僕のヒーローアカデミア 偽りの福音   作:ペプシ飲みたいマン

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皆様、大変お待たせいたしました。

長らく更新が止まってしまいましたが、ようやく一つの作品として形にすることができましたので、投稿いたします。

少しでも楽しんでいただければ幸いです。


第参拾九話 何もない部屋

夕焼けが、やけに強く光っていた。

 

何もせず、ただ目に映る景色を眺めている。……いや、本当に「何もしていない」のかすら、よく分からない。意識がどこか曖昧で、自分が今どういう状態なのか、それすら掴めない。

 

視界の端で、何かが揺れている。ブランコだ。軋む音を立てながら、ゆっくりと、規則的に揺れている。遠くでセミの鳴き声が響いていた。単調で、どこか懐かしい音。どうやら……ここは公園らしい。

 

その光景を見ながら、ぼんやりと思う。

 

──何を、思えばいいんだろう。

 

何かを考えなければいけない気がする。ここにいる理由を、この景色の意味を。けれど、わからない。

わからないまま、時間だけが過ぎていく。

夕焼けの色も、セミの声も、ブランコの揺れも、何一つ変わらない。ただ、そこに在り続ける。

 

……どれくらい、そうしていただろう。

 

不意に、きし、と小さな音がした。ブランコに誰かが座った音。

視線を、ゆっくりと動かす。

子供がいた。俯いていて、顔は見えない。

 

けれど──わかることがある。

 

あの子も、僕と同じだ。ただそこにいるだけ。何もせず、何も言わず、ただ存在している。

普通なら、ブランコを漕げばいいのに。前に、後ろに。そうやって体を動かせば、少しくらいは紛れるはずだ。

 

──嫌な気持ちでも。

 

「……嫌な気持ち?」

 

ふいに、言葉が漏れた。自分の声なのに、どこか遠くで響いているように聞こえる。けれど、その音はすぐに空気に溶けて消えていった。

残ったのは、さっきの言葉だけ。

 

“嫌な気持ち”。

 

それが何を指しているのかは分からない。

でも──なぜか、しっくりくる。

胸の奥に、ぴたりと収まる感覚。

 

「……そうか」

 

小さく呟く。

 

誰に聞かせるでもなく、ただ自分の中に落とすように。

 

──僕は今、嫌な気持ちなんだ。

 

でも──どうして、嫌な気持ちなんだろう。それすら、わからない。理由も、きっかけも思い出せない。ただ、そこにあるだけの感覚。

 

その答えを求めるように、僕はもう一度ブランコへ視線を向けた。子供はチェーンをしっかりと握ったまま、ただ俯いている。揺れは相変わらず小さく、きし、きし、と規則的な音だけが空気に溶けていく。

 

──このまま、この光景が続くのだろうか。

 

そう思えた、その瞬間だった。

 

「あなたは、誰?」

 

新たな声が、公園にこだました。

はっとして、そちらを見る。そこには、小さな女の子が立っていた。ブランコの子供と同じくらいの年齢。淡い金色の髪が、夕焼けの光を受けてやわらかく揺れている。

 

知らない子だ。見たこともない。

それなのに──初めてじゃない気がする。

 

懐かしさと違和感が、曖昧に混ざり合う。答えを探ろうとすればするほど、思考は沈んでいく。まるで出口のない迷宮に足を踏み入れたみたいに。

 

「私は、血が好きなの」

 

女の子が、静かに言った。その声はどこか無機質で、それでいて妙に柔らかい。

 

「あなたは、何が好き?」

 

問いは僕ではなく、ブランコの子供へ向けられていた。

 

その言葉を聞いた瞬間、意識がわずかに浮上する。なぜだろう。あの子が何と答えるのか、それが気になって仕方がない。好きなものを聞かれて、あの子は何を選ぶのだろう。今、僕の中にはそれしかなかった。

 

けれど──子供は答えない。

 

俯いたまま、何も言わない。ただ、手だけが動く。チェーンから離れた指先が、空中へと伸びる。何かを掴もうとするように。それでも、答えない。

 

(……なんで)

 

胸の奥に、小さな焦りが生まれる。言葉にならない引っかかり。

 

(なんで答えないんだ)

 

好きなものなんて、一つくらいあるだろう。それを言えばいいだけなのに。

 

自分だったら、なんと答えるだろう。

 

そんなことを、考えてしまう。例えでも出してあげれば助けになる。なら、自分のを教えればいい。

 

好きなもの……。

 

それを言えばいいだけのはずなのに、何も出てこない。

 

──なんでだ。

 

あるはずだ。自分が好きだって言えるものが。でも、なにも出てこない。

 

思考に、ノイズが走る。

 

「グゥッ……!!」

 

立っていられなくなり、膝が地面に落ちる。両手で頭を押さえる。

 

 

 

僕は君だよ

 

 

 

 揺れる思考の奥で、声がこだまする。

 

 

 

僕は君だよ

 

 

 

 なにを言ってるんだ。何も聞こえない。

 

 

 

僕は君だよ

 

 

 

 ──答えを持っているのか。

 

 教えてほしい。助けてくれ。

 

 

 

僕は君だよ

 

 

 

 

わからない。自分が、わからない。

 

『僕は君だよ』

 

はっきりとした声が、頭の奥に響いた。

 

はっとして顔を上げる。

 

目の前には、ブランコの子供が立っていた。

 

僕の前に立ち、夕焼けを背にしている。もう俯いてはいない。だから、その顔が見える。

 

──誰なんだ、君は。

 

そう思った瞬間、僕は言葉を失った。

 

その顔には、仮面があった。

 

意味がわからない。仮面のせいで、その子のことが何ひとつわからない。

 

『僕は君だよ』

 

仮面の奥から、声が聞こえる。

 

君が、僕?

 

何を言っているのか、理解できない。

 

『僕は君だよ』

 

仮面を被り、自分のことすら言えないのが──僕?

 

『俺は君だよ』

 

声が、変わる。

 

静かなものから、もっと直接的な響きへと。

 

何も言えない。何も見えない。自分が、ない。

 

『俺は君だよ』

 

その言葉だけが、確かに残る。

 

……そうか。

 

俺だったのか。

 

『俺は君だよ』

 

現実を突きつけるように、その言葉が何度もこだまする。

 

耳をふさいでいるはずなのに、声は止まらない。外からじゃない。内側から響いてくる。

 

──お前は俺だと。

 

──なにもないのが、お前だと。

 

残酷な言葉が、何度も胸を叩く。

 

『俺は君だよ。なにもないのが、俺なんだよ』

 

体の震えが止まらない。頭を振る。声を遠ざけようとする。けれど、声は離れない。どこまでも、どこまでも追いかけてくる。

 

(もう……聞きたくない)

 

その思いだけが、頭の中を支配する。

 

聞きたくない。聞きたくない。聞きたくない。聞きたくない。聞きたくない。

 

──なら。

 

元を、止めればいい。

 

気が付けば、腕を伸ばしていた。

 

伸ばした手に、力を込める。

 

両手が、子供の首を掴んでいた。

 

その言葉を、止めるために。

 

いつの間にか、体は紫色の装甲に覆われている。

 

装甲で覆えば、強くなれる。強くなれば、この声だって止められる。装甲で自分を閉ざせば、見なくて済む。

 

──だから。

 

さらに力を込める。

 

首を、絞める。

 

苦しさが、じわじわと広がっていく。

 

そうだ。このまま──このまま行ければいい。

 

そうすれば……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

首を絞める苦しさで、意識が一瞬で覚醒する。

 

「ッ!!」

 

気が付けば、自分で自分の首を絞めていた。

その事実に気づいた瞬間、慌てて手の力を緩める。震える指先は、うまく言うことをきかない。

 

「ハァ……ハァ……」

 

荒い呼吸が、無理やり喉を通る。

どうやら、眠っている間に初号機の姿になっていたらしい。

 

装甲に覆われたまま、体は強く拘束されているような感覚が残る。奥で、心臓が異様な速さで脈打っていた。

 

なんとか呼吸を整え、少しずつ落ち着きを取り戻していく。

 

……この起き方が、ここ数日の“当たり前”になっていた。

 

喉に残る違和感と、首の奥に残る鈍い圧迫感。それを無理やり飲み込むようにしながら、ゆっくりと息を吐く。

 

ふと、思い出す。

 

あの日。ゴミ捨て場で、相澤先生に言われた言葉。

 

『自分を出してみろ』

 

たったそれだけの言葉。ほんの、簡単なアドバイス程度のもの。

 

なのに──

 

それが、ずっと体の奥に残り続けている。

浸食するように、じわじわと。

 

(……情けないな)

 

自分でも、そう思う。

言葉一つで、ここまで揺らぐなんて。

自分が、こんなにも空っぽだったなんて。

 

「……」

 

呆れて、言葉にもならない。

手を伸ばし、枕元に置いてあったスマホを掴む。画面を点けると、表示された時刻はまだ朝の七時だった。

 

「学校……」

 

無意識に、そんな言葉が漏れる。

 

行かなければ。

 

そう続けかけて──止まる。

 

今日は、土曜日だ。

 

いつもなら、休みの日でも学校に行っていた。電力の提供という理由をつけて、ただそこにいるために。

 

けれど。

今日は、その気分になれなかった。

 

「……せっかくの休みなんだ。休むか」

 

自分に言い聞かせるように、小さく呟く。

何かをしなければ、と思って部屋を見渡す。

 

けれど、目に入るのはスマホと、学校関連の物ばかりだった。

 

「何も……ないのか」

 

ぽつりと漏れた言葉が、そのまま部屋に沈む。

 

虚しさだけが、静かに広がっていく。

部屋の中にあるのは、ベッドと机、充電器といった必要最低限のものだけ。洗濯物として目に入るのも、学校指定の服と、似たような地味な服がいくつか。

 

「……まるで、綾波の部屋だ」

 

誰に聞かせるでもなく、そう呟く。

 

それ以上、この空間を見ていたくなかった。

 

適当に服を着て、最低限の物だけを身に着ける。

 

そして、部屋を出る。

 

──何もない部屋を、背にして。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

ガタンゴトン、と電車の音が響く。

 

あの後、逃げるように部屋を出た俺は、何をしていいのかわからないまま、気が付けば電車に乗っていた。

 

「……」

 

ただ、無言で外の景色を眺める。

 

流れていく街並みが、次第に懐かしい景色へと変わり始めていた。はっきりしない意識の中で、本能だけがこの電車を選んでいた気がする。

どこへ向かうつもりなのか。答えなんてないのに、今、俺はここにいる。

 

この行動すら、自分の弱さを突きつけられているようで、いたたまれなくなる。

 

「……くそ」

 

小さく漏れた言葉は、車輪の音にかき消された。周りの乗客には聞こえていない。その事実だけが、今は少しだけ救いだった。

 

「──次は、○○駅に到着いたします」

 

不意に流れたアナウンスが、意識を引き戻す。

 

「っ……!」

 

このまま、この時間が続くのが嫌になった。理由もなく、ただ反射的に立ち上がる。

 

扉が開いた瞬間、ほとんど流されるように電車を降りていた。

同じく降りた人たちに紛れ込み、そのまま改札へと向かう。

 

こうやって周りに合わせていれば、自分の意思を出さなくて済む。今は、その方がいい。

そうやって、逃げるように思考を手放す。

 

歩幅を合わせて歩いていれば、すぐに改札口へと辿り着く。流れるような動作で、交通系ICカードをかざし、そのまま外へ出る。

 

その途中でふと、目に入った景色に違和感を覚えた。

 

「……まさか、ここって……」

 

駅を出た先に広がっていたのは、見慣れた風景だった。

 

懐かしい音。変わらない建物。記憶の奥に残っていた景色。

 

──俺は、帰ってきていたらしい。

 

自分の故郷ともいえる、孤児院のあるこの町へ。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

久しぶりに見る風景に、言葉にできない感情を抱きながら道を歩く。

 

目に入るものすべてが、自分の知っている景色で埋め尽くされていく。なぜだろう、それが今は妙に心地よかった。安心する、というよりは……ただ、気分がいい。

相澤先生の言葉に悩みすぎて、知らないうちにホームシックにでもなっていたのかもしれない。

 

けれど、そのおかげなのか。

 

今の俺は、確かに落ち着いていた。

 

「……ん、ここは」

 

ふと、視界の端に映るものに気づく。

 

そこは、小さな公園だった。ブランコと共用トイレ、ベンチがいくつか置かれているだけの、どこにでもあるような場所。

 

──でも。

 

ここは、俺にとって大切な場所だ。

 

「……懐かしいな」

 

気づけば、自然とベンチに座っていた。

 

腰を下ろしながら、ゆっくりと記憶を辿る。

 

あれは、小学生の頃。

 

ジェントル・クリミナルと出会った場所がここだ。

 

ほんの数十分の出来事。

 

けれど──今の自分を形作る、確かな何かが生まれた場所でもある。

 

「……」

 

あの日は確か、放課後だった。

 

手に持っていたのは、ハンバーガー。

 

そういえば俺は、よく食べていた気がする。放課後になると、決まってハンバーガーを。

 

「……そりゃ、M号機なんて出てくるか」

 

ぽつりと、言葉が漏れる。

 

思い至ってしまった事実に、今さらながら驚いてしまう。まさかあの能力が、自分の子供の頃の無意識の積み重ねから形になっていたなんて。

 

「はぁ……」

 

わざとらしく息を吐く。

少しでも軽くしようと、無理やりテンションを上げてみる。

 

けれど、それはただの空元気にしかならなかった。

 

……自分で考えていて、嫌になる。

 

「……」

 

気づけば、ブランコに座っていた。子供用だからか、少し小さい。チェーンをしっかりと握り、体をゆっくりと揺らす。

 

ミシミシ、と軋む音が鳴る。少し強く動けば、このまま壊れてしまうんじゃないか──そんな感覚すらあった。

 

「はぁ……」

 

本日、何回目のため息だろう。思い出すのも億劫になるくらい、吐いた気がする。

 

そのせいか、気持ちも沈んでいく。自然と視線は落ち、俯いてしまう。

 

「何やってるんだろ、俺……」

 

答えなんて返ってくるはずがない。それでも、口に出さずにはいられなかった。

 

「先輩?」

 

不意に、懐かしい声が聞こえた。

顔を上げ、声のした方を見る。

 

そこにいたのは──俺の大切な後輩であり、ライバル。

 

「……心操君」

 

「戻ってきてたんですね。お久しぶりです」

 

「うん」

 

短い挨拶を交わす。急なことで、うまく言葉が出てこない。

 

「前に会ったの、確か……夏休みの時でしたよね。何かあったんですか?」

 

当然の疑問だった。急に帰ってきた俺を見て、何も思わないはずがない。

 

その問いに対して──

 

「あ、その……なんか急にホームシックになったっていうか、逃げたくなったというか……」

 

言葉を濁す。

 

気づけば、“俺”から“僕”へと口調が変わっていた。

うまく説明できないからじゃない。

 

──言えないからだ。自分でも理由が分からないまま、ここへ逃げてきてしまったなんて。

心操君には見せられなかった。

 

“僕”じゃない、弱い“俺”を。

 

「受験勉強はどう? 進んでるかい?」

 

「はい。筆記で落ちるなんて嫌なんで、油断せずにやってます」

 

「……いい覚悟だ。自分を律するその姿勢、僕は嫌いじゃないよ」

 

「ははっ、その言い方、先輩らしいっすね」

 

軽く笑いながら返す心操君の言葉に、ほんの少しだけ空気が和らぐ。

 

──この話題なら、大丈夫だ。

 

逃げてきた理由から、少しでも遠ざかるために。無意識のうちに、言葉を重ねる。

 

そのせいか、流れはうまく変わったようだった。

 

「志望校は、変わらずヒーロー科かい?」

 

「はい。そこ一本で行こうと思ってます」

 

まっすぐな答えだった。

 

あの日、自分の個性に自信が持てず、それでも夢を諦めきれなかった少年は、もういない。

 

ここにいるのは──揺るぎない意志を持って、前に進む存在だ。

 

一瞬だけ、目を逸らしたくなる。

 

その眩しさが、今の俺には少し強すぎた。

 

「身体の方はどうだい? 健やかに、鍛えられているかな」

 

また、逃げるように言葉を紡ぐ。

 

「もちろんです。先輩たちと特訓してたときより、さらに力を入れてます。最近は、昔の映画とかも参考にしてて」

 

「昔の?」

 

「はい。個性がなかった時代の映画だと、体一つで戦うアクションが多いんですよ。俺には、そっちの方が合ってる気がして」

 

少し照れくさそうに笑いながらも、その言葉には迷いがない。

 

自分に足りないものを理解して、それを補おうとしている。

 

その姿勢は、間違いなく“前を向いている”人間のものだった。

 

「そういえば、先輩がここにいるのって珍しいですね。いつもだったら孤児院に一直線で行ってるから」

 

心操君が、思い出したように言う。

 

──来たか。

 

今ここで、話を戻されるか。

 

痛いところを突かれた気がして、一瞬だけ言葉に詰まる。

 

どうする。

 

……いや、まだ逸らせる。

 

「ここはね、大切な記憶が眠っている、僕の思い出の場所なんだ。だからなのか、つい自然と来てしまったよ」

 

「へぇ、そうだったんですね」

 

よし。

 

いける。

 

流れはまだ、こちらにある。

 

「昔ここで、ジェントル・クリミナルと出会ってね。悩んでいる彼に、勝手にアドバイスをしたことがあるんだ」

 

「そんなことがあったんですか! こんなところで出会うなんて、すごいですね」

 

「まあ、あの時の僕はネットに疎くてね。彼のことを一切知らなかったんだよ」

 

「そうなんですね……あれ? たしかジェントルって、昔は今より迷惑系ヴィランだったって聞きましたけど」

 

「うん。ちょうどその頃だね、彼と出会ったのは。その時は──動画の方向性について、相談されたよ」

 

話の食いつきは上々だ。このまま、ぶっちぎる。

 

「すごいな……それで、なんて返したんですか? もしかして先輩の案が採用されたりなんて」

 

興味津々、といった様子だ。

 

──中学の頃にこの話を自慢しなくてよかった。

 

「その時はね、他の人の動画も見たことがなかったから……僕は、彼の“声”そのものについて指摘したよ」

 

「声、ですか?」

 

「うん。彼の声はすごく魅力的だったから、それを活かしたらどうかってね」

 

今思い返しても、あれは驚きだった。

 

この世界で、あの声を聴くなんて思っていなかったから。

 

「もしやるなら、こんな感じの声がいいとか、こういう方向もありだとか……素人なりに、いろいろ言ったよ」

 

「そうなんですね……」

 

心操君は頷きながら、何かを考えているようだった。

 

商談が終わった後のように、一息つく。

 

「先輩は、ジェントルの声が好きだったんですね」

 

「え?」

 

その言葉に、思考が止まる。

 

──好き?

 

僕が?

 

なにもないはずの、僕が?

 

「……その、どうしてそう思うんだい?」

 

「いや……だって、初めて聞く人の声で、そこまで的確に演技のアドバイスができるなんて、よっぽど好きなのかなって。……すいません、俺、変なこと言って」

 

「……全然、変とかじゃ」

 

言葉が、上滑りする。

 

その場に、取り残されたみたいに。

 

なんで。

 

好きなものがないはずの僕を、彼はそう言えるんだ。

 

 

 

『俺は君だよ。なにもないのが、俺なんだよ』

 

 

 

夢の中の言葉が、頭の奥でこだまする。

 

そうだ。

 

僕には、なにもないはずなんだ。

 

それなのに──ジェントルの声に。

 

いや、違う。

 

そうじゃない。

 

「……加持さん……」

 

気づけば、言葉が漏れていた。

 

誰にも言ったことのない名前。

 

その響きだけが、空気の中に残る。

 

心操君は、誰のことなのか分からない、といった顔でこちらを見ていた。

 

「っ……ごめん、そろそろ僕、行かなきゃいけないんだ」

 

慌ててスマホを取り出し、わざとらしく時間を確認する。

 

──今は、とにかくこの場から離れたかった。

 

「すいません! せっかくの休みなのに、呼び止めちゃって」

 

申し訳なさそうに、彼が頭を下げる。

 

……違う。

 

悪いのは、僕だ。

 

「気にしなくていいよ。それじゃ、また今度」

 

それだけ言って、踵を返す。

 

逃げるように、公園を後にした。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

「僕は……俺は……」

 

あの後、どうやって帰ってきたのかは覚えていない。気が付けば、本能的に孤児院へと戻ってきていた。

僕が出ていったあと使われていなかった部屋を、今日は使っていい──そんなことを言われた気がする。

そして今、閉めた扉の前で、ただ頭を抱えていた。

 

夢の中で聞いたあの言葉が、何度も反射する。

だが、それを否定するように、心操君の言葉が立ちはだかる。

 

「……くそっ」

 

小さく悪態をつく。

震える体をなんとか動かし、ベッドへと近づく。普段から手入れされているのだろう、シーツは清潔で、無機質なほど整っていた。

その上に、力なく腰を下ろす。

 

頭を抱えながら、どうしてこうなったのかを考える。

 

──いつからだろう。

 

こんなにも、自分を外に出さなくなったのは。

自分の足跡を辿るように、意識を過去へと向ける。

 

顔を上げ、もう一度、部屋を見渡す。

雄英に行くまで使っていた、自分の部屋。

そこにあるのは、今の自分が使っている部屋と同じ──生活感のない、無機質な空間だった。

 

自分のものと呼べるものが、ほとんどない。

 

──何もない部屋。

 

まただ。

なんなんだ、この空虚さは。

まるで、鏡で自分を見ているみたいで、嫌になる。

 

「……寝るか」

 

ぽつりと呟く。

どっと疲れが押し寄せていた。言いようのない倦怠感が、全身を覆っている。

 

だが──今、眠ったところで見る夢は決まっている。

 

意識を閉じた先に待っているのは、現実と変わらない……いや、それ以上に現実的な世界だ。

 

それでも。

 

今このまま起きているよりは、ましだろう。

そう自分に言い聞かせるようにして、ベッドに横になる。

 

そして──意識を、静かに闇の中へと落としていった。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

蝉の鳴き声──最初に感じたのは、それだった。

 

今までも何度か聞いてきたはずの音なのに、今この瞬間はどこか違って聞こえる。やけに耳に残るその音を頼りに、意識がゆっくりと浮上していく。

 

視界を埋め尽くすのは、どこまでも広がる夕焼けだった。

 

……ああ、またこの夢か。

 

そう思いながらも、どこかで期待している自分がいる。いつもと違う形で目覚めたことに、ほんのわずかな違和感があったからだ。

 

地平線へと視線を向ける。目の前に広がる湖に、ただ意識を預ける。

 

そのとき。

 

ふと、一筋の風が体を通り抜けた。

 

「……ちょっと、寒いな」

 

思わず、言葉が漏れる。

 

暗くなる前だからか、肌に触れる空気の冷たさをやけに強く感じる。意味もなく腕をさすり、体温を確かめるように指先を動かす。

 

──その感触に、思考が止まった。

 

「……え?」

 

指先に伝わるのは、柔らかい感触。

 

必要以上に、それに驚いていた。

 

両手を顔の前へと持ち上げる。そこにある手は、わずかに震えている。寒さのせいじゃない。

 

──普通の、人間の腕があった。

 

「どうして……いつもだったら……」

 

確かめるように、体のあちこちに触れる。

手に伝わるのは、生前感じていたはずの感覚。肌触りのいい服。年相応の腕の柔らかさ。ここ十数年、触れることのなかった髪の感触。

 

震える手で、ゆっくりと顔に触れる。

 

──そこにあったのは。

 

「……これは、仮面?」

 

顔をすっぽりと覆い隠すように、肌に張り付いた何か。

外そうとしても、指は滑るだけで、まるで最初からそこにあるもののように離れない。

 

「一体、どうして……」

 

その問いに答えるものはいない。ただ、蝉の鳴き声と水音だけが、この場を満たしていた。

訳がわからない。それでも、それ以上何かをしようという気力も起きず、動きを止める。

 

目の前に広がる夕焼けを見つめながら、ただ考える。

 

自分のことを。自分という存在を。

 

どうして、こうなってしまったのか。前までは、こんなじゃなかったはずだ。

 

(仮面のあの子は言った。なにもないのが、俺だと。それに俺は……何も言えなかった。あったはずなんだ、確かに)

 

なぜだろう。

 

自分を出すことができない。

 

俺は最初から、こうだったのか。

 

同じ問いが、何度も頭の中を巡る。

 

(今さら自分らしさを出せって、どういうことだよ。今さら……なんで今さらそんなことを。自分を出すなんて、そんな勇気はない。どんな風にすればいいのかも、わからない。こういうとき、誰を頼ればいいんだ)

 

答えは出ない。

 

考えれば考えるほど、思考は深く沈んでいく。まるで、抜け出せない渦に呑み込まれていくように。

 

──そのとき。

 

「フンフンフンフンフンフンフンフン、フンフンフンフンフーンフフン」

 

不意に、自然の音ではないものが耳に入った。

 

この場には似つかわしくないはずなのに、なぜかそれは妙に心地よくて、どこか安心してしまう。

 

ゆっくりと、視線を移す。

 

そこに──少年がいた。

 

湖の中に沈んだ瓦礫の上に座り、夕焼けを眺めている。

 

白く、灰のような髪。

 

見覚えがある。

 

初めて見る存在じゃない。

 

──自分にとって、唯一弱みを見せられる存在。

 

タブリス。

 

そう呼ぶ、唯一無二の相棒。

 

……なのに。

 

どうしてだろう。

 

今、目の前にいるあいつが。

 

さっき思い浮かべた“あいつ”と、同じ存在だと──どうしても思えなかった。

 

「歌はいいねぇ」

 

「え?」

 

聞こえたのは、あまりにも馴染みのある言葉だった。

 

自分にとって、何度も耳にしてきた台詞。

 

それを口にする存在を、俺は知っている。

 

渚カヲル。

 

だが。

 

タブリスが、俺の前でそれを言うはずがない。

 

なら、なぜ。

 

どうして、目の前の“彼”はそれを口にする。

 

「歌は心を潤してくれる。リリンが生み出した文化の極みだよ。そう感じないか? 新世フクイン君」

 

ゆっくりと振り返り、赤い瞳でこちらを見つめる。

 

その表情を見た瞬間、体が固まる。

 

──ありえない。

 

なぜ、その顔で俺を見る。

 

それじゃあ、まるで──

 

「俺の……名を?」

 

確かめるように、言葉を返す。

 

何を言えばいいのかは、なぜか分かっていた。

 

生前、何度も巻き戻して見た記憶。

 

あのシーン。

 

あのやり取り。

 

それをなぞるように、口が動く。

 

「知らないものはないさ。失礼だが、君は自分の立場を、もう少し知った方がいいと思うよ」

 

「そう……なのか? あの、君は……?」

 

─言うのか。

 

この場所で。

 

俺の前で、その名前を。

 

「僕はカヲル。渚カヲル。君と同じ存在……フィフスチルドレンさ」

 

「っ……! どうして、渚カヲルがここに……」

 

自分の口から出ているはずの声が、どこか遠くに感じる。

 

目の前の声は、違う。

 

真似じゃない。

 

──本物だと、そう感じてしまう。

 

「それは君が望んだからだ。君自身の、心の深い場所が、僕を呼んだんだよ」

 

「俺が……望んだ? 君を……その、渚君を?」

 

「カヲルでいいよ、新世君」

 

静かに、距離を詰めるような言葉。

 

不思議だった。

 

謎は深まっているはずなのに、拒絶するどころか、むしろ沈んでいくような感覚がある。

 

疑問を投げかけたいのに、心は逆に近づこうとしていた。

 

「……俺も、フクインでいいよ」

 

気づけば、そう答えていた。

 

自然と、言葉が零れていた。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

暗い車内。

 

揺れる影の中で、二人の男女が向かい合っていた。

 

「フィフスチルドレンが、今到着したそうです」

 

淡々と報告するのは、眼鏡をかけた青年──日向マコト。

 

その言葉を受け、助手席に座る葛城ミサトはわずかに眉をひそめる。

 

「渚カヲル……過去の経歴は抹消済み。レイと同じく、ね」

 

短く呟きながらも、その視線は鋭い。

 

「ただ、生年月日は新世フクインと同一日です」

 

続けられた情報に、ミサトの表情がわずかに変わる。

 

「……彼が直接出てきたということは、ただ事じゃないわ。必ず、何かある」

 

確信に近い言葉だった。

 

「マルドゥックの報告書も、今後の流れは非公開となっています。それもあって……少し、諜報部のデータに割り込みました」

 

「危ないことするわねぇ!」

 

思わず声を上げるミサト。

 

今の状況で不用意な行動を取れば、最悪、存在そのものが危うくなる。

 

だが──

 

そんな反応をよそに、マコトはどこか楽しげに笑みを浮かべていた。

 

「その甲斐はありましたよ。誰がバックにいるのかわかりました」

 

途中から声を落とし、外部に漏れないようにする。

 

ミサトは一瞬だけ目を細めるが、すぐにいつもの表情に戻る。

 

「……そう」

 

短く頷く。

 

「フィフスのシンクロテスト、どうします?」

 

マコトは自然に話題を切り替えた。

ミサトは少しだけ考え、そして答える。

 

「今日のところは、小細工はやめましょう。素直に彼のシナリオ……見せてもらうわ」

 

その一言で、会話は終わった。

再び、車内に沈黙が落ちる。

 

暗闇の中、車は静かに運ばれていく。

 

──ここは、フクインの夢の中。

 

それなのに、なぜ彼以外の存在が、意思を持って会話しているのか。

その意味を、フクインはまだ知らない。

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

夢から覚めるように、意識がゆっくりと浮上する。

 

仮面の奥で瞬きをし、周囲を確かめる。

 

──さっきまでの湖じゃない。

 

目に映るのは、無機質な通路。壁には「GATE12」といった番号が並び、どこか見覚えのある景色が広がっている。

 

どうやら、廊下の脇にあるベンチに座っているらしい。

 

「……これは」

 

ふと、違和感に気づく。

 

耳に、音が流れている。

 

──いや、耳に入れたイヤホンからだ。

 

クラシックの旋律。

 

イヤホン越しの音が、外界を遮断するように、静かに耳を満たしていた。

 

その感覚に、ふと懐かしさが込み上げる。

 

嫌なことがあったとき。何かに集中したいとき。生前は、こんな風に音楽に身を委ねていた気がする。

 

「そう……か。俺は、こんなことも忘れて……」

 

言葉が、途中で途切れる。

 

その瞬間──

 

目の前のゲートが、重い機械音とともに開いた。

 

ゆっくりと、その向こうから現れる影。

 

渚カヲル。

 

「やぁ。僕を待っていてくれたのかい?」

 

「いや、別に……そういうわけじゃ……」

 

イヤホンを外しながら答える。

 

気が付いたらここにいた、なんて言えるはずもなく、言葉が曖昧になる。

 

「今日は?」

 

「え?」

 

唐突な問いに、思考が止まる。

 

“今日は何をするのか”。

 

そんな当たり前の質問なのに、答えが出てこない。

 

ここは夢だ。

 

その自覚があるからこそ、なおさら言葉に詰まる。

 

沈黙が、妙に居心地の悪さを生む。

 

何か、答えなければいけない気がする。

 

そのヒントを求めるように、カヲルの顔を見る。

 

「……?」

 

彼はただ、微笑んでいた。

 

優しく、逃げ場を塞ぐような笑みで。

 

──答えろ、と言われている気がした。

 

「あの……定時試験も終わったし、後はシャワーを浴びて帰るだけだけど……でも、本当はあまり帰りたくないんだ。あの部屋に」

 

気づけば、口が勝手に動いていた。

 

覚えているセリフをなぞるように。

 

けれど──

 

頭に浮かぶのは、自分の部屋だった。

 

何もない、無機質な空間。

 

言葉を口にするたびに、その光景が鮮明になる。

 

(……シンジ君も、同じだったのかな)

 

ふと、そんな考えが浮かぶ。

 

彼の言葉を借りながら、気づけば自分の気持ちと重なっていた。

 

「帰る家……ホームがあるという事実は、幸せにつながる。良いことだよ」

 

「そうかなぁ……」

 

返答に、少し詰まる。

 

彼の言っていることは、わかる。帰る場所があるだけ、まだましだ。世の中には、それすらない人だっている。

 

それでも──素直に頷けない自分がいた。

 

「僕は、君ともっと話がしたいな。いっしょに行っていいかい?」

 

考えかけていた思考を、遮るように言葉が落ちる。

 

「え?」

 

思わず、間の抜けた声が出た。

 

言っている意味が、すぐには理解できない。

 

「シャワーだよ。これからなんだろ?」

 

「……そうだけど」

 

言葉が、少し遅れて出てくる。

 

頭が追いつかない。

 

彼の提案していることに、感覚が追いつかない。

 

「だめなのかい?」

 

あまりにもまっすぐな問い。

 

余計な意味を含まない、ただの確認。

 

「いや、別に……そういうわけじゃないけど……」

 

言いながら、考える。

 

彼と一緒に風呂に入る。

 

ただ、それだけのことなのに──なぜか、やけに意識してしまう。

 

どこか、落ち着かない。

 

妙に、恥ずかしい。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

「ふぅ……気持ちいいな」

 

温かい湯の中に、肩まで身体を沈める。

 

あのあとどうしたのかは覚えていない。気が付けば、ここにいた。

 

けれど──そんなことはどうでもよくなるほどの感覚が、全身を満たしていた。

 

じんわりと広がる熱。

 

力が抜けていく。

 

ただ、それだけでいいと思えてしまう。

 

「ずいぶん気持ちよさそうだね。君は……好きなのかい? お風呂に入るのが」

 

隣にいるカヲルが、穏やかな眼差しで問いかけてくる。

 

「あ、いや,その……」

 

気の抜けたところを見られて、思わず言葉を濁す。

 

逃げたくなる。

 

けれど──ふと、思い出す。

 

ここが夢の中であること。

 

(……夢の中だし、嘘つかなくてもいいか)

 

そう思った瞬間、肩に入っていた力が抜けた気がした。

 

構えているのが、少しだけ馬鹿らしくなる。

 

──せっかくなら。

 

ここでは、偽らなくていい。

 

「ほら、俺って普段エヴァの姿だろ。だから、いつもは風呂に入らないで、シャワーが多いんだ」

 

手のひらで湯をすくい、顔へと落とす。

 

仮面越しで直接触れているわけじゃないのに、その温かさは確かに伝わってくる。

 

「そうなのかい? でも、シャワーは浴びているんだろう?」

 

「シャワーって言っても、洗車みたいなもんだよ。装甲の表面の汚れを落とすだけだから、ほとんど作業って感じ」

 

身体をさらに沈めながら、天井を見上げる。

 

湯気がゆっくりと視界を曇らせる。

 

「だからさ……こうやって、体で直接感じるのが、なんか久々でさ。風呂って、こんなに気持ちよかったんだって思って」

 

言葉にしながら、その感覚を噛みしめる。

 

温かい。

 

ただ、それだけなのに。

 

こんなにも、満たされる。

 

「そうか……思い出してくれて、僕は嬉しいよ」

 

カヲルが、静かに言う。

 

その声は、どこか優しくて、逃げ場がない。

 

「……そうだ。君のことを、聞かせてよ」

 

「俺のこと? っていってもな……何を話せばいいのか」

 

「そうか。じゃあ、僕から質問してもいいかい?」

 

「あー、それならいけるか。じゃあどうぞ、どんとこいだ」

 

そう返すと、カヲルは少しだけ考えるように視線を落とす。

 

「じゃあ……君の好きなものはどう?」

 

その言葉に、一瞬だけ身体が強張る。

 

──好きなもの。

 

ここ数日、頭から離れなかった言葉。

 

「……」

 

うまく、言葉が出てこない。

 

沈黙を埋めるように、カヲルが少しだけ首を傾ける。

 

「そうだね……エヴァだと、どれが好き?」

 

答えられないでいる俺を見て、質問を変えてくれた。

 

その優しさに、少しだけ救われる。

 

「好きなエヴァか……それなら、言えそうだ」

 

頭の中に、いくつもの機体が浮かぶ。

 

その中で、自然と一つの姿が強く残った。

 

「そうだな……俺は、やっぱり参号機かな」

 

黒い機体。

 

どこか異質で、敵のような雰囲気をまとったあの姿。

 

「へぇ。君のことだから、初号機だと思っていたよ」

 

カヲルが、少しだけ意外そうに言う。

 

確かに、普通ならそうなのかもしれない。

 

主人公機。

 

象徴的な存在。

 

けれど──

 

「子供の頃さ、ビデオで見たときに……あの、いかにも“敵っぽい”デザインが、すごくかっこよくてさ。特に黒い色ってのもあって、なんか惹かれたんだよ」

 

言葉にしながら、そのときの感覚を思い出す。

 

理由なんて、後付けでしかない。

 

ただ、好きだった。

 

「君は、そう考えるんだね」

 

「うん。それに……味方が敵に操られて、敵になってしまうっていうのも、なんか好きでさ」

 

少しだけ、笑う。

 

懐かしさが、混じる。

 

「それのおかげで、ゲームだと隠しユニットとして使えたりするのも、結構好きだったな」

 

「もっと聞きたいな。話だと、何話が好きなんだい?」

 

何がそんなに嬉しいのかは分からないが、カヲルは笑みを浮かべたまま、さらに問いを重ねてくる。

 

……難しいことを聞いてくる。

 

正直、どの話も甲乙つけがたい。

 

「んー……難しいな。『奇跡の価値は』もいいし、『レイ、心のむこうに』も捨てがたいし……」

 

思わず悩む。

 

こんなことで迷うなんて、いつぶりだろう。

 

そんな俺を見ても、カヲルはただ静かに見つめている。

 

ふと、目が合った。

 

濡れた髪。湯気の向こうに揺れる輪郭。何もまとわないその姿が、どこか現実離れした光景に見える。

 

それでも、不思議と目を逸らせなかった。

 

「俺は……やっぱり『最後のシ者』だな」

 

一度言葉にしてから、確信が追いつく。

 

「……うん。これ以外、思いつかない」

 

「どうして、そう思うんだい?」

 

「ん? ……少し不謹慎だったか? 本人の前で言うのも、変な感じだけど……」

 

軽く苦笑しながら、目を閉じる。

 

記憶を辿る。

 

あの分厚いテレビで、初めて見たときのことを。

 

たしか、幼稚園の頃だったか。

 

「最初はさ、正直、何も分かってなかった。アスカは変になってるし、レイは自爆するし、シンジ君はずっと塞ぎ込んでるし……」

 

断片的な印象だけが、頭に残っていた。

 

「出てきてすぐ死んじゃうカヲル君のことも、全然理解できなかった。それどころか、初号機が握り潰すシーンで……ビデオが壊れたんじゃないかって、本気でパニックになってたよ」

 

「確かに、あれは驚くよね。色々と、唐突でもある」

 

カヲルが、穏やかに相槌を打つ。

 

その声音が、記憶と現実を曖昧にしていく。

 

「でも……歳をとってから見返すと、全然違って見えたんだ」

 

言葉が、自然と続く。

 

「人と関わるのが苦手なシンジ君が、君と出会って……まるで運命みたいに心を開いていく。でも、その直後に──整理もつかないまま、殺さなきゃいけなくなる」

 

胸の奥が、わずかにざわつく。

 

「見ているこっちの心まで揺さぶられる、あの短い時間。全部が計算されてるみたいで……気づいたら、引き込まれてた」

 

思い出すほどに、鮮明になる。

 

何度も繰り返し見て、好きになっていった。

 

「だからなのかもしれない」

 

湯船の水面を見つめながら、小さく呟く。

 

「俺が、君の声を借りてるのは」

 

カヲルは驚くことも否定することもなく、ただ穏やかに微笑んだ。

 

「ありがとう。それが君の好意なんだね」

 

「……好意?」

 

聞き返すと、彼は静かに頷く。

 

「好きってことさ」

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

暗い空間。

 

光すら届かない闇の中に、巨大な石碑──モノリスが等間隔に浮かんでいる。

姿は見えない。

 

そこにあるのは、響き渡る声だけだった。

 

「新世フクイン。我らSEELEの、新たな計画の要」

 

「そして、それは彼のためでもある」

 

「だが今は、自分自身さえ見失っている」

 

「ならば、思い出してもらう必要がある」

 

「約束の日の前に」

 

沈黙が流れる。

 

やがて、"01"と刻まれたモノリスから、重く低い声が響いた。

 

「彼と、エヴァシリーズを、本来の姿へ戻さねばならん。

 碇──我らのシナリオの責任は、取ってもらうぞ」

 

その言葉を最後に、闇は静寂へと沈んだ。

 

 

 

 

 

場面が変わる。

 

 

薄暗い格納庫。

 

紫色の巨人──エヴァ初号機が、拘束具に繋がれたまま静かに眠っている。

 

その前には、一人の男が立っていた。

 

碇ゲンドウ。

 

彼は初号機を見上げながら、そこに眠る最愛の人へ語りかけるように、静かに口を開く。

 

「彼に与えられた時間は少ない」

 

その声に感情はない。

 

だが、その奥底には確かな焦燥が滲んでいた。

 

「この状況が続けば、我々も、どうなるか分からん」

 

ゲンドウはゆっくりと右手を持ち上げる。

 

そこにあるのは、何の変哲もない、人間の手。

 

かつて存在したはずのものは、もうどこにもなかった。

 

「この状況を打破できる、ロンギヌスの槍は……まだない」

 

手を静かに握り締める。

 

再び、初号機へと視線を向けた。

 

「まもなく、最後の使徒が現れる」

 

その言葉は、宣告にも似ていた。

 

「それが消えれば……我らの存続も叶う」

 

静まり返った格納庫に、その声だけが長く響いていた。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

「やはり、僕が下で寝るよ」

 

暗い天井を見上げていると、上のベッドからカヲルの声が聞こえた。

 

「別にそこまでしなくても……。俺が無理を言って泊めてもらってるんだし」

 

そう返すと、それ以上言葉は続かなかった。

 

静寂だけが部屋を満たす。

照明は消えたまま。

暗闇の中、点いていない蛍光灯をぼんやりと見つめる。

 

どこか気まずい。

 

けど、不思議と嫌な沈黙じゃなかった。

 

「君は、何を話したいんだい?」

 

「……え?」

 

突然の言葉に、間の抜けた声が漏れる。

 

「僕に聞いてほしいことが、あるんだろう?」

 

その問いに、すぐ答えることはできなかった。

確かに、何か話したいことはある気がする。

 

この夢はいつ終わるんだ、とか。

どうしてこんなにも現実みたいな夢を見るんだ、とか。

 

そんな、一時しのぎの言葉はいくらでも浮かぶ。

たぶん、彼が聞きたいのはそんなことじゃない。

 

胸の奥に引っ掛かったままの何か。

ずっと飲み込んできたもの。

 

それを、言葉にしろと言っているんだ。

 

「……いろいろあったんだ。この世界で生まれてから」

 

気づけば、口が動いていた。

 

「前世のことは、もうほとんど覚えてない。どんな生活を送ってたのか、穏やかだったのか、それとも忙しかったのか……。覚えてるのは、エヴァのことくらいだ」

 

一度話し始めると、止まらなかった。

 

堰き止められていたものが決壊するように、言葉が溢れ出していく。

 

「でも、そこはあまり深く考えてないんだ。覚えていたからって、何かが変わるわけでもないし。……むしろ、よかったのかもしれない」

 

ふと、二つの顔が頭をよぎる。

 

俺をこの世に生み出したはずなのに、一度も会話を交わしたことのない人たち。

 

「変に覚えていたら、きっと比べてしまってた。この世界で出会った人たちを……向こうの人たちと」

 

小さく息を吐く。

 

暗闇の中では、それだけがやけに大きく聞こえた。

 

「ご両親のことかい?」

 

静かな声が返ってくる。

 

「二人のことが、嫌い?」

 

その問いは責めるものではなく、ただ真っすぐに、俺の心へ向けられていた。

 

「……正直に言って、何も感じないんだ」

 

言葉は、驚くほどあっさりと口から零れた。

 

「怒りも、悲しみもない。あの人たちのことを、俺は何も知らない。だから……それ以上の感情が湧いてこないんだ」

 

自分でも、少し驚いていた。

 

こんなふうに考えたことなんて、今まで一度もなかった気がする。

どうして今になって、こんな言葉が出てくるのだろう。

 

(どうしてカヲル君は……両親のことなんて聞いたんだ)

 

疑問を抱きながら、ゆっくりと彼へ視線を向ける。

 

「──!」

 

思わず、言葉を失う。

カヲルは、ずっとこちらを見ていた。

 

まるで、壊れ物を包み込むような。

傷ついた心を、そのまま受け止めようとするような。

 

そんな、静かな優しさを宿した瞳で。

 

「僕は、君のために生まれてきたんだ」

 

穏やかな声だった。

 

それは慰めでも、励ましでもない。

揺るぎない事実を告げるように。

 

まるで最初から、その答えだけを知っていたかのように。

静かに、そう言った。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

朝日が、ゆっくりと昇る。

静かな湖面には、朽ち果てた建物や倒れかかった電柱が沈み、その残骸だけが水面から顔を覗かせていた。

 

壊れた天使像。

 

その頭上に、渚カヲルは一人、静かに立っている。

昇り始めた朝日が、彼の白い髪を淡く照らしていた。

 

「ヒトは、無から何も作れない」

 

誰に語るでもなく、穏やかに言葉を紡ぐ。

 

「人は何かにすがらなければ、生きてはいけない。人は……神ではありませんから」

 

その瞬間。

 

何もない空間に、黒いモノリスが一つ、また一つと姿を現す。

静寂を破るように、幾重もの声が重なった。

 

「だが、神に等しき力を持つ少年が存在する」

 

「しかし、そのパンドラの箱は壊れかけている」

 

「そこに眠る希望が生まれる前に、その箱は閉じようとしている」

 

カヲルは静かに目を閉じ、小さく息を吐く。

 

「……希望?」

 

どこか皮肉を含んだ笑みが浮かぶ。

 

「あれが、彼の希望ですか?」

 

モノリスは答える。

 

「希望の形は、人の数ほど存在する」

 

「希望は、人の心の中にしか存在しない」

 

「だが──我らの希望は具象化されている」

 

一瞬、空気が重くなる。

 

「サルベージされ、新たな存在として生まれ変わった魂が存在する」

 

カヲルはゆっくりと目を開き、朝日に照らされる湖面を見つめる。

 

「……フクイン君」

 

静かに、その名を口にする。

 

「彼も、僕と同じか」

 

その問いに、肯定も否定も返らない。

 

ただ、モノリスの声だけが静かに響く。

 

「だからこそ、お前に託す」

 

「我らの願いを」

 

その言葉を最後に、浮かんでいたモノリスは一つ、また一つと闇へ溶けるように姿を消していった。

 

再び残されたのは、カヲルただ一人。

彼は静かに目を伏せ、小さく微笑む。

 

「分かっていますよ」

 

穏やかでありながら、その瞳には確かな意志が宿っていた。

 

「そのために、僕は今、ここにいるのですから」

 

朝日はさらに高く昇る。

その光は、壊れた天使像の上に立つ少年を、まるで祝福するように静かに照らしていた。

 

 

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 

薄暗いエヴァ格納庫。

拘束具に繋がれた白い機体の前に、渚カヲルは静かに立っていた。

 

その赤い瞳が、眠る巨人を見上げる。

 

「さあ、行くよ」

 

優しく語りかけるように。

 

「おいで。アダムの分身。そして、リリンの下僕」

 

その声が響いた瞬間だった。

 

ビーッ! ビーッ! ビーッ!

 

けたたましい警報音が、第一発令所に鳴り響く。

赤い警告灯が司令室を明滅し、張り詰めた空気をさらに緊迫させていく。

 

「エヴァ十一号機、起動!」

 

「そんな馬鹿な!」

 

オペレーターの叫びに、室内がざわめく。

 

「パイロットは!?」

 

モニターには無機質な文字だけが映し出される。

 

EVA-11 IN OPERATION

ENTRY PLUG NOT PRESENT

UNMANNED

 

「無人です! 十一号機にエントリープラグは挿入されていません!」

 

報告を聞いた瞬間、葛城ミサトは言葉を失う。

 

(誰もいない……? フィフスの少年じゃないの?)

 

予想していた展開とは違う。

その違和感が、胸の奥で警鐘を鳴らす。

だが、思考を巡らせる時間さえ与えられなかった。

 

「セントラルドグマに、A.T.フィールドの発生を確認!」

 

新たな報告が飛び込む。

日向マコトの声が、警報音に負けじと司令室へ響いた。

 

「十一号機?」

 

「いえ! パターン青! 間違いありません!使徒です!」

 

「何ですって!?」

 

驚きの声を上げながらも、ミサトの思考は止まらない。

 

(……ここまでは、元の流れとほとんど同じ)

 

脳裏に浮かぶのは、誰も知るはずのない記憶。

 

(このままじゃ……シンジ君と同じになる)

 

その瞬間。

 

点と点だった違和感が、一つに繋がる。

 

「……まさか、彼の狙いは──」

 

ミサトが小さく呟く。

 

 

 

 

 

 

『目標、第4層を通過! なおも降下中!』

 

『目標、第5層を通過!』

 

オペレーターたちの報告が矢継ぎ早に飛ぶ。

 

「セントラルドグマの全隔壁を緊急閉鎖!」

 

冬月が即座に指示を飛ばす。

 

「少しでもいい! 時間を稼げ!」

 

司令室が慌ただしく動き始める中、冬月は誰にも聞こえない声で、隣の碇ゲンドウへ囁いた。

 

「……まさか、SEELEが元の流れをなぞるとはな」

 

ゲンドウはモニターから目を離さない。

その表情は、微動だにしなかった。

 

「老人どもは、新世フクインの手で──すべてを終わらせるつもりだ」

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

エントリープラグの中。

 

L.C.L.に満たされたコックピットで、フクインは静かに正面のモニターを見つめていた。

 

不思議な感覚だった。今、自分の身に起きている出来事のはずなのに、どこかアニメを見ているような、現実味のない感覚が心を支配している。

 

脳裏には、何度も繰り返し見た『最後のシ者』の映像が鮮明に蘇る。幼い頃、ビデオを巻き戻しては見返した、あの場面。その記憶が、今まさに自分の目の前で現実として再生されていた。

 

あまりにも現実離れした光景に、彼の心は静かに揺れる。

 

(アニメ通りに進むんだったら……シンジ君が『嘘だッ!』って叫んでるんだけど)

 

そんな考えが自然と浮かぶ。

だが、その場所にいるのは碇シンジではない。

 

俺だ。

 

ならば、あの台詞はもう存在しない。

そう結論づけると、不思議なくらい冷静になれた。

 

『初号機、出撃。いいわね』

 

発令所から葛城ミサトの声が届く。

 

ここまで来た今となっては、反論する気にもなれなかった。

 

それどころか、何度も見続けてきた物語の中へ、自分自身が入り込んでいるという現実に、幸福感にも似た感情さえ抱いていた。

 

「……わかりました」

 

短く返答すると、拘束具が解放される。

ゆっくりと歩き出した紫色の巨人は、最後の使徒が待つセントラルドグマへ向け、その第一歩を踏み出した。

 

 

 

 

「遅いな、フクイン君」

 

天を見上げながら、渚カヲルは静かに呟く。ポケットに手を入れたまま、その背後では白い巨人エヴァ十一号機が音もなく降下を続けていた。

 

その時だった。

 

頭上から重い風圧が降り注ぐ。

カヲルが顔を上げると、紫色の巨人が一直線に降下してくる。

 

「待っていたよ、フクイン君」

 

「いた!」

 

同じくフクインも、カヲルの姿を捉えていた。

 

だが次の瞬間、彼の視線は驚愕へと変わる。

 

「どうして量産機が!? 弐号機はどこに!」

 

知っているはずの物語と、目の前の現実が食い違う。

 

その違和感に、一瞬だけ思考が止まる。

その隙を逃さず、十一号機が両腕を突き出した。

圧倒的な質量が初号機へ襲いかかる。

 

「くそっ!!」

 

答えは出ない。

 

だが、考えている暇もなかった。

 

フクインの意志に呼応するように初号機が動く。両腕で十一号機の腕を受け止め、そのまま力任せに押し返した。

 

「こんなところで訓練の成果が出るなんて!」

 

ヒーローになるため積み重ねてきた戦闘訓練のおかげか。それとも、操縦ではなく動きをそのまま反映するエヴァだからなのか。

 

初号機は辛うじて踏み止まる。

互いに腕へ力を込める。

 

しかし、押しても引いても均衡は崩れない。

 

純粋な出力は、ほぼ互角だった。

 

『フクイン君! プログナイフで応戦して!』

 

発令所から通信が飛ぶ。

怒涛の展開に飲まれ、エヴァの基本装備の存在すら頭から抜け落ちていた。

 

「だけど、これなら!」

 

左肩のウェポンラックが展開される。

飛び出したナイフを握り締める。

十一号機は丸腰だ。

 

あの両刃剣がない今なら、防ぐ術はない。

 

「ごめんよ!」

 

叫ぶと同時に、初号機はナイフを振り下ろした。

 

──ガキィンッ!

 

甲高い金属音が響く。

 

「なっ!?」

 

十一号機は頭部に深々と突き刺さっていたカッター型ナイフを自ら引き抜き、その刃で初号機の攻撃を受け止めていた。

 

「嘘だろ……!」

 

フクインは思わず息を呑む。

視線の先には、頭部から血を流しながらも微動だにしない白い巨人。

その額には、痛々しい傷跡が残っている。

 

(あの傷……)

 

脳裏に、一つの映像が蘇る。

 

(映画で弐号機につけられた傷だ……! たしか、カッターナイフの先端が頭に刺さったままだった……!)

 

理解した瞬間、フクインの背筋を冷たいものが走った。

 

「エヴァ量産機。フクイン君の願いによって、予定より早く誕生した存在」

 

激しくぶつかり合う二機を見つめながら、カヲルは静かに口を開く。

 

「君の日常の象徴でもあり、戦いとは切り離されていたもの。それが今、君の前に敵として立っている」

 

「カヲル君! やめてよ!」

 

初号機が量産機を押し返しながら叫ぶ。

 

「何を言ってるのか、訳が分からないよ!」

 

「思い出してほしい」

 

カヲルの声は変わらず穏やかだった。

 

「君が一番、穏やかだった頃を」

 

「……!」

 

「そうすれば分かるはずだ。君が今、不安定な理由も。君自身の旋律が、どこで狂ってしまったのかも」

 

答えを示すことなく、真実だけを包み隠すような言葉。

あまりにも曖昧で、それでいて胸の奥へ真っ直ぐ届く声だった。

この状況でそんなことを言われても、余計に混乱するだけだった。

 

その一瞬の迷いが、動きへと現れる。

 

量産機を受け止めていたナイフが僅かに逸れ、その切っ先がカヲルへと向いた。

 

しかし。

 

──キィィン。

 

透明な壁が、静かに刃を受け止める。

 

「A.T.フィールド……!?」

 

「そう」

 

カヲルは静かに頷く。

 

「本来、この世界で君だけが持つ聖なる領域」

 

赤い瞳が、真っ直ぐフクインを見つめる。

 

「けれど、その強さは心の強さで決まる。……君なら、もう分かっているだろう?」

 

静かな問い掛け。

 

「君のフィールドが弱まっているのは、君の心が無意識のうちに、一人であることを恐れているからだ」

 

「何を言って──ッ!」

 

言葉を返すより早く、量産機のナイフが初号機の胸部へ深々と突き刺さった。

 

「ぐぁぁっ!!」

 

鋭い衝撃が全身を貫く。

 

だが、ここで倒れる訳にはいかない。

 

初号機は右手に握ったプログレッシブナイフを、渾身の力で量産機の首筋へと突き立てる。

 

「うおぉぉぉぉぉッ!!」

 

火花を散らしながら、二体の巨人は互いを押し合う。

刃と刃がぶつかり、装甲が軋み、セントラルドグマ全体へ激しい衝撃が響き渡る。

その戦いを見つめながら、カヲルは小さく目を伏せた。

 

「……これも宿命か」

 

誰にも届かないほど静かな声で呟く。

 

「フクイン君──これは、君自身が決めなければならないことなんだ」

 

その言葉と同時に、カヲルは静かに目を閉じた。

 

次の瞬間、圧倒的なA.T.フィールドが解き放たれる。

目には見えない衝撃がシャフト全体を貫き、セントラルドグマを激しく震わせた。

 

「どういうこと!?」

 

突然の事態に、第一発令所が騒然となる。

 

「これまでにない強力なA.T.フィールドです!」

 

日向マコトがモニターを見つめながら叫ぶ。

 

「光波、電磁波、粒子も遮断されています! 何もモニターできません!」

 

青葉シゲルの報告が重なる。

 

「……まさに結界か」

 

ミサトは苦々しく呟く。

 

「目標およびエヴァ十一号機、初号機ともにロスト! パイロットとの連絡も取れません!」

 

伊吹マヤの声が司令室へ響く。

すべての観測が遮断された。

 

誰も、その内側で何が起きているのかを見ることはできない。

結界の中では、初号機と量産機が組み合ったまま、重力に引かれるようにシャフトを降下し続けていた。

 

やがて二機は、ターミナルドグマへと到達する。

 

「くぅぅぅっ! カヲル君は!?」

 

背中から叩きつけられるように着地した衝撃で、一瞬だけ視界が揺れる。

その隙に、カヲルの姿を見失ってしまう。

視線を巡らせると、制服姿の少年が、空中を滑るように奥へ進んでいくのが見えた。

 

「待って!」

 

初号機が立ち上がり、追おうとする。

 

「ぐっ!」

 

しかし、その足首を何かが強く掴んだ。

 

量産機だった。

 

頭部から血を流しながらも、不気味に口元を歪め、まるで獲物を逃がすまいとするように初号機へしがみついている。

 

その間にも、カヲルは迷うことなく進み続ける。

目の前の隔壁へ手をかざすと、電子音とともにロックが解除されていく。

 

「最終安全装置、解除!」

 

「ヘヴンズドアが、開いていきます……!」

 

司令室では、驚きの声が上がる。

 

 

 

 

「うおぉぉぉぉぉっ!」

 

フクインは雄叫びを上げ、量産機の攻撃を紙一重でかわす。

 

突き出されたナイフを身を捻って避けると、右手から左手へ持ち替えたプログナイフを、そのまま量産機の右手首へ突き立てた。

 

刃が装甲を貫き、火花が散る。

 

さらに初号機は量産機の頭部を掴み、指先を頭頂部に残る傷跡へ滑り込ませ、そのまま強引に押さえつけた。

身動きを封じられた量産機が低く唸る。

 

「な、何だ!?」

 

その瞬間だった。

 

空間そのものが軋むような衝撃が、ターミナルドグマ全体を震わせる。

 

見たこともない力。

聞いたこともない音。

 

理解の及ばない現象を前に、フクインは思わず驚愕の声を漏らした。

 

「状況は!?」

 

第一発令所に響くミサトの声。

 

「ターミナルドグマの結界周辺に、先ほどと同等のA.T.フィールドを確認!」

 

日向マコトが素早くモニターへ視線を走らせる。

 

「これは……!」

 

伊吹マヤが息を呑む。

 

「外部からの侵入です!」

 

「まさか……新たな使徒!?」

 

モニターへ無機質な文字が映し出される。

 

16th ANGEL

 

その表示を見た瞬間、ミサトの瞳が大きく見開かれた。

 

「まさか……彼女が!?」

 

その声には驚きだけではない、確信が混じっていた。

 

「このタイミングで現れるなんて……偶然じゃないわね」

 

結界の外。

 

A.T.フィールドの発生源には、一人の少女が静かに立っていた。

 

ファーストチルドレンと瓜二つの姿。

 

少女は、ただ黙って眼前の出来事を見つめている。

 

何も語らない。

何も動かない。

 

ただ、その赤い瞳だけが、すべてを見届けるように静かに開かれていた。

 

その視線の先。

カヲルはついに目的の場所へと辿り着く。

 

巨大な十字架。

 

そこに両腕を磔にされ、白い巨人が静かに眠っている。

その顔には、一枚の仮面が被せられていた。

カヲルはゆっくりと宙へ浮かび、その姿を見上げる。

 

「リリス……」

 

穏やかな声が、静寂へ溶けていく。

 

「リリンたちの母たる存在」

 

一度だけ目を閉じる。

 

「今から君の目の前で起こることには、どうか干渉しないでほしい」

 

返事はない。

 

リリスは身じろぎ一つせず、ただそこに在り続ける。

まるで、この結末を最初から知っているかのように。

カヲルは静かに微笑んだ。

 

「さあ──始めよう」

 

赤い瞳が真っ直ぐ前を見据える。

 

「僕と、彼だけの計画を」

 

その言葉が響いた直後だった。

 

隔壁が吹き飛び、巨大な鋼鉄の扉が粉塵を巻き上げながら崩れ落ちる。

 

その向こうから、一体の白い巨人が勢いよく投げ飛ばされた。

 

エヴァ十一号機。

 

力なく地面を転がり、激しく火花を散らす。

 

そのあとを追うように、紫色の巨人がゆっくりと姿を現した。

 

胸部装甲からは赤い血が流れ落ち、肩で荒く息をする初号機。

それでも、その視線だけは揺るがない。

 

真っ直ぐに。

 

目の前に立つ、渚カヲルだけを見据えていた。

 

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 

胸に鋭い痛みが走る。

 

こんな痛みを感じたのは、いつ以来だろう。

 

けれど、今ここで立ち止まるわけにはいかない。

 

「どいてくれ!」

 

自分を奮い立たせるように叫び、操縦桿を強く握り締める。

初号機は押さえ込んだ量産機を押し込むように全力で駆け出した。そのまま勢いを殺さず壁へ叩きつける。

 

轟音が響く。

 

白い巨体が瓦礫の中へと沈んでいく。

 

「はぁ……はぁ……どうにか……」

 

荒く息を吐きながら顔を上げる。

視界に映るのは、第二使徒リリス。

 

その眼前に静かに浮かぶ渚カヲルの姿だった。

 

初号機が一歩踏み出す。

 

ゆっくりと右手を伸ばし、彼の身体を包み込むように掴み上げる。

 

「手強かったようだね」

 

首から下を巨大な手で握られているというのに、カヲルは穏やかな笑みを崩しない。

 

「それも当然さ。量産機は、君の穏やかな時間を守る壁でもある。だからこそ、彼は激しく抵抗した」

 

「カヲル君……どうして……」

 

掠れた声が漏れる。

 

すると彼は、静かにこちらを見つめ返した。

 

「もう気付いているんじゃないかい?それとも、気付かないふりをしているのかな」

 

こちらへ、優しく問い掛ける。

その赤い瞳が、まっすぐ俺を射抜く。

 

「今、君がここにいるのは──君自身を見失ってしまったからだよ」

 

「一体……何を言って……」

 

「最近、ずっと考えていたんだろう?」

 

カヲルの声が、静かに響く。

 

「自分の好きなものは何なのかって。そして君は、それを答えられなかった」

 

「……」

 

言い返せなかった。

 

その言葉は、ずっと胸の奥に引っ掛かっていたもの、そのものだった。

 

「覚えているかい? お風呂でのことを」

 

「風呂でのこと……?」

 

そこで、はっとする。

 

「あ……」

 

脳裏に浮かぶのは、久しぶりに湯船へ浸かったときの温もり。

肩まで沈めた、あの心地よさ。

カヲルと交わした何気ない会話。

 

──エヴァの話。

 

「そうだ……あの時、俺は……」

 

「そう」

 

カヲルは静かに頷く。

 

「あの時の君は、ごく自然に話していた」

 

優しい声が、背中を押す。

 

「エヴァ参号機が好きだと。『最後のシ者』が好きだと」

 

その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなる。

 

確かに、あの時は何も考えていなかった。

眠る前まで、自分を苦しめていた悩みが嘘だったみたいに。

ただ、好きだから好きだと。

 

自然に、言葉が溢れていた。

 

──なのに。

 

どうして現実の俺は、それすら口にできなかったんだろう。

 

「それは、君が自分の想いを封じ込め、心の奥へしまい込んでしまったからだよ」

 

「……それは、どういう」

 

思わず聞き返す。

カヲルは変わらぬ笑みを浮かべたまま、静かに言葉を続ける。

 

「中学校の頃の君は、放送という形ではあったけれど、エヴァの話を間接的に周りへ届けていたね」

 

その一言で、忘れかけていた記憶が浮かび上がる。

 

放送室。

 

マイク。

 

自分だけが知る物語を、ほんの少しだけ誰かへ届けていた日々。

 

「でも、雄英へ入学してからは、それをしなくなってしまった」

 

「……」

 

「理由は分かるよ。『新世紀エヴァンゲリオン』は、この世界には存在しない。君だけが知る物語だからだ」

 

その通りだった。

誰にも伝わらない。

話しても理解されない。

 

そう思ったからこそ、自分から話すことをやめた。

 

「だから君は、自ら口を閉ざした。でも、それは逆効果だった」

 

カヲルの言葉は、静かに胸へと染み込んでいく。

 

「雄英という、前世では決して経験することのなかった規格外の日常。、留年という予想もしなかった始まり」

 

思い返せば、あの日からだった。

歯車が、少しずつ噛み合わなくなっていったのは。

 

「渡我被身子と同じクラスにはなれた。でも、他の同級生たちとは違い、新しい出会いは少なかった。周囲からは留年生という奇異の目を向けられる」

 

慣れている。

 

そう、自分では思っていた。

 

だけど。

 

「ヒーローを目指す者たちからさえ、そんな目で見られることは、君の心に少しずつ傷を残していった」

 

否定できなかった。

 

痛くないふりをしていただけだった。

 

「そんな中で君は、ただ単位を取るためだけに身体を動かし続けた」

 

カヲルは穏やかな声で続ける。

 

「渚カヲルという人格で自分を覆い隠し、本当の自分を、心のずっと奥へ沈めながら」

 

胸が締め付けられる。

 

それは誰にも言われたことのない、自分でも気付かないようにしていた事実だった。

 

「以前の君は違った」

 

カヲルは微笑む。

 

「放送という形で、間接的にでもエヴァの話をしていた。それは、君自身も気付かないうちに、『好き』を周りへ伝えていたということなんだ」

 

その言葉に、俺は何も返すことができなかった。

 

「だからこそ、先生は君に言ったんだ」

 

カヲルは穏やかに微笑む。

 

「『もう少し、自分を出してみろ』ってね」

 

言いたいことは分かる。

 

でも、それじゃ駄目なんだ。

 

それじゃ、うまくいかない。

 

「……それは、できない」

 

「どうしてだい?」

 

「だって……」

 

言葉が詰まる。

 

それでも、止まらなかった。

 

「君じゃないと嫌われる。俺は……渚カヲルだから、ここまでやってこられたんだ」

 

そうだ。

 

渚カヲル。

 

たった一話しか登場しないにもかかわらず、その存在だけで数え切れないほどの人の心を掴んだ人物。

 

あの不思議な距離感。

あの優しさ。

あの雰囲気。

 

だからこそ。

 

「君だから、みんな俺を受け入れてくれたんだ!」

 

気付けば叫んでいた。

 

「人じゃない見た目でも、そこにいていいって言ってくれた! なのに今さら、それをやめろなんて……! 」

 

声が震える。

 

「……できるわけないよ!」

 

それが、今の俺にできる精一杯だった。

 

そんな俺を見つめながら、カヲルは小さく息を吐く。

 

「君は、僕を神格化しすぎだよ」

 

その声は、どこか困ったようでもあった。

 

「僕は結局、シンジ君一人幸せにすることさえできなかった。それらしい言葉を遠回しに伝えて……結果として、周りを混乱させてしまうこともあった」

 

その言葉に、思わず顔を上げる。

 

「……え?」

 

予想もしなかった。

 

まさか、本人の口からそんな言葉が出てくるなんて。

 

(ていうか……誰がそんなこと言ったんだよ)

 

頭の中で思ったことが、そのまま口から漏れる。

 

「いや……まあ、なんとなくそう思ったことはあったけど……誰がそんなこと言うの?」

 

カヲルは少しだけ笑った。

 

「さあね」

 

意味深にそう答える。

 

「でも、これで分かっただろう?」

 

赤い瞳が、まっすぐ俺を見つめる。

 

「君が思っている『渚カヲル』は、決して完璧な存在じゃない」

 

静かに、一歩だけ近づく。

 

「僕もまた、一人の存在なんだ」

 

カヲルは穏やかな声で言う。

 

「それに君は、一つ思い違いをしている。渚カヲルだったから、すべてうまくいった。そんなことは、ないはずだよ」

 

「……何を言って」

 

「彼女のことを忘れている」

 

その一言に、思考が止まる。

 

「渡我被身子。彼女が笑顔の練習をしていた、あの日のことを」

 

──被身子。

 

その名前を聞いた瞬間、あの日の光景が脳裏に浮かぶ。

 

夕暮れ。

 

ぎこちなく笑おうとしていた彼女。

 

だから俺は──。

 

「……」

 

あれは。

渚カヲルの真似をしようなんて、考えていなかった。

 

ただ。

 

彼女が無理をしているように見えたから。

だから声を掛けた。

 

「そうだろう?」

 

カヲルは優しく頷く。

 

「あれは君が、君自身の意思で行ったことだ」

 

「彼女を助けたいと思ったのは、新世フクインだ。渚カヲルの真似をしたからじゃない」

 

胸が締め付けられる。

 

思い返せば、あの時は特別な事は考えてなかった。

ただ夢中で。

彼女を放っておけなかっただけだ。

 

「それとも」

 

カヲルは静かに問い掛ける。

 

「彼女が今、君の隣に寄り添い、本心から君を慕ってくれているのは、君が渚カヲルの声で、渚カヲルの真似をしているからだと。本当に、そう思っているのかい?」

 

「っ……俺は……」

 

言葉が出ない。

そんなこと、思いたくない。

 

だけど、どこかでそう思い込もうとしていた。

 

「もし本当にそう思っているのなら」

 

カヲルの声が、少しだけ強くなる。

 

「それは、彼女の想いを否定しているのと同じだ」

 

その言葉が、胸の奥へ深く突き刺さる。

 

「心操君もそうだ。ジェントル・クリミナルもそう」

 

カヲルは静かに続ける。

 

「彼らが君と向き合ったのは、渚カヲルという声や振る舞いに惹かれたからじゃない」

 

一拍置く。

 

「新世フクインという一人の人間と出会い、その人柄に触れ、自分の意思で君を選んだんだ」

 

俺は何も言えなかった。

 

ただ、その言葉を聞くことしかできない。

 

「それなのに君は、自分自身を否定している」

 

カヲルは真っ直ぐ俺を見つめる。

 

「それはつまり、今まで歩いてきた人生を否定することだ」

 

赤い瞳が、優しく揺れる。

 

「君を大切に想ってくれた人たちの気持ちまで、無意味だったと言ってしまうことなんだよ」

 

その一言で、胸の奥にしまい込んでいた何かが、大きく揺らいだ。

 

「でも……だからって、どうすればいいんだよ」

 

気付けば声を荒げていた。

 

「今さらじゃないか! 今さら自分を出せだなんて……!」

 

胸の奥から、押し込めていたものが溢れ出す。

 

「前世のことだって、エヴァ以外はほとんど覚えてないんだ! そんな俺が、何をどうすればいいんだよ!」

 

息が乱れる。

それでも言葉は止まらない。

 

「怖いんだよ……!」

 

その一言が、静かな空間へ響いた。

 

「一人になるのが……あの人たちみたいな目で見られるのが!」

 

脳裏に浮かぶのは、生まれたばかりの自分へ向けられた二人の視線。

言葉なんて交わしていない。

それでも、あの目が何を語っていたのかだけは、痛いほど分かってしまった。

 

「確かに、俺がここまでやってこられたのは、前世の記憶があったからだ」

 

震える声で続ける。

 

「そうじゃなかったら、普通の人が何を考えてるのかも分からなくて、きっともっとたくさん問題を起こしてた」

 

だから必死に学んだ。

 

人との距離も。

 

話し方も。

 

笑い方も。

 

全部。

 

前世の記憶を手本にして。

 

「でも……最初から分かってたせいで、あの二人の目が何を言いたかったのかも、全部分かってしまうんだよ!」

 

胸が締め付けられる。

 

あの日の感覚が蘇る。

 

拒絶。

 

恐怖。

 

孤独。

 

「だから……渚カヲルでいれば楽なんだ」

 

ぽつりと、本音が零れ落ちる。

 

「もし何を言われても、それは俺じゃない。俺そのものじゃなくて、渚カヲル越しの俺なんだ」

 

だから耐えられた。

 

傷付いても、どこか他人事みたいに思えた。

全部、仮面が受け止めてくれる気がした。

 

「なのに……」

 

震える手に力が入る。

 

「なのに、俺にこんな夢を見せて……!」

 

カヲルを真っ直ぐ見つめる。

 

「一体……俺に、どうしろって言うんだよ……!」

 

「……わかっているんだろう?」

 

カヲルは抵抗することなく、穏やかな笑みを浮かべた。

 

「僕を消してくれ」

 

静かな声だった。

 

「そうすれば、君は僕から解放される。前へ進めるんだ」

 

「でも、それは……!」

 

思わず声を荒らげる。

 

だが、カヲルは首を横に振るだけだった。

 

「怖がらなくていい」

 

その赤い瞳は、どこまでも優しい。

 

「君はもう、一人じゃない」

 

静かに、一人ひとりの姿を思い浮かべるように言葉を紡ぐ。

 

渡我被身子(アルミサエル)たち……(タブリス)もいる」

 

タブリス。

 

「学校へ行けば、先生たちもいる」

 

相澤先生。

 

パワーローダー先生。

 

ミッドナイト。

 

通形先輩。

 

 

脳裏に、これまで出会ってきた人たちの姿が次々と浮かぶ。

 

「君はもう、孤独じゃない」

 

カヲルは小さく微笑んだ。

 

「君自身の足で、歩けるんだよ」

 

穏やかな声だった。

 

「ありがとう。最初に、僕を思い出してくれて」

 

ゆっくりと瞼を閉じる。

 

まるで、すべてを受け入れるように。

 

「……」

 

俺は何も言えなかった。

 

ただ、黙っていることしかできない。

 

右手に力を込めれば終わる。

そうすれば、この悪夢は終わる。

悩みも、苦しみも、すべてを無に帰して──終わる。

 

 

 

──沈黙。

 

 

 

何も聞こえない。

 

初号機の駆動音も、L.C.L.の揺れる音も、自分の呼吸さえ。

 

ただ、濃密な静寂だけが、永久のように流れていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……違う」

 

掠れた声だった。

 

それでも、心の一番奥底から、泥を吐き出すように絞り出した言葉だった。

 

「え?」

 

カヲルが初めて、驚いたように目を開く。

 

「……確かに」

 

震える声を、俺は必死に繋いだ。

 

「君の言うことは正しいのかもしれない。このまま自分を偽り続ければ、いつか押し潰される。そんなことくらい、俺にだって分かってるんだ」

 

胸の奥に溜め込んでいた嘘を、一つずつ剥ぎ取っていく。

 

「……でも」

 

右手に、爆発的な力が籠もる。

 

「ここで君を殺して終わらせるなんて、絶対に違う!」

 

静寂を切り裂き、魂が叫ぶ。

 

「フクイン君……君は、一体」

 

「君が言ったんじゃないか!」

 

俺はカヲルの紅い瞳を、真っ直ぐに見据えた。

 

「今までの自分を否定するなって!」

 

「……!」

 

「そうだよ。その通りなんだ……!」

 

今なら分かる。今まで逃げ続けてきた、その答えが。

 

「俺は、どうしようもない馬鹿だった……!」

 

悔し涙が、視界を滲ませる。

 

「被身子が隣にいてくれる理由を、恐れて、勝手にごまかしてた!」

 

「先生の言葉の意味だって、本当は最初から分かってたんだ!」

 

「分からないふりをして、傷つかない場所に逃げていただけなんだ!」

 

心が、身を裂くような悲鳴を上げる。それでも、もう言葉は止まらない。

 

「だからこそ!」

 

俺は吠える。

 

「前へ進むための代償として、君をここで殺して、無かったことにするなんて──絶対に違う!」

 

右手に込めていた殺意の力が、わずかに緩む。

 

「俺がなりたいのは、ヒーローだ!」

 

その言葉だけは、泥の中でも決して濁らなかった。

 

「誰かを殺して救われるんじゃない!」

 

「苦しんでる人に手を伸ばして、一緒に生きていく人間になりたいんだ!」

 

脳裏を駆け巡る。

 

被身子。

心操君。

先輩方。

先生たち。

 

この世界で出会ってきた、不器用で、大切な人たちの顔。

 

「俺みたいな歪んだ『個性』で苦しんでる人たちに、『君は間違ってない』って伝えたいんだ!」

 

「それなのに!」

 

「前へ進むためだからって、都合よく君を切り捨てて逃げるなんて!」

 

「そんなの、絶対に間違ってる……!」

 

そうだ。ここで彼を殺すことは、救いでも何でもない。

 

それは、これまで俺を支えてくれた人たちの想いへの裏切りだ。

 

そして何より──俺自身を、もう一度徹底的に否定することになる。

 

ゆっくりと、だが壊れない決意を固める。

空いていた左手を、己の顔面へと伸ばした。

指先が触れたのは、皮膚とドロドロに一体化した、呪わしき偽りの仮面。

 

「……ごめん、初号機」

 

小さく、だが断固とした声で呟く。

 

「少しだけ、俺の我が儘に付き合ってくれ」

 

「……どうするつもりなんだい?」

 

カヲルの顔に、初めて底知れない驚愕が走る。

 

「ぐっ……うぅぅぅぅっ!!」

 

指先に力を込め、皮膚ごと仮面を毟り取ろうとする。

それと完全にシンクロし、初号機もまた、自らの顔面を覆う装甲へと指を掛けた。

 

──メリッ。

 

肉と金属が引き剥がされる、悍ましい音が響く。

 

「うああああああああああああっ!!」

 

焼火箸を押し当てられたような激痛が、脳髄を狂わせる。

 

痛い。痛い。痛い。痛い……!

 

力を込めるたび、精神が消し飛んでしまいそうになる。

 

(違う……!)

 

必死に、狂いそうな己に言い聞かせる。

 

(これは顔が痛いんじゃない!)

 

魂で叫ぶ。

 

(俺の心が──自分をさらけ出すことを、剥き出しになることを怖がってるんだ!)

 

そうだ。このままじゃ駄目だ。

今のままじゃ、俺はどこまでいっても空っぽのままだ。

これからも仮面を被ったまま、嘘の笑顔でみんなの隣にいることになる。

 

それだけは、死んでも嫌だ。

 

だが、それ以上に──。

 

「被身子に……!」

 

血混じりの涙が溢れる。

 

「俺の隣にいてくれる被身子にだけは……!」

 

声の震えは、もはや恐怖ではない。

 

「ずっと嘘をつき続けるなんて……そんなの、俺は絶対に嫌なんだぁぁぁぁぁっ!!」

 

 

 

 

「はぁ……はぁ……!」

 

沸騰するような呼気。

 

ついに、仮面が顔から完全に剥がれ落ちた。

それと同時に、シンクロ率の極限に達した初号機もまた、顔面の装甲を無理やり引き剥がす。

 

 

 

装甲が肉ごと裂け、本来の強靭な筋肉が露出する。

 

次の瞬間、初号機の顔面から鮮血が噴き出した。

 

赤い飛沫は重力を無視して宙を舞い、そのすべてがカヲルの身体を、白い制服を、そしてその穏やかな表情を真っ赤に染め上げる。

 

拘束を失った初号機は、その奥に隠されていた、鋭利な「牙」を剥き出しにした。

剥き出しの、人間に酷似した双眸が、迷いなく前だけを見据えている。

 

「……」

 

カヲルは言葉を失っていた。

 

彼の予定調和にあった結末とは、あまりにもかけ離れている。

その圧倒的な現実だけが、彼の紅い瞳に焼き付いていた。

 

ゆっくりと。

 

初号機が、カヲルを握る右手を持ち上げる。

 

そして、その巨大な顎を大きく開いた。

 

「……そうか」

 

カヲルは、小さく微笑んだ。

その表情にあったのは、もはや驚きではなく、深い得心だった。

 

「それが、君の答えなんだね」

 

次の瞬間。

 

初号機は、そのままカヲルを口へと運んだ。

 

抵抗はない。逃亡もない。

 

静かに受け入れるように、彼の身体は牙の奥、闇へと消えていく。

 

──ゴクリ。

 

世界そのものが息を呑むような、地鳴りのごとき嚥下音。

 

握り潰して排除するのではない。

殺して無かったことにするのでもない。

 

噛み砕き、飲み込み、受け入れる。

 

自分自身の一部として、その存在を完全に引き受ける。

 

それこそが、新世フクインの選んだ「覚悟」の形だった。

 

「ウオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!!!!」

 

装甲を失った、真の姿の初号機が天を仰ぐ。

 

咆哮。

 

それは苦悶ではない。悲哀でもない。

 

仮面を脱ぎ捨て、己のすべてを受け入れた者だけが上げられる、祝福に満ちた産声だった。

 

その音波はターミナルドグマを粉砕せんばかりに震わせ、ジオフロントを揺らし、天を裂き、世界の果てまで響き渡っていった。

 

 

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 

 

夕焼けが、やけに強く網膜を刺していた。

 

この景色には、強烈な覚えがある。

 

あの、すべての始まりの公園だ。

 

ブランコに腰掛け、静かに身を任せる。

 

ギィ……ギィ……。

 

規則正しく、寂しげに揺れる音だけが響いていた。

 

しばらくそうしていると、いつの間にか目の前に、小さな少女が立っていた。

 

「あなたは、誰?」

 

淡い金色の髪が、夕日に透けて輝く。

 

「私は、血が好きなの」

 

少女は、あの日の記憶と全く同じように首を傾げた。

 

「あなたは、何が好き?」

 

その問いに、俺は今度は、迷わず自然に口を開いた。

 

「僕は……」

 

一度だけ、その偽りの一人称を止める。

 

そして、自嘲ではなく、晴れやかに小さく笑った。

 

「……いや」

 

首を横に振る。

 

「俺は」

 

今なら、胸を張って答えられる。

 

「俺は、ロボットアニメが好きなんだ」

 

少女は何も言わなかった。

 

ただ、嬉しそうに小さく微笑んだ。

 

その笑顔を最後に、セピア色の夕焼けは、優しく溶けるように消え去っていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

意識が、急速に浮上する。

 

ぼんやりとしていた思考の輪郭が、確かな現実の手触りへと戻ってくる。

 

ゆっくりと身体を起こし、自分の部屋を見渡した。

 

相変わらず、何もない、殺風景な部屋だ。

 

「……なんもねぇな」

 

思わず苦笑が漏れる。

 

だけど。

 

昨日までの部屋とは、決定的に違っていた。

 

俺に何が足りなかったのか。その答えだけは、もう魂に刻まれている。

 

枕元のスマートフォンを手に取り、画面を起動する。

 

検索バーをタップし、指先で文字を打ち込んでいく。

 

『ロボットアニメ 一覧』

 

検索。

 

画面いっぱいに、無数の作品名がずらりと並ぶ。

 

「意外とあるんだな……」

 

どれも、俺の記憶にはない知らない作品ばかりだ。

 

まあ、当然だ。ここは、俺がかつて生きていたあの世界ではないのだから。

 

スクロールする指を止め、画面を見つめる。

 

「俺の好きなもの……か」

 

心の底から、自然な笑みがこぼれた。

 

「俺は、ロボットアニメが好きで──」

 

少しだけ照れくさい。だけど、誇らしかった。

 

「特に、『新世紀エヴァンゲリオン』が、大好きなんだ」

 

その言葉をこの世界で口にした瞬間。

 

胸の奥にずっと頑固につかえていた呪縛が、ようやく、優しくほどけていった。

トガヒミコに変わる、敵の追加

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