

 それを見ていた無線先輩が続ける。

 

「まあ、要は “キャラになり切る” ってことだな。

 校内放送は顔が見えない。だから、普段と違う喋り方でも違和感が少ないんだ」

 

「なるほど……」

 

 声田くんが、すかさず口を挟む。

 

「ほら、新世も覚えてるだろ? 

 前話したジェントルだって、日によって声色変えてるんだよ!」

 

「紳士っぽいテンションのときもあれば、くたびれたサラリーマン風のときもある。

 キャラ分けって大事だぜ!」

 

 横でヒミコがこくこく頷く。

 

「福音くんだったら……“装甲を変える”イメージでいいかもしれません」

 

「装甲?」

 

「はい。紫の姿のときみたいに、“外側を変える”だけで雰囲気そのものが変わりますよね? 

 だから、“喋るためのスーツ”を着るつもりで……って、そんな感じです」

 

 それを聞いた瞬間──

 僕の思考の奥が、ふっと揺れた。

 

(……あれ?)

 

 “キャラを作る”……? 

 

 いや、それなら──

 僕はもう、やっているのではないか? 

 

(なら……)

 

 渚カヲルそのものになりきればいい。

 “装甲を換装するように”精神を切り替えればいい。

 僕が放送する声は──

 きっと、“彼の感じ”ならば恐れずに出せる。

 

「……なるほど」

 

 思わず小さく笑っていた。

 

「なんとか、できる気がしてきました」

 

 部長が満足げに頷く。

 

「そうこなくちゃ、期待してるよ──新世福音くん」

 

 

 

 ◆◆◆◆

 

 

 

「ミキサーは僕がやろう。

 申し訳ないが、声田くんとトガくんは席に座って見ていてくれ」

 

 副部長の言葉に、声田とトガは素直に「はい」と返事をする。

 

「私は新世くんの隣で台本を見せながら指示を出すよ」

 

 部長が手元の紙束を軽く持ち上げる。

 

 新世は放送席の椅子に座ると、深く息を吸った。

 背筋を伸ばし、マイクを真正面に見据える。

 

 彼は集中するように、意識を自らの奥底へ沈める。

 

「僕は、渚カヲルなんだ」

 

「最後の使徒であり──フィフスチルドレンだ」

 

 その言葉は思考ではなく、声として漏れた。

 しかし、あまりに小さく、聞こえたのは一人だけだった。

 

 ──トガだ。

 

 彼女は瞬間、目を大きく見開く。

 そして──

 

 虹彩が、赤く染まった。

 

 濃い殺気でも恐怖でもない。

 ただ、血の匂いに反応する獣のような、本能的高揚。

 

 だが誰もそれには気づかない。

 新世は胸に手を当て、呼吸を整えながら部長に尋ねる。

 

「……誰に向けて話すつもりで喋ればいいですか?」

 

「いきなり“生徒の皆さん”ってのは難しいだろうからね」

 

「まずは家族とか、身近な誰かに語るつもりでフランクにやってみてくれ」

 

「家族か……」

 

 自分に言い聞かせるように、その言葉を反芻する。

 

 ──そのときだった。

 

 トガが小さく、低い声で呟いた。

 

 

「……碇くんはどう?」

 

 

 部長・副部長・声田、全員が首をかしげる。

 

「え? 誰だ……?」

「クラスメイトか?」

 

 疑問が浮かぶ中──

 

 新世の雰囲気が、ふっと変わった。

 

 表情が柔らかくなる。

 声を出す前の、呼吸のリズムさえ変わる。

 

 そして──

 

「……シンジくんか。確かに、その方が“しっくり”くる」

 

 その瞬間、放送室の空気が変わった。

 

「役を演じている」ではなく──

「その存在が降りてきた」。

 

 ──そう形容するしかない“何か”が、たしかにそこにあった。

 部長も、副部長も、声田も、そしてトガも。

 

 その瞬間、彼らは見た。

 マイクの前に座る新世の姿が──

 

 一瞬だけ。

 

 ほんの刹那。

 

 白いウナギのような装甲の顔から、銀髪の少年の横顔に──変わったように見えたのだ。

 

 それは錯覚かもしれなかった。

 気のせいかもしれなかった。

 あり得ない──はずの映像だった。

 

 しかし、“見てしまった” という事実だけが胸に残る。

 

 けれど、

 

 誰も──何も言わなかった。

 

 新世が落ち着いた声で台本を確認し、いつも通りに座り直すと、

 

 全員は何事もなかったかのように、黙って次の準備に取りかかった。

 

 ──あれはただの見間違いだ。

 そう、誰もが自分に言い聞かせるように。

 

 けれどその違和感は

 しばらく、胸のどこかに沈殿し続けることになる。

 

 

 ◇◇◇◇

 

 

 その日、私は友達と並んで給食を食べていた。

 

「今日から本格的に部活か〜。もう決めた?」

 

「私は吹奏楽部かなぁ。あんたは?」

 

「んー……まだ迷ってる。帰宅部もいいなぁ」

 

 そんな、ありふれた昼休み。

 くだらない笑い声と、スプーンの触れ合う音。

 ちょうどそのときだった。

 ──校内放送のチャイム音が鳴った。

 

「あれ? 放送部って去年でなくなったって聞いたけど」

 

「先生の放送じゃない?」

 

 私たちが首を傾げていると、

 スピーカーから、曲が流れ始めた。

 聞き覚えのあるメロディ。今流行ってるやつだ。

 

「わ〜それ知ってる!」「最近ハマってるんだよね〜!」

 

 友達は楽しそうにリズムを刻む。

 だけど私は、なぜか。

 ──胸の奥がざわつくのを感じていた。

 曲が終わる。

 そして。

 

『──昼休みのひとときを彩る一曲、いかがだったかな』

 

 落ち着いた声。

 けれど、どこか現実から一歩だけズレている。

 

『歌って面白いよね。

 聞いているだけで、心が少し“別の場所”に連れていかれる』

 

 ほんの一瞬、教室の空気が静まる。

 

 その声は、聞き手の胸の中心を静かに撫でていく。

 

『今日から──お昼の時間は、放送部が音楽とお話を届けるよ。

 耳を傾けてくれたら、うれしい』

 

 それだけを言い残し、放送は音楽へ戻った。

 教室はざわつき始める。

 

「ねえ今の誰!?」「めっちゃ声良くない!?」「プロ呼んだの!?」

 友達が話す声を、私はまるで遠くに聞くようにぼんやりと聞いていた。

 

 

 ◇◇◇◇

 

 

 ──終わった。

 

 コアの鼓動みたいに高鳴っていた意識が、ふっと静かになる。

 胸に押し当てていた手のひらから、熱が引いていく。

 

(……大丈夫だ。やりきれた。)

 

 僕は、ゆっくりと息を吐いて椅子から背を離した。

 さっきまで、頭の中に確かに“声”があった気がする。

 何かを演じていた……いや、なりきっていた。

 

 渚カヲルそのものとして喋っていた感覚が、まだ喉の奥に残っていた。

 だがまずは確認しなければならない。

 僕は顔を上げる。

 部長、副部長、声田くん、ヒミコ。

 四人とも──なにも言わなかった。

 

(…………え?)

 

 全員が沈黙している。

 表情が読めない。

 それが、逆に怖かった。

 

(もしかして……本当に、ひどかったのか?)

 

 急に背中が冷たくなる。

 僕は思い切って口を開いた。

 

「……部長。どうでしたか」

 

 声が震えた。

 部長はゆっくりと、僕を見た。

 喉が上下する。

 そして──

 

「……よかったよ」

 

 震えていたのは、部長の声だった。

 

「本当に……良かった。信じられないくらいに」

 

 副部長が口元を押さえたまま、ぼそりと呟く。

 

「……あれを一年がやったなんて、今でも信じられない……」

 

 視線を横へ動かす。

 声田くんは、ぽかんと口を開いたまま固まっていた。

 言葉が出ないらしい。

 ヒミコは──ただ僕を見ていた。

 声も出さず、瞬きもしないまま。

 

(……だったら)

 

 僕は小さく息を吐いて、言った。

 

「良かったです……。迷惑をかけなくて」

 

 言った瞬間。

 部長が手を叩いた。

 パン、と。

 

「──よし!」

 

 急にいつもの調子に戻った声だった。

 

「放送も無事に終わった! じゃあ、食事の時間にしよう!」

 

「……食事?」

 

 僕は思わず聞き返す。

 すると副部長が補足するように説明してくれた。

 

「放送部はどうしても“お昼の時間”に活動するだろう?」

 

「はい」

 

「そのせいでクラスで給食が食べられないんだ。だから特例で──」

 

 副部長は部屋の後ろを親指で指した。

 そこにはトレイと配膳ワゴンが並んでいた。

 

「人数分、ここに運んでもらってる。昔からのシステムだ」

 

 なるほど……と僕が頷くと、

 部長が苦笑しながら言った。

 

「今になって思うとね……このシステムが面倒だから、先生たちは放送部を無くしたかったのかもしれない」

 

「ええ!? そんな理由あります?」

 

「あるよ!! 先生って案外、そういうとこシビアだからね!」

 

 部長は笑っていたが、目は笑ってなかった。

 僕は苦笑しつつ、思わずつぶやく。

 

「……でも、それでも放送を続けようとしたんですね」

 

 部長は、少しだけ照れくさそうな顔で言った。

 

「続けたかったんだよ。僕は、校内放送って“文化”だと思ってる」

 

 その言葉に、副部長が静かに頷く。

 

「だから──今日の君の“声”は、本当に救いだった」

 

 僕は返事ができなかった。

 ただ、胸の奥が温かくなるのを感じていた。

 あれは僕じゃない。

 僕が演じた“誰か”だったはずなのに。

 でも。

 それでも。

 この結果が、誰かの支えになれるのなら──

 

「……これから、よろしくお願いします」

 

 自然と口から出ていた。

 部長は嬉しそうに笑った。

 

「もちろん! 今日から私たちは同じチームだ!」

 

 その声に、ようやく皆が動き出す。

 声田くんがようやく息を吸い、ヒミコが微笑む。

 これならやっていけるかも、僕はそう思った。

 

 

 

 ◆◆◆◆

 

 

 

 白い砂浜。

 赤い海。

 空は存在しているのかも曖昧な、静止した景色。

 

 その中央に──銀髪の少年の姿をした“何か”が座っていた。

 

 偽カヲル。

 

 彼は膝を抱え、遠くの波をぼんやりと眺めていた。

 

「……まさか、彼がこの段階であの状態になるとは」

 

 声音は、驚きよりも寧ろ楽しげだった。

 

「予想外だよ。完全な覚醒には遠いと思っていたのに……」

 

 目を閉じ、砂を指で軽くなぞる。

 何かを確認するように。

 

「でも──まだだ。まだ覚醒の時ではない」

 

 砂浜に刻まれた線が波に消される。

 それをじっと見つめたまま、小さく呟く。

 

「準備が……足りていない。僕も、彼も」

 

 言葉と同時に。

 赤い海の深部が──脈打った。

 まるで巨大な心臓が静かに一度だけ収縮したように。

 波打ち際の赤が濃くなる。

 

 海の底。

 その暗い層の中に、“コア”が眠っていた。

 光を閉じ込めたような紅い球体。

 それが、ひときわ強く明滅する。

 

 偽カヲルが目を細めた。

 

「……ん?」

 

 赤い光が、彼の頬をかすめるように照らす。

 

「彼女に、力を借りる……?」

 

 偽カヲルは、目を伏せて考えるように静かに言葉を刻む。

 

「確かに……彼女なら“外側”から手を伸ばせる」

 

 波がひとつだけ音を立てる。

 それは肯定のようでもあり、催促のようでもあった。

 

 偽カヲルは立ち上がる。

 裸足の足裏から、静かに砂がこぼれ落ちた。

 顔を上げ──空を見上げる。

 存在しないはずの太陽が、音もなく明滅する。

 

「わかったよ」

 

 薄く笑う。

 

「なら──彼女の力を借りよう」

 

 その声は、どこまでも優しく。

 けれどその奥で、何かが静かに回り始めていた。

 まるで“運命の歯車”のように。

 

 

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