進路面談で、推薦状の話が出た日。
タブリスにシミュレーターをアップグレードしてもらい、武器が“使える”ようになった。
そして。
次の日が、土曜日だと知った夜。
俺は──少し、変になっていた。
いや。
少し、なんて言葉で済ませられるものじゃない。
眠らなくていい体。
食事を取らなくても、しばらくは問題ない。
痛みはあるが、致命傷にならなければ再生できる。
そんな条件が揃った状態で、夜更けまで起き続けていれば。
思考は、少しずつ、確実にズレていく。
判断が鈍る。
危機感が薄れる。
「今ならできる」という感覚だけが、やけに鮮明になる。
気づいた時には、俺は一日中、シミュレーターの中にいた。
避けて、弾いて、組み合って。
撃って、振って、受け止めて。
何時間経ったのか、もう分からない。
時間の感覚は、とうに壊れていた。
深夜テンション。
覚醒に近い高揚。
そして、妙に静かな万能感。
──その状態が、どれほど危ういか。
その時の俺は、
まだ、分かっていなかった。
その延長で、俺は“それ”を始めてしまった。
量産機との、武器あり組み手。
二体同時で。
……今なら、はっきり言える。
俺は、馬鹿だった。
視界の端で、量産機が動く。
次の瞬間、巨大な剣が横薙ぎに振るわれた。
「──っ!」
反射的に跳ぶ。間一髪。風圧が装甲を叩く。
だが、止まる暇はなかった。頭上から二体目が落下し、同時に剣が振り下ろされる。
「くっ……!」
後ろへ跳躍し、地面を蹴って距離を取る──取った、つもりだった。
次の瞬間には、もう来ている。横、正面、間合いゼロ。
斬撃。連撃。間断なく続く圧力。
息を整える暇も、体勢を立て直す時間もない。
(……俺は、馬鹿か!)
心の中で自分に怒鳴りつける。
(一体でも、限界なのに!)
量産機一体との組み手ですら、神経をすり減らすレベルの訓練だ。
それを二体、しかも武器ありで──。
剣が迫る。
視界の端で、予測ラインが遅れる。
(……まずい)
そう思った時には、もう遅かった。
精神的な疲労。集中力の低下。ほんの一瞬、ほんのわずかな遅れ。
──それだけで、戦況は決壊する。
横から振るわれた剣。
避けきれない。回避動作が、半拍遅れた。
次の瞬間、衝撃。視界が跳ね、重量が消えた。
「──っ!?」
感覚がない。
遅れて、理解する。
右足が、ない。
膝から下が消失している。血が噴射する。
痛みが遅れてやってくる。
「くぅぅぅぅぅ!!」
叫びが喉から漏れ、地面に倒れ込む。
バランスを失い、装甲が軋む。
地面に仰向けで倒れ込んだ俺に向かって、影が大きく広がった。
次の瞬間。
量産機が、覆いかぶさるように跳びかかってきた。
「──っ!!」
咄嗟に、左手を突き出す。
装甲同士が激しくぶつかり合い、鈍い衝撃が体全体に走った。
(まずいっ!)
圧倒的に、重い。
量産機の体重が、そのまま俺にのしかかる。
胸部装甲が軋み、思考が詰まる。
「くっ……!」
左手で、量産機の胴体を必死に押さえ込む。
だが、片脚を失った状態では、体勢が不安定すぎた。
もがく。
装甲が擦れ、地面を削る。
視界の端で、何かが転がっているのが見えた。
──拳銃。
戦いの途中で、手から離してしまったものだ。
(……あそこか)
距離は、ほんのわずか。
だが、この一瞬が致命的になりかねない。
量産機が、さらに体重をかけてくる。
頭部が、ぐっと近づく。
「……っ、どけ……!」
左手に、力を込める。
装甲が軋み、関節が悲鳴を上げる。
同時に、右手を地面へ伸ばした。
指先が、冷たい金属に触れる。
──拳銃。
掴んだ瞬間、その重さがはっきりと手のひらに伝わった。
今まで振るってきた武器とは、質の違う重さだ。
その一瞬で、覚悟が決まる。
左手で量産機の首を掴み、逃がさないように固定し無理やりこちらへ引き寄せた。
視界いっぱいに迫る、量産機の“顔”。
銃口を、真正面から押し当てる。
(……やるしか、ない)
引き金を引いた。
銃声が、夜の特訓場を切り裂いた。
次の瞬間、量産機の頭部が内側から弾け飛ぶ。
装甲が砕け、骨のようなフレームが露出し、内部の肉片と血液が爆発するように四散した。
赤。
赤。
赤。
粘ついた鮮血と破片が、視界を塗り潰す。
顔に。胸に。
そして右手に。
温かい。
生々しい。
嫌になるほど、はっきりとした感触。
銃声の余韻が消える前に、量産機の体から力が抜けた。
ずしり、と。
死体の重さが、そのまま俺の上に倒れ込んでくる。
「……っ」
反射的に、左手でそれを押しのけた。
頭部を失った量産機の体が、地面を転がる。
動かない。
完全に、沈黙していた。
荒い呼吸のまま、その姿を見つめる。
──頭が、ない。
あるはずの場所が、無惨に欠けている。
断面から血が滲み、内部構造が剥き出しになっていた。
「……っつ!」
喉が、ひくりと鳴る。
恐怖が、遅れて押し寄せてくる。
──一発。
たった、一発で。
(……こんな、になるのか)
拳銃を見下ろす。
右手には赤い鮮血が飛び散り、指の隙間にぬるりとした感触が残っている。
今まで、何度も拳を振るってきた。
殴って、蹴って、吹き飛ばしてきた。
でも──違う。
撃つのは、まるで別物だ。
引き金一つで、相手の“存在”そのものを破壊する。
距離も、力も、技量さえ関係ない。
ただ──壊す。
俺は、初めて実感していた。
自分が今、どれほど危険なものを手にしているのかを。
拳銃の重さが、さっきまでよりも、ずっと重く感じられる。
だが、その思考は──長くは続かなかった。
起き上がろうとした上半身に、衝撃が叩き込まれる。
「──っ!?」
次の瞬間、視界が反転した。
叩きつけられるように、俺の体は再び地面に倒れ込む。
(……しまった)
遅れて、理解する。
(──もう一体、いたんだ!)
だが、もう遅い。
視界の端に、影が映る。
片足を、大きく振り上げていた。
逃げる暇はない。
受け身も、取れない。
「──っ!」
言葉になる前にものすごい勢いで、量産機の足が振り下ろされた。
俺の頭部に、真正面から。
衝撃。
衝撃。
衝撃。
(……っ、ぐ……!!)
一発では、砕けない。
それを理解したのか、量産機は迷いなく動作を繰り返した。
二度目。
三度目。
同じ軌道。
同じ力。
踏み潰す。
踏み潰す。
踏み潰す。
衝撃が来るたび、俺の体全体がびくりと跳ねる。
両腕が、地面で跳ねる。
自分の意思とは無関係に、操り人形みたいに。
音が歪む。
世界が、割れる。
そして──
鈍く、嫌な音。
内部で何かが、決定的に折れた感触。
思考が、ほどけていく。
恐怖も、焦りも、後悔も。
全部が、薄れていく。
(……ああ)
俺は、そのまま意識を、手放した。
◇◇◇◇
地面に突き刺さったままの足が、ゆっくりと引き抜かれる。
湿った音。
重力に従って、赤い雫が地面に落ちた。
初号機は動かない。
頭部を失い、首の断面と、右脚の切断面から血を吹き出したまま、まるで壊れた神像のように横たわっている。
……当然だ。
あれだけ踏み砕かれて、意識が保てるはずがない。
僕は、ほんの少しだけ目を伏せる。
そして、意識を集中した。
白い体が、静かにほどけていく。
「……」
倒れ伏す初号機を見下ろしながら、僕は小さく息を吐いた。
「神経接続をカットすればよかったのに。君は」
責めるつもりはない。
ただ、事実を口にしただけだ。
深夜。
疲労。
過剰な負荷。
そして、ほんの少しの慢心。
条件は、すべて揃っていた。
僕は、影に手を伸ばす。
足元から、影が滲み出すように広がった。
量産機の残骸。
砕けた頭部。
飛び散った血液。
抉れた地面。
それらすべてが、影に触れた瞬間、音もなく沈んでいく。
飲み込まれ、否定される。
最初から存在しなかったかのように。
数秒後。
そこに残ったのは静かな森と、首のない初号機だけだった。
風が、木々を揺らす。
鳥の声が、遠くで聞こえる。
まるで、最初からそうだったかのように。
「……」
僕は、倒れたままの彼に視線を戻す。
「せっかくの日曜日なのに」
穏やかな声で、独り言のように呟いた。
「意識を失ったままなんて、もったいないんじゃないかい?」
当然、返事はない。
……けれど。
「ん?」
違和感。
微細な、けれど確かな変化。
首の断面。
右脚の切断面。
そこから、
光が滲み始めた。
血が、引く。
肉が、再構成される。
骨格が、音もなく組み上がっていく。
初号機の頭部が、
ゆっくりと形を取り戻していく。
右脚も同じだ。
断絶は消え、“最初から壊れていなかった”かのように、完全な姿へと戻っていく。
僕は、それを静かに見つめる。
「……なるほど覚醒とともに、力が強くなっている」
再生速度。
自己修復の精度。
反応の質。
どれも、以前より明らかに向上している。
「目覚めの時は……近いか」
それは予言ではない。
観測の結果だ。
やがて、東の空が白み始める。
朝日が、森に差し込み、初号機の装甲を淡く照らした。
眠る彼を見下ろしながら、僕は一歩、後ろへ下がる。
「そろそろ、僕も戻るか」
この世界に、これ以上、干渉する理由はない。
影が、再び足元に集まる。
次の瞬間、僕の姿は、静かに溶けるように消えた。
──彼の中へ。
◇◇◇◇
目を、開く。
だが。
「……?」
そこは、
いつもの砂浜ではなかった。
目の前に広がっていたのは、つい先ほどまで僕が立っていた、現実世の森だった。
湿った土の匂い。
夜明け前の冷たい空気。
葉擦れの音。
「……?」
違和感は、すぐに確信へと変わる。
視界が、やけに低い。
そして──
自分が、地面に横たわっていることに気づいた。
「……いったい、どうして」
小さく呟き、体を起こす。
掌が土に触れ、はっきりとした感触が伝わる。
周囲を見回す。
ここは、初号機が倒れていた場所だ。
僕は、息を止める。
「……まさか」
胸の奥に、初めての感情が芽生えた。
戸惑いに近い、未知のざわめき。
視線を落とし、彼の鞄を探す。
すぐ近くに落ちていたそれを拾い上げ、中からスマートフォンを取り出した。
使ったことは、ない。
けれど。
彼が操作しているのは、何度も見てきた。
指先で画面をなぞり、カメラを自撮りに切り替える。
そして。
画面に映ったものを見た瞬間、僕は、言葉を失った。
そこにいたのは。
渚カヲルの姿で、スマホを覗き込む僕自身だった。
白い肌。
赤い瞳。
そして、人の顔。
「……っ」
一瞬、呼吸を忘れる。
「まさか……」
喉の奥で、言葉が震えた。
「僕たちも、
それは、完全に予想外だった。
可能性として考えたことはある。
理論上の仮説として、だ。
でも──
実際に起きるとは、想定していない。
戸惑いが、隠せない。
「……だが、どうして今なんだ」
画面から目を離し、空を見る。
「彼の意識が……ないからか」
眠っている。
あるいは、沈んでいる。
その隙間に、僕が“こちら側”へ引き出された。
理由としては、十分すぎる。
僕は、ゆっくりと自分の手を見る。
そこにあったのはエヴァの装甲ではない。
骨と、筋肉と、皮膚。
人間の手だった。
指を、軽く動かす。
違和感は、ある。
けれど、確かに“馴染んでいる”。
「……なるほど」
小さく、息を吐いた。
「まさか、君の欲しているものを……僕が持っているとは」
くすり、と笑う。
それは嘲笑でも、同情でもない。
ただの事実に対する、静かな皮肉だ。
「なんとも……皮肉だね」
彼は、人として生きることを望み。
人として眠り、疲れ、悩む。
そして今。
人の体を持っているのは、僕のほうだ。
……今は。
とりあえず、移動しよう。
いつまでも森の中にいるわけにはいかない。
ここは彼が倒れた場所であって、世界そのものじゃない。
「せっかく外に出たんだ」
誰に向けるでもなく、静かに言う。
「君が眠っている間だけど……少し、楽しませてもらうよ」
返事は、ない。
当然だ。
彼は今、深いところにいる。
それでも構わない。
言葉は、必ずどこかに残る。
そう思いながら、僕は歩き出した。
◇◇◇◇
気づけば、街の中にいた。
舗装された道。
行き交う人々。
建物の隙間を抜ける、朝の光。
──同じ景色のはずなのに。
彼の中から“見る”のと、こうして自分の目で“見る”のとでは、まるで違う。
(……どうにも、新鮮に感じるね)
休日だからだろうか。
家族連れが歩いている。
友達同士で笑い合う子供たち。
肩を寄せ合う恋人たち。
その中には、個性の影響で姿形がさまざまな人もいる。
角を持つ者。
皮膚の色が異なる者。
人とは明らかに違う輪郭をした者。
それでも彼らは、当たり前のようにこの街を歩いている。
なんとも、微笑ましい。
楽しそうな光景だ。
──けれど。
その裏側で、確実に切り捨てられている人々がいることも僕は知っている。
(……超常が日常の世界なのに、それでも君たちリリンは、“普通”を求める)
異能を持つことが前提の世界で、なお“平均”を作り出そうとする。
(なんて、歪なんだろうね)
ふと、思い出す。
新世福音の心。
そして、彼が大切にしている存在──渡我被身子たちの姿。
拒絶され、恐れられ、それでも、笑おうとする姿。
この景色を見たら、渚カヲルは、どう思うのだろう。
悲しむだろうか。
それとも、怒るだろうか。
(……やはり、僕には分からない)
君たち、リリンの考えていることは。
──いや。
(この世界の人類を、“リリン”と呼ぶのも少し違うか)
僕は、ふっと小さく笑った。
そして、そのまま。
人の流れに溶け込むように、足を進めた。
「……ほんと、嫌になるな」
ふと気づけば、僕は海に来ていた。
街を抜け、無意識のまま歩いて、辿り着いた先がここだった。
波打ち際に立ち、水平線を眺める。
空と海の境目は曖昧で、どこまでが現実で、どこからが幻想なのか分からない。
寄せては返す波の音。
一定のリズム。
心拍のようでいて、呼吸のようでもある。
「……渚、か」
自嘲気味に、名前を零した。
「どうしても、
彼の記憶。
彼の感情。
彼が“安心する場所”。
それらが、僕の選択に影響しているのだとしたら。
少し、滑稽だ。
僕はそのまま砂浜に腰を下ろす。
靴底に、柔らかな砂の感触。
潮風が、頬を撫でる。
人の体は、こういう刺激を“心地いい”と感じるらしい。
「……なるほど」
独り言のように呟く。
誰に聞かせるでもなく。
海は、何も答えない。
ただ、変わらずそこにあるだけだ。
僕はしばらく、潮風に身を任せていた。
◇◇◇◇
(どうして、ここにいるんだろう)
その日、私──波動ねじれは、海に来ていた。
理由なんて、特にない。
気づいたら、電車を降りて、気づいたら歩いていて、気づいたら──波打ち際に立っていた。
ざあ、と波が寄せては返す。
揺れ動く水面を、ただぼんやりと見つめる。
潮風が吹いて、長い髪がふわりと揺れた。
服の裾も、同じように揺れる。
(……せっかく、雄英に入学したのに)
つい先日、始まったばかりの高校生活。
最難関とも言われる雄英高校の入試を突破して、ヒーロー科に入った。
本当なら、喜ぶべきなんだと思う。
周りから見れば、きっと「すごいこと」なんだろう。
でも。
今の私は、笑えなかった。
理由は、分かっている。
でも、言葉にしようとすると、胸の奥がざわついてしまう。
考えないようにしていたはずの記憶が、水面に浮かぶ泡みたいに、ゆっくりと上がってくる。
『私たちを馬鹿にしてるの?』
不意に、頭の奥に声が響く。
『自分がいい個性だからって、優越感に浸りたいだけかよ』
波音に混じって、聞こえた気がした。
『見下してんじゃねぇ!』
「……っ」
思わず、息が詰まる。
私は反射的に両手で耳を塞いだ。
聞こえない。
聞こえないはずなのに。
声は、内側から滲み出してくる。
私は昔から、興味を持ったことは何でも知りたくなってしまう。
どうして?
なんで?
それってどういう意味?
悪気なんて、なかった。
ただ、純粋に──知りたかっただけ。
それに。
知れば、近づけると思ったから。
分からないままより、
知っていた方が、距離は縮まるって。
そう思ってた。
でも。
気づいたら、みんな離れていった。
質問するたびに。
目を向けるたびに。
一歩、また一歩。
(……なんでだろう)
前は、あんなに知りたかったのに。
人のことも、気持ちも、全部。
今は──
何も、知りたくない。
他人に嫌われるのが、怖い。
自分が、また傷つくのが、怖い。
(……悪いのは、誰?)
答えは、簡単だった。
(……私だ)
なんでも知ろうとする私。
踏み込みすぎる私。
距離を測れなかった私。
だったら。
知ろうとしなければいい。
興味を持たなければいい。
踏み込まなければいい。
そうすれば、誰も傷つけない。
そして──
自分も、傷つかなくて済む。
……はずだった。
「──どうして、ヒーローになるんだっけ?」
ぽつりと、声が漏れた。
誰に向けた言葉でもない。
分からない。
どうして、ヒーローを目指したのか。
(……どうしてだっけ)
答えは、思い出せなかった。
まるで、心の奥にしまわれてしまったみたいに。
(……どうしてだっけ)
何度、問い直しても。
同じところで、思考が止まる。
私の個性が、すごいから?
(……どうしてだっけ)
個性が強いから。
ヒーローになれば、周りが大事にしてくれる。
そうすれば──
嫌いにならないで、いてくれる。
皆、褒めてくれる。
「すごい」って言ってくれる。
近づいてくれる。
話を聞いてくれる。
応えてくれる。
支えてくれる。
そういう未来を、確かに想像していたはずなのに。
……でも。
(それって、本当に)
本当に──
私が、ヒーローになりたかった理由、だったっけ?
胸の奥が、ざわつく。
答えを探そうとすると、
頭の中が、急に静かになる。
何も浮かばない。
何も、掴めない。
ただ、ひとつだけ分かるのは。
(……疲れちゃったな)
胸の奥が、きゅっと縮む。
息を吸っても、吐いても、その感覚は消えない。
波は、変わらず打ち寄せている。
寄せて、返して。
同じリズムで。
世界は、何も変わっていないのに。
私だけが、
ここから動けないみたいだった。
だから私は、波の音に耳を傾けた。
考えるのをやめるために。
心の奥に沈んでいく問いから、少しでも逃げるために。
一定のリズム。
優しくて、無関心な音。
その中に──
不意に、異物が混じった。
「タラタッタッタター」
……え?
やけに、能天気な声。
場違いなくらい、軽い旋律。
私は思わず、音のした方向を見る。
そこにいたのは、
私と同じくらいの年頃の男の子だった。
砂浜に腰を下ろし、無造作に足を伸ばして。
手には、紙袋。
(……なに、あの人)
私は、視線を逸らせなかった。
じっと、見つめてしまう。
すると。
彼は、私の視線に気づいたらしい。
ゆっくりと、顔を上げた。
「──」
目が、合う。
「っ……!」
心臓が、小さく跳ねた。
見つめ合う。
ほんの数秒。
なのに、その時間がやけに長く感じられる。
声をかけなきゃ。
いや、かけなくていい。
そもそも、知らない人だ。
頭では分かっているのに、体が、動かない。
私は、何も言えずに固まってしまった。
すると、彼の方が先に口を開いた。
穏やかで、落ち着いた声。
「……波の音はいいね、心を癒してくれる。
そう思わないか?」
『なんで座ってるの?
どうして、紙袋を持ってるの?』
──いつもの言葉が、喉まで出かかった。
反射みたいに。
考える前に、知ろうとしてしまう、あの癖。
(……だめ)
私は、慌てて口を閉じる。
「えと……その……」
言葉を探すふりをして、視線を逸らした。
ごまかすように、曖昧な音を並べる。
──また、繰り返すところだった。
同じ失敗を。
すると、彼が静かに言った。
「……なにか、聞きたいことがあるのかい?」
「……っ」
その一言に、思わず息を呑んだ。
(どうして……)
どうして、分かるの?
私が、何かを知りたがっていること。
口に出す前から、抑え込んでいること。
「……あの、私、その……」
言葉が続かない。
急に、居心地が悪くなった。
胸の奥が、ざわつく。
(やっぱり、だめだ)
私は、そのまま踵を返した。
帰ろう。
これ以上、踏み込まない方がいい。
そう思った──その時。
「……待って、僕は君ともっと話がしたいな」
足が、止まった。
「一緒に、どうだい?」
戸惑いながら、振り返る。
「……え?」
彼は、穏やかな表情のまま続けた。
「お昼ご飯だよ。
これから、なんだろ?」
そう言って、手にしていた紙袋を少し持ち上げる。
袋の口が開く。
その瞬間。
風に乗って、匂いが漂ってきた。
揚げた油の香り。
パンの匂い。
ほんのり甘くて、温かい匂い。
「……っ」
次の瞬間。
──ぐぅ。
はっきりと、自分でも分かる音が鳴った。
「……!?」
顔が、かっと熱くなる。
私は反射的にお腹を押さえた。
恥ずかしさで、視線が泳ぐ。
(……そういえば)
昨日から。
なにも、食べてない。
その事実を思い出した途端、お腹が、正直に主張してくる。
「さあ、どうぞ座って」
そう言われて、気づいた時には。
彼はもう、砂浜にシートを敷いていた。
……いつの間に?
そう思ったのに、体は止まらなかった。
私は、なぜかそのまま腰を下ろしてしまう。
(あれ……?)
警戒していたはずだった。
人と距離を取るって、決めていたはずなのに。
彼は向かいに座り、穏やかな目でこちらを見る。
「君は──何を知りたいんだい?」
その一言で。
胸の奥に、しまい込んだはずの“癖”が、きゅっと音を立ててほどけた。
「……っ」
だめ。
だめだって、分かってるのに。
「僕に聞きたいことがあるんだろう?」
そう言って、彼は手のひらを広げた。
淡い光が集まり、数秒後。
そこに現れたのは、新しい紙袋。
「……え?」
頭が、理解する前に──
口が、先に動いていた。
「い、今のなに!?
個性!? それとも仕込み?
紙袋を出す能力? でも中身あったよね?
それとも──」
──はっ。
(……あ)
やってしまった。
一気に、血の気が引く。
私は、恐る恐る彼の顔を見る。
彼は。
ぽかん、とした顔をしていた。
怒っていない。
引いてもいない。
ただ、少し驚いて。
それから──くすっと、小さく笑った。
「あ……いや、その……ごめんなさい!」
慌てて言葉を重ねる。
「い、いまの忘れて!
別に知りたいわけじゃ……ちょっとだけで……」
すると彼は、静かに微笑んだ。
責めるでもなく。
笑うでもなく。
「……自分らしさを、極端に避けるね。君は」
胸が、ひくりと跳ねた。
「怖いのかい?」
その声は、優しいのに。
逃げ場を与えない。
「……人と、触れ合うのが」
私は、息を呑んだ。
否定したかった。
違うって言いたかった。
でも──言葉は、喉の奥で止まったままだった。
「他人を知らなければ、裏切られることも、互いに傷つくこともない。
でもね……寂しさを、忘れることもできないよ」
波の音に溶けるように、彼は続ける。
「人間は、寂しさを永久に無くすことはできない。
人は一人だからね。
ただ忘れることができるから、人は生きていけるのさ」
私は、何も言えなかった。
どうしてこの人は、私を否定しないんだろう。
どうして、「間違っている」と言わないんだろう。
責められる準備なら、できていた。
距離を置かれる覚悟も、あった。
それなのに。
「とりあえず、今は食べよう」
彼は、まるで話題を変えるみたいに言った。
「ご飯を楽しむことはね、人に与えられた幸福の一つだから」
「……うん」
気づいたら、私は頷いていた。
紙袋の中から、包みを取る。
温かい。
指先に、ちゃんと“現実”の感触がある。
一口、食べて。
「……おいしい」
思わず、声が出た。
「よかった」
彼は、穏やかに微笑む。
「喉が乾いたら言ってくれ。
飲み物も出せるから」
その言い方が、あまりにも自然で。
まるで、当たり前みたいで。
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
空腹感が消えていくと同時に、
別の感覚が、ゆっくりと広がっていく。
安心。
満足。
そして──ささやかな幸福。
(……そうか)
気づいてしまった。
(久しぶりなんだ)
家族以外の誰かと、こうして一緒にご飯を食べるのは。
中学時代。
友達と呼べる人はいなかった。
給食も、いつも一人だった。
教室の隅で、音を立てないように食べていた。
だからなのか。
この、何でもない時間が。
胸に、心地よく染み込んでくる。
その感覚に、少しだけ酔って。
私は──また、やってしまった。
「すごい!」
顔を上げて、彼を見る。
「飲み物も出せるなんて、すごい個性だね!
他には? 他にはどんなものを出せるの?」
「個性……そう。
君たちリリンは、そう呼んでいるね。
人が持つ、無限の可能性だ」
不思議な言葉だった。
少し遠くて、少し抽象的で。
でも──嫌な感じは、しなかった。
私を拒絶しない。
距離を取らない。
面倒くさそうな顔も、警戒の色もない。
その事実が、胸の奥にじんわり広がっていく。
──嬉しい。
理由なんて、考える前に。
「ふふっ……」
気づけば、笑っていた。
作った笑顔じゃない。
隠す必要もない、自然な笑み。
「やっと、笑ったね」
彼は、少しだけ目を細めて言う。
「今のが……本当の君なんだろう?」
胸が、きゅっと鳴った。
どうしてだろう。
この人の言葉を聞いていると、
閉じ込めていた“前の私”が、顔を出してしまう。
怖いはずなのに。
抑えていたはずなのに。
だから、なのか。
私は──話してしまった。
「うん」
砂浜を見つめたまま、言葉を探す。
「私、昔から……なんでも知りたくなっちゃって」
波の音に、声が溶ける。
「それでね、気になると……誰にでも、聞いちゃうの」
一呼吸。
「どうして?
なんで?
それってなに??」
言葉にするほど、思い出が蘇る。
「悪気は、なかったんだよ。
ただ……近づきたかっただけなのに」
指先を、ぎゅっと握る。
「でも、みんな……離れていって」
声が、少しだけ震えた。
「だから、聞かないようにした。
知ろうとしないようにした。
そうすれば……傷つかないって、思ったから」
「確かに、人は心の壁を作る」
彼は、波打ち際を見つめたまま言った。
責めるでも、諭すでもなく、ただ事実をなぞるように。
「自分の何物にも侵されない領域をね。
そこは、誰にも触れさせない場所だ」
風が吹き、砂がわずかに舞う。
「常に人間は、心に痛みを感じている。
心が痛がりだからこそ、生きること自体を辛いと感じることもある」
その声は、穏やかで。
どこか、遠い。
「だから、人は壁を必要とする。
守るために。
壊れないために」
少しだけ、間があった。
「君は、純粋なんだね」
その言葉に、胸が跳ねる。
「知りたい、分かりたい、近づきたい。
それ自体は、とても美しい衝動だ」
でも、と彼は続ける。
「知られることを、怖がる人もいる。
触れられることで、傷が開いてしまう人もいるから」
私は、何も言えなかった。
否定も、肯定も、できない。
「そう……君の速度と、相手の準備が、噛み合わなかっただけだ」
その言葉が、静かに胸に落ちる。
責められない。
否定されない。
それなのに、逃げ場がないほど、まっすぐだった。
「……どうすれば、いいのかな」
声は、自分でも驚くほど小さかった。
「もう……間違えたくない」
彼は、穏やかなまなざしで私を見つめていた。
「君は、どうしたい? どうなりたい?」
波の音が、その問いをやさしく包み込む。
胸の奥が、きゅっと縮む。
逃げたくなるはずの質問なのに、不思議と視線を逸らせなかった。
「……私は、一人になりたくない。誰かとつながっていたい。でも、嫌われたくもない」
欲張りで、わがままだ。
それでも、これが本音だった。
彼は、少しだけ口元を緩めた。
「なら、簡単なことだよ。今までとは違うやり方を選べばいい」
私は、思わず瞬きをする。
「相手が準備できていないなら、その時間を作ってあげればいい。
君が相手の速度に合わせれば、相手は混乱しなくて済む」
彼は、波に視線を向けたまま続けた。
「君は速すぎたんだ。だから相手は、ついていけなかった。
でもね、少し歩調を落とせば、相手が『聞かれてもいい人なのか』『近づいても大丈夫なのか』を、ちゃんと見る時間が生まれる」
胸の奥に、静かに何かが落ちていく。
「相手に合わせてあげればいいんだ。それだけで、世界はずいぶん優しくなる」
その言葉は、正解を押しつけるものじゃなかった。
ただ、選択肢をそっと差し出してくれただけ。
私は、ゆっくりと息を吐いた。
「……そっか、それでいいんだ」
胸の奥にあった固さが、少しだけほどける。
全部を一度に変えなくていい。
走る速さを、少し落とせばいい。
それだけでいいんだと、ようやく思えた。
──その時だった。
ざぷん、と。
二人の前の海面が、不自然に盛り上がった。
「……え?」
次の瞬間。
水しぶきを上げて、
何かが海から姿を現した。
黒と白の体。
丸みを帯びた胴体に、短い翼のような手。
首元には、首輪のようなバンドが巻かれていて、
その下から、少し間の抜けた表情の顔が覗いている。
──ペンギンだった。
それも、ただの野生のペンギンとは、どこか違う。
妙に堂々としていて、
人を恐れる様子がまるでない。
濡れた体からは、海水がぽたぽたと滴り落ちている。
ペンギンは、ぶるっと大きく体を震わせた。
ばしゃっ、と水滴が飛び散る。
「……っ!」
あまりに突然の出来事に、
私は声を出すことすらできず、その場で固まった。
思わず、隣に立つ彼を見る。
──彼もまた、驚いていた。
今まで一度も見せたことのないほど、
はっきりとした動揺の表情。
「……どうして、君がここに……」
小さく、独り言のようにつぶやく。
「これも……覚醒の影響、なのか?」
問いかける相手は、私ではなかった。
けれど、その意味は分からなくても、
ただならぬことが起きているのは伝わってくる。
ペンギンは、そんな空気を気にする様子もなく、
よちよちと、私の方へ歩いてきた。
砂に残る、小さな足跡。
「……え?」
立ち止まることなく、そのまま、私のすぐ前まで来る。
「グゥワ」
低くて、少し間の抜けた鳴き声。
不思議と、怖くなかった。
私は、そっと無意識のまま、その頭に手を伸ばしていた。
濡れた羽毛は、思ったよりも温かい。
「……かわいい」
ぽつりと、言葉がこぼれる。
ペンギンは、嫌がることもなく、ただ気持ちよさそうに目を細めていた。
彼は、小さく息を吐く。
「これも宿命か……それとも、最初から決められていたシナリオ通りなのか」
独り言のようなその声に、私は首をかしげた。
「……その子は、ペンペン。彼も、僕たちが内包している存在だよ」
「僕たち?」
思わず問い返す。
「あなたは……いったい……」
答える代わりに、彼は静かに立ち上がった。
それにつられるように、私も立ち上がる。
次の瞬間。
砂浜に敷かれていたシートも、
紙袋や包み紙のゴミも、
まるで最初から存在しなかったみたいに、淡い光となって消えていった。
「……え」
言葉を失う私をよそに、彼はペンペンのほうへ歩み寄り、右手を差し出す。
ペンペンは迷いなく、その手のそばへよちよちと寄っていった。
「ここで、お別れだ」
彼は、ゆっくりとこちらに背を向けた。
背中越しに、彼は言う。
「話せて、よかったよ」
その声に、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
「──待って!」
反射的に、声が出ていた。
彼は、足を止めて振り返る。
「……ありがとう」
自分でも驚くくらい、素直な声だった。
「話を聞いてくれて……」
気づけば、
心の底からの笑顔が、自然と浮かんでいた。
彼は、一瞬だけ目を見開き、
それから、柔らかく笑った。
「……僕は、君に逢うために生まれ──」
そこで言葉を切り、少し困ったように首を振る。
「……いや、さすがにこれは、言いすぎだね」
軽く笑って、言い直す。
「でも、よかったよ」
そして、踵を返そうとする。
「あの……名前!」
慌てて、私は続けた。
「私、波動ねじれ!」
彼は、立ち止まり、少しだけ考えるように空を見上げた。
「名前、か……」
それから、こちらを見る。
「もし、次に君と会ったとき、君が僕に気づけたら。その時に、名前を教えるよ」
それだけ言うと、
彼はペンペンを連れて、静かに歩き出した。
潮風に揺れる背中。
並んで歩く、不思議なペンギン。
私は、その姿が見えなくなるまで、ただ、そこに立ち尽くしていた。
◇◇◇◇
森へ続く小道を、僕は一人で歩いていた。
夜明け前の空気は冷たく、湿った土の匂いが足元から立ち上ってくる。
隣にいたペンペンは、もういない。
人の気配が遠ざかるよりも早く、彼は自分から影の中へ溶けていった。
「……いったい、何がしたかったんだろうね。僕は」
誰に聞かせるでもなく、声に出す。
返事はない。森はただ、静かだった。
どうして、見ず知らずの彼女に声をかけた?
どうして、悩みを聞き、答えを与えるような真似までした?
「……
それなのに。
人を拒む姿を見た瞬間、胸の奥で何かが勝手に動いた。
まるで、役割を思い出したみたいに。
救う言葉。
寄り添う距離。
否定しない声。
「真似事だなんて」
自嘲気味に、息を吐く。
答えは出ない。
出るはずもない。
でも──
歩みは止めなかった。
木々の隙間から、見覚えのある場所が見えてくる。
初号機が倒れていた森。
彼が、眠っている場所。
「……君が、いつ目を覚ましてもいいように」
今回の話、正直めちゃくちゃ難しかったです。
気づけば話数も30話を超えていて、
ここまで続けられたのは本当に、読んでくれている皆さんのおかげです。
いつもありがとうございます。
まだ中学校編が続いていますが、このあたりでそろそろ一区切りつけたいなと思っています。
ここまで読んでくれて、本当にありがとうございました。
これからも、ゆっくりですが書いていきますので、
よければ引き続きお付き合いください。
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