僕のヒーローアカデミア 偽りの福音   作:ペプシ飲みたいマン

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第参拾話 渚の出会い、ねじれる宿命

 進路面談で、推薦状の話が出た日。

 タブリスにシミュレーターをアップグレードしてもらい、武器が“使える”ようになった。

 

 そして。

 

 次の日が、土曜日だと知った夜。

 

 俺は──少し、変になっていた。

 

 いや。

 少し、なんて言葉で済ませられるものじゃない。

 

 眠らなくていい体。

 食事を取らなくても、しばらくは問題ない。

 痛みはあるが、致命傷にならなければ再生できる。

 

 そんな条件が揃った状態で、夜更けまで起き続けていれば。

 思考は、少しずつ、確実にズレていく。

 

 判断が鈍る。

 危機感が薄れる。

「今ならできる」という感覚だけが、やけに鮮明になる。

 

 気づいた時には、俺は一日中、シミュレーターの中にいた。

 

 避けて、弾いて、組み合って。

 撃って、振って、受け止めて。

 

 何時間経ったのか、もう分からない。

 

 時間の感覚は、とうに壊れていた。

 深夜テンション。

 覚醒に近い高揚。

 そして、妙に静かな万能感。

 

 ──その状態が、どれほど危ういか。

 

 その時の俺は、

 まだ、分かっていなかった。

 その延長で、俺は“それ”を始めてしまった。

 

 量産機との、武器あり組み手。

 

 二体同時で。

 

 ……今なら、はっきり言える。

 

 俺は、馬鹿だった。

 

 視界の端で、量産機が動く。

 次の瞬間、巨大な剣が横薙ぎに振るわれた。

 

「──っ!」

 

 反射的に跳ぶ。間一髪。風圧が装甲を叩く。

 だが、止まる暇はなかった。頭上から二体目が落下し、同時に剣が振り下ろされる。

 

「くっ……!」

 

 後ろへ跳躍し、地面を蹴って距離を取る──取った、つもりだった。

 次の瞬間には、もう来ている。横、正面、間合いゼロ。

 

 斬撃。連撃。間断なく続く圧力。

 息を整える暇も、体勢を立て直す時間もない。

 

(……俺は、馬鹿か!)

 

 心の中で自分に怒鳴りつける。

(一体でも、限界なのに!)

 

 量産機一体との組み手ですら、神経をすり減らすレベルの訓練だ。

 それを二体、しかも武器ありで──。

 

 剣が迫る。

 視界の端で、予測ラインが遅れる。

 

(……まずい)

 

 そう思った時には、もう遅かった。

 精神的な疲労。集中力の低下。ほんの一瞬、ほんのわずかな遅れ。

 

 ──それだけで、戦況は決壊する。

 

 横から振るわれた剣。

 避けきれない。回避動作が、半拍遅れた。

 

 次の瞬間、衝撃。視界が跳ね、重量が消えた。

 

「──っ!?」

 

 感覚がない。

 遅れて、理解する。

 

 右足が、ない。

 

 膝から下が消失している。血が噴射する。

 痛みが遅れてやってくる。

 

「くぅぅぅぅぅ!!」

 

 叫びが喉から漏れ、地面に倒れ込む。

 バランスを失い、装甲が軋む。

 

 地面に仰向けで倒れ込んだ俺に向かって、影が大きく広がった。

 

 次の瞬間。

 

 量産機が、覆いかぶさるように跳びかかってきた。

 

「──っ!!」

 

 咄嗟に、左手を突き出す。

 

 装甲同士が激しくぶつかり合い、鈍い衝撃が体全体に走った。

 

(まずいっ!)

 

 圧倒的に、重い。

 

 量産機の体重が、そのまま俺にのしかかる。

 胸部装甲が軋み、思考が詰まる。

 

「くっ……!」

 

 左手で、量産機の胴体を必死に押さえ込む。

 だが、片脚を失った状態では、体勢が不安定すぎた。

 

 もがく。

 装甲が擦れ、地面を削る。

 

 視界の端で、何かが転がっているのが見えた。

 

 ──拳銃。

 

 戦いの途中で、手から離してしまったものだ。

 

(……あそこか)

 

 距離は、ほんのわずか。

 だが、この一瞬が致命的になりかねない。

 

 量産機が、さらに体重をかけてくる。

 頭部が、ぐっと近づく。

 

「……っ、どけ……!」

 

 左手に、力を込める。

 装甲が軋み、関節が悲鳴を上げる。

 

 同時に、右手を地面へ伸ばした。

 指先が、冷たい金属に触れる。

 

 ──拳銃。

 

 掴んだ瞬間、その重さがはっきりと手のひらに伝わった。

 今まで振るってきた武器とは、質の違う重さだ。

 

 その一瞬で、覚悟が決まる。

 

 左手で量産機の首を掴み、逃がさないように固定し無理やりこちらへ引き寄せた。

 

 視界いっぱいに迫る、量産機の“顔”。

 銃口を、真正面から押し当てる。

 

 

(……やるしか、ない)

 

 引き金を引いた。

 

 銃声が、夜の特訓場を切り裂いた。

 

 次の瞬間、量産機の頭部が内側から弾け飛ぶ。

 装甲が砕け、骨のようなフレームが露出し、内部の肉片と血液が爆発するように四散した。

 

 赤。

 赤。

 赤。

 

 粘ついた鮮血と破片が、視界を塗り潰す。

 顔に。胸に。

 そして右手に。

 

 温かい。

 生々しい。

 嫌になるほど、はっきりとした感触。

 

 銃声の余韻が消える前に、量産機の体から力が抜けた。

 

 ずしり、と。

 

 死体の重さが、そのまま俺の上に倒れ込んでくる。

 

「……っ」

 

 反射的に、左手でそれを押しのけた。

 頭部を失った量産機の体が、地面を転がる。

 

 動かない。

 完全に、沈黙していた。

 

 荒い呼吸のまま、その姿を見つめる。

 

 ──頭が、ない。

 

 あるはずの場所が、無惨に欠けている。

 断面から血が滲み、内部構造が剥き出しになっていた。

 

「……っつ!」

 

 喉が、ひくりと鳴る。

 恐怖が、遅れて押し寄せてくる。

 

 ──一発。

 たった、一発で。

 

(……こんな、になるのか)

 

 拳銃を見下ろす。

 右手には赤い鮮血が飛び散り、指の隙間にぬるりとした感触が残っている。

 

 今まで、何度も拳を振るってきた。

 殴って、蹴って、吹き飛ばしてきた。

 

 でも──違う。

 

 撃つのは、まるで別物だ。

 

 引き金一つで、相手の“存在”そのものを破壊する。

 距離も、力も、技量さえ関係ない。

 

 ただ──壊す。

 

 俺は、初めて実感していた。

 

 自分が今、どれほど危険なものを手にしているのかを。

 拳銃の重さが、さっきまでよりも、ずっと重く感じられる。

 

 だが、その思考は──長くは続かなかった。

 起き上がろうとした上半身に、衝撃が叩き込まれる。

 

「──っ!?」

 

 次の瞬間、視界が反転した。

 叩きつけられるように、俺の体は再び地面に倒れ込む。

 

(……しまった)

 

 遅れて、理解する。

 

(──もう一体、いたんだ!)

 

 だが、もう遅い。

 

 視界の端に、影が映る。

 片足を、大きく振り上げていた。

 

 逃げる暇はない。

 受け身も、取れない。

 

「──っ!」

 

 言葉になる前にものすごい勢いで、量産機の足が振り下ろされた。

 俺の頭部に、真正面から。

 

 衝撃。

 衝撃。

 衝撃。

 

 

(……っ、ぐ……!!)

 

 一発では、砕けない。

 それを理解したのか、量産機は迷いなく動作を繰り返した。

 

 二度目。

 三度目。

 

 同じ軌道。

 同じ力。

 

 踏み潰す。

 踏み潰す。

 踏み潰す。

 

 衝撃が来るたび、俺の体全体がびくりと跳ねる。

 

 両腕が、地面で跳ねる。

 自分の意思とは無関係に、操り人形みたいに。

 

 音が歪む。

 世界が、割れる。

 

 そして──

 

 鈍く、嫌な音。

 内部で何かが、決定的に折れた感触。

 

 思考が、ほどけていく。

 恐怖も、焦りも、後悔も。

 

 全部が、薄れていく。

 

(……ああ)

 

 俺は、そのまま意識を、手放した。

 

 

 ◇◇◇◇

 

 

 地面に突き刺さったままの足が、ゆっくりと引き抜かれる。

 

 湿った音。

 重力に従って、赤い雫が地面に落ちた。

 

 初号機は動かない。

 

 頭部を失い、首の断面と、右脚の切断面から血を吹き出したまま、まるで壊れた神像のように横たわっている。

 

 ……当然だ。

 

 あれだけ踏み砕かれて、意識が保てるはずがない。

 僕は、ほんの少しだけ目を伏せる。

 

 そして、意識を集中した。

 

 白い体が、静かにほどけていく。

 

「……」

 

 倒れ伏す初号機を見下ろしながら、僕は小さく息を吐いた。

 

「神経接続をカットすればよかったのに。君は」

 

 責めるつもりはない。

 ただ、事実を口にしただけだ。

 

 深夜。

 疲労。

 過剰な負荷。

 

 そして、ほんの少しの慢心。

 

 条件は、すべて揃っていた。

 

 僕は、影に手を伸ばす。

 

 足元から、影が滲み出すように広がった。

 

 量産機の残骸。

 砕けた頭部。

 飛び散った血液。

 抉れた地面。

 

 それらすべてが、影に触れた瞬間、音もなく沈んでいく。

 

 飲み込まれ、否定される。

 最初から存在しなかったかのように。

 

 数秒後。

 

 そこに残ったのは静かな森と、首のない初号機だけだった。

 

 風が、木々を揺らす。

 鳥の声が、遠くで聞こえる。

 

 まるで、最初からそうだったかのように。

 

「……」

 

 僕は、倒れたままの彼に視線を戻す。

 

「せっかくの日曜日なのに」

 

 穏やかな声で、独り言のように呟いた。

 

「意識を失ったままなんて、もったいないんじゃないかい?」

 

 当然、返事はない。

 

 ……けれど。

 

「ん?」

 

 違和感。

 

 微細な、けれど確かな変化。

 

 首の断面。

 右脚の切断面。

 

 そこから、

 光が滲み始めた。

 

 血が、引く。

 肉が、再構成される。

 骨格が、音もなく組み上がっていく。

 

 初号機の頭部が、

 ゆっくりと形を取り戻していく。

 

 右脚も同じだ。

 

 断絶は消え、“最初から壊れていなかった”かのように、完全な姿へと戻っていく。

 

 僕は、それを静かに見つめる。

 

「……なるほど覚醒とともに、力が強くなっている」

 

 再生速度。

 自己修復の精度。

 反応の質。

 

 どれも、以前より明らかに向上している。

 

「目覚めの時は……近いか」

 

 それは予言ではない。

 観測の結果だ。

 

 やがて、東の空が白み始める。

 

 朝日が、森に差し込み、初号機の装甲を淡く照らした。

 

 眠る彼を見下ろしながら、僕は一歩、後ろへ下がる。

 

「そろそろ、僕も戻るか」

 

 この世界に、これ以上、干渉する理由はない。

 

 影が、再び足元に集まる。

 

 次の瞬間、僕の姿は、静かに溶けるように消えた。

 

 ──彼の中へ。

 

 

 ◇◇◇◇

 

 

 目を、開く。

 

 だが。

 

「……?」

 

 そこは、

 いつもの砂浜ではなかった。

 

 目の前に広がっていたのは、つい先ほどまで僕が立っていた、現実世の森だった。

 

 湿った土の匂い。

 夜明け前の冷たい空気。

 葉擦れの音。

 

「……?」

 

 違和感は、すぐに確信へと変わる。

 

 視界が、やけに低い。

 

 そして──

 自分が、地面に横たわっていることに気づいた。

 

「……いったい、どうして」

 

 小さく呟き、体を起こす。

 掌が土に触れ、はっきりとした感触が伝わる。

 

 周囲を見回す。

 

 ここは、初号機が倒れていた場所だ。

 

 僕は、息を止める。

 

「……まさか」

 

 胸の奥に、初めての感情が芽生えた。

 戸惑いに近い、未知のざわめき。

 

 視線を落とし、彼の鞄を探す。

 

 すぐ近くに落ちていたそれを拾い上げ、中からスマートフォンを取り出した。

 

 使ったことは、ない。

 

 けれど。

 

 彼が操作しているのは、何度も見てきた。

 

 指先で画面をなぞり、カメラを自撮りに切り替える。

 

 そして。

 

 画面に映ったものを見た瞬間、僕は、言葉を失った。

 

 そこにいたのは。

 

 渚カヲルの姿で、スマホを覗き込む僕自身だった。

 

 白い肌。

 赤い瞳。

 そして、人の顔。

 

「……っ」

 

 一瞬、呼吸を忘れる。

 

「まさか……」

 

 喉の奥で、言葉が震えた。

 

「僕たちも、彼女(渡我被身子)たちのように……入れ替わりができるとは」

 

 それは、完全に予想外だった。

 

 可能性として考えたことはある。

 理論上の仮説として、だ。

 

 でも──

 実際に起きるとは、想定していない。

 

 戸惑いが、隠せない。

 

「……だが、どうして今なんだ」

 

 画面から目を離し、空を見る。

 

「彼の意識が……ないからか」

 

 眠っている。

 あるいは、沈んでいる。

 

 その隙間に、僕が“こちら側”へ引き出された。

 

 理由としては、十分すぎる。

 

 僕は、ゆっくりと自分の手を見る。

 

 そこにあったのはエヴァの装甲ではない。

 

 骨と、筋肉と、皮膚。

 

 人間の手だった。

 

 指を、軽く動かす。

 違和感は、ある。

 けれど、確かに“馴染んでいる”。

 

「……なるほど」

 

 小さく、息を吐いた。

 

「まさか、君の欲しているものを……僕が持っているとは」

 

 くすり、と笑う。

 

 それは嘲笑でも、同情でもない。

 ただの事実に対する、静かな皮肉だ。

 

「なんとも……皮肉だね」

 

 彼は、人として生きることを望み。

 人として眠り、疲れ、悩む。

 

 そして今。

 

 人の体を持っているのは、僕のほうだ。

 

 ……今は。

 

 とりあえず、移動しよう。

 

 いつまでも森の中にいるわけにはいかない。

 ここは彼が倒れた場所であって、世界そのものじゃない。

 

「せっかく外に出たんだ」

 

 誰に向けるでもなく、静かに言う。

 

「君が眠っている間だけど……少し、楽しませてもらうよ」

 

 返事は、ない。

 

 当然だ。

 彼は今、深いところにいる。

 

 それでも構わない。

 言葉は、必ずどこかに残る。

 

 そう思いながら、僕は歩き出した。

 

 

 ◇◇◇◇

 

 

 気づけば、街の中にいた。

 

 舗装された道。

 行き交う人々。

 建物の隙間を抜ける、朝の光。

 

 ──同じ景色のはずなのに。

 

 彼の中から“見る”のと、こうして自分の目で“見る”のとでは、まるで違う。

 

(……どうにも、新鮮に感じるね)

 

 休日だからだろうか。

 

 家族連れが歩いている。

 友達同士で笑い合う子供たち。

 肩を寄せ合う恋人たち。

 

 その中には、個性の影響で姿形がさまざまな人もいる。

 

 角を持つ者。

 皮膚の色が異なる者。

 人とは明らかに違う輪郭をした者。

 

 それでも彼らは、当たり前のようにこの街を歩いている。

 

 なんとも、微笑ましい。

 楽しそうな光景だ。

 

 ──けれど。

 

 その裏側で、確実に切り捨てられている人々がいることも僕は知っている。

 

(……超常が日常の世界なのに、それでも君たちリリンは、“普通”を求める)

 

 異能を持つことが前提の世界で、なお“平均”を作り出そうとする。

 

(なんて、歪なんだろうね)

 

 ふと、思い出す。

 

 新世福音の心。

 そして、彼が大切にしている存在──渡我被身子たちの姿。

 

 拒絶され、恐れられ、それでも、笑おうとする姿。

 

 この景色を見たら、渚カヲルは、どう思うのだろう。

 

 悲しむだろうか。

 それとも、怒るだろうか。

 

(……やはり、僕には分からない)

 

 君たち、リリンの考えていることは。

 

 ──いや。

 

(この世界の人類を、“リリン”と呼ぶのも少し違うか)

 

 僕は、ふっと小さく笑った。

 

 そして、そのまま。

 

 人の流れに溶け込むように、足を進めた。

 

 

「……ほんと、嫌になるな」

 

 ふと気づけば、僕は海に来ていた。

 街を抜け、無意識のまま歩いて、辿り着いた先がここだった。

 

 波打ち際に立ち、水平線を眺める。

 空と海の境目は曖昧で、どこまでが現実で、どこからが幻想なのか分からない。

 

 寄せては返す波の音。

 一定のリズム。

 心拍のようでいて、呼吸のようでもある。

 

「……渚、か」

 

 自嘲気味に、名前を零した。

 

「どうしても、(渚カヲル)に引っ張られるな」

 

 彼の記憶。

 彼の感情。

 彼が“安心する場所”。

 

 それらが、僕の選択に影響しているのだとしたら。

 少し、滑稽だ。

 

 僕はそのまま砂浜に腰を下ろす。

 靴底に、柔らかな砂の感触。

 

 潮風が、頬を撫でる。

 人の体は、こういう刺激を“心地いい”と感じるらしい。

 

「……なるほど」

 

 独り言のように呟く。

 誰に聞かせるでもなく。

 

 海は、何も答えない。

 ただ、変わらずそこにあるだけだ。

 

 僕はしばらく、潮風に身を任せていた。

 

 

 

 

 

 ◇◇◇◇

 

 

 

 

 

(どうして、ここにいるんだろう)

 

 その日、私──波動ねじれは、海に来ていた。

 

 理由なんて、特にない。

 気づいたら、電車を降りて、気づいたら歩いていて、気づいたら──波打ち際に立っていた。

 

 ざあ、と波が寄せては返す。

 揺れ動く水面を、ただぼんやりと見つめる。

 

 潮風が吹いて、長い髪がふわりと揺れた。

 服の裾も、同じように揺れる。

 

(……せっかく、雄英に入学したのに)

 

 つい先日、始まったばかりの高校生活。

 最難関とも言われる雄英高校の入試を突破して、ヒーロー科に入った。

 

 本当なら、喜ぶべきなんだと思う。

 周りから見れば、きっと「すごいこと」なんだろう。

 

 でも。

 

 今の私は、笑えなかった。

 

 理由は、分かっている。

 でも、言葉にしようとすると、胸の奥がざわついてしまう。

 

 考えないようにしていたはずの記憶が、水面に浮かぶ泡みたいに、ゆっくりと上がってくる。

 

『私たちを馬鹿にしてるの?』

 

 不意に、頭の奥に声が響く。

 

『自分がいい個性だからって、優越感に浸りたいだけかよ』

 

 波音に混じって、聞こえた気がした。

 

『見下してんじゃねぇ!』

 

「……っ」

 

 思わず、息が詰まる。

 私は反射的に両手で耳を塞いだ。

 

 聞こえない。

 聞こえないはずなのに。

 

 声は、内側から滲み出してくる。

 

 私は昔から、興味を持ったことは何でも知りたくなってしまう。

 どうして? 

 なんで? 

 それってどういう意味? 

 

 悪気なんて、なかった。

 ただ、純粋に──知りたかっただけ。

 

 それに。

 知れば、近づけると思ったから。

 

 分からないままより、

 知っていた方が、距離は縮まるって。

 そう思ってた。

 

 でも。

 

 気づいたら、みんな離れていった。

 

 質問するたびに。

 目を向けるたびに。

 一歩、また一歩。

 

(……なんでだろう)

 

 前は、あんなに知りたかったのに。

 人のことも、気持ちも、全部。

 

 今は──

 何も、知りたくない。

 

 他人に嫌われるのが、怖い。

 自分が、また傷つくのが、怖い。

 

(……悪いのは、誰?)

 

 答えは、簡単だった。

 

 

(……私だ)

 

 

 なんでも知ろうとする私。

 踏み込みすぎる私。

 距離を測れなかった私。

 

 だったら。

 

 知ろうとしなければいい。

 興味を持たなければいい。

 踏み込まなければいい。

 

 そうすれば、誰も傷つけない。

 そして──

 自分も、傷つかなくて済む。

 

 ……はずだった。

 

 

 

「──どうして、ヒーローになるんだっけ?」

 

 ぽつりと、声が漏れた。

 誰に向けた言葉でもない。

 

 分からない。

 どうして、ヒーローを目指したのか。

 

(……どうしてだっけ)

 

 答えは、思い出せなかった。

 まるで、心の奥にしまわれてしまったみたいに。

 

(……どうしてだっけ)

 

 何度、問い直しても。

 同じところで、思考が止まる。

 

 私の個性が、すごいから? 

 

(……どうしてだっけ)

 

 個性が強いから。

 ヒーローになれば、周りが大事にしてくれる。

 

 そうすれば──

 嫌いにならないで、いてくれる。

 

 皆、褒めてくれる。

「すごい」って言ってくれる。

 近づいてくれる。

 話を聞いてくれる。

 応えてくれる。

 支えてくれる。

 

 そういう未来を、確かに想像していたはずなのに。

 

 ……でも。

 

(それって、本当に)

 

 本当に──

 私が、ヒーローになりたかった理由、だったっけ? 

 

 胸の奥が、ざわつく。

 

 答えを探そうとすると、

 頭の中が、急に静かになる。

 

 何も浮かばない。

 何も、掴めない。

 

 ただ、ひとつだけ分かるのは。

 

(……疲れちゃったな)

 

 胸の奥が、きゅっと縮む。

 

 息を吸っても、吐いても、その感覚は消えない。

 

 波は、変わらず打ち寄せている。

 寄せて、返して。

 同じリズムで。

 

 世界は、何も変わっていないのに。

 

 私だけが、

 ここから動けないみたいだった。

 

 だから私は、波の音に耳を傾けた。

 考えるのをやめるために。

 心の奥に沈んでいく問いから、少しでも逃げるために。

 

 一定のリズム。

 優しくて、無関心な音。

 

 その中に──

 不意に、異物が混じった。

 

「タラタッタッタター」

 

 ……え? 

 

 やけに、能天気な声。

 場違いなくらい、軽い旋律。

 

 私は思わず、音のした方向を見る。

 

 そこにいたのは、

 私と同じくらいの年頃の男の子だった。

 

 砂浜に腰を下ろし、無造作に足を伸ばして。

 手には、紙袋。

 

(……なに、あの人)

 

 私は、視線を逸らせなかった。

 

 じっと、見つめてしまう。

 

 すると。

 

 彼は、私の視線に気づいたらしい。

 ゆっくりと、顔を上げた。

 

「──」

 

 目が、合う。

 

「っ……!」

 

 心臓が、小さく跳ねた。

 

 見つめ合う。

 ほんの数秒。

 

 なのに、その時間がやけに長く感じられる。

 

 声をかけなきゃ。

 いや、かけなくていい。

 そもそも、知らない人だ。

 

 頭では分かっているのに、体が、動かない。

 

 私は、何も言えずに固まってしまった。

 

 すると、彼の方が先に口を開いた。

 

 穏やかで、落ち着いた声。

 

「……波の音はいいね、心を癒してくれる。

 そう思わないか?」

 

『なんで座ってるの? 

 どうして、紙袋を持ってるの?』

 

 ──いつもの言葉が、喉まで出かかった。

 

 反射みたいに。

 考える前に、知ろうとしてしまう、あの癖。

 

(……だめ)

 

 私は、慌てて口を閉じる。

 

「えと……その……」

 

 言葉を探すふりをして、視線を逸らした。

 ごまかすように、曖昧な音を並べる。

 

 ──また、繰り返すところだった。

 

 同じ失敗を。

 

 すると、彼が静かに言った。

 

「……なにか、聞きたいことがあるのかい?」

 

「……っ」

 

 その一言に、思わず息を呑んだ。

 

(どうして……)

 

 どうして、分かるの? 

 

 私が、何かを知りたがっていること。

 口に出す前から、抑え込んでいること。

 

「……あの、私、その……」

 

 言葉が続かない。

 急に、居心地が悪くなった。

 

 胸の奥が、ざわつく。

 

(やっぱり、だめだ)

 

 私は、そのまま踵を返した。

 帰ろう。

 これ以上、踏み込まない方がいい。

 

 そう思った──その時。

 

「……待って、僕は君ともっと話がしたいな」

 

 足が、止まった。

 

「一緒に、どうだい?」

 

 戸惑いながら、振り返る。

 

「……え?」

 

 彼は、穏やかな表情のまま続けた。

 

「お昼ご飯だよ。

 これから、なんだろ?」

 

 そう言って、手にしていた紙袋を少し持ち上げる。

 

 袋の口が開く。

 

 その瞬間。

 

 風に乗って、匂いが漂ってきた。

 

 揚げた油の香り。

 パンの匂い。

 ほんのり甘くて、温かい匂い。

 

「……っ」

 

 次の瞬間。

 

 ──ぐぅ。

 

 はっきりと、自分でも分かる音が鳴った。

 

「……!?」

 

 顔が、かっと熱くなる。

 

 私は反射的にお腹を押さえた。

 恥ずかしさで、視線が泳ぐ。

 

(……そういえば)

 

 昨日から。

 なにも、食べてない。

 

 その事実を思い出した途端、お腹が、正直に主張してくる。

 

「さあ、どうぞ座って」

 

 そう言われて、気づいた時には。

 彼はもう、砂浜にシートを敷いていた。

 

 ……いつの間に? 

 

 そう思ったのに、体は止まらなかった。

 私は、なぜかそのまま腰を下ろしてしまう。

 

(あれ……?)

 

 警戒していたはずだった。

 人と距離を取るって、決めていたはずなのに。

 

 彼は向かいに座り、穏やかな目でこちらを見る。

 

「君は──何を知りたいんだい?」

 

 その一言で。

 

 胸の奥に、しまい込んだはずの“癖”が、きゅっと音を立ててほどけた。

 

「……っ」

 

 だめ。

 だめだって、分かってるのに。

 

「僕に聞きたいことがあるんだろう?」

 

 そう言って、彼は手のひらを広げた。

 

 淡い光が集まり、数秒後。

 そこに現れたのは、新しい紙袋。

 

「……え?」

 

 頭が、理解する前に──

 口が、先に動いていた。

 

「い、今のなに!? 

 個性!? それとも仕込み? 

 紙袋を出す能力? でも中身あったよね? 

 それとも──」

 

 ──はっ。

 

(……あ)

 

 やってしまった。

 

 一気に、血の気が引く。

 

 私は、恐る恐る彼の顔を見る。

 

 彼は。

 ぽかん、とした顔をしていた。

 

 怒っていない。

 引いてもいない。

 

 ただ、少し驚いて。

 それから──くすっと、小さく笑った。

 

「あ……いや、その……ごめんなさい!」

 

 慌てて言葉を重ねる。

 

「い、いまの忘れて! 

 別に知りたいわけじゃ……ちょっとだけで……」

 

 すると彼は、静かに微笑んだ。

 

 責めるでもなく。

 笑うでもなく。

 

「……自分らしさを、極端に避けるね。君は」

 

 胸が、ひくりと跳ねた。

 

「怖いのかい?」

 

 その声は、優しいのに。

 逃げ場を与えない。

 

「……人と、触れ合うのが」

 

 私は、息を呑んだ。

 

 否定したかった。

 違うって言いたかった。

 

 でも──言葉は、喉の奥で止まったままだった。

 

「他人を知らなければ、裏切られることも、互いに傷つくこともない。

 でもね……寂しさを、忘れることもできないよ」

 

 波の音に溶けるように、彼は続ける。

 

「人間は、寂しさを永久に無くすことはできない。

 人は一人だからね。

 ただ忘れることができるから、人は生きていけるのさ」

 

 私は、何も言えなかった。

 

 どうしてこの人は、私を否定しないんだろう。

 どうして、「間違っている」と言わないんだろう。

 

 責められる準備なら、できていた。

 距離を置かれる覚悟も、あった。

 

 それなのに。

 

「とりあえず、今は食べよう」

 

 彼は、まるで話題を変えるみたいに言った。

 

「ご飯を楽しむことはね、人に与えられた幸福の一つだから」

 

「……うん」

 

 気づいたら、私は頷いていた。

 

 紙袋の中から、包みを取る。

 温かい。

 指先に、ちゃんと“現実”の感触がある。

 

 一口、食べて。

 

「……おいしい」

 

 思わず、声が出た。

 

「よかった」

 

 彼は、穏やかに微笑む。

 

「喉が乾いたら言ってくれ。

 飲み物も出せるから」

 

 その言い方が、あまりにも自然で。

 まるで、当たり前みたいで。

 

 胸の奥が、じんわりと温かくなった。

 

 空腹感が消えていくと同時に、

 別の感覚が、ゆっくりと広がっていく。

 

 安心。

 満足。

 そして──ささやかな幸福。

 

(……そうか)

 

 気づいてしまった。

 

(久しぶりなんだ)

 

 家族以外の誰かと、こうして一緒にご飯を食べるのは。

 

 中学時代。

 友達と呼べる人はいなかった。

 

 給食も、いつも一人だった。

 教室の隅で、音を立てないように食べていた。

 

 だからなのか。

 

 この、何でもない時間が。

 胸に、心地よく染み込んでくる。

 

 その感覚に、少しだけ酔って。

 

 私は──また、やってしまった。

 

「すごい!」

 

 顔を上げて、彼を見る。

 

「飲み物も出せるなんて、すごい個性だね! 

 他には? 他にはどんなものを出せるの?」

 

「個性……そう。

 君たちリリンは、そう呼んでいるね。

 人が持つ、無限の可能性だ」

 

 不思議な言葉だった。

 少し遠くて、少し抽象的で。

 でも──嫌な感じは、しなかった。

 

 私を拒絶しない。

 距離を取らない。

 面倒くさそうな顔も、警戒の色もない。

 

 その事実が、胸の奥にじんわり広がっていく。

 

 ──嬉しい。

 

 理由なんて、考える前に。

 

「ふふっ……」

 

 気づけば、笑っていた。

 作った笑顔じゃない。

 隠す必要もない、自然な笑み。

 

「やっと、笑ったね」

 

 彼は、少しだけ目を細めて言う。

 

「今のが……本当の君なんだろう?」

 

 胸が、きゅっと鳴った。

 

 どうしてだろう。

 この人の言葉を聞いていると、

 閉じ込めていた“前の私”が、顔を出してしまう。

 

 怖いはずなのに。

 抑えていたはずなのに。

 

 だから、なのか。

 

 私は──話してしまった。

 

「うん」

 

 砂浜を見つめたまま、言葉を探す。

 

「私、昔から……なんでも知りたくなっちゃって」

 

 波の音に、声が溶ける。

 

「それでね、気になると……誰にでも、聞いちゃうの」

 

 一呼吸。

 

「どうして? 

 なんで? 

 それってなに??」

 

 言葉にするほど、思い出が蘇る。

 

「悪気は、なかったんだよ。

 ただ……近づきたかっただけなのに」

 

 指先を、ぎゅっと握る。

 

「でも、みんな……離れていって」

 

 声が、少しだけ震えた。

 

「だから、聞かないようにした。

 知ろうとしないようにした。

 そうすれば……傷つかないって、思ったから」

 

「確かに、人は心の壁を作る」

 

 彼は、波打ち際を見つめたまま言った。

 責めるでも、諭すでもなく、ただ事実をなぞるように。

 

「自分の何物にも侵されない領域をね。

 そこは、誰にも触れさせない場所だ」

 

 風が吹き、砂がわずかに舞う。

 

「常に人間は、心に痛みを感じている。

 心が痛がりだからこそ、生きること自体を辛いと感じることもある」

 

 その声は、穏やかで。

 どこか、遠い。

 

「だから、人は壁を必要とする。

 守るために。

 壊れないために」

 

 少しだけ、間があった。

 

「君は、純粋なんだね」

 

 その言葉に、胸が跳ねる。

 

「知りたい、分かりたい、近づきたい。

 それ自体は、とても美しい衝動だ」

 

 でも、と彼は続ける。

 

「知られることを、怖がる人もいる。

 触れられることで、傷が開いてしまう人もいるから」

 

 私は、何も言えなかった。

 否定も、肯定も、できない。

 

「そう……君の速度と、相手の準備が、噛み合わなかっただけだ」

 

 その言葉が、静かに胸に落ちる。

 

 責められない。

 否定されない。

 それなのに、逃げ場がないほど、まっすぐだった。

 

「……どうすれば、いいのかな」

 

 声は、自分でも驚くほど小さかった。

 

「もう……間違えたくない」

 

 彼は、穏やかなまなざしで私を見つめていた。

 

「君は、どうしたい? どうなりたい?」

 

 波の音が、その問いをやさしく包み込む。

 

 胸の奥が、きゅっと縮む。

 逃げたくなるはずの質問なのに、不思議と視線を逸らせなかった。

 

「……私は、一人になりたくない。誰かとつながっていたい。でも、嫌われたくもない」

 

 欲張りで、わがままだ。

 それでも、これが本音だった。

 

 彼は、少しだけ口元を緩めた。

 

「なら、簡単なことだよ。今までとは違うやり方を選べばいい」

 

 私は、思わず瞬きをする。

 

「相手が準備できていないなら、その時間を作ってあげればいい。

 君が相手の速度に合わせれば、相手は混乱しなくて済む」

 

 彼は、波に視線を向けたまま続けた。

 

「君は速すぎたんだ。だから相手は、ついていけなかった。

 でもね、少し歩調を落とせば、相手が『聞かれてもいい人なのか』『近づいても大丈夫なのか』を、ちゃんと見る時間が生まれる」

 

 胸の奥に、静かに何かが落ちていく。

 

「相手に合わせてあげればいいんだ。それだけで、世界はずいぶん優しくなる」

 

 その言葉は、正解を押しつけるものじゃなかった。

 ただ、選択肢をそっと差し出してくれただけ。

 

 私は、ゆっくりと息を吐いた。

 

「……そっか、それでいいんだ」

 

 胸の奥にあった固さが、少しだけほどける。

 全部を一度に変えなくていい。

 走る速さを、少し落とせばいい。

 それだけでいいんだと、ようやく思えた。

 

 ──その時だった。

 

 ざぷん、と。

 

 二人の前の海面が、不自然に盛り上がった。

 

「……え?」

 

 次の瞬間。

 

 水しぶきを上げて、

 何かが海から姿を現した。

 

 黒と白の体。

 丸みを帯びた胴体に、短い翼のような手。

 首元には、首輪のようなバンドが巻かれていて、

 その下から、少し間の抜けた表情の顔が覗いている。

 

 ──ペンギンだった。

 

 それも、ただの野生のペンギンとは、どこか違う。

 

 妙に堂々としていて、

 人を恐れる様子がまるでない。

 濡れた体からは、海水がぽたぽたと滴り落ちている。

 

 ペンギンは、ぶるっと大きく体を震わせた。

 

 ばしゃっ、と水滴が飛び散る。

 

「……っ!」

 

 あまりに突然の出来事に、

 私は声を出すことすらできず、その場で固まった。

 

 思わず、隣に立つ彼を見る。

 

 ──彼もまた、驚いていた。

 

 今まで一度も見せたことのないほど、

 はっきりとした動揺の表情。

 

「……どうして、君がここに……」

 

 小さく、独り言のようにつぶやく。

 

「これも……覚醒の影響、なのか?」

 

 問いかける相手は、私ではなかった。

 けれど、その意味は分からなくても、

 ただならぬことが起きているのは伝わってくる。

 

 ペンギンは、そんな空気を気にする様子もなく、

 よちよちと、私の方へ歩いてきた。

 

 砂に残る、小さな足跡。

 

「……え?」

 

 立ち止まることなく、そのまま、私のすぐ前まで来る。

 

「グゥワ」

 

 低くて、少し間の抜けた鳴き声。

 

 不思議と、怖くなかった。

 

 私は、そっと無意識のまま、その頭に手を伸ばしていた。

 濡れた羽毛は、思ったよりも温かい。

 

「……かわいい」

 

 ぽつりと、言葉がこぼれる。

 ペンギンは、嫌がることもなく、ただ気持ちよさそうに目を細めていた。

 

 彼は、小さく息を吐く。

 

「これも宿命か……それとも、最初から決められていたシナリオ通りなのか」

 

 独り言のようなその声に、私は首をかしげた。

 

「……その子は、ペンペン。彼も、僕たちが内包している存在だよ」

 

「僕たち?」

 

 思わず問い返す。

 

「あなたは……いったい……」

 

 答える代わりに、彼は静かに立ち上がった。

 それにつられるように、私も立ち上がる。

 

 次の瞬間。

 

 砂浜に敷かれていたシートも、

 紙袋や包み紙のゴミも、

 まるで最初から存在しなかったみたいに、淡い光となって消えていった。

 

「……え」

 

 言葉を失う私をよそに、彼はペンペンのほうへ歩み寄り、右手を差し出す。

 ペンペンは迷いなく、その手のそばへよちよちと寄っていった。

 

「ここで、お別れだ」

 

 彼は、ゆっくりとこちらに背を向けた。

 背中越しに、彼は言う。

 

「話せて、よかったよ」

 

 その声に、胸の奥がきゅっと締めつけられる。

 

「──待って!」

 

 反射的に、声が出ていた。

 

 彼は、足を止めて振り返る。

 

「……ありがとう」

 

 自分でも驚くくらい、素直な声だった。

 

「話を聞いてくれて……」

 

 気づけば、

 心の底からの笑顔が、自然と浮かんでいた。

 

 彼は、一瞬だけ目を見開き、

 それから、柔らかく笑った。

 

「……僕は、君に逢うために生まれ──」

 

 そこで言葉を切り、少し困ったように首を振る。

 

「……いや、さすがにこれは、言いすぎだね」

 

 軽く笑って、言い直す。

 

「でも、よかったよ」

 

 そして、踵を返そうとする。

 

「あの……名前!」

 

 慌てて、私は続けた。

 

「私、波動ねじれ!」

 

 彼は、立ち止まり、少しだけ考えるように空を見上げた。

 

「名前、か……」

 

 それから、こちらを見る。

 

「もし、次に君と会ったとき、君が僕に気づけたら。その時に、名前を教えるよ」

 

 それだけ言うと、

 彼はペンペンを連れて、静かに歩き出した。

 

 潮風に揺れる背中。

 並んで歩く、不思議なペンギン。

 

 私は、その姿が見えなくなるまで、ただ、そこに立ち尽くしていた。

 

 

 ◇◇◇◇

 

 

 森へ続く小道を、僕は一人で歩いていた。

 夜明け前の空気は冷たく、湿った土の匂いが足元から立ち上ってくる。

 

 隣にいたペンペンは、もういない。

 人の気配が遠ざかるよりも早く、彼は自分から影の中へ溶けていった。

 

「……いったい、何がしたかったんだろうね。僕は」

 

 誰に聞かせるでもなく、声に出す。

 返事はない。森はただ、静かだった。

 

 どうして、見ず知らずの彼女に声をかけた? 

 どうして、悩みを聞き、答えを与えるような真似までした? 

 

「……(タブリス)(渚カヲル)じゃないのに」

 

 それなのに。

 人を拒む姿を見た瞬間、胸の奥で何かが勝手に動いた。

 まるで、役割を思い出したみたいに。

 

 救う言葉。

 寄り添う距離。

 否定しない声。

 

「真似事だなんて」

 

 自嘲気味に、息を吐く。

 

 答えは出ない。

 出るはずもない。

 

 でも──

 

 歩みは止めなかった。

 

 木々の隙間から、見覚えのある場所が見えてくる。

 初号機が倒れていた森。

 彼が、眠っている場所。

 

「……君が、いつ目を覚ましてもいいように」




今回の話、正直めちゃくちゃ難しかったです。

気づけば話数も30話を超えていて、
ここまで続けられたのは本当に、読んでくれている皆さんのおかげです。
いつもありがとうございます。

まだ中学校編が続いていますが、このあたりでそろそろ一区切りつけたいなと思っています。


ここまで読んでくれて、本当にありがとうございました。
これからも、ゆっくりですが書いていきますので、
よければ引き続きお付き合いください。

心操人使をヒーロー科に受からせるか悩んでいます。ご意見お願いいたします。

  • ヒーロー科に受かる
  • 原作通り普通科
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