――生まれてから、もう一年ほど経ったと思う。
正確に数えたわけじゃない。
けれど、光が満ち、闇が訪れ、また光が戻る――
その繰り返しが幾度も続いた今、
“時間”というものを前の世界の感覚で測るなら、それくらいになる。
この世界に生まれた瞬間の記憶を、俺ははっきりと覚えている。
それが、俺にとっての最初の拒絶だった。
光の中で、誰かが叫んだ。
母の悲鳴。
それに続く、父の沈黙。
俺を取り上げた医師の手が、震えていた。
そして――あの言葉。
「この子は……人じゃない」
その瞬間の空気の冷たさを、今でも覚えている。
祝福のはずの光は、拒絶の色に変わり、
世界が、俺という存在をそっと遠ざけた。
……それでも、俺は泣けなかった。
声を出す器官がなかったからだ。
息もできず、呼吸の意味も知らなかった。
ただ、胸の奥で何かが“灯った”のを感じた。
それが――俺の心臓だった。
正確には、そう“思った”。
鼓動の音はない。
熱もない。
けれど、確かにそこには小さな光がある。
明滅しているわけでも、輝いているわけでもない。
ただ、“在る”。
暗闇の中で、静かに漂う灯のように。
俺はそれを、心臓だと信じることにした。
血が流れなくても、息をしなくても、
この光が消えない限り、俺は“生きている”。
そう思えば、少しだけ世界に繋がっていられる気がした。
――それが、俺の唯一の救いだった。
俺は白い布に包まれたまま、この世界で生きている。
それは服ではなく、繭のようなものだ。
体を覆い、守るための殻。
俺の姿に合う服は、この世界にはないらしい。
呼吸をしない俺に、酸素は必要ない。
食べることも、眠ることも、命を維持するための行為は何一つしていない。
それでも、光だけは胸の奥で消えずにいた。
きっと、それが俺の“心臓”であり、
それが在る限り、俺はこの世界のどこかに属している。
……俺が今いる場所は、孤児院だという。
俺を育ててくれている人たちは、奇妙なほど優しい。
俺のような姿を前にしても、逃げない。
最初こそ、恐怖の気配があった。
けれど時間が経つにつれ、その目には穏やかさが宿るようになった。
「おはよう」
「今日も眠れた?」
「静かな子だね」
布越しに聞こえる声は、まるで祈りのようだった。
彼らは俺の返事を期待していない。
ただ、言葉をかけてくれる。
それだけで、胸の光がほんの少し温かく感じるのだ。
親に捨てられたあの日、
俺は世界というものが、どれほど冷たく残酷かを知った。
けれど、この小さな部屋の中で、
誰かが俺に向けて話してくれるたびに、
ほんの少しだけ、“人間でありたい”と思ってしまう。
――不思議だ。
俺を生んだ人たちは俺を見て恐れた。
けれど、今、俺の周りにいる人たちは、
目をそらさずに、俺を見てくれる。
同じ“人”でありながら、どうしてこうも違うのだろう。
それを考えるたびに、胸の光が脈を打つような感覚がする。
実際には点滅などしていないはずなのに――
まるで、そこに心の形が芽生えたように。
俺はまだ、人のように笑うこともできない。
けれど、もしもこの光が心臓なら、
そのうち“心”というものも宿るのだろうか。
そんなことを思いながら、
俺は今日も静かに天井を見つめている。
外の世界のことは何も知らない。
けれど、この小さな空間の中で、
人の声を聞きながら“生きている”という感覚を育てていく。
それが、今の俺にできる唯一の生き方だった。
――ある日、“子供たち”が俺の部屋にやって来た。
この部屋の扉は、いつも大人たちだけが通る場所だった。
彼らは穏やかで、やさしい声で話しかけてくれる。
けれどその声音の奥には、
どこか「観察するような」静けさがあった。
俺の体が、どんな“存在”なのか分からないから――
それが理由だと、ずっと前から分かっていた。
そして子供たちがここに来るまで、
一年以上もの時間がかかったのも、同じ理由だった。
俺の“個性”が何なのか、誰にも分からなかったからだ。
……“個性”という言葉。
それが何を意味しているのか、俺にはよく分からなかった。
この世界の人間たちは、それをまるで生まれつきの“力”のように扱う。
もしその力が危険なものなら、
近づく者を傷つけてしまうかもしれない――
だからなのか、彼らは慎重だった。
俺が“安全”かどうかが分かるまで、子供たちは遠ざけられていた。
けれどその日、扉の向こうから小さな笑い声が聞こえた。
いつもの大人の声ではない。
明るく、無邪気な音。
そして――扉が開いた。
差し込む光の中、複数の小さな影が揺れた。
その影は、俺を取り囲むようにして止まった。
「ねぇ……これが“動かない子”?」
「ほんとに目が開いてる!」
「ちょっと怖いけど……なんかキレイ」
恐怖よりも、興味の方が勝っていた。
彼らは俺を「見たい」と思って近づいてきた。
その事実が、ほんの少しだけ、胸の光を温かくした。
子供たちは、それぞれが不思議な姿をしていた。
片耳が獣のように尖った少女。
皮膚が石のように硬質化した少年。
そして――腰から巨大な毛虫が生えている子供。
毛虫は彼の背中から顔を出し、ゆっくりとうねりながらこちらを見ていた。
「わぁ……白い。人形みたい」
「でも、目がこっち向いた!」
俺は彼らを見つめ返した。
“恐怖”よりも先に、“共鳴”があった。
彼らも俺も、“人”という形の中で生きられない存在。
それでも、こうしてここにいる。
「ねぇ、しゃべれる?」
毛虫の子が、恐る恐る言った。
俺は答えられない。ただ目を動かすだけだ。
それでも、獣耳の少女が小さく笑った。
「ううん、わかるよ。聞こえてるんだよね」
その瞬間、胸の光がわずかに脈を打った。
心臓のような音ではない。
けれど、“誰かに受け入れられた”感覚が確かにあった。
それから、子供たちは何度もこの部屋に来るようになった。
ある日、彼らの会話の中で、俺はまた“個性”という言葉を耳にした。
「ねぇ、“個性”って知ってる?」
俺は、目を向けた。
“個性”――その言葉の意味が、まだ分からない。
でも、それがこの世界の鍵である気がした。
「ボクの個性はね、虫を出すことなんだ。ほら」
毛虫の子が笑って背中を見せた。
「でもね、これが気持ち悪いって言われて……
お母さん、泣いて……それでここに来たの」
「わたしは皮が石になっちゃう個性。
お父さんの手を切っちゃって、怖いって言われた」
「ボクは耳がよくて、音が大きいから……
うるさいって怒られてばっかり」
その会話を聞いて、俺は少しずつ理解した。
“個性”とは、この世界で生まれ持つ力――
そして、その形が“普通”から外れている者たちが、ここに集められているのだ。
つまり、俺もその一人。
俺の体も、姿も、“個性”という名の枠の中にある。
この世界は、生まれ持った違いを“異形”と呼ぶ。
そして“異”は、いつだって恐れられる。
俺は親に捨てられた。
けれど今なら分かる。
あれは憎しみではなかった。
理解できなかっただけなんだ――“個性”というものを。
胸の光が、強く輝いた気がした。
光は点滅していないはずなのに、
まるで世界が息を吸い込むように、空気が震えた。
俺は確信する。
この光は、やはり“心臓”だ。
血を流すためではなく、“心”を動かすための器官。
人間が持つ心のかたちを、俺はこの中に宿している。
子供たちは笑っていた。
化け物のような姿をしていても、誰も拒まない。
彼らの笑顔を見ていると、
胸の奥が少しずつあたたかくなっていく。
――話してみたい。
言葉を、伝えてみたい。
ありがとう、と。君たちの声が僕をあたためた、と。
その願いが、体の奥に響いた。
胸の光が震え、空気が波紋のように揺れる。
静かな部屋に、わずかな“音”が生まれた。
音にはならない。
けれど確かに世界がそれを受け止め、
胸の光が呼吸するように膨らんだ。
その夜、俺は思った。
もしこの光が本当に心臓なら――
“話す”ということこそ、俺の次の鼓動になるのかもしれない。
そう思った瞬間、
胸の奥で、かすかな音がした。
それは、肉体が進化を始める“胎動”の音だった。