「……疲れました……」
思わず、そんな声が零れた。
保健室からの帰り道、私は廊下をゆっくり歩きながら、凝り固まった肩をぐっと伸ばす。
身体の奥に溜まった疲労が、じわじわと表に浮かび上がってくる感覚があった。
今日は、正直言って、かなり濃い一日だった。
(……アルエちゃん)
心の中でそう呼びかけると、すぐに静かな気配が応じる。
『なに』
短いけれど、突き放すような冷たさはない。
「今日は……びっくりしましたね」
言いながら、自然と今日の出来事を思い返していた。
『ええ。さすがの私も、あれには驚いたわ』
アルエちゃんの声は、淡々としているけれど、ほんの少しだけ感情の揺れが混じっていた。
思い浮かぶのは、今朝の出来事だ。
実験用として届いた、生きたままの──お魚さん。
透明な水の中で、水滴を跳ねさせながらぴちぴちと動くその姿は、「生きている」という事実を、嫌というほどはっきり伝えてきた。
まな板の上に移されたときも、尾びれを打ち、身体をくねらせ、必死に逃げようとしていた。
その感触を、私はまだ覚えている。
ぬるりとした皮膚。
小さく震える筋肉。
確かにそこにある、命の重さ。
……それでも、私は触れた。
そして、浸食を行った。
浸食そのものは、驚くほどあっさり終わった。
いつも通り、流れるように、問題なく。
問題だったのは──その後だ。
「まさか……光りだして、空を飛ぶとは思ってませんでした」
思い返すだけで、少しだけ苦笑いが浮かぶ。
白く発光しながら、ふわりと宙に浮かび上がったお魚さん。
重力を忘れたみたいに、実験室の中を漂い始めた光景。
あれは……さすがに予想外だった。
『魚とはいえ、魂を持つものへの浸食は難しいの』
アルエちゃんは、静かにそう言った。
『人間とは構造も違うし、抵抗の仕方も違う。
結果が不安定になるのは、自然なことよ』
「……そうですね」
私は小さく頷く。
「でも、リカバリーガールも言ってました。
失敗は成功のもと、って」
そう口にした瞬間、
保健室で聞いた、あの優しい声が思い出された。
大丈夫よ、焦らなくていい。
一つずつ、できるようになればいいんだから。
その言葉に、どれだけ救われたか分からない。
『……前向きね』
アルエちゃんの声に、わずかな変化があった。
『悪くないと思う』
その一言に、胸の奥が少しだけ軽くなる。
廊下の曲がり角を曲がった、その瞬間だった。
「渡我か。今日はもう終わったのか?」
「わっ」
思わず足を止める。
そこに立っていたのは、いつもの眠そうな目をした相澤先生だった。
「せ、先生! はい、今日はもう自習するように言われました」
そう答えると、先生は小さく頷く。
「そうだったのか。今の時間なら、新世は運動場だと思うぞ」
「……運動場、ですか」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に小さな引っかかりが生まれる。
「……先生は、どうして福音君のことを教えてくれるんですか?」
少しだけ考えてから、口にした。
先生は一瞬だけ視線を逸らし、それから淡々と答える。
「いや。お前らを一人だけにさせるのは、少し危なっかしい気がしてな」
その言葉に、思わず眉が寄る。
「俺もこのあと授業があって、そばを離れなきゃいけない。
だから、知ってることは先に言っておこうと思っただけだ」
「……」
危なっかしい、か。
確かに。
私も福音君も、どちらかと言えば無茶をするタイプだと思う。
それは否定できない。
でも。
「……でも先生たちのおかげで、少しは減ったんですよ。危ないところ」
そう言うと、先生は一瞬だけこちらを見てから、鼻で息を吐いた。
「そういうのは、魚を光らせないやつが言うことだ」
「うげっ!」
思わず変な声が出た。
「もう先生まで伝わってるんですか!?」
「保健室が軽く騒ぎになってたからな」
先生は肩をすくめる。
「……恥ずかしい……」
思わず顔を覆う。
あれは本当に、予想外だったのに。
「だがまあ、前進してるのは確かなんだ。無理せずに精進しろ」
「……はい! わかりました」
思わず、少し大きめの声で返事をしてしまった。
けれど、「無理せず」という言葉だけ、やけに力がこもって聞こえた気がする。
先生はそれ以上何も言わず、軽く手を上げてそのまま廊下の向こうへ歩いていった。
私も深く考えすぎないようにして、運動場へ向かう。
先生の話では、この時間なら中で福音君が訓練をしているか、後片付けをしているらしい。
運動場の扉の前に立ち、取っ手に手をかけた──そのときだった。
『待って』
アルエちゃんの声が、はっきりと響く。
(……どうしたんですか?)
ただ事じゃないと感じて、声には出さず、頭の中で問いかける。
『中に、彼以外の存在がいる感じがする』
一拍。
『それに……彼が、少し変』
(変、って……?)
詳しく聞く前に、私は扉をほんの少しだけ開けた。
隙間から、中の様子をそっと覗く。
──そこにいたのは。
(……あれ?)
私の探していた人じゃ、なかった。
運動場の中心に立っていたのは、二人。
一人は、白い髪の少年。
もう一人は、青い髪の少女。
青い髪の子は、完全に初めて見る顔だ。
でも──白い髪の少年のほうは。
(……初めて見る、感じがしない)
胸の奥に、微かな引っかかりが残る。
「温泉ペンギン。新種のペンギンだよ」
白い少年が、そう言った。
「温泉? ペンギンなのに温泉? 不思議だねー」
青い髪の少女は、楽しそうに声を弾ませる。
二人は、まるで友達同士みたいに、穏やかに会話をしていた。
──その瞬間。
「……!」
思わず、息を呑む。
白い少年から発せられたその声は──。
(……福音、君?)
間違いない。
聞き間違えるはずがない。
胸の奥で、何かが弾ける。
同時に、記憶が呼び起こされた。
──中学の頃。
初めて放送室で、放送することを聞き実践したあの日。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
彼の姿が、別の何かに見えたことがあった。
(……あの時の)
胸の奥で、言葉にならない感覚が広がった、その直後だった。
『……彼が、表に出てきているなんて……』
アルエちゃんの声が、珍しく言葉を失ったように揺れる。
その響きに、思わず背筋が伸びた。
(アルエちゃん……あの人は?)
声に出すのは危険だと思い、私は頭の中で問いかける。
『ヒトに行きつき、ヒトに好意を示した……最後のシ者』
「……最後の、シ者」
気づいたときには、言葉が口から零れていた。
小さな声だったはずなのに、その響きが、やけに重く胸に残る。
最後。
その二文字が、頭の中で何度も反芻された。
(……なんで、そのシ者が、ここにいるんですか?
それに……福音君は、どこに……)
問いは、自然と二つになった。
『彼は──』
アルエちゃんは、少しだけ間を置いてから続ける。
『彼の中に存在する者たちの統括者。
上に立つものであり……代弁者でもある』
(……?)
一瞬、意味を取り損ねる。
言葉は分かるのに、繋がらない。
(……つまり、それって)
慎重に、確認するように尋ねた。
(福音君にとっての……アルエちゃん、ってことですか)
『そう思ってくれて、いいわ』
即答だった。
迷いのない声。
それを聞いた瞬間、胸の中で何かがすとん、と落ちた。
(……なるほど)
完全に理解したわけじゃない。
でも、輪郭は見えた。
あの白い少年は、福音君の“中”にいる存在。
ただの別人格でも、幻でもない。
彼の代わりに立ち、
彼の代わりに話し、
彼の代わりに人と関わることができる存在。
(……でも)
そこで、ふと疑問が湧く。
(あの人が、あそこにいるのって……いいことなんですか?)
思わず、聞いてしまった。
今までだって、福音君は何度も規格外なことを起こしてきた。
けれど──。
彼の中にいる存在が、主導権を握り、姿を変え、“そこに存在している”。
そんな光景を見るのは、これが初めてだった。
アルエちゃんは、すぐには答えなかった。
その沈黙が、何よりも不安を煽る。
『……危ないかもしれない』
(……本当ですか? 一体、どうしたら……)
問いかけながら、胸の奥が冷えていく。
アルエちゃんの言葉は、聞きたくなかった答えだった。
(……危ないのは、福音君じゃない)
自然と、思考が別の方向へ向かう。
(あの女の子の方)
そっと、視線を移した。
(……あの子)
そこには、さっきと変わらず、楽しそうに笑う青い髪の少女がいた。
作った笑顔じゃない。
無理をしている様子もない。
心の底から、誰かと話すことを楽しんでいる、そんな笑顔だった。
(……危ないって、いったい何が危ないんですか?)
どう見ても、危険な空気なんてない。
むしろ、幸せな時間にすら見える。
『……今、見せるわ』
その瞬間だった。
「……っ!」
鋭い痛みが、頭を貫いた。
思わず息を呑む。
視界が反転する。
情報が、流れ込んでくる。
──それは、まるでアニメのラフ絵みたいだった。
輪郭が曖昧で、色も定まらない世界。
夕暮れの中、孤独な少年が立っている。
その前に、もう一人の少年が現れる。
微笑みながら。
すべてを包み込むような、優しい表情で。
孤独な少年は、少しずつ心を開いていく。
初めて、自分を肯定してくれる存在に出会ったかのように。
──けれど。
過酷な運命が、それをあざ笑う。
仕組まれたシナリオ。
避けられない流れ。
少年は、さらに深い絶望へと引きずり込まれていく。
(……今のは、一体……)
『今のが、彼らの出会い』
アルエちゃんの声が、静かに重なる。
『出会いは、まるで運命のようだった。
でも……その最後は、悲劇だった』
私は、顔を上げる。
目の前には、運動場の二人。
白い少年と、青い髪の少女。
少女は、まるで恋焦がれる人を見つけたかのように、距離を測りながら、そっと寄り添おうとしている。
その光景と重なるように、紫の巨人の、赤く染められた手が、脳裏に浮かんだ。
(……このままだと)
喉が、ひくりと鳴る。
(このままだと……あの人たちも、ああなるんですか?)
『……分からない』
アルエちゃんの声は、いつになく弱かった。
『でも、彼が表に出てきた場合……ほとんどの結末は、ああなる』
(……だったら)
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
(だったら、止めなきゃ……)
一歩、踏み出そうとした。
けれど。
女の子の顔が、視界に入った瞬間、足が止まる。
あまりにも、幸せそうで。
あまりにも、無防備で。
その時間を、壊していいなんて──思えなかった。
『……被身子?』
(……私には、できません)
小さく、でもはっきりと答える。
(……あれを、止めることは)
私は、そっと扉を閉めた。
音を立てないように、ゆっくりと。
そして、その場を離れる。
足を進めながら、胸の奥で問いかける。
(……アルエちゃん)
(ここでも、ああなるって……決まったわけじゃない、ですよね?)
『……分からないわ』
即答ではなかった。
少しだけ間を置いた、その声は、迷いを含んでいた。
(……だったら)
私は、小さく息を吸う。
(今は……そっと、しておいてあげましょう)
『どうして、被身子がそうするの?』
問いは、責めるものじゃない。
ただ理由を求める、静かな声だった。
(あの人たちの関係を、私にはまだ分かりません)
一つずつ、言葉を選ぶ。
(でも……)
運動場の奥。
さっきまで見ていた二人の姿を、思い浮かべる。
(あの人にとって、あのシ者さんは……私にとっての、福音君だと思うから)
『……』
アルエちゃんは、何も言わなかった。
肯定も、否定も。
ただ沈黙だけが、そこにあった。
けれど──。
歩き出した私の意識の端で、アルエちゃんが、最後まで運動場の方を見つめている気配がした。
見えなくなる、その瞬間まで。
◇◇◇◇
先生との模擬戦があった、その次の日。
僕は教室の机に座り、朝のHRが始まるのを待っていた。
窓から差し込む朝の光はいつもと変わらないのに、身体の奥だけが少し重い。
(……昨日は)
殺さないための特訓。
量産機を相手に、無力化だけを考え続けた時間。
そのあと──気が付いたら、僕は教室に戻っていた。
(……疲れてたのかな)
記憶が途切れているわけじゃない。
ただ、そこだけが妙に曖昧だった。
そんなことを考えていると、教室の扉が開く。
「おはよう」
低くて気だるげな声。
相澤先生だった。
軽く挨拶を交わし、先生は教卓に立つ。
そして、いつもより少しだけ真面目な顔で言った。
「お前らには、重大な発表がある」
一拍。
「戦いが始まるぞ」
「っ……!」
思わず、身体が強張った。
背筋に反射的な緊張が走る。
「……戦い?」
被身子が、つぶやくように言う。
「まさか、ヴィランによる雄英への襲撃作戦でもあるんですか?」
僕がそう口にすると、先生は露骨にやれやれといった顔をした。
「なんでそうなる」
ため息一つ。
「雄英体育祭が迫ってるって話だ」
「……」
一瞬、教室の空気が止まる。
僕と被身子は、ほぼ同時にぽかんとした。
「体育祭……?」
少し遅れて、言葉が出る。
「……ああ、そんな時期でしたっけ」
自分でも驚くほど、落ち着いた声だった。
それを聞いた先生が、少しだけ眉を上げる。
「やけに冷静だな。
そこは“学校っぽい”とか言って、盛り上がるところじゃないのか?」
「……でも」
そう言いかけたところで、被身子が手を挙げる。
「二人だけの留年クラスで、体育祭もくそもないと思います」
なんとも言えない顔だった。
「おい渡我、口が少し汚いぞ」
即座に、先生のツッコミが飛ぶ。
「……お口にチャックします」
そう言って、被身子は素直に黙った。
教室に、短い静寂が落ちる。
先生は、もう一度ため息をついてから続けた。
「まあ、渡我の言う通りでもある」
淡々と。
「お前たちは、ヒーロー科一年として体育祭には出場できない」
先生はそう言い切ると、手元にあった紙の束を僕らの机に配った。
「簡単な体育祭のパンフレットだ。
当日は、出店なんかもいろいろ出る予定になっている」
受け取ったパンフレットに目を落とす。
そこには、たこ焼き屋、イカ焼き、焼きそば、クレープずらりと並んだ出店一覧が載っていた。
「……いろいろ出るんですね。なんだか、夏祭りっぽいです」
思わずそう言うと、先生は小さく鼻で笑った。
「今じゃ、ウチの体育祭は日本のビッグイベントの一つだ」
淡々と、でもどこか誇らしげに続ける。
「かつてのオリンピックに代わるのが、雄英体育祭だ。
それに伴って、全国のトップヒーローや、それにつらなるサポート会社、スポンサーも観客として集まる」
一拍。
「一般人も含めれば、相当な人数になる。
だからそれに合わせて、経営科も“経済活動”を兼ねて動いてる」
「……ほえー」
被身子が、パンフレットを見ながら素直に声を上げた。
「そこまでなんですね。知りませんでした」
「当日、僕たちは出店や、それ以外の部分を手伝うってことですか?」
僕がそう聞くと、先生は頷いた。
「そうだ。
こちらから二人に合った場所を指示する」
そして、少し間を置いてから付け足す。
「もしくは──お前たちが“何かやりたい”っていうなら、それをやってもいい」
その言葉に、僕は被身子と顔を見合わせた。
「福音君は、何かやりたいことあります?」
被身子にそう聞かれて、僕は少し考える。
「そうだね……」
頭の中で、今までの経験を振り返る。
放送──
一瞬そう思ったけれど、すぐに首を振った。
この学校には、プレゼント・マイクがいる。
その役割を、僕が代わりにやるのは違う。
だったら、先生の言う通り、出店か裏方の手伝いだろうか。
(……いや)
そこで、ふと立ち止まる。
(ちょっと待てよ……)
頭の中に、ある“姿”が浮かんだ。
こういう場面で。
こういう規模で。
こういう「人が集まる場所」で。
これ以上ないくらい、ドンピシャな存在が。
顎に手を当てたまま、僕は一人で小さく頷いていた。
「……?」
その様子に気づいた被身子が、首を傾げる。
「その感じ……なにか思いついたみたいですね」
被身子のその一言に、僕は小さく頷いた。
「うん。百聞は一見にしかず、かな」
そう言って、僕は立ち上がる。
「……新世?」
相澤先生が、訝しげにこちらを見る。
僕は返事の代わりに、制服の上着に手をかけた。
「先生に、見てほしい姿があるんです」
「……は?」
次の瞬間。
身体の奥で、確かな反応が走った。
初号機と量産機とは違う。
僕の中に“生まれた”、もう一つのエヴァ。
光が溢れる。
赤く、黄色く、眩しいほどの光が僕の輪郭を包み込み次の瞬間、それは一気に収束した。
そこに立っていたのは、初号機ではない。
赤と黄色の装甲。
どこか丸みを帯びたシルエット。
そして、異様に“親しみやすい”存在感。
「……その姿は」
相澤先生が、珍しく目を見開いた。
この学校で。
雄英で。
この姿を見せたのは、これが初めてだった。
「M号機」
僕は一歩前に出て、はっきりと言う。
「これが、僕のもう一つの姿です」
赤い装甲が、淡く光る。
僕は片手に意識を集中させた。
エネルギーが、掌の中に集まっていく感覚。
そして──。
光が弾け、収束したその手の中に現れたのは。
フライドポテト(Sサイズ)。
教室に、短い沈黙が落ちる。
「……」
「……」
「……いや」
相澤先生が、ぽつりと口を開いた。
「マックだろ」
完全にツッコミだった。
「いいえ、M号機です」
「いや、その配色」
「M号機です」
「肩にロゴが──」
「M号機です」
短い沈黙が、教室に落ちた。
誰も何も言わない。
ただ、僕の手の中にあるポテトだけが、ほかほかとした熱を主張している。
……が。
静寂が続くにつれて、その温かさも、ゆっくりと失われていった。
「あの……」
僕は咳払いを一つしてから、ポテトを差し出す。
「とりあえず、食べてみてください」
「……」
先生は怪訝そうな顔でそれを受け取り、しばらく眺めたあと──
一つ、口に運んだ。
もぐ。
「……美味いな」
「そうでしょう!」
思わず、即答してしまった。
先生はもう一本つまみながら、淡々と続ける。
「……で。他に、どんなのを出せる」
「ハンバーガーからサイドメニュー各種、それにドリンク、アイスとかもいけますよ」
その言葉を聞いた瞬間。
「はぁ……」
相澤先生は、心底疲れたように大きくため息をついた。
「お前のその個性は、確かにすごい」
一拍。
「だがな。見た目がまずい」
「……見た目、ですか」
「そうだ」
先生はポテトを机に置く。
「個性で出したものとはいえ、無断コラボはさすがにまずい。
スポンサーや企業が絡む場だ。黙って見逃される話じゃない」
「……」
それを言われると、黙るしかなかった。
確かに、このM号機どう見ても、マクドナルドすぎる。
というか、メニューがそのままだ。
(……これでお金を取るのは、アウトか)
そんなことを考えていると。
「……先生、一ついいですか?」
隣で、被身子が手を上げた。
「どうした、渡我」
「福音君が“お客さんに直接見られない形”で食べ物を提供できれば、問題はないですか?」
「……ほう」
先生が、少しだけ興味を示す。
「マックで買ったものを、オリジナル商品として売るわけじゃありません。
あくまで、福音君の“個性”で出したものです」
一拍置いて、続ける。
「だったら、私が店員をやって、
お客さんに渡す容器も全部オリジナルのものに変えたら……どうでしょう?」
教室が、静かになる。
先生は顎に手を当て、しばらく考え込んだ。
「……」
「……」
数秒後。
「確かに、それは……アリだな」
ぽつりと、先生が言った。
「……っ!」
被身子が、ぱっと顔を明るくする。
僕も、思わず拳を握った。
(いける……!)
戦わない体育祭。
でも、確かに“役に立つ”方法。
「材料費も、作るための設備も、電気代もかからない。
それなら売り上げも、かなりいいはずだ」
相澤先生はそう言いながら、手元の端末に素早くメモを取っていく。
「俺のほうから、経営科にお前らの企画を持っていこうと思う」
その一言で、胸の奥が少しだけ軽くなった。
「それ以外に、何かあるか?」
先生の問いに、僕は少し考えてから口を開く。
「……僕の姿を隠せる形の出店と、
その場で“作ってる”ように見せられる装置があればいいんですけど」
「ほう?」
「飲食の出店なのに、料理してる音が一切しないのは……
さすがにお祭りとしておかしいかなって」
頭の中で、あの賑やかな屋台の光景を思い浮かべる。
鉄板の音。
油の跳ねる音。
それがあるから、少し高くても、つい買ってしまう。
「……確かにな」
先生は短く頷いた。
「分かった。新世、お前はそれも含めて、パワーローダーのところに行ってこい」
「わかりました」
即答だった。
僕はその場で変身を解き、姿を量産機へと戻す。
制服を整えてから、教室の扉へ向かう。
背後で、声がした。
「先生、一ついいですか。私もやりたいことがあって……」
どうやら、被身子も何か提案するらしい。
扉を開けながら、ふと笑みがこぼれた。
(……体育祭、か)
出場できるわけじゃない。
ヒーローとして脚光を浴びる舞台でもない。
それでも。
(M号機を、生かせる場所が来た)
胸の奥が、じんわりと熱を持つ。
──ワクワクが、止まらなかった。
◇◇◇◇
空が広がり、気持ちのいい風が吹く。
これ以上ないくらいの晴天の下──ついに、雄英体育祭の日がやってきた。
僕は、今日のために用意された出店の前に立ち、それをじっと眺めていた。
大きく掲げられた看板には、こう書かれている。
《ネルフバーガー》
その下には、ハンバーガー各種、ポテト、ドリンク、アイス──
ずらりと並ぶメニュー表。
「……壮観だね」
すでにM号機へと変身している僕は、感慨深くそれを見上げた。
(今日のために……本当に、いろんな人に助けてもらった)
サポート科の面々は、出店そのものの制作を手伝ってくれた。
外観、動線、裏側の仕組みまで、徹底的に。
それだけじゃない。
M号機の装甲色も、赤色から少し落ち着いた配色へ変更。
肩のロゴも、「M」から「N」──ネルフマークへとペイントし直してもらった。
これなら、人前に出ても問題ない……はずだ。
食べ物の値段は、経営科が設定してくれた。
ほかの出店と比べて、ひときわ安い。
(……まあ、食材原価ゼロ、容器も消耗品ゼロなら、こうなるか)
一人で勝手に納得し、うなずいていると──。
「福音君、お待たせいたしました」
後ろから声をかけられた。
振り返ると、そこには被身子が立っていた。
……ただし、いつもと様子が違う。
マントを羽織り、首から下をすっぽり隠した姿。
「……すごい格好だね」
「ちょっと待っててくださいね。最終準備をしてくるんで」
そう言って、彼女は出店の中へと入っていく。
中から、何かが切り替わるような気配がした。
──個性、発動。
「ついに来たわね。この日が!」
そう言いながら、出店の中から現れたのは。
「……!」
「どう?」
そこに立っていたのは──ミッドナイトだった。
「驚いた……まさか、ミッドナイトだなんて」
「ふふん」
被身子──いや、“ミッドナイト”は、腰に手を当てて得意げに笑う。
「これも、売り上げアップのための作戦よ?」
口調も、仕草も、完全に本人寄り。
正直、ここまで再現されると、本物と見分けがつかない。
「……にしても相澤先生が、よく許可してくれたね」
僕は思わず言った。
“ミッドナイト”は、にやりと笑う。
「条件付き、だけどね。
過度なサービス禁止、接触禁止、教育上アウトな演出は全部NG」
「……まあ、そりゃそうか」
それでも。
目の前の出店。
並ぶメニュー。
そして、ミッドナイト。
「よし……せっかくだし、売り上げ一位、取ってみるか」
僕がそう言うと、
「いいですね! 狙うは一等賞です!」
被身子が、ぐっと拳を握って元気よく答えた。
……あ。
テンションが上がりすぎたせいか、口調が完全にいつもの被身子に戻っている。
「……今、素が出てたよ」
「えっ。……あ」
一瞬だけ間を置いて、彼女は咳払いをした。
「こ、コホン……ええと。
本日はネルフバーガーへようこそ、なのよ?」
若干あやしいが、まあいい。
それでいいんだ。
この元気さ。
この勢い。
きっとそれが、今日一日の糧になる。
◇◇◇◇
雄英高校体育祭。
それは、未来のヒーローたちの原石を間近で目にできる、数少ない機会のひとつだ。
その瞬間を逃すまいと、会場には朝から多くの人間が詰めかけていた。
一般観客、ヒーロー志望の子どもたち、関係者、そして各分野のプロたち。
注目の的は、当然ながら生徒たちによる各種競技。
出店や売店は、それを盛り上げるための“前座”──本来は、その程度の存在に過ぎない。
……そのはずだった。
だが、この年の体育祭は、明らかに違っていた。
理由は一つ。
18禁ヒーロー・ミッドナイトによる飲食系出店。
その噂は、開会から間もなくして会場を駆け巡った。
彼女のファンはもちろん、普段はなかなか接点のないプロヒーローに会えるとあって、出店の前には瞬く間に人だかりができていく。
「お待たせ。てりやきバーガーセットよ」
そう言って差し出されるのは、紙袋に入った食事。
ヒーロー本人から、直接。
そして最後に──さりげない笑顔。
それだけで、心を射抜かれる者が続出した。
大人だけではない。
なぜか小さな子どもにまで、「なんだかよくわからないけどすごい」という感覚が伝染していく。
だが、異常なのはそれだけではなかった。
食べ物が提供されるスピードが、明らかにおかしい。
会計を終えるころには、すでに商品は用意されている。
調理の待ち時間はほぼゼロ。
そのため、あれほどの行列にもかかわらず、列は詰まることなく、淀みなく流れていく。
さらに──。
値段は安い。
味は良い。
量もしっかりしている。
その場限りの出店でありながら、あまりの完成度に、次々と写真や感想がSNSへ投稿されていった。
《雄英体育祭、ミッドナイトのバーガー屋がやばい》
《並ぶ価値あり》
《安くて早くてうまい》
情報は拡散され、
それを見た人間が、また列に加わる。
こうして、会場の一角には、競技とは別の意味で異様な熱気を放つ場所が生まれていた。
だが、その出店のすぐ横では、時折──不思議な光景が広がっていた。
出店に隣接するベンチ。
そこに腰掛けているのは、赤い装甲に身を包んだ、まるでロボットのような存在。
人型。
だが、明らかに普通ではない。
その存在は、静かに本を読んでいたかと思えば、
急にぱたん、と本を閉じて、独り言のようにつぶやく。
「……この本、前にも読んだな」
次の瞬間、今度はスマートフォンが鳴る。
ためらいもなく通話に出て、
「はい、M号機です」
と、やけに丁寧な声で応答する。
その様子を、周囲の客たちは遠巻きに眺めていた。
そして──。
迷子の子どもを見つけたとき、その存在は即座に立ち上がった。
ゆっくりと近づき、子どもと同じ目線までしゃがみ込む。
威圧感はない。むしろ、妙に親しみやすい。
「どうしたの? お父さんとはぐれちゃった?」
子どもの緊張が、少しずつ解けていく。
数秒後、会場アナウンスが流れ、やがて親が駆け寄ってくる。
役目を終えると、その存在は静かに一歩引いた。
去り際。
「ねえ、お兄ちゃん。靴の大きさって、どれくらい?」
子どもがそう聞くと、
「うーん……ハンバーガー四個分くらいかな」
と、気さくに返す。
子どもは笑い、親は頭を下げ、
赤い存在はまた、何事もなかったかのようにベンチへ戻る。
そのすぐ隣では、相変わらずミッドナイトが接客を続けている。
客たちは、
ミッドナイトの店に並びながら、
ときどき、その謎の存在へ視線を向ける。
どちらも気になる。
どちらからも、目が離せない。
結果として、人々はその場を離れず、
自然と時間を潰すことになる。
◇◇◇◇
相澤消太は、会場内を歩いていた。
生徒たちの種目競技が、ひとまず昼休憩に入ったためだ。
その間に見回りも兼ねて、自分の受け持つ生徒たちの出店を確認しておこう──そう思って足を運んだ。
……そして。
「……なにやってるんだ、あれ」
思わず、そんな独り言が漏れた。
まず目に入ったのは、出店横に立てられたスタンドミラーの前。
そこでは、赤い装甲の“あの存在”が、
「フッ★ フッ★」
などと、妙にキレのある掛け声を出しながらダンスの練習をしていた。
ポーズを決めては角度を確認し、
少し首を傾げて、またやり直す。
完全に、ノリノリだ。
そして、そのすぐ横。
何度目かの商品購入らしいリピーター客に向かって、ミッドナイトが満面の笑みでカップを差し出している。
「サービスよ♡
その名も──“最低だ俺カクテル”」
中身は、どう見ても謎の白い液体。
「……」
言葉が、出てこない。
本人のキャラ的にいいのか。
ヒーローとしてどうなのか。
そもそも、これは何なのか。
あまりにも情報量が多すぎて、相澤はとりあえず──
反射的にスマートフォンを取り出し、写真を一枚撮った。
記録として。
そのまま、なんとなくSNSを確認する。
すると、案の定。
──ミッドナイト、プチ炎上中。
「……ああ」
相澤は、どこか納得したように小さく息を吐いた。
「まあ……普段の言動の積み重ねだな」
本人がその場にいないところで、勝手に燃え上がっているあたりも含めて、実に“らしい”。
深く考えるのはやめた。
今日は体育祭だ。
相澤はスマートフォンをしまい、踵を返す。
この件については、スタッフルームに戻ってから、ゆっくり頭を抱えることにしよう。
そう決めて、彼は静かにその場を後にした。
その光景を、少し離れた場所から眺めている二人組がいた。
雄英高校のジャージに身を包んだ、二人の生徒。
人混みの端で足を止め、例の出店付近を指さしている。
「見ろよ、環! すごいのがいる!」
先に声を上げたのは、底抜けに明るい少年だった。
目を輝かせ、面白いものを見つけた子どものように笑っている。
それに対して、隣の少年は肩をすくめるようにして、おずおずと答えた。
「そ、そんな……あんな大人数の前で踊るなんて……俺には、絶対できない……」
二人の視線の先では、
並ぶのに飽きてしまった子どもたちのために、赤い存在が輪の中心に立っていた。
子どもたちと同じ目線で、同じ動きで。
ぎこちないながらも全力で。
「ラン、ラン、ルー!」
掛け声とともに、子どもたちが真似をして跳ねる。
笑い声が弾け、周囲の空気が一段明るくなる。
「……なんなんだ、あれ」
明るい少年が、心底楽しそうに言った。
だが、その掛け声の意味を。
その動きの由来を。
今この場で、正確に理解している者は誰一人として、いなかった。
雄英体育祭の片隅で、
またひとつ、“よくわからないけど楽しい光景”が、静かに増えていくのだった。
トガヒミコに変わる、敵の追加
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