雄英高校での生活も、気づけばもうひと月が過ぎていた。
時間は、思っているよりも静かに流れていく。振り返ってみて初めて、その速さに気づくものだ。
中学までの日常とは、やはり違う。
ヒーローがニュースや物語の中の存在ではなく、すぐそばにいる学園生活は、毎日が予想外の連続だった。
驚きもあるし、戸惑いもある。けれど、それだけじゃない。
どこか、胸の奥がざわつくような、前向きな感覚もあった。
今の僕は、何をしているかというと──
ヒーロー科の戦闘訓練が行われた跡地の片づけをしている。
砕けた地面。
歪んだ鉄骨。
崩れた壁。
戦いが終わったあとに残るものは、いつも静かで、だけど雄弁だ。
僕の姿は初号機。
けれど、その上からジャージを上下ともに着ている。
背中にはアンビリカルケーブルが接続され、安定した電力を外へ流している。
そう。
今の僕は初号機の姿のまま、服を着ている。
少し前までの僕には、考えられなかったことだ。
パワーローダー先生の手でケーブルの量産が終わり、雄英の各所に接続ポイントが設置された頃。
その後の運用について話していたとき、ふと現実的な問題が浮かび上がった。
──さすがに、初号機の姿で裸のまま学校生活を送るのは、目立ちすぎる。
どうにかならないか、と話し込んでいたときのことだった。
先生が、何気ない調子で口にした。
「装甲を着脱できないのか?」
一瞬、言葉に詰まった。
そんな発想は、今まで一度も考えたことがなかったからだ。
すぐに、MAGIに確認した。
半信半疑だったけれど、返ってきた答えはとても簡潔だった。
──可能です。
思わず、拍子抜けしてしまった。
同時に、長年抱えてきた悩みが、嘘みたいに軽くなった気もした。
今思えば、不思議でもなんでもない。
劇場版では、初号機の肩の装甲が弾け飛んでいた。
零号機だって、改修後には肩に装備が追加されている。
装甲は、固定されたものじゃない。
状況に応じて変化する、機能の一部だった。
それなのに僕は、この姿は最初から最後まで変えられないものだと、どこかで思い込んでいた。
変われなかったのは、身体じゃない。
僕の考え方のほうだったのかもしれない。
「……っ、またか……」
ふと、背中にじわりとした感覚が走る。
誰かに見られている──そんな気配。
思わず手を止め、顔を上げて周囲を見渡した。
体育館の端。
瓦礫の山。
補修用の資材。
行き交う人影は、もうほとんどない。
視線を感じたはずなのに、
こちらを見ている人物は見当たらなかった。
「……気のせい、なのかな」
自分に言い聞かせるように呟く。
答えは返ってこない。
胸の奥に残る、わずかな違和感を振り切るように、僕は再び作業へ戻った。
◇◇◇◇
ある日の午後。
僕は相澤先生に呼ばれて、体育館に来ていた。
午前中にヒーロー科の授業が行われていたらしく、床にはまだ砕けたコンクリートや金属片が残っている。
訓練の熱が、かすかに空気に残っているような場所だった。
「ここ、午前中に使ってたんですね」
そう言いながら、足元の瓦礫を拾い上げる。
「午後は……修繕前の瓦礫撤去、ですか?」
いつもの作業だと思っていた。
だから特に警戒もせず、淡々と片づけを続ける。
その背後で、先生が持ってきた鞄を開ける音がした。
布が擦れる音。
何かを取り出している気配。
「いや」
相澤先生の声が、いつもより少しだけ低い。
「せっかくだ。今日は、違うことをしようと思ってな」
「……違うこと?」
思わず手を止めて振り返る。
「いったい、何を──」
言い終わる前に、視界が埋まった。
拳だ。
次の瞬間、反射的に身体が跳ねる。
床を蹴り、後方へジャンプ。
風を切る音とともに、拳が通り過ぎた。
「い、いきなりなんなんですか!」
着地しながら距離を取る。
視線を上げた先にいたのは──
ゴーグルを装着し、首元には捕縛布を巻いた相澤先生。
完全に“戦闘態勢”だった。
「お前も一応、ヒーロー科の生徒だからな」
淡々とした声。
「戦闘訓練をしておこうと思ってな」
言い終わると同時に、捕縛布が投げ放たれる。
「……っ!」
思考を切り替える。
回避。距離を取る。視線を布の軌道に集中させる。
身体を反らし、かわそうとした──その瞬間。
動きが、止まった。
背中に、引っ張られる感覚。
わずかな抵抗と、明確な制限。
(……っ、ケーブル!)
アンビリカルケーブルの長さ。
接続ポイントから、これ以上離れられない。
判断は一瞬だった。
(切断しなくちゃ!)
飛んでくる捕縛布を、前かがみになることで紙一重でかわす。
同時に、頭の中で強く念じた。
(切断)
炸裂音とともに、背中の感覚が途切れる。
引っ張られていた重さが消え、身体が完全に自由になった。
屈んだ姿勢のまま、床に散らばっていた小さな瓦礫を掴み、そのまま先生へと投げつける。考えるより先に体が動いていた。
瓦礫は一直線に飛ぶが、先生は冷静に身を翻し、難なく回避した。
「急な戦闘訓練ですけど……先生の言った通り、雄英は本当に自由ですね」
そう言葉を投げかけながら、意識を切り替える。
僕を中心に、不可視の領域が広がった。空気が歪むような感覚。
「ほぉ、よく覚えていたな!」
感心したように言いながら、先生は足元の瓦礫を蹴り上げる。鋭い弾丸のように飛んでくる破片。
けれど、僕は避けなかった。
お構いなしに前へ踏み込む。
瓦礫はATフィールドに触れた瞬間、勢いを失い、弾かれる。
衝撃は届かない。このまま一気に距離を詰めようとした、その瞬間だった。
再び、捕縛布が視界を横切る。
本来なら、フィールドで防げるはずだった。
それなのに。
次の瞬間、左手に確かな感触が走った。
「……っ!」
捕縛布が、僕の左腕に絡みついている。
「ちぃ……!」
このまま突っ込むのはまずい。そう判断し、とっさにその場で急停止する。
先生は布を引いたまま、低い声で言った。
「一応だが、俺の個性はお前にも効くみたいだな」
視線を向けると、先生の髪がふわりと浮き上がり、ゴーグルの奥の目が赤く光っているのが分かった。
(先生の個性……? ってことは、先生もATフィールドを?)
そう考えた瞬間、頭の中に情報が流れ込んでくる。
『ヒーロー名、イレイザーヘッド。目視した対象の個性を抹消する個性です』
(抹消……そんな個性も、あるのか)
僕は視線を逸らさず、先生を睨むようにして間合いを測る。
先生は捕縛布に力を込めたまま、引くのをやめない。
静かな力比べ。
(パワーだけなら、負けない気はする……)
けれど、このまま相手の土俵で踏ん張り合うのは、どこかまずい気がした。
相手は百戦錬磨のプロヒーローだ。力押しに持ち込めば、必ず隙を突いてくる。
(──なら)
僕は左肩に、意識を集中させた。
次の瞬間、
ガコン、という無骨な音とともに、肩の装甲がわずかに展開する。
露出した内部からせり出してきたそれを、右手で掴み、そのまま迷いなく振る。
刃が走る。
捕縛布は、抵抗らしい抵抗もなく、音もなく断ち切られた。
「……っち」
先生は短く舌打ちし、即座に後方へと跳ぶ。
この距離はまずい──そう判断したのだろう。
(……さっそく、役に立ったな)
僕の右手には、一本のナイフが握られていた。
生前、テレビの中で何度も見た形。
プログレッシブ・ナイフ。
パワーローダー先生に相談し、試しに作ってもらった試作品だ。
人間サイズに落とし込まれたそれは、今、微細な振動を発しながら低く唸っている。
刃に伝わる震えが、威力を確実に底上げしているのが分かる。
僕は一度、呼吸を整え、ナイフを構え直した。
視線を、まっすぐ先生へと向ける。
とっさにナイフを抜いたのはいい。
けれど、この刃は威力がありすぎる。
(……生身の人間に、当てるわけにはいかない)
迷いは一瞬だった。
(だったら──!)
足に力を込め、床を蹴る。
初号機の脚部が跳躍に応じ、視界が一気に持ち上がった。
落下地点にいる先生を捉える。
狙いは急所じゃない。地面だ。
着地と同時に、ナイフを真下へ突き立てる──そのつもりだった。
だが、先生はそれを読んでいた。
紙一重で身をかわし、床に刃が突き刺さる。
振動が手首に返るより早く、僕は立ち上がりざまにナイフを横へ薙いだ。
空気が裂ける。
刃は先生の身体には届かない。
だが、袖口をかすめ、布地に一直線の切れ目を刻んだ。
「……!」
間髪入れず、空いた左手を握り込む。
そのまま踏み込み、渾身の一撃を叩き込もうとする──が。
次の瞬間、左腕に違和感が走った。
捕縛布。
いつの間にか、先生の布が僕の左手首に巻き付いている。
引かれる。
それも、躊躇のない全力で。
僕の拳は空を切り、体勢が一気に崩れた。
先生はそのまま距離を詰め、僕の横をすり抜ける。
──来る。
直感した瞬間、首元に衝撃。
鋭い蹴りが、装甲越しでも分かるほどの力で叩き込まれた。
「っ……!」
視界が揺れる。
だが、倒れない。
僕は歯を食いしばり、左手に絡んだ布に力を込めた。
(──今度は、こっちが!)
さっき先生がやったのと同じだ。
相手を引き寄せ、体勢を崩す。
その動作に入った、まさにその瞬間。
先生が、こちらを見た。
そして瞬きをする。
同時に、手首の布が、わずかに緩む。
「……なっ」
僕と先生を繋いでいた捕縛布は、
抵抗する間もなく、ぷつりと切断された。
反動で、布の端が床に落ちる。
先生は距離を取り、こちらを見据える。
ゴーグルの奥、その赤い光は、もう消えていた。
……解除した。
自分の個性を、意図的に。
その意味が分かり、背筋に冷たいものが走る。
「……中間地点に物があると、そうなるのか。やっかいなもんだな」
相澤先生は、切断された捕縛布を淡々と手元に回収しながら言った。
そこには、勝ち誇った様子も、焦りもない。ただ状況を確認し、次に繋げるための声色だけがある。
「わざと個性を解除して逃げるなんて……どんな判断力ですか」
左手に残っていた布の切れ端を外しながら、視線だけは先生から逸らさない。
今この瞬間、ほんの一瞬でも目を離せば──やられる。
そう思わせるだけの“差”が、確かにそこにあった。
「まあな」
先生は短く答え、戦闘態勢を崩さない。
「これでも一応、プロだからな。さすがに死線くらいは、何度もくぐってきた」
軽く言っているが、その言葉の重みは違う。
経験の量。修羅場の数。
それらが、動き一つ、判断一つに滲み出ている。
先生は低く重心を落とし、こちらを見据えたまま告げる。
「続けるぞ」
一拍。
「……最後まで、油断するなよ」
その声に、自然と背筋が伸びた。
(……まだ、終わりじゃない)
むしろ、ここからが本番だ。
そう直感して、僕はナイフを握り直す。
──雄英は、自由だ。
そして同時に、容赦がない。
その意味を、今まさに身体で教え込まれている最中だった。
◇◇◇◇
僕は、ひび割れた運動場の一角で、瓦礫を拾い集めていた。
自分で壊した場所を、自分で片付ける。
それもまた、今日の訓練の一部だった。
結局、あの後──
僕は一度も、先生に触れることすらできなかった。
思い返してみれば、当たった攻撃はたった一つ。
プログナイフが、服の袖を裂いた、あの一閃だけだ。
(……情けないな)
そう思いかけたところで、背後から声がかかる。
「がっかりしてる顔だな」
振り向くと、相澤先生が立っていた。
ゴーグルは外し、いつもの少し気だるげな表情に戻っている。
「だが、一つ言っておく」
先生は、瓦礫だらけの運動場を一瞥してから、僕を見る。
「お前の動き自体は、悪くなかった」
その言葉に、少しだけ胸が軽くなる。
「ただな……途中から分かりやすかったぞ」
先生は、淡々と続ける。
「ナイフの威力を警戒しすぎてた。
途中から、決定打を左手か足だけに限定してただろ」
言われて、はっとする。
「そのせいで、攻撃の選択肢が一気に減ってた。
結果、俺から見れば“次に何が来るか”が読みやすくなった」
……図星だった。
威力がありすぎる。
生身の人間に当てたら、取り返しがつかない。
そう考えるほど、無意識に“安全な手段”だけを選んでいた。
「……課題は、多いですね」
そう言うと、相澤先生は小さく肩をすくめた。
「そうだな。課題は多い」
だが、と前置きして、続ける。
「裏を返せば、それだけ“修正点がはっきりした”ってことだ」
先生の視線は、厳しいが、突き放すものじゃない。
「威力を制御する方法。
ナイフを使わない選択肢。
あるいは、“使う前提”でどう組み立てるか」
一つずつ、指を折るように。
「それをこれから潰していけばいい。
できない理由じゃなくて、できる形を探せ」
その言葉は、重くて、でも不思議と前向きだった。
(……まだ、伸びるってことか)
僕は手にした瓦礫を所定の場所に置き、静かに息を整える。
完敗だった。
それでも──無意味じゃなかった。
この人は、僕を“戦えない存在”だとは見ていない。
ただ、“まだ未完成な生徒”として、きちんと見ている。
「……ありがとうございます」
そう言うと、先生は短く頷いた。
「礼を言うのは、次に一つでも改善してからにしろ」
そう言い残して、首元の布を解きながら歩き出した。
戦闘の緊張が抜けた背中は、いつもの担任教師のそれに戻っている。
数歩進んだところで、ふと思い出したように足を止め、振り返った。
「この場所、今日はもう使う予定はない」
指で運動場を示しながら、淡々と続ける。
「動き足りないなら、使ってもいい」
その一言は、僕にとって思っていた以上に大きかった。
さっき見えた課題。
考え方のズレ。
動きの迷い。
それを、今すぐ試せる場所と時間がある。
こんなにありがたいことはない。
「……ありがとうございます、先生」
自然と頭が下がっていた。
先生はそれを横目で見て、少しだけ気まずそうに頬をかく。
「俺がいないからって、無茶だけはするなよ」
歩き出しながら、背中越しに言葉を投げる。
「放課後までには戻れ。いいな」
「はい」
短く答えると、先生はもう振り返らなかった。
やがて、運動場の出入口の扉が閉まり、
足音が完全に遠ざかる。
「……タブリス、出てきてくれ」
呼びかけると、空気がゆっくりと歪み始めた。
まるで形を持とうとするかのように、揺らぎが輪郭を得ていく。
次の瞬間、目の前に人型の影が立ち上がり、やがて見慣れた姿へと収束した。
「やあ」
静かな声とともに現れたのは、タブリスだった。
「今の訓練、見てたか?」
俺がそう聞くと、タブリスは小さく頷く。
「ああ、見ていたよ。……僕を呼んだってことは、シミュレーターだね」
「察しがいいな」
俺は視線を運動場の周囲へ向けながら続ける。
「せっかく使える場所がある。
MAGI、ここ付近の監視カメラに侵入して、映像の書き換えを頼む」
『了解。監視映像を別データへ上書きします』
即座に返ってくる応答。
タブリスは、少し意外そうに首を傾げた。
「どうしたんだい?
そこまでするなんて、君にしては珍しい」
俺は肩をすくめる。
「俺がシミュレーターやってるところって、はたから見たらただ一人で動き回ってるだけだろ。
……正直、それを誰かに見られるのは、あんまり気分よくなくてな」
「確かに」
タブリスは目を閉じ、納得したように言葉を紡ぐ。
「その判断は、合理的だと思うよ」
「それに、今日はいつもと違うことをやろうと思ってる」
その言葉に、タブリスが再び目を開いた。
「違うこと、かい?
どんなふうに設定を変えるつもりなんだい」
俺は一瞬、言葉を選ぶ。
「今までは敵を“殺す”前提の訓練をしてた」
頭の奥に、嫌でも浮かんでくる。
夜中の特訓。
量産機との、終わりのない戦い。
武器を振るい、
互いの身体を切り刻み、
切断し、血を流しながら続ける訓練という名の、ほとんど殺し合いだった。
「でも俺がなるのは、ヒーローだ」
広い運動場に、一人きり。
僕は一度、深く息を吸ってから、静かに口を開いた。
低く、言い切る。
「相手は使徒じゃない。人間のヴィランだ。
殺すんじゃない、捕まえるのが仕事だ」
その言葉に、タブリスはわずかに目を細めた。
「……でも、それは簡単なことじゃないよ」
静かな声だったが、否定ではない。
事実をそのまま置いただけの言葉だ。
確かにその通りだ。
相手は命を持つ人間で、こちらの一撃一撃が取り返しのつかない結果を生む。
だが──
それを引き受けなければならないのが、ヒーローなんだろう。
今日、相澤先生と戦って、俺はそれをはっきりと実感した。
力があるだけじゃ足りない。
判断と制御がなければ、守る資格はない。
「だから、特訓するんだ」
俺は運動場を見渡しながら続ける。
「そのための場所が、ここにある。
使わない手はないだろ」
タブリスは一拍置いてから、静かに頷いた。
「わかった。
君から過剰な攻撃が出た場合、その時点で君の敗北判定を出そう」
「助かる」
俺は短く答える。
「まずは、量産機一体で始めたい」
その言葉を聞いたタブリスは、片手を軽く上げた。
次の瞬間──
地面が脈打つように盛り上がり、まるで生えてくるかのように、量産機が姿を現す。
無機質な白。
何度も向き合ってきた、訓練相手。
俺は左肩に意識を集中し、ウェポンラックからナイフを引き抜いた。
構えを取り、呼吸を整える。
量産機が動き出すのと、ほぼ同時に俺も踏み出す。
これは、殺すための戦いじゃない。
捕らえるための戦い。
壊さず、終わらせるための特訓だ。
今、俺の新しい戦いが始まった。
◇◇◇◇
目の前で、戦いが繰り広げられている。
初号機は量産機の背後に回り込み、そのまま腕を絡めて首を締め上げていた。
以前の彼なら、迷いなく頸椎を断っていただろう。
でも、今日は違う。
量産機はもがき、腕を外そうと暴れる。
その瞬間──初号機は、あっさりと拘束を解いた。
そして距離を詰める。
胴体へ、拳を叩き込む。
一発、二発、三発。
力任せじゃない。
確実に、機能を奪うための打撃。
何度かの衝撃の後、量産機の動きが止まる。
完全な活動停止。
それを確認した直後、初号機もまた、糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。
まるで気絶するかのように。
「おめでとう。君の勝ちだよ、福音君」
動かなくなった彼を見下ろしながら、労うように声をかける。
今までとは明らかに違う戦い方。
殺すためじゃなく、無力化するための選択。
「……無力化のための戦い方、か」
静かに息を吐く。
「ここでの生活が、君に影響を与えているみたいだね」
彼は変わろうとしている。
良くも、悪くも。
それは事実だ。
けれど──
「でも、僕には分からないよ」
誰に向けるでもなく、そう呟く。
変わることが、正しいのか。
変わらないことが、罪なのか。
彼が向かおうとしている先が、幸福なのか破滅なのか。
それを判断する材料を、僕はまだ持っていない。
そんなことを考えていると──
運動場の外側から、微かな気配が流れ込んできた。
(……まずいな)
反射的に、意識をそちらへ向ける。
量産機はすでに処理した。
だが、今この場で初号機が倒れている姿を見られれば、騒ぎになる。
人を呼ばれる。
説明が必要になる。
そして、余計な干渉が増える。
(それは、避けたい)
一瞬の逡巡。
それから、僕は小さく肩をすくめた。
(……仕方ないか)
空気に溶けるように、一歩踏み出す。
倒れている彼の体に手を合わせ、目を閉じた。
意識を預ける。
呼吸を重ねる。
波長を、合わせる。
次の瞬間、僕の感覚は境界を越え、彼と溶け合った。
世界が反転する。
視界が、紫の装甲越しのものに切り替わる。
──初号機の中。
倒れていた身体を、ゆっくりと起こす。
関節の軋み、重量感、地面の感触。
すべてが、彼のものだ。
僕は福音君の“ふり”をするように、散らばった瓦礫に手を伸ばした。
一つ、また一つ。
訓練の後片付けをしている──ただそれだけの光景を作る。
そのときだ。
運動場の入口から、足音が近づいてくる。
躊躇いがちで、それでもまっすぐな足取り。
「ごめんなさい、ちょっといいかな」
声をかけられる。
「はい……どうしま──」
振り返り、相手を見る。
そこにいたのは、青い髪の少女だった。
(……波動ねじれ)
一瞬で理解する。
そして同時に、疑問が浮かぶ。
どうして、彼女がここに?
偶然──?
いや、それは違う。
先生は言っていた。
この場所は、今日は使う予定がないと。
ならば答えは一つだ。
彼女は、自分の意志でここへ来た。
(厄介だね)
しかも僕は、彼女とすでに“会っている”。
渚カヲルの姿で。
(まさか、あの時の行動が、ここで足かせになるなんて)
福音君と僕。
二つの存在を結びつけられるのは、まずい。
考えろ。
どう抜ける?
「……その、迷惑だったかな?」
僕が答えないでいるのを、不審に思ったのだろう。
彼女は、少しだけ声のトーンを落として尋ねてくる。
時間をかけすぎている。
これ以上は危険だ。
(……やってみるか)
幸い、この初号機の姿で彼女と会話をしたことはない。
渚の僕と、今の僕は、見た目も雰囲気もまるで違う。
ならば切り離すことは、できる。
「いえ、別に……迷惑ってわけじゃ……」
「え? その声」
反射的に、喉の奥で“切り替える”。
音の高さ、息の混じり方、言葉の震え。
碇シンジの声へ。
「こ、声が……どうしました?」
戸惑いを前に出した、頼りない調子。
自分でも分かるほど、露骨な変化だった。
どうやら最初に返事をしたとき、僕の声で応じてしまったらしい。
だが今、彼女の前にいるのは──別人だ。
声は、人を形作る大きな要素だ。
外見も、体格も、雰囲気も違う。
そこに決定的な“声の断絶”を見せつければ、人は自然と別の存在として認識する。
彼女は一瞬言葉を詰まらせ、慌てたように手を振った。
「ご、ごめん! その……別に変な声とか、そういう意味じゃなくて……」
視線が泳いでいる。
戸惑いと、軽い混乱。
(……うん、効いている)
疑念は芽生えたが、確信には至っていない。
今のところ、こちらのペースだ。
「そ、そう……ですか……」
少し間を置いてから、恐る恐る尋ねる。
「えっと……あなたは……?」
「あっ、ごめんね!」
彼女は背筋を伸ばし、明るく名乗った。
「私、波動ねじれ。ヒーロー科2年!」
「2年……! せ、先輩だったんですね。す、すみません」
自然に頭を下げる。
立場を下に置くのは、警戒を解く一番簡単な方法だ。
「ぼ、僕は……」
名を告げようとした、その瞬間。
「新世福音君、だよね?」
「……僕の、名前を?」
一瞬、心臓が跳ねる。
(知っている……?)
「うん。あなたと、もう一人の子がいて……」
彼女は少し言葉を選ぶようにしながら続けた。
「その……私たちの間で、ちょっと有名になっててさ」
「有名……?」
「ほら、イレイザーヘッドが“除籍にしないで、留年させた”って話。結構噂になってるんだよ」
……なるほど。
(そういう理由か)
胸の奥で、静かに納得する。
彼女がここに来た理由は、渚の出来事ではない。
噂だ。
雄英という閉じた環境で、異例の処置を受けた二人の存在。
(つまり──彼女は“興味”で来ただけ)
ならば、この場は切り抜けられる。
「そう……だったんですね」
小さく、曖昧に相槌を打つ。
あの日の記憶と、今の僕。
彼女の中で、それらはまだ繋がっていない。
「ぼ、僕には……よくわからないですけど……単位を取りながら、っていう話らしいです」
少し歯切れの悪い返事になった。
それでも、嘘は言っていない。
「……そうなんだ」
波動先輩は、そう呟いてから視線を逸らした。
どこか、ばつが悪そうに見える。
(……踏み込みすぎたと思った、かな)
なら、今度は僕の番だ。
「その……波動、先輩は……それで、ここに来たんですか?」
「え?」
一瞬だけ、彼女の肩が揺れた。
「ううん。私ね、確かめたいことがあって……」
「確かめたい、こと……?」
胸の奥が、わずかにざわつく。
──そうだ。
彼女は以前、言っていた。
「知りたいことがあると聞いてしまう」と。
(なるほど……)
彼女にとって、この初号機の姿は。
この“新世福音”という存在は。
謎の塊、というわけか。
僕はそう、勝手に結論づける。
だから、きっと質問も、その延長線上のものだ。
「……一つ、聞いてもいいかな?」
「は、はい……僕でよければ」
声が、少しだけ震える。
それでも逃げなかった。
波動先輩は、まっすぐに僕を見る。
探るようでもあり、確かめるようでもある視線。
「あなたは──誰?」
「……え?」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
「ぼ、僕ですか? 僕は……新世──」
「違う」
静かだが、はっきりと遮られる。
「今、話してるあなた」
「っ……!」
息を呑む音が、自分でもはっきりわかった。
(……なぜ)
胸の奥で、何かが冷たく落ちる。
(ばれた? いや……そんなはずは)
声も、態度も、存在の輪郭も。
すべて切り離したはずだ。
なのに彼女は、そこに違和感を見つけている。
「……先輩が言っていることは、正直よくわからないですけど……どうして、そう思ったんですか?」
できるだけ平静を装って問い返す。
けれど、胸の奥では小さな警鐘が鳴っていた。
「私ね、探してる人がいるの」
「……探してる?」
その言葉を聞いた瞬間、心臓がわずかに跳ねた。
本能的に思ってしまう──僕のことか、と。
「その……探してる人が、僕に似てるってことですか?
でも僕、相当珍しい姿してると思うんですけど……」
初号機のこの姿を示すように、曖昧に肩をすくめる。
「ううん。見た目は、全然違うよ」
彼女はそう言って、両手を軽く合わせた。
自分の中で、何かを照合するように。
「たまたま、聞いちゃったんだ。
先生と、あなたが話しているの」
「……」
なるほど、そういうことか。
彼女はそこで、福音君という存在に興味を持った。
見た目は違う。けれど──声は、同じだ。
「それでね、気になって。
時々、あなたのことを見てたことがあって」
胸の奥で、点と点がつながる。
最近、福音君が感じていた視線。
あれは──彼女だったのか。
(……つまり、僕たちは見られていた)
「それに、今だって」
波動先輩は、はっきりと僕を見る。
「私を見た瞬間、声を変えたでしょ。
だから、なおさら……変だなって思った」
言葉が、胸に突き刺さる。
(……最悪だ)
良かれと思って取った行動が、完全に裏目に出ている。
自分の浅はかさに、思わず嫌気が差した。
「でも……見た目は違うんでしょ?
声が似てる人なんて、意外といると思うんですけど」
最後の抵抗のように、そう口にする。
論理としては、間違っていない。
だからこそ──彼女がどう返すのか、怖かった。
「うん。私も、最初はそう思ったよ」
波動先輩は、少し困ったように笑ってから、続ける。
「でもね……似てたの」
「……似てた?」
「話し方が。
まるで、あの人を“真似してる”みたいだったから」
──ああ。
そうなる、か。
僕と福音君は、同じ“原型”を参照している。
渚カヲルという存在を、言葉のリズムや間の取り方にまで落とし込んでいる。
だからこそ、違和感として浮かび上がった。
そして──。
(僕の姿を、見たことがあるのは……)
この世界で、彼女だけだ。
ならば当然だろう。
僕に辿り着くのは、彼女だけになる。
「……そうか」
小さく息を吐く。
もう、誤魔化す理由はなかった。
「なら、これ以上嘘をつくわけにもいかないね」
声を、元に戻す。
碇シンジのそれではなく、僕自身の声へ。
「君の言う通りだよ。
探していた存在は……僕だ」
初号機の輪郭が、ゆっくりと歪む。
装甲が霧のようにほどけ、形を変え、収束していく。
白く、人の形をしたタブリスとしての僕。
その姿を目にした瞬間、彼女は息を呑んだ。
「……っ!」
言葉は出ない。
ただ、スカートの端をぎゅっと握りしめ、込み上げる感情を飲み込む。
そして──。
「……そっかぁ」
ぽつり、と。
熱を帯びた声が、零れ落ちる。
「やっと……見つけた」
その声音は、無意識のものだったのだろう。
だからこそ、重く、真実だった。
僕は静かに首を傾ける。
「どうして、僕を探していたんだい?」
問いは、穏やかに。
けれど、逃がさない。
「僕らが話したのは、ほんの短い時間だったはずだ。
それでも君はここまで辿り着いた」
風の止んだ運動場で、視線が交わる。
「理由を、聞かせてほしいな」
「……ただ、お礼を言いたかっただけ」
彼女は、そう言って小さく息を吐いた。
「お礼?」
「うん。あなたのおかげで、私は……間違えなかった。ちゃんと、選択ができた」
その言葉を聞きながら、僕は思い起こしていた。
以前の彼女は、確かに孤独だった。
孤独であるがゆえに仮面を被り、他者との間に壁を築き、自分自身を守っていた。
けれど──。
あの場所で、僕が渚カヲルのように寄り添った結果。
彼女の心の迷宮は、ひとつの答えに辿り着いたのだろう。
(変わる……そうか。君は、変わったのか)
孤独を抱えたまま閉じこもるのではなく、他人を受け入れ、前に進む選択をした。
「そうか。それは……よかった」
その変化は、きっといい方向だ。
彼女は“他者”を拒まなかった。
「それができるのが、リリン……人間という存在なのかもしれないね」
僕の呟きに、彼女は首を傾けるようにして、少しだけ間を置いた。
「……ねえ。もう一つ、聞いてもいい?」
その問いに、僕は意識を向ける。
「構わないよ。何を聞きたいんだい?」
彼女は、少し照れたように視線を逸らしてから、言った。
「あなたの……名前」
「名前?」
「そう。
『もし、次に君と会ったとき、君が僕に気づけたら。その時に、名前を教えるよ』って、言ってたから」
──ああ。
「確かに、そう言ったね」
自分でも、そんなことを口にしていたのを思い出す。
あの時は、もう二度と会うことはないと思っていた。
だからこそ、あんな曖昧な約束を残したのだろう。
「僕は……」
一瞬、言葉に迷う。
福音君の名前では、違う。
それは彼のものだ。
渚カヲルでも、違う。
それは“参考にした存在”であって、僕自身ではない。
ならば──。
「僕は、タブリス。
最後のシ者であり……彼と共に歩む存在だ」
「タブリス……」
彼女は、その名を噛みしめるように、ゆっくりと口にした。
「それが、あなたの名前なんだね」
福音君以外の誰かに、そう呼ばれるのは初めてだった。
その音が、なぜか心地いい。
名を呼ばれるという行為が、存在を認められるということなのだと。
僕は、その瞬間、少しだけ理解した気がした。
トガヒミコに変わる、敵の追加
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