授業中の教室は、いつも通りだった。
黒板に書かれるチョークの音。
ページをめくる音。
窓の外から聞こえる、遠くの運動部の掛け声。
なのに──
僕の意識だけが、そこから少しズレていた。
頬杖をつき、窓の外を眺める。
青く澄んだ空の下、校庭の木々が風に揺れている。
(……昨日のこと、か)
被身子と心操くんとの模擬戦。
最後に味わった、あの完全な敗北。
思い返すたび、胸の奥がざわつく。
(負けた……)
事実としては、ただそれだけだ。
訓練で負けた。想定内だ。むしろ収穫があったとも言える。
なのに。
(……なんで、こんなに落ち着かないんだろう)
悔しい?
それとも──恥ずかしい?
ノートに視線を落とすが、文字が頭に入ってこない。
ペン先が止まり、同じ場所をなぞっていることに気づいて、そっと力を抜いた。
(僕は……)
動けなくなった身体。
被身子の声。
「勝利です!」という、あの笑顔。
(……油断してた)
いや、違う。
「エヴァだから強い」
「ATフィールドがあるから大丈夫」
口には出さなくても、心のどこかでそう思っていた。
教師の声が遠くで響く。
「──新世。聞いてるか?」
「……あ、はい」
反射的に返事をする。
けれど中身のない返答だと、自分でも分かっていた。
(……ダメだな)
授業が終わるまで、僕はずっとそんな調子だった。
◇◇◇◇
学校が終わり、孤児院に戻った僕は、そのまま自分の部屋へ向かった。
制服のままベッドに倒れ込み、仰向けで天井を見つめる。
白くて、何も描かれていない天井。
視線を固定したまま、思考だけが勝手に回り始める。
(……)
胸の奥が、ざらつく。
痛みとは違う。
悔しさとも、少し違う。
視線を横にずらすと、机の上に置いてある黒い機械が目に入った。
SDAT。
カセットテープを入れる、少し古い音楽プレイヤー。
前世の記憶の中で、碇シンジがいつも使っていたものと同じだ。
無意識のうちに、それを手に取る。
カチ、と軽い音を立てて再生ボタンを押す。
(……イヤホン、使えばいいか)
そう思って、イヤホンを手に取ったところでふと、動きが止まった。
……使えない。
今の僕には、耳の穴がない。
エヴァ量産機の身体。
外部の音を拾うセンサーはあっても、
“イヤホンを差し込んで、世界を遮断する”ことはできない。
「……はは」
乾いた笑いが、喉から漏れた。
(逃げ道、ないんだな……)
音楽に没頭して、考えるのをやめる。
気持ちを誤魔化す。
そういう“人間らしい逃げ方”は、できない。
SDATを机に戻し、ベッドに座り直す。
胸の奥に溜まったもやもやは、
音楽では消せないし、
時間が経っても薄くならない。
(……だったら)
ここにいても、考えるだけだ。
立ち上がり、上着を掴む。
足は自然と、森の方向へ向かっていた。
◇◇◇◇
訓練場に着くころには、空はすっかり薄暗くなっていた。
夕暮れと夜の境目。
紫がかった空が、森を静かに包み込んでいる。
いつもの場所。
ATフィールドで歪んだ地面に腰を下ろし、空を見上げた。
(……ここに来れば、何か変わると思ったんだけど)
風が木々を揺らす音だけが、淡々と流れていく。
昨日の光景が、頭の中で何度も再生される。
被身子の笑顔。
心操くんの声。
そして、自分が“完全に読まれていた”という事実。
「……俺、何を勘違いしてたんだろ」
ぽつりと呟いた、その時だった。
「自分の強さ、かな」
背後から、静かな声が響いた。
振り向かなくても分かる。
この声の主を、俺は知りすぎている。
「……また出てきたのか?」
そう言うと、木々の影の中から、ひとりの少年が歩み出てくる。
白いシャツに、黒いズボン。
月光を思わせる淡い雰囲気。
渚カヲルにそっくりな顔で、
でも“彼ではない存在”が、そこに立っていた。
「また、悩み事かい?」
偽カヲルは、穏やかに微笑む。
その微笑みは優しい。
けれど、どこか人間を突き放している。
「……別に」
そう返したけど、声は弱かった。
彼は俺の隣に腰を下ろし、空を見上げる。
「昨日の敗北が、そんなに引っかかっているんだね」
「……敗北って言われると、余計にくるな」
「事実だから仕方ない」
淡々とした言葉。
でも、否定はしない。
「君は、自分が“エヴァだから強い”と思っていた」
胸の奥を、正確に突かれた。
「ATフィールドがある。
身体能力がある。
だから、多少のことでは負けないと」
「……」
「でも違った。
君がそう思っていただけだ」
偽カヲルは、静かにこちらを見た。
「思い込んでいるうちは、強さを錯覚できる。
でも一度、それが剥がれたら──何も残らない」
言い返したかった。
でも、言葉が出なかった。
「……それを言いに来ただけ?」
絞り出すように聞くと、偽カヲルは首を横に振る。
「違うよ」
そして、立ち上がる。
「君に“理解させる”ために来た」
「……どうやって?」
その問いに、彼は迷いなく答えた。
「初号機に変身するんだ」
「は?」
思考が追いつかない。
「なんで今、ここで」
「言葉じゃ、君は納得しないから」
偽カヲルは、渚カヲルそのものの微笑みを浮かべた。
……それだけだった。
意味がわからず、俺は言葉を探す。
喉まで出かかった何かは、結局、音にならなかった。
「……」
問いかけても、偽カヲルは何も答えない。
ただ、じっとこちらを見つめている。
瞬き一つしない視線。
責めるでもなく、急かすでもなく、ただ「待っている」だけの顔。
だからなのか──逃げ場がない。
言葉のない圧力が、じわじわと胸を締めつけてくる。
まるで、自分自身に見透かされているみたいだった。
(……ああ、くそ)
俺は視線を逸らし、短く息を吐く。
「……はぁ。わかったよ」
自分でも驚くくらい、素直な声が出た。
これ以上、誤魔化す意味がない。
目の前にいるのが“誰”であろうと、今の俺がやるべきことは一つだけだ。
服に手をかけ、無言で脱いでいく。
森の空気が、肌に直接触れる。
偽カヲルは、何も言わない。
ただ、それを見ている。
(……自分を偽るな、ってことか)
そう思った瞬間、胸の奥が静かになった。
意識を集中する。
心臓の奥、コアの鼓動に触れる。
視界が白く染まり、身体が光に包まれる。
骨が組み替えられ、筋肉が引き伸ばされ、
世界が一段階、遠ざかる。
次の瞬間。
森の中に、エヴァンゲリオン初号機が立っていた。
地面が低く鳴り、空気が震える。
俺は、ゆっくりと顔を上げる。
目の前には、変わらず偽カヲルが立っていた。
人間の姿のまま。
だが、その存在感だけは、まるで変わっていない。
俺は低く、はっきりと言った。
「……これでいいんだろ」
偽カヲルは、ようやく口を開いた。
そして、静かに告げる。
「うん。それでいい」
その声は、優しくて、残酷だった。
次の瞬間──
空間が、軋んだ。
白い十字の光が、
一度。
二度。
三度。
脈打つように、闇の中で瞬いた。
光が収束すると同時に、そこに立っていた“人の形”は崩れ落ちる。
骨格が引き伸ばされ、肉体が再構成される。
──エヴァンゲリオン量産型。
それは、俺自身が“日常の姿”として使っている形だった。
白い装甲。
ウナギのような、歪んだ笑みを刻んだ顔。
……それが、今。
俺の目の前に立っている。
(……なんでだ)
思考が追いつかない。
(なんで、お前がその姿になる?
意味があるのか?
それとも……俺を映してるだけなのか?)
答えは出ない。
混乱したままの俺を置き去りにして量産機が、動いた。
音とともに地面が砕ける。
信じられない速度で、量産機が地を蹴った。
森の中を一直線に突っ切り、距離を一瞬で詰めてくる。
(……速い!!)
反応が、遅れた。
初号機としての身体能力はある。
あるはずなのに──判断が、間に合わない。
量産機の腕が、大きく振り抜かれる。
次の瞬間。
ゴンッと鈍く、重い衝撃。
拳が、顔面に直撃した。
左頬に叩きつけられた衝撃が、装甲越しに内部へ伝わる。
拳はそのまま振り抜かれ、空気が裂けた。
勢いに耐えきれず、初号機の身体が揺らぐ。
地面を踏みしめながら、数歩、後ろへ後ずさった。
「なっ……!?」
思わず、声が漏れた。
(……殴られた?
ATフィールドは……?)
痛みが、ある。
確かに、防御は間に合っていなかった。
量産機は、すぐに追撃の構えを取る。
間合いを詰める気配。
容赦のない、戦闘者の動き。
(……フィールドの中和か……くそっ!)
昨日の敗因が、鮮明によみがえる。
被身子と心操くんにやられた、あの瞬間。
自分は「分かっているつもり」で、完全に読み負けていた。
胸の奥で悪態をつきながら、俺は歯を食いしばる。
次の瞬間、量産機の左腕がしなり、拳が迫った。
(来る……!)
直撃はまずい。
俺は反射的に身体をひねり、横へ跳ぶ。
風圧が頬をかすめ、拳が空を切った。
そのまま距離を取るため、後方へ大きく跳躍する。
ドンッ、と着地音を抑えながら、森の中へ飛び込んだ。
視界が一気に緑に染まる。
木々、影、枝、葉。
俺は体を隠せるほど太い幹の陰に滑り込み、片膝をついてしゃがみ込んだ。
(落ち着け……まずは、落ち着け)
思考が落ち着かない。
エネルギーの流れが乱れているのが分かる。
背中を木に預け、ほんの一瞬だけ目を閉じる。
──ダメだ。このままじゃ。
俺はそっと木の陰から顔を出し、森の奥を探した。
……すぐに見つかる。
白い装甲。
異様に浮いたシルエット。
量産機は、森の中でも異常なほど目立っていた。
しかも──
(……こっちの場所、分かってるな)
迷いがない。
足取りが一直線だ。
歩きながら、確実にこちらへ近づいてきている。
気配を殺す様子もない。
隠れるつもりすらない。
(……このままじゃ埒があかない)
逃げても追いつかれる。
隠れても見つかる。
なら──
(反撃するしかない)
俺は背筋を伸ばし、静かに立ち上がる。
心の中で、はっきりと呟いた。
(ATフィールド……展開)
胸の奥から力を引き出す。
空間が震え、淡い光の層が広がる感覚。
だが今回は、慎重に。
中和される“頃合い”を、待つ。
量産機が、さらに近づく。
距離──
十メートル。
八メートル。
五メートル。
(……今だ)
脚に、力を込める。
地面を強く蹴り、俺は一気に走り出した。
落ち葉が弾け、枝が折れる。
そして──
跳ぶ。
大きく、鋭く。
量産機が思わず視線を上げる、その高さまで。
空中で身体をひねり、
全体重を乗せた蹴りを叩き込む。
(……もらった!)
だが。
キィィィィン!!
嫌な音が、森に響いた。
(……な!?)
蹴りは、届かなかった。
量産機の前に展開された ATフィールド に阻まれ、俺の脚は空中で完全に止められていた。
衝撃が足首から逆流し、バランスを崩す。
(フィールド……!?
中和できてない……!?)
思考が追いつく前に量産機が、動いた。
白い腕が伸び、俺の足首を、がっちりと掴む。
「っ……!!」
次の瞬間。
世界が、反転した。
凄まじい力で、身体ごと地面へ叩きつけられる。
視界が揺れ、衝撃が背中から脳まで突き抜けた。
土が舞い、木々が軋む。
意識が、一瞬止まる。
(……くっ……!)
量産機は、足首を掴んだまま、俺を見下ろしていた。
全身で衝撃を受け、視界が一瞬白く弾けた。
意識が、ふっと遠のきかける。
(……っ、飛ぶな……!)
俺は歯を食いしばり、地面に叩きつけられたままの姿勢で、量産機を睨み返した。
白い装甲の奥から、あの声が落ちてくる。
「片方のフィールドが強い場合中和するにも、時間がかかる」
優しく、淡々とした声。
「……忘れたのかい?」
返事はしない。
俺は両手を地面につき、軋む身体を無理やり持ち上げた。
(考えるな……動け)
支点を腕に集中させ、空いた左脚をしならせる。
一撃。
装甲に衝撃が伝わる。
二撃。
踏み込み、距離を詰める。
三撃目。
全身の力を込めて、叩き込む。
ドンッ!!
ようやく、量産機の指が足首から離れた。
(……よし!)
その反動を使い、身体をひねって回転する。
地面を転がり、勢いのまま立ち上がった。
だが──
「……っ!?」
顔を上げた瞬間、量産機はもう目の前にいた。
詰め方が異常に速い。
白い右腕が唸りを上げて振るわれる。
反射的に左腕を上げ、真正面から受け止めた。
衝撃が腕から肩、背骨へと走る。
(……重い……!)
だが、止めた。
今だ。
俺は右腕を大きく振りかぶり、全体重を乗せて殴ろうとする。
その瞬間だった。
下から、量産機の左腕が跳ね上がる。
「……っ!」
アッパー。
顎を打ち抜かれ、視界が跳ねた。
身体が大きくのけぞり、脚が一瞬浮く。
(……くっ……!)
それでも倒れまいと体を戻そうとした、その刹那。
量産機の脚が、躊躇なく振り抜かれた。
身体が宙を舞い、背後の大木に叩きつけられる。
バキッ、と幹が悲鳴を上げ、枝葉が揺れた。
「がっ……!!」
衝撃で体勢を完全に崩し、その場に座り込む。
腕に力が入らない。
頭が揺れ、視界がぶれる。
俺は歯を食いしばり、右手で地面を押した。
崩れた体勢を立て直すために、頭を大きく振る。
(……やばい……意識、戻せ……)
視界の揺れが、わずかに収まった、その瞬間だった。
(……来る)
説明のつかない“圧”が、皮膚の裏をなぞる。
(追撃が──)
考えるより早く、身体が動いた。
空いていた左腕を反射的に前へ出し、ガードを取る。
「……え?」
喉から、間抜けな声が漏れた。
何かがおかしい。
“受けた感触”が、ない。
俺はゆっくりと、自分の左側を見る。
──そこにあるはずのものが、なかった。
(……は?)
左手が、ない。
次の瞬間、背後で重たい何かが落ちる音がした。
ドサッ。
理解が追いつく前に、時間差で現実が襲ってくる。
切断面から、勢いよく血が噴き出した。
「──あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!!!!」
喉が裂けるほどの絶叫。
痛みが、熱が、電流みたいに全身を駆け抜ける。
(……っ、くそ……!!)
俺は反射的に右手を伸ばし、失った左腕の根元を強く押さえた。
指の隙間から、なおも血が溢れ出す。
視界が赤く滲む。
呼吸が乱れ、頭が真っ白になる。
(……なにが……起きた……)
必死に顔を上げ、目の前を見る。
そこにいた。
白い装甲の量産機。
その両手には──
俺の身の丈ほどもある、巨大な両刃の剣。
刃は鈍く光り、血を滴らせている。
(……剣……?)
理解した瞬間、背筋が凍りついた。
量産機は一切の躊躇もなく、その重い剣を横薙ぎに振るう。
空気が裂ける音。
「……っ!!」
俺は歯を食いしばり、痛みを押し殺して身を投げるようにかわした。
剣は、俺のいた空間を容赦なく切り裂き、背後の木を薙ぎ倒す。
幹が砕け、木片が飛び散る。
(……一撃でも、もらったら終わりだ……)
左腕の喪失が、現実としてのしかかる。
痛みで思考が鈍る。
それでも、足だけは止められない。
量産機は、剣を構え直しながら、ゆっくりと距離を詰めてくる。
それでも、止まれない。
量産機の剣が、容赦なく何度も振るわれる。
横薙ぎ、振り下ろし、突き──
俺は、ただ必死にそれを避け続けた。
(くそっ……!)
一歩、また一歩。
後ろへ、後ろへと下がりながら回避していると──
ゴツン、と背中に硬い感触。
(……っ)
振り返らなくても分かる。
木だ。
逃げ場が、ない。
量産機はその瞬間を逃さなかった。
大きな剣を頭上へ振り上げ、ためらいなく──突き立ててくる。
(来る──!)
俺は前のめりに身体を投げ出し、地面を転がるように前転する。
量産機の脇を、紙一重ですり抜けた。
背後で、地面が砕ける音が響く。
剣は俺に届かず、背後の木ごと地面へ深々と突き刺さっていた。
(……外れた)
そう思った、次の瞬間。
量産機は刺さった剣を支点に、腕へ力を込める。
そのまま身体を浮かせるように持ち上げ回避した俺の背中へ、強烈な蹴りが叩き込まれた。
「──ぐっ!!」
身体が前へ吹き飛ぶ。
地面に叩きつけられそうになるのを、なんとか右手で支えた。
土を掴み、必死に体勢を立て直す。
(……まだだ……!)
息を荒くしながら、振り返る。
その瞬間──
視界いっぱいに迫る、巨大な刃。
「なっ──!?」
(投げた……!?)
考える暇もない。
俺は反射的に横へ飛んだ。
剣は地面に叩きつけられ、一度大きく跳ね返ると、その勢いのまま背後の木をなぎ倒した。
幹が折れ、重たい音を立てて崩れ落ちる。
(……よ、避けられた……)
ほんの一瞬、安堵が胸をよぎった。
──その直後。
右手と、左肩に、重たい圧がのしかかる。
(……え?)
視線を上げると、目の前にいた。
量産機。
いつの間に距離を詰めたのか、全く分からなかった。
右手で俺の腕を、左手で肩を押さえ込み、完全に動きを封じている。
(……しまっ──)
量産機は、ゆっくりと──
その口を、開いた。
(……あ……)
次に何が来るのか。
考えるまでもなく、理解してしまった。
量産機は、間を置かずに動いた。
視界が、唐突に塞がれる。
噛みつかれた。
頭部に走る、鈍くて重い衝撃。
装甲が悲鳴を上げ、砕ける感触が、遅れて脳に届く。
「──あ゛……あ゛あ゛あ゛ッ!!」
叫び声が、自分のものだと分かるのに時間がかかった。
痛みが“刺す”でも“焼く”でもない。
壊されていく感覚だった。
量産機は顎にさらに力を込め、身体を大きく反らす。
引きちぎるための、無慈悲な動作。
(……っ、やめろ……!!)
右側の視界が歪む。
世界が、引き延ばされる。
噛みつかれているのは、右目から上。
頭の上部が、顔から剥がれていく感覚が、はっきりと伝わる。
“自分の一部が、離れていく”。
それを、理解してしまうのが何よりも恐ろしかった。
まだ、つながっている。
右目が、まだ“ある”感覚。
見えているのに、距離がおかしい。
視界の端が、不自然に引っ張られる。
次の瞬間。
ぶつり、と。
無理やり引き抜かれた線が断たれるような感覚とともに、右側の世界が、完全に消えた。
音が、遠のく。
痛みすら、遅れてくる。
量産機は顎を閉じきり、
そして──俺を拘束していた力を、あっさりと解いた。
支えを失った身体が、崩れる。
地面が近づくのが、やけにゆっくりに見えた。
(……ああ……)
恐怖も、悔しさも、もう追いつかない。
ただひとつ、はっきりと分かることだけが残る。
意識は、深い闇へと沈んでいった。
◇◇◇◇
戦闘──いや、一方的な蹂躙が終わり、森には不自然な静けさが戻っていた。
折れた木々。
抉れた地面。
赤黒く染まった土。
その中心に、紫色の巨体が横たわっている。
もはや動かない。
意思も、抵抗も、完全に失われた姿。
その傍らに立つのは、白い量産機の姿。
口元は赤く染まり、獣のような静かな呼吸音だけが残っていた。
やがて──
白い体が淡く発光する。
次の瞬間、そこに立っていたのは
銀髪の少年だった。
穏やかな微笑み。
整いすぎた顔立ち。
人の形をしていながら、どこか“人ではない”気配。
──偽カヲル、と呼ばれる存在。
少年は、地に伏した紫の体から視線を離し、森を見渡した。
視界に映るのは、無残な戦闘痕。
生命が踏みにじられ、自然が歪められた痕跡。
「……派手にやってしまったね」
誰にともなく、そう呟く。
少年は、血で染まった森を静かに眺めながら、腕を持ち上げた。
まるで──すべてを元に戻そうとするかのように。
その時だった。
「……なにをしているの?」
澄んだ声が、背後から響く。
少年は、ゆっくりと振り返った。
そこに立っていたのは──
青い髪に、赤い瞳を持つ少女。
無表情。
だが、その瞳の奥には、確かな意志が宿っている。
「君か」
偽カヲルは、わずかに目を細めた。
「……君こそ、どうしてここに?」
少女は紫の体を一瞥し、それから少年へ視線を戻す。
「被身子がね。
今日の彼、なにか様子がおかしかったから……気になって」
一歩、森の中へ踏み出す。
「だから、後をつけてきたの」
偽カヲルは、少しだけ首を傾げる。
「ん?
今渡我被身子の意識は、どうなっているんだい?」
少女は、静かに答えた。
「今の彼女は、会話できる状態じゃないわ」
一瞬、視線を伏せてから、淡々と続ける。
「だから……私が、代わりに表に出ているの」
風が吹き、血の匂いを運ぶ。
銀髪の少年と、青髪の少女。
まるで──かつて世界を揺るがした二人の再来のように、
静まり返った森の中で向き合っていた。
偽カヲルは、ふっと微笑んだ。
「なるほど……
君たちは、そこまで進んでいるのか」
穏やかな声。
だが、その言葉はどこか感心するようでもあり、警戒するようでもあった。
「互いが“代わり”になれるレベルにまで」
少女──アルエは答えない。
ただ、赤い瞳で少年をまっすぐに見つめ返す。
逃がさない、という視線だった。
「……変に誤魔化さないで」
静かに、しかしはっきりと告げる。
「なにをしていたの?」
森の中の空気が、わずかに張り詰める。
偽カヲルは肩をすくめるようにして、視線を紫の体へ戻した。
「これはね」
一拍、間を置いてから続ける。
「福音くんが望んだことだ」
アルエの瞳が、ほんのわずかに揺れた。
「……望んだ?」
「そう」
偽カヲルは淡々と語る。
「彼は“負けた”
自分より弱いと思っていた相手にね」
偽カヲルは、淡々と続ける。
「そして、その事実を──
彼は頭では理解できても、心では受け入れられなかった」
視線は、動かなくなった紫の体へ。
「彼は、あそこまで傷つかなければ本当の意味で理解しない」
まるで“結果”を述べているだけのように続ける。
「力があることと、勝てることは違う。
覚悟があることと、通用することも違う」
一歩、静かに踏み出す。
「そして──
自分が壊される可能性があるという事実を、彼はまだ、真正面から受け止めていなかった」
アルエの赤い瞳が、わずかに細くなる。
「だから、身体に教えた」
偽カヲルは、そう締めくくった。
「逃げ場のない恐怖を。
取り返しのつかない喪失を。
──“負ける”という現実をね」
アルエが、一歩だけ前に出る。
「……どうして、そこまでするの?」
問いは責めるようでも、怒っているわけでもない。
ただ“理解できない”という純粋な疑問だった。
偽カヲルは、紫の体から目を離さないまま答える。
「福音くんが進もうとしている世界はね、そういう世界だからだよ」
静かな声。
だが、言葉は重く、冷たい。
「彼は僕たちのことを“テレビの前”で見ていただけだ。
安全な場所で、編集された映像としてね」
そこで初めて、偽カヲルはアルエのほうを見る。
「痛みも、恐怖も、喪失も実際に体験したわけじゃない」
指先が、わずかに震えたようにも見えた。
「エヴァで戦うということ。
それは、勝つか負けるかじゃない」
一拍、間を置く。
「死ぬか、生き残るかだ」
アルエの赤い瞳が、わずかに揺れる。
「彼は、“理解しているつもり”だった。
自分は特別だと」
偽カヲルは、淡く微笑む。
森の空気が、ひどく冷たく感じられた。
「彼がこの先へ進むなら、
“夢”を見たままじゃいけない」
静かに、しかし断言する。
「だから、ここで一度完全に壊した」
少女が、わずかに眉を寄せる。
「……それで、彼の心が壊れてしまっては意味がないわ」
それは忠告だった。
同時に、祈りにも近い言葉。
偽カヲルは、その声を受け止めるように一瞬だけ目を伏せ──
そして、いつもの穏やかな微笑みを浮かべた。
「大丈夫さ」
断言だった。
「僕は彼を信じている。
逃げないよ、彼は」
あまりにも迷いのない言い切りに、アルエは一歩踏み込む。
「……どうして、そう言えるの?」
偽カヲルは、少しだけ首を傾ける。
その仕草は、まるで昔から決まっていた台詞を口にする前のようだった。
「失礼だけど」
穏やかで、どこか冷たい声。
「僕ほど彼を知っている者はいない」
アルエの赤い瞳を、真正面から見据える。
「彼が生まれた瞬間から、
恐怖に震えた夜も、
強がった言葉の裏も、
自分を特別だと信じようとした、その弱さも」
一つ一つ、数えるように。
「全部、僕は見てきた」
そして、静かに告げる。
「だから、わかるんだ」
視線が、再び倒れ伏す紫の体へ向く。
「彼は壊れるほど、弱くない。
でも──壊れたと自覚できるほど、正直だ」
その言葉は、どこまでも残酷で、どこまでも優しかった。
「痛みを知ったあとで、それでも立ち上がろうとする。
それが、彼という存在だから」
森を吹き抜ける風が、血の匂いをわずかに散らす。
アルエはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……あなたは、本当に残酷ね」
偽カヲルは、少しだけ困ったように笑う。
「そうかもしれない」
そして、最後にこう付け加えた。
「君と──渡我被身子に、ひとつ忠告しておくよ」
アルエの視線が、わずかに鋭くなる。
「今のままじゃ……いつか、後悔する」
森の空気が、ほんの少しだけ重くなった。
「この世界の“個性”は無限大だ。
想像もできない形で進化し、僕たち以上の力を持つ存在と、いずれ相対することになる」
それは予言のようで、事実の確認のようでもあった。
「そのとき力がなければ、守りたいものは守れない」
視線が、倒れた紫の体を一瞬だけ掠める。
「だから、今以上に力をつけることを勧めるよ。
戦う覚悟だけじゃ足りない。
勝ち続けられる力が必要なんだ」
アルエは、何も言わずにその言葉を受け止めていた。
表情は変わらない。
怒りも、反発も、動揺もない。
ただ、静かに頷く。
「……わかったわ」
短く、それだけ。
アルエはそれ以上何も言わなかった。
偽カヲルを見つめる赤い瞳が、ほんの一瞬だけ揺れたがすぐに静まる。
彼女はゆっくりと踵を返す。
森の闇に溶け込むように、一歩、また一歩と歩き出す。
進むにつれて、青い髪は夜の影に紛れ、その小さな背中も、やがて見えなくなった。
残ったのは、月明かりと、静まり返った森だけ。
偽カヲルは、その去り際を追うこともなく、
ただ一度だけ、目を細めた。
理解した者が立ち去ったことを、確かめるように。
偽カヲルは満足したように微笑むと、再び森の奥へと視線を戻した。
「さて……今は、この場を片付けるとしようか」
その言葉と同時に、彼の足元に落ちた影が、ゆっくりと“広がった”。
月明かりに伸びるはずの影ではない。
意思を持ったかのように、黒は地面を這い、木々の根元へと染み込んでいく。
影は静かに、しかし確実に、壊れた森を呑み込んでいった。
折れた木々。
抉られた地面。
飛び散った血の痕。
それらすべてが、黒に触れた瞬間、音もなく溶けるように消えていく。
まるで──
この場所で最初から戦闘など存在しなかったかのように。
◇◇◇◇
暗黒。
どこまでも沈み込むような、底の見えない闇の中から、意識がふっと浮かび上がる。
「……っ!」
反射的に、勢いのまま身体を起こした。
荒く息を吸い込み、見上げた先そこには、静かに夜空に浮かぶ月があった。
白く、冷たく、ただ黙って。
まるで何事もなかったかのように、俺を照らしている。
(……生きてる?)
胸の奥がどくん、と強く脈打った、その瞬間。
(……違う)
違和感が、背筋を走った。
視界が──おかしい。
俺は月を見つめたまま、はっきりと理解してしまう。
「……俺の、右目……!」
慌てて、かみ砕かれたはずの頭へ手を伸ばした。
指先が触れたのは、硬く、なじみのある感触。
──何も欠けていない。
そこには、何事もなかったかのように、
初号機の頭部が、完全な形で存在していた。
「……は?」
思考が追いつかない。
次に、反射的に視線を落とす。
切り落とされたはずの左腕。
……そこにも、異変はなかった。
五本の指が揃い、力を入れればちゃんと動く。
血も、断面も、痛みすら──ない。
「……なんだ、これ……」
周囲を見渡す。
折れていたはずの木々は、まっすぐに立ち。
抉られていた地面も、柔らかな落ち葉に覆われている。
戦闘の痕跡は、どこにもない。
血の匂いも、破壊の名残も、
まるで最初から──何も起きていなかったみたいに。
ただ、静かな森と、夜の空気だけがあった。
俺はその場に立ち尽くし、
自分の手を、頭を、もう一度確かめる。
(……夢、だったのか?)
「やあ、起きたんだね」
不意に、背後から声がした。
その声に、心臓が跳ねる。
俺はゆっくりと顔を向けた。
そこには──月を見上げて立つ、銀髪の少年がいた。
偽カヲル。
月光に照らされた横顔は、静かで、穏やかで、
まるでさっきまでの出来事など最初から存在しなかったかのようだった。
「……」
言葉が出ない。
呆然と立ち尽くす俺をよそに、偽カヲルはゆっくりこちらを振り向く。
そして、いつものあの微笑みを向けてきた。
それを見た瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
「っ……!!」
気づけば、声を荒げていた。
「さっきの……あれは、なんだったんだよ!!」
喉が焼けるように熱い。
恐怖も、怒りも、混乱も、全部ひっくるめて吐き出す。
「俺は……殺されかけたんだぞ!!
腕も、頭も……全部……!!」
震える声で叫ぶ俺を、偽カヲルは否定しない。
遮りもしない。
ただ、少しだけ目を細めて
「うん」
と、静かに頷いた。
そして、穏やかな声でこう言った。
「あれはね、君のためにやったんだよ」
あまりにも当たり前のように。
あまりにも優しい口調で。
まるで「心配だから声をかけた」程度のことを言うみたいに。
「……は?」
理解が追いつかない。
俺は月と偽カヲルを交互に見て、
思わず笑いそうになった。
「ふざけんな……
あんなのが、“俺のため”なわけあるか……!」
だが、偽カヲルは首を振る。
「あるよ」
迷いのない声音だった。
「君は“負けた”。
それだけじゃ足りなかったんだ」
静かな夜の中で、その言葉だけがやけに重く響いた。
俺は歯を食いしばり、視線を逸らす。
(……わかってる)
わかってるからこそ、
胸の奥が、ひどく痛んだ。
偽カヲルは月を見上げたまま、続ける。
「君は弱い。
“強いつもり”でいる時間が、少し長すぎた」
その言葉は、刃みたいに鋭くて。
でも、不思議と──逃げ場を塞ぐような冷たさはなかった。
ただ、事実を突きつけるだけの声だった。
俺は何も言えず、
ただその背中を見つめることしかできなかった。
偽カヲルは、月を見上げたまま言った。
「……わかっただろう? 君がどれだけ弱いか」
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
俺は──何も言えなかった。
反論も、言い訳も、怒鳴り返す言葉さえ出てこない。
偽カヲルは静かに続ける。
「劇場版のことは、覚えているかい?」
その問いかけだけで、何を指しているのか分かってしまった。
「弐号機は、アンビリカルケーブルも刺さっていなかった。
活動限界が刻一刻と迫る中で、それでも──」
月光の下、彼の声だけが淡々と響く。
「量産機──エヴァシリーズを、九体。
一度は、すべて倒したんだ」
俺の喉が、ひくりと鳴った。
「それに比べて、君はどうだい?」
偽カヲルが、ゆっくりとこちらを振り向く。
「活動限界もない。
エネルギーも尽きない。
恐怖を無視できる身体を持っている」
淡々と並べられる“条件”。
「それなのに──」
言葉が、鋭く落ちる。
「たった一体の量産機に、手も足も出なかった」
「……!!」
思わず、拳を握りしめた。
否定したい。
違うと言いたい。
でも、あの光景が脳裏に焼きついて離れない。
殴られ、叩き伏せられ、切り裂かれ、噛み砕かれた自分。
完全な敗北。
「それが、今の君の“現状”だ」
偽カヲルは、はっきりと言い切った。
「そんな状態で、誰かを守れると思うかい?
“ヒーロー”になれると思うかい?」
言葉が胸に突き刺さる。
俺は、俯いたまま動けない。
「……なれないよ」
偽カヲルの声は、責めるものではなかった。
むしろ、残酷なほどに誠実だった。
「だから僕は言ったんだ」
彼は一歩、こちらに近づく。
「──“わからせる”ってね」
逃げ場のない言葉。
でも、不思議と嫌悪よりも先に、
胸の奥で“納得”が広がってしまう自分がいた。
悔しい。
情けない。
それでも──否定できない。
俺は、弱かった。
そして今も、弱い。
偽カヲルは、少しだけ声を和らげて言った。
「だけどね、君は“その弱さを知れた”。
それだけで、もう一歩前に進んでいる」
月明かりの下で、その言葉が静かに胸に落ちる。
「なら……次に何をするべきか。
もう、わかるだろう?」
俺は視線を落とし、考える。
──足りなかったもの。
昨日の敗北で、はっきり突きつけられた現実。
慢心。
覚悟の甘さ。
そして、“自分はエヴァだから強い”という、根拠のない思い込み。
その全部を、偽カヲルは体で教えてきた。
だからこそ──
今、必要な言葉は一つしかなかった。
(逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ……)
胸の奥で、何度も繰り返す。
(そうだ……逃げちゃダメだ)
俺は、ぎゅっと拳を握りしめる。
指先に、確かな力が戻ってくるのを感じながら。
「……ありがとう」
顔を上げて、偽カヲルを見る。
「やり方は……正直、かなり強引だったけどさ」
苦笑しながら、正直な気持ちを吐き出す。
「でも、胸の奥に引っかかってたものは、ちゃんと取れた」
昨日のことが、はっきりと蘇る。
初めての敗北。
悔しさと、情けなさと、どうしていいかわからない気持ち。
俺は、確かに落ち込んでいた。
「……俺、昨日初めて“負けた”んだ」
ぽつりと零す。
「それで、正直……どうしたらいいかわからなくなってた」
でも──と、心の中で言葉を継ぐ。
「でもな」
俺は、もう一度拳を見る。
「俺は、そんなことで立ち止まってる場合じゃない」
視線を上げ、まっすぐ前を見る。
「だって……俺は弱いから」
その言葉は、もう自嘲でも逃げでもなかった。
弱いからこそ、鍛える。
弱いからこそ、考える。
弱いからこそ、覚悟を決める。
ヒーローになるために。
守る側に立つために。
月の光の下で、
俺はようやく“スタートライン”に立った気がしていた。
「……そういえばさ」
俺は、改めて自分の身体と、周囲の森を見回した。
「さっきのあれは、なんだったんだ?
傷は残ってないし……森も、何事もなかったみたいだ」
あれほどの戦闘。
あれほどの破壊。
それが、嘘みたいに消えている。
偽カヲルは、どこか懐かしむように目を細めた。
「ああ、あれか」
そして、さらりと言う。
「あれはね。
エヴァのシミュレーターを、君の“視界”を使って再現したものだよ」
「……シミュレーター?」
「そう。
ただの映像じゃない。君自身の感覚、認識、判断をすべて使った“実戦再現”だ」
偽カヲルは、夜空に浮かぶ月を指さす。
「エヴァにはもともと、人の認識を拡張する機能が備わっている。
それを使って、現実とほとんど差のない戦闘空間を作ったんだ」
俺は、無意識に喉を鳴らした。
「……じゃあ、あの痛みは?」
あの絶叫。
あの、頭を噛み砕かれた感覚。
忘れたくても、忘れられない。
「“幻痛”だよ」
偽カヲルは、穏やかな声で答えた。
「エヴァに備わっている、フィードバック機構の一種。
本来はパイロットが危険を学習するためのものだけど……」
こちらを見て、微笑む。
「今回は“現実”として再現した。
君が逃げずに、最後まで味わえるようにね」
「……性格、悪いな」
思わず本音が漏れる。
「よく言われるよ」
偽カヲルは、どこか楽しそうに肩をすくめた。
「でもおかげで、君は“知った”。
エヴァで戦うということが、どういうことかを」
俺は、黙って拳を握った。
確かにあれは夢じゃなかった。
現実じゃなかったけど、
“本物”だった。
だからこそ、胸の奥に、まだ痛みが残っている。
「……二度と、あんな負け方はしない」
ぽつりと、そう呟く。
偽カヲルは、その言葉を聞いて、満足そうに微笑んだ。
「うん。それでいい」
夜の森に、静かに風が吹いた。
「……そういえばさ」
俺は、ふと思い出したように口を開いた。
「お前、名前あるのか?」
「名前?」
偽カヲルは少しだけ首を傾げた。
「うん。お前の名前だよ。
いつまでも“お前”とかじゃ、正直ちょっと不便だろ」
そう言うと、彼は一瞬だけ黙り込み、夜空を見上げた。
考えている、というよりは、
“思い出すべきものを探している”ような沈黙だった。
「……そうだね」
やがて、静かに口を開く。
「僕は渚カヲル……ではないけれど」
その言葉に、俺は小さく息を呑む。
「なら──」
彼は視線をこちらに戻し、ほんの少しだけ、悪戯っぽく笑った。
「タブリス、とでも呼んでくれ」
「……タブリス?」
その響きを口の中で転がす。
「それ……いや、まあ……うん。
色々ツッコミたいけど……今はいいか」
俺は肩をすくめて、手を差し出すような気持ちで言った。
「じゃあ、タブリス。
これから……よろしく、でいいのか?」
タブリスは、その言葉を聞いて一瞬だけ目を見開き、
それから、ゆっくりと微笑んだ。
「うん。こちらこそ」
月明かりの下で交わされたそのやり取りは、
敵でも、味方でもない。
けれど──
確かに“もう一人の自分”と向き合った、最初の瞬間だった。
俺は胸の奥に、静かな覚悟が灯るのを感じていた。