ここ最近、福音君の様子がおかしかった。
最初は、通形先輩との戦闘訓練で疲れているだけだと思っていた。あれだけ激しい訓練をすれば、誰だってしばらくは疲れが残る。だから、少し休めばいつもの福音君に戻るものだと、私は勝手に思い込んでいた。
でも、それは違った。
授業中も、どこか上の空。先生の話を聞いているようで聞いていないことが増え、ぼんやりと窓の外を眺めている時間も前よりずっと長くなっていた。休み時間も一人で考え事をしている姿ばかりが目につく。
心配になってアルエちゃんにも聞いてみたけれど、
『私たちにできることは何もないわ』
返ってきたのは、それだけだった。
あのアルエちゃんがそう言うのなら、本当に私たちには何もできないのかもしれない。それでも、このまま見ているだけでいいのだろうか。何か私から動いた方がいいんじゃないか。そんなことを何度も考えては勇気が出ず、結局何もできないまま時間だけが過ぎていった。
そうして気付けば一週間が過ぎ、土日も終わり、新しい一週間が始まる。
いつものように教室へ入ると、そこには福音君の姿があった。
「おはよう、被身子」
「お、おはようございます」
挨拶を返しながら彼を見る。大きなあくびをしているのは休み前と変わらない。でも、今日はどこか違って見えた。
前までは、張り詰めた糸が切れそうな、不健康な寝不足だった。だけど今日は、ただ夜更かしをしてしまった人みたいな、どこか肩の力が抜けた空気をまとっている。
「大きなあくびですね。夜遅くまで何かやってたんですか?」
「うん。アニメ見てたら朝になっちゃってさ。久しぶりにオールしたから眠いよ」
「寝不足は気を付けた方が……」
「わかってるよ」
そう言って、白い瞳のない顔で口元だけ笑う。
その瞬間、私は言葉を失った。
──今、なんて言ったの?
アニメを見ていて寝不足。そんな理由を、今まで福音君の口から聞いたことがあっただろうか。
夜遅くまで戦闘訓練をしていたとか、個性の実験をしていたとか、そういう話なら何度も聞いてきた。でも、アニメ鑑賞なんて。そんなごく普通の高校生みたいな理由は、私の知っている福音君からは想像もできなかった。
「……何か、ありました?」
恐る恐る聞いてみる。
数日前までの福音君とは、やっぱりどこか違って見えた。前みたいに無理をして笑っている感じがない。肩に入っていた力が抜けて、自然体になったような、そんな空気をまとっている。
でも、その変化があまりにも急だったからこそ、不安にもなってしまう。もしかしたら、その代わりに何か大切なものを失ってしまったんじゃないか。そんな考えが、一瞬だけ頭をよぎった。
「ん? 何かって言われると難しいな……」
福音君は少しだけ考えるように視線を上へ向け、それから困ったように笑った。
「そうだな……逃げるのをやめた、ってところかな」
「逃げるのを……ですか?」
「うん」
短く頷く。その言葉は、どこか吹っ切れた人の声だった。
「今まで俺は、自分を知ってもらうことから逃げてたんだ。本当の俺を見られて、拒絶されるのが怖かったから。だから、何て言えばいいんだろうな」
少しだけ照れくさそうに頬をかきながら、彼は言葉を紡ぐ。
「俺はやっと、みんなと同じ場所に立てたって感じかな」
その表情を見ていると、本人もまだうまく言葉にできていないのだと分かる。それでも、その一言一言が胸の奥から出てきた本音なのだということだけは、不思議と伝わってきた。
「そうだったんですね……。無理は、してないですか?」
「無理?」
福音君はきょとんとした声を出し、それから首を横に振る。
「俺としては、してるつもりはないよ。これといって劇的に何かを変えたわけでもないし。──まあ、捕食したくらいかな」
「……捕食?」
思わず聞き返してしまった。今、この人は何と言いました?
あまりにも物騒な単語が自然に出てきて、頭の中が一瞬真っ白になる。捕食って、あの捕食ですよね? 食べる方の?
さすがに聞き間違いだと思いたい。
思わず真顔になってしまった私を見て、福音君は苦笑していた。その表情を見た瞬間、不思議とさっきまでの考えなんてどうでもよくなってしまう。
少しだけ。本当に少しだけだけど、前よりも表情が柔らかくなった気がした。
相変わらず、ウナギというか爬虫類というか、人間離れした何とも言えない顔ではある。それでも、その顔で笑っている姿は以前よりずっと自然で、見ているこっちまで安心してしまう。
──ああ、よかった。
福音君が嬉しそうなら、それだけで私も嬉しい。そんな単純なことに、私はようやく気付くことができた。
◇◇◇◇
あの後、相澤先生のホームルームを受けた私たちは、いつも通り授業へと向かった。けれど、いつも通りだったのは時間割だけだった。
今朝の福音君を見た相澤先生は、一瞬だけ目を見開いていた。普段はほとんど表情を変えない先生だからこそ、その僅かな変化に気付いてしまう。それだけここ数日の福音君が危うい状態だったのだろう。
もっとも、少し言葉を交わした後には、その表情も元へ戻っていた。福音君が悪い方向ではなく、むしろ前へ進み始めたことを察したのか、どこか肩の力を抜いたようにも見えた。
そんな一日を終えた私は、放課後になるといつものように保健室へ向かっていた。理由はもちろん、アルエちゃんの力──浸食による身体の復元訓練のためだ。
最近ではそれだけではない。福音君がここ数日ひどく落ち込んでいたこともあって、その相談をリカバリーガールにすることも増えていた。
「こんにちは。今日もよろしくお願いします」
保健室の扉を開けると、リカバリーガールは机に向かったまま書類を整理していた。棚に並ぶ薬品や備品へ視線を向けながら、一枚一枚確認するように書類へ目を通している。どうやら在庫の確認でもしているらしい。
「ああ、おいで」
リカバリーガールは顔を上げることなく返事を返してくれる。
私は慣れた手つきで荷物を椅子の横へ置くと、今日あった出来事を話し始めた。
福音君が元気を取り戻したこと。どこか吹っ切れたような表情をしていたこと。そして、以前よりもずっと自然に笑うようになっていたこと。
話を聞き終えたリカバリーガールは、小さく頷きながら書類を重ねた。
「そうかい。大人への第一歩ってところかね」
その言葉が、妙に心へ残った。
大人へ近づくということは、自分自身を知ること。もしそういう意味なのだとしたら──私はどうなんだろう。
福音君の隣にいよう。
そう決心したあの日から、私は少しでも成長できたのだろうか。
もし本当に成長できていたのなら、彼が苦しみ始めたことにももっと早く気付けたんじゃないだろうか。もっと早く手を差し伸べることができたんじゃないだろうか。
そんな嫌な考えが頭の中を巡り始める。
……ダメだ。これじゃあ、何でも一人で抱え込もうとする福音君と同じじゃないか。
だからこそ私は決めたはずだ。彼を助けるんだと。隣で支えられる存在になるんだと。だったら今考えるべきなのは後悔じゃない。福音君が笑えるようになったことを、一緒に喜ぶことだ。
暗い顔より、笑顔の方がずっといい。
「そうですね。そうやって、みんな大人になっていくんですね」
そう言って笑ってみせる。きっと完璧な笑顔じゃない。少しだけ作った笑顔だったと思う。それでも今は、それでよかった。
リカバリーガールはそんな私をじっと見つめると、細めた目をさらに優しく緩め、「そうだねぇ」と小さく呟き、自然な流れで話題を切り替えた。
「それより、あんたの浸食による復元治療だけどね。最初と比べれば、ずいぶん成功率が上がってきたじゃないか」
「はい」
最初の頃は散々だった。
浸食の加減が分からず、傷を治そうとしたはずなのに、実験用の魚や小動物は肉体だけでなく魂までアルエちゃんの影響を受け、別の生き物へ変異してしまうことが何度もあった。治療ではなく、ただ姿を変えてしまうだけ。あの頃は失敗ばかりで、自分でも落ち込むことが多かった。
それでも、何度も実験を繰り返し、アルエちゃんと毎日のように議論を重ねた。どうすれば魂には触れず、肉体だけを修復できるのか。その答えを探し続けた結果、最近では魂へ干渉することなく、肉体だけを浸食し、傷を復元できるようになってきた。
ただ、一つだけ大きな問題が残っていた。
傷を治した後、浸食だけを解除すること。これが想像以上に難しかった。
私が変身を解除するように、一瞬で切り替えることはできない。無理に解除しようとすれば、せっかく復元した肉体まで元に戻ってしまう。
その問題を解決するため、私とアルエちゃんは何日も方法を考え、仮説を立てては実験を繰り返した。そしてようやく、一つの答えへ辿り着いた。
浸食された対象に対してアルエちゃんのA.T.フィールドではなく、私自身のA.T.フィールドを逆位相で重ねる。そうすることで、浸食だけを私の側へ引き戻し、対象には「傷が治った」という結果だけを残すことができるようになったのだ。
「はい! リカバリーガールのお陰で、『浸食』もやっとここまで制御できるようになりました」
思わず声が弾む。最初は失敗ばかりだった能力が、こうして誰かの役に立てるところまで来た。その事実が嬉しくて仕方なかった。
「私はただ、あんたが無茶をしないよう見張っていただけさ。ここまで来られたのは、あんた自身の努力が実った結果だよ」
穏やかな口調で返される。その言葉を聞いた途端、自然と口元が緩んだ。
でも、私はその言葉をそのまま受け取ることはできなかった。リカバリーガールは「見張っていただけ」と言うけれど、それは私たちにとって何より大切な役目だった。
私とアルエちゃんだけで実験をしていると、どこかでブレーキが壊れてしまう。もっとできる、まだ試せる、そんな考えで限界まで進もうとしてしまうのだ。そんな私たちを大人の視点で止め、危険な部分をその都度修正してくれた存在がいたからこそ、ここまでたどり着けた。
「ありがとうございます。でも、やっぱり私がここまで来られたのは、たくさん助けてもらったからです」
そう言うと、リカバリーガールは照れくそうに鼻を鳴らした。
「嬉しいことを言ってくれるねぇ。まあ、自信も付いてきたようだし、そろそろ次の段階へ進んでもよさそうだね」
「次の段階……ですか?」
「ああ」
リカバリーガールは当たり前のように頷く。
「今日は実際に、けが人へ復元治療を行ってもらうよ」
「そうなんですね……え?」
あまりにも自然な口調だった。呼吸をするように、さらりと告げられたその言葉に、私の思考は一瞬止まる。
……今、何て言った?
実際に治療をする? 私が?
頭の中で言葉を何度も繰り返して、ようやく意味を理解した途端、心臓が大きく跳ねた。
「きゅ、急すぎませんか? その……まだ、そこまで覚悟ができてないっていうか……」
思わず声が上ずる。
私はてっきり、今日は魚や実験動物を使って成功率をさらに上げる反復練習だと思っていた。それなのに、いきなり人体。段階を一つどころか、二つも三つも飛び越えたような気がしてしまう。
「まあ、あんたの言う通り急ではあるね」
リカバリーガールは私の反応を責めることなく、小さく頷いた。
「でもね、今後あんたが復元治療を本格的にやっていくつもりなら、避けては通れない道なんだよ」
「それは……そうなんですが」
口から漏れたのは、今にも消えてしまいそうな小さな返事だけだった。
頭では理解している。いつか必ず越えなければならない壁だということは。だけど、その「いつか」が今日だとは思っていなかった。
そんな私の不安を見透かしたように、リカバリーガールは静かに続ける。
「それにね、ヴィランと同じで、けが人っていうのは事前に『今から来ます』なんて教えてくれないものさ。助けを必要としている人は、いつだって突然、あんたの目の前に現れるんだからね」
「……」
言っていることは正しい。頭では、それくらい理解できる。でも、それでも反論したい気持ちが消えなかった。
怖いからだ。
同じ人間を相手に治療をするということは、相手の声を直接聞くことになる。
痛い、苦しい、怖い。そんな生の声が、すぐ目の前で聞こえる。
今までは違った。相手は魚や実験動物だったから、たとえ苦しんでいたとしても、私にはその声が分からない。悲鳴を上げていたとしても、それを言葉として受け取ることはなかった。だから、どこかで自分をごまかせていた。罪悪感を感じずに済んでいた。
でも、人間相手となればそうはいかない。失敗すれば、その苦しみも後悔も、全部私自身が受け止めなければならない。
ひどく自分勝手な考えだとは分かっている。それでも私は、怖いものは怖いと思ってしまう。
そんな私の心を見透かしたように、リカバリーガールは静かに口を開いた。
「今回の治療なんだがね、相手側から強い希望があって実現した話なんだよ」
「希望……ですか?」
「ああ」
リカバリーガールはゆっくり頷く。
「その人は昔、ヴィラン災害に巻き込まれて大怪我を負った。当時できる限りの治療は受けたそうだが、当時の医療技術や個性では完全には治せなかったんだ」
淡々とした口調だった。だからこそ、その言葉の重みが伝わってくる。
「今も身体には大きな後遺症が残っている。それでも本人は治療を優先せず、不調を抱えたまま現場へ立ち続けてきた」
私は思わず息を呑む。そんな人が、本当にいるんだ。
「そんな中で耳に入ったのが、あんたの浸食による復元治療だった」
リカバリーガールは私を真っ直ぐ見つめる。
「これまでの個性治療とはまったく違う発想の治療法。長時間の手術も必要ない。成功すれば、術後に何日も安静にする必要もない。失われた肉体そのものを復元する──画期的な治療方法だ」
そこまで言うと、一枚の書類へ目を落とした。
「そして、つい先日。その治療が実験段階とはいえ成功したという報告を聞いた」
リカバリーガールは小さく笑った。
「本人はね、『被験者第一号はぜひ自分にやらせてほしい』と、真っ先に名乗り出たよ」
「えっ……」
思わず声が漏れる。そんな危険な役目を、自分から。
「もちろん、自分の怪我が治ることも理由の一つさ。でも、それだけじゃない」
リカバリーガールの表情が少しだけ柔らかくなる。
「もしこの復元治療が本当に確立されれば、この先何人もの命を救うことができる。なら、その第一歩になるなら自分の身体くらいいくらでも差し出す──そう言ってね」
その言葉を聞いた瞬間、私は何も返せなくなった。
その人は、自分のためだけじゃない。まだ見ぬ誰かを救うために、自ら危険な治療を受けようとしているのだ。
「それじゃあ、そろそろ本人を呼ぼうか。入ってきな」
リカバリーガールの声が保健室に響く。
「失礼します」
静かな返事とともに扉が開き、一人の男性が姿を現した。
その姿を見た瞬間、私は思わず息を呑む。
頬は大きくこけ、骨ばった首筋や腕が服の上からでも分かるほど痩せ細っていた。着ているシャツも身体にまったく合っておらず、まるで少し前まで別人が着ていたものを、そのまま借りてきたかのようにぶかぶかとしている。
これほどまでに痩せてしまうものなのだろうか。そんな疑問が頭をよぎる。
「初めまして。先ほど紹介にあった八木俊典だ。よろしく頼む、渡我少女」
そう言って金色の前髪を揺らしながら、力なく右手を差し出してくる。
握手。そう気付いた私は慌てて立ち上がった。
「は、初めまして! 渡我です、渡我被身子です!」
少し噛みながらその手を握る。
触れた手は見た目の通り細く、骨ばっていて驚くほど軽かった。
ちゃんとご飯は食べられているのだろうか。それとも、それすら難しいほど身体が悪いのだろうか。そんなことを考えていた時だった。
「……っ」
ふと視線が合う。
目の周りは深い影に覆われ、顔色も決して良いとは言えない。それなのに、その奥にある青い瞳だけは違った。身体の衰えなど微塵も感じさせない、どこまでも真っ直ぐで、決して折れることのない強い光を宿していた。
私はその目から、一瞬だけ視線を逸らすことができなかった。
「挨拶も済んだことだし、治療の話を始めようかね」
黙り込んでしまった私を見て、リカバリーガールが場を進める。
椅子へ座り直した私は、まず八木さんの身体の状態について説明を受けることになった。
呼吸器官半壊。
胃袋全摘出。
幾度にも及ぶ大手術による慢性的な衰弱。
淡々と読み上げられる病歴は、一つ増えるたびに胸が苦しくなるものばかりだった。
「見せた方が早いね」
リカバリーガールに促され、八木さんは静かにシャツをめくる。
露わになった胸から腹部にかけて刻まれた傷跡は、思わず息を止めてしまうほど痛々しかった。一本や二本ではない。幾重にも重なった手術痕が、その人がどれだけ生死の境を彷徨ってきたのかを物語っていた。
こんな身体で、本当に日常生活を送れているのだろうか。ましてや、さっき聞いた話では現場にも出ているという。その言葉がどうしても結びつかなかった。
「あの……現場に出ていると聞きましたけど、お仕事は何をされているんですか?」
気になったことを、そのまま口にする。
すると八木さんとリカバリーガールは一度だけ目を合わせ、小さく頷き合った。何かを確認するような、そんな仕草だった。
そして八木さんが、穏やかな笑みを浮かべて口を開く。
「私はこう見えてもプロヒーローでね。一日に活動できる時間こそ限られているが、日夜、人々の平和を守る仕事をしているんだ」
「ヒーロー……」
思わずその言葉を繰り返してしまう。まさか、この場でその単語が出てくるなんて思ってもみなかった。
でも、そう言われると納得できる部分もある。ヴィランとの戦いは常に命懸けだ。一歩間違えれば命を落とすことだってあるし、大怪我を負うことも決して珍しくない。
それでも。
ここまで身体を壊してなお、最前線へ立ち続ける理由は何なのだろう。一体何が、この人を立ち止まらせないのだろうか。私はその力強い青い瞳を見つめながら、その答えを知りたいと強く思った。
「リカバリーガールとは昔からの付き合いでね。この人の知識と個性には、これまで何度も助けられてきたんだ。最近、新しいお弟子さんができたと聞いてね。修行もひと段落ついた頃だと知って、今回の話は私の方からお願いさせてもらったんだよ」
穏やかに笑いながら話す八木さんを見つめる。その笑顔は優しかった。だからこそ、余計に分からなくなってしまう。
「そうだったんですね……」
一度言葉を区切り、胸の中に引っ掛かっていた疑問を口にした。
「期待していただいているところ悪いんですけど、私にはどうしても分からないんです。──こんなに身体がボロボロなのに、どうしてヒーローを続けるんですか?」
自然と言葉が続いていく。
「ここまで頑張ってきたなら、少しくらい休んでもいいはずなのに……」
その問いに、八木さんはすぐには答えなかった。一度だけ静かに目を閉じ、それからゆっくりと私を見つめ返す。
「確かに、君の言う通りだ」
その声はどこまでも落ち着いていた。
「本当なら、そうできれば一番いいのかもしれない」
少しだけ寂しそうに笑う。
「だが、平和というものは驚くほど脆い。ヴィランだけじゃない、人の悪意というものは、いつだってどこかに存在している」
その青い瞳が真っ直ぐ前を見据える。
「だからこそ、私たちヒーローは立ち続けるんだ。人々の前に立ち、誰かが助けを求めたその時、一秒でも早くその災害へ駆け付けられるように」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが引っ掛かった。
「……まるで、オールマイトみたいなことを言うんですね」
気付けば、そんな言葉が口から零れていた。
どうしてそう思ったのだろう。確かに金髪という共通点はある。でも、それ以外は何も似ていない。体格も、雰囲気も、何もかも正反対のはずなのに。不思議と、その言葉だけは同じように聞こえた。
「ッ……!」
八木さんの肩がぴくりと震える。
「ま、まさか……そんなことを言われるとは思ってもいなかったよ」
その反応は、図星を突かれた人みたいだった。私はその意味に気付くことなく、ただ内心で頷く。
──そこまでの覚悟が必要なんですね。ヒーローであり続けるためには。
そんなことを考えていると、八木さんは表情を引き締め、改めて私へ向き直った。
「それに渡我少女。君もヒーロー科の生徒だと聞いている」
真っ直ぐな青い瞳が私を射抜く。
「虫のいい話だとは思う。だが、未来のヒーローとして、どうか私を助けてもらえないだろうか」
その言葉に胸が大きく揺れる。未来のヒーロー。そんな風に呼ばれたのは初めてだった。
気恥ずかしさと戸惑いが入り混じり、私は思わず視線をリカバリーガールへ逃がす。
助けを求めるようなその視線を受け止めた先生は、小さく笑って肩をすくめた。
「ヒーローがそこまで頭を下げたんだ。何もしないわけにはいかないだろう。それに今回の個性使用については、学校を通して上にもちゃんと話は通してあるよ」
「えっ、いや……根回し早すぎません!?」
思わず椅子から立ち上がりそうになる。
「ここで私が断るとは思わなかったんですか!?」
私の叫びにも、リカバリーガールは落ち着いたままだった。
「あの傷跡を見て、何も思わないほど、あんたは器用な子じゃないさ」
静かな一言だった。でも、その言葉には反論できなかった。
あの傷を見てしまった以上、目を逸らして「できません」と言えるほど、私は冷たい人間にはなれなかった。
「覚悟は……できたかは分かりません。でも、やってみたいと思います」
一度目を閉じ、胸の内を整理する。
本当なら「大丈夫です」と胸を張って言いたかった。でも、そんな言葉はどうしても出てこなかった。
怖いものは怖い。それでも逃げたくない。今の私が言える精一杯の答えが、それだった。
「それに、もし少しでも危険だと判断したら、すぐに中断します。いいですね?」
「ああ、それで構わない。頼む」
八木さんは迷うことなく頷く。その返事を聞いても、私の緊張は消えなかった。
リカバリーガールの指示を受け、私たちはすぐに治療の準備へ移る。
八木さんはベッドへ横になり、私は深く息を吸ってから、ポケットに入れていた福音君の血液を口へ含んだ。
全身を熱が駆け巡る。身体が組み替えられ、私の姿は静かにアルエちゃんの姿へと変わっていく。
「……おお」
その光景を見た八木さんの口から、小さな感嘆の声が漏れた。
「これから浸食を開始します。その後、浸食した身体を私の意識下へ置き、損傷した部分の復元を行います」
自然と口調も落ち着いていく。
「今まで感じたことのない感覚が身体を巡ると思います。もし少しでも異常を感じたら、すぐに教えてください」
「了解した。始めてくれ」
短い返事。私はゆっくりと息を吐き、もう一度深呼吸をする。
焦らない。いつも通り。何度も繰り返してきた実験と同じように。そう自分へ言い聞かせながら、そっと八木さんの胸へ手を添えた。
意識を集中させる。
頭に思い浮かべるのは、アルエちゃんの本来の姿。あの光の紐が生物へ突き刺さり、そこから全身へと広がっていく光景。そのイメージへ自分の意識を重ねる。
次の瞬間、私の手が触れている場所から、蚯蚓腫れのような筋がゆっくりと八木さんの全身へ広がり始めた。
「くっ……!」
苦しそうな声が漏れる。その声に胸が締め付けられる。
自分の身体が、自分ではない何かへ強制的に書き換えられていく。その強烈な違和感が、八木さんの思考を支配しているのだろう。
それでも私は手を止めない。止めれば、この治療は失敗してしまう。
細心の注意を払いながら、意識をさらに身体の奥深くへ潜らせていく。アルエちゃんと完全に意識を重ね、その力を少しずつ全身へ浸透させる。
浸食が進み、復元が始まる。細胞が異常な速度で組み替わっていく感覚が、私の意識にも伝わってきた。
その時だった。
身体のさらに奥、魂へ届く寸前の深淵で、私は異質な"何か"へ触れる。
あまりにも巨大だった。一人の人間が宿すには、あまりにも強すぎる力。
(……これは、何?)
息を呑む。
(人一人が持つには……強大すぎる……!)
そう思った次の瞬間、その力はまるで私を待っていたかのように大きく脈打ち、私の意識を底知れない闇の奥へと一気に引きずり込んだ。
◇◇◇◇
意識が浮かび上がる。
まぶたを開いた瞬間、そこは見たこともない場所だった。
身体がどこか宙に浮いているような、不思議な浮遊感が全身を包んでいる。夢とも違う、現実とも違う。ここは今まで立ったことのない場所なのだと、本能が静かに告げていた。
空間全体は果てしない闇に覆われ、まるで宇宙空間へ放り出されたような静寂が広がっている。
私は咄嗟に自分の身体を確認した。腕を持ち上げてみる。
「……あれ?」
輪郭がぼやけている。半透明というほどではない。でも、そこにあるはずの身体は光に溶けかけたように曖昧で、まるで幽霊にでもなったような感覚だった。
それなのに、確かに立っているという感覚だけは足の裏から伝わってくる。
視線を落とす。そこにはひび割れたコンクリートの床があった。
さらに顔を上げると、この黒い空間の中には一室だけが切り取られたように存在していた。
崩れかけたコンクリートの壁。砕けた天井。まるで廃墟の一角だけが、この闇の中へ固定されているような奇妙な光景だった。
そして、その部屋の中央には、この異様な空間には似つかわしくないアンティーク調の椅子が円を描くように並べられている。そこへ何人もの人影が腰掛けていた。
「……え?」
思わず目を細める。誰なのか分からない。
人の形はしている。でも、それだけだった。輪郭は人間なのに、その身体は光とも炎ともつかないエネルギーの塊で構成されていて、顔立ちどころか服装さえ判別できない。
辛うじて分かるのは、全員が屈強な体格をしているということだけだった。
「っ!」
得体の知れない存在たちが、一斉にこちらへ視線を向ける。
その瞬間、身体が勝手に反応した。透明な膜が私を包み込む。
無意識のうちに展開された不可視の領域が、私を守るように周囲へ広がっていく。
すると椅子へ座っていた人影たちが一斉に立ち上がった。空気が張り詰める。
敵意だと思われた。そう直感した私は慌てて両手を前へ出す。
『ち、違います! 急にごめんなさい! 今、個性で治療をしていて、気が付いたらここへ──』
必死に事情を説明する。……はずだった。
けれど、私の口から出た言葉は、音になる前に黒い空間へ吸い込まれていく。何一つ聞こえない。まるで最初から声など存在しなかったかのように。
「うそ……」
自分の耳にさえ届きもしない。姿だけじゃない。声まで、この場所には存在できない。その事実に血の気が引いていく。
その時だった。
「皆、落ち着いてくれ。彼女は敵じゃないと思うよ」
部屋の中央、一番奥の椅子へ腰掛けていた一人が、静かに声を発した。怒鳴ったわけではない。それなのに、その声だけは不思議なくらい鮮明に私の耳へ届く。まるで直接、心へ語り掛けられたようだった。
「……!」
私は思わずその人物を見る。
さっきまで他の人たちと同じように光の塊にしか見えなかったはずなのに、その人だけは違った。
痩せた体格。乱れた白髪。穏やかな瞳。どこか儚げで、それでいて芯の強さを感じさせる青年の姿が、はっきりと見えていた。
対照的に、その周囲の人影たちは何かを激しく訴え始める。
「……! ……!!」
口は動いている。身振り手振りも見える。けれど、その声だけは相変わらず何一つ聞こえない。
届くのは、目の前の青年の声だけだった。私は訳も分からないまま、その唯一言葉を交わせる存在を見つめ返していた。
私はその場に立ち尽くしたまま、目の前で繰り広げられる音のないやり取りを見つめていた。何人もの人影が身振り手振りを交えながら何かを訴え合っているのに、その声だけが一切聞こえない。動きだけが慌ただしく行き交うその光景は、まるで音量をゼロにした映画を無理やり見せられているようで、ひどく落ち着かなかった。
「待たせてしまってごめん。誰かがここへ来るなんて初めてだったから、皆少し気が立ってしまってね」
どうやら話し合いは終わったらしい。中央に座っていた青年が静かに立ち上がり、こちらへ歩み寄ってくる。
白い髪。病弱そうなほど細い身体。それでいて、不思議と頼りなさは感じさせない。柔らかな物腰の奥には、決して揺るがない芯の強さが宿っていた。
緑色の瞳が、観察するように私を見つめる。その眼差しを見た瞬間、さっき八木さんの瞳を見た時に感じた、あの力強さを思い出した。
「大丈夫です。たぶん私が悪いと思いますから。急に心の中へ侵入者が入ってきたら、私だって同じ反応をすると思いますし」
「そう言ってもらえると嬉しいよ」
穏やかな声だった。聞いているだけで心が落ち着くような、不思議な響き。
でも、それと同時に別のことも思ってしまう。
(……福音君、この人の声を聞いたら絶対喜ぶんだろうな)
理由はうまく説明できない。ただ、何となくそう思った。たぶん今ここに福音君がいたら、嬉しさのあまり普段の落ち着きなんて全部吹き飛んでしまう気がする。
そんな想像をしているうちに、私はいつの間にか青年の顔をじっと見つめていたらしい。
「僕の顔がどうかしたかい?」
「あっ、いえ、その……」
慌てて視線を逸らす。
「私の知り合いが、すごく好きそうな声だなって思って」
「え、声?」
青年は少しだけ目を丸くした。
「そんなことを言われたのは初めてだよ……その、ありがとう?」
「アハハ……なんか、すみません」
なぜかお礼を言われてしまった。私としては感想を口にしただけなので、どう返せばいいのか分からない。少しだけ気まずい空気が流れたあと、青年は咳払いを一つして表情を整えた。
「それで、一つ聞いてもいいかな」
「はい」
「君はどうしてここへ来られたんだい? その経緯を教えてほしい」
私はこれまでのことを、一つずつ順番に説明した。
自分の個性を使った復元治療の研究を続けていたこと。
ようやく安定して肉体だけを修復できるようになったこと。
その成果を見た先生が人体での臨床実験を認めてくれたこと。
そして第一号の被験者として名乗り出てくれた男性を治療している最中、突然意識がここへ引き込まれたこと。
青年は一度も口を挟まず、最後まで静かに耳を傾けてくれた。
「……そうか」
話し終えると、小さく頷く。
「そんな個性が存在したなんて、僕も初めて知ったよ。他人の個性因子へここまで直接干渉できる能力なんて……兄以外で聞いたことがない」
そう呟いた青年は顎へ手を当て、そのまま考え込むように視線を落とした。
「理屈としては近い。でも違う……これは個性だけの問題じゃない。魂まで接続してしまったから、ここへ来られたのかな……」
誰へ話すでもなく、小さく独り言を漏らす。どうやら私の話には納得してくれたようだった。それでも何か引っ掛かるものがあるらしく、青年はしばらく考え込んだまま静かに言葉を巡らせていた。
「っ……ごめん」
考え込んでいた青年が、はっとしたように顔を上げる。
「継承者以外の人がここへ来るなんて、思いもしなかったから。つい考え込んでしまった」
「いえ、大丈夫です」
私は首を横へ振る。
でも、今の言葉が気になった。
──継承者。
聞いたことのない言葉だ。一体何を継承するというのだろう。
そんな疑問が浮かぶより早く、青年は静かに続けた。
「事故みたいなものとはいえ、せっかくここまで来た君には、本当はちゃんと説明したいんだ」
そう言って、少しだけ困ったように笑う。
「でも……どうやら時間がないみたいだ」
「時間?」
言われた意味が分からず、自分の身体へ視線を落とした。
「え……?」
思わず息を呑む。
半透明だった身体が、さっきよりさらに透け始めていた。輪郭がぼやけるどころではない。身体そのものが、少しずつ消えていっている。
「え!? ど、どうして! どんどん身体が消えちゃってます!」
慌てて腕へ触れようとする。けれど、その指先さえ光へ溶け始めていた。
青年は驚く様子もなく、静かにその現象を見つめる。
「たぶん今回は一時的な接続だったんだろう」
落ち着いた声で推測を口にする。
「もしくは……八木君の治療が進んだことで、異物である君をワン・フォー・オールが外へ押し出そうとしているのかもしれない」
「ワン・フォー・オール……?」
聞き慣れない名前だった。個性の名前だろうか。
考える暇もない。身体は今も消え続けている。もう膝から下は完全に光へ溶け、床へ立っているという感覚だけが不思議と残っていた。
青年は私を真っ直ぐ見つめる。
「時間がない」
その一言だけで空気が変わる。
「今から言うのは、僕の勝手なお願いだ。でも、どうか力を貸してほしい」
真剣な眼差しだった。
「彼らを、どうか支えてあげてほしい」
一言一言を噛み締めるように話す。
「ワン・フォー・オールという存在は、その性質上、公にすることができない。だからこそ現実で八木君と、その新しい継承者へ手を差し伸べられる人は、本当に貴重なんだ」
何を言われているのか、そのすべてを理解できたわけじゃない。ワン・フォー・オールという名前も。継承者という意味も。何一つ分からない。
でも、それだけは伝わってきた。
この人は決して冗談で話しているわけじゃない。本気で、誰かを守ろうとしている。その思いだけは、痛いほど伝わってきた。
「私が……何の役に立てるかは分かりません」
消えゆく自分の手を見つめながら答える。
「でも、助けてほしいって言われてるんです。ヒーローになる私が。──だったら、精一杯やってみます!」
青年はその言葉を聞くと、心から安堵したように微笑んだ。
「そうか。ありがとう」
短いその一言が、胸の奥へ静かに染み込んでいく。
けれど、その間にも私の身体は消え続けていた。腰が、胸が、肩が、次々と光へ溶けていく。あと少しで顔まで消えてしまう。
そう思った瞬間、私は慌てて口を開いた。
「そうだ! 八木さんに何か伝えてほしいことはありますか!?」
青年が答えようとした、その時だった。
「私から頼んでもいいか?」
静かな女性の声が響く。思わず振り向いた。
今まで光の塊にしか見えなかった人影の一つから、霧が晴れるように輪郭が現れていく。そこに立っていたのは、長い黒髪を揺らす一人の女性だった。
穏やかな微笑みを浮かべ、優しく口を開く。
「俊典に──」
その言葉の続きを聞くことはできなかった。世界が白く弾けるように揺らぎ、私の意識は音もなく途切れていった。
◇◇◇◇
「っは!」
息を吸い込むと同時に、意識が一気に現実へ引き戻された。勢いよく目を開き、周囲を見渡す。
見慣れた白い天井。薬品の匂い。保健室特有の静かな空気。
そこは間違いなく、私が治療を始めたあの保健室だった。
「戻って……これたってことなんでしょうか」
まだ少しぼんやりする頭を押さえながら呟く。
「渡我少女よ、大丈夫かい? 治療が終わっても君がなかなか目を覚まさないものだから、心配したよ」
「ご、ごめんなさい、八木さ──え?」
聞こえてきた声に反射的に振り向く。声は間違いなく八木さんだった。だから何の疑問も持たず、その姿を確認した。
……はずだった。
「え?」
思考が止まる。
「誰……? でも、この声……」
そこに立っていたのは、さっきまでベッドへ横たわっていた痩せ細った男性ではなかった。
引き締まった筋肉。高身長。まるで陸上選手のような均整の取れた肉体。さっきまでの面影は確かにあった。でも、別人と言われても納得してしまうほど健康的な姿へ変わっている。
「HAHAHA!」
本人はそんな私の反応など気にする様子もなく豪快に笑う。
「まさか臓器だけではなく、普段の姿までここまで回復するとは恐れ入った! さすがはリカバリーガールのお弟子さんといったところか!」
そう言った次の瞬間だった。
ぼこっ。
筋肉が音を立てて膨れ上がる。
「えっ」
肩が、胸板が、腕が。全身の筋肉が一瞬で巨大化し、さっきまでぶかぶかだった服が今にも破れそうなくらい張り詰めていく。数秒前までアスリート体型だった人が、あっという間に筋肉の塊へと変貌してしまった。
あまりにも現実離れした光景に、私は口を半開きのまま固まる。
(この姿……どこかで……)
見覚えがあった。毎日のようにテレビで見ていた、誰もが知っている日本一有名なヒーロー。
「……オールマイト?」
震える声が漏れる。
「え、どうしてここに……もしかして……」
「おっと!」
本人はようやく自分の姿に気付いたらしい。
「テンションが上がって、ついマッスルフォームになってしまったようだね! 申し訳ない!」
そう言いながら、巨大な身体を申し訳なさそうに縮こまらせる。世界一のヒーローとは思えないほど親しみやすい謝り方だった。
私はもう、何も言えない。ただ呆然とその光景を眺めることしかできなかった。
「テンションが上がったからって、大事な秘密を自分からばらすなんて、あんたは一体何を考えてるんだい」
呆れたようにリカバリーガールがため息をつく。
「申し訳ありません、リカバリーガール」
オールマイト──いや、八木さんは頭をかきながら苦笑した。
「ここまで回復するとは私自身予想していませんでした。それに、この感覚だと活動限界も以前と同じくらいまで戻っている気がします。思わず嬉しくなってしまいました」
「嬉しいのは分かるさ。でも、時と場合ってものを考えておくれ。まったく」
「返す言葉もない」
しゅんと肩を落とすオールマイト。その姿は、日本平和の象徴というより、祖母に叱られた孫そのものだった。
二人のやり取りを見ていると、長年連れ添った家族のような空気さえ感じる。私はそんな光景を眺めながら、場違いにもほどがある気持ちになっていた。
(……私、ここにいていいんでしょうか)
あまりにも重大な秘密を知ってしまった気がする。
助けを求めるように心の中で呼び掛ける。
(教えて、アルエちゃん……)
『私に聞かれても知らないわ』
返ってきたのは、いつも以上にあっさりした一言だった。
……見事に見捨てられてしまいました。
「被身子、悪いね。疲れているだろうに」
リカバリーガールが苦笑しながら声を掛けてくる。
「いえ、別にそこまでじゃ……ありません。でも、治療が成功して本当によかったです」
そう答えると、今度はベッドの脇に立つオールマイト──八木さんが穏やかな表情で口を開いた。
「だが、どうしたんだい? 治療の途中から様子が変わっていた。聞いていた内容とは少し違っていたように思うのだが」
「私も気になったよ」
リカバリーガールも腕を組みながら頷く。
「あんたがあそこまで長時間、精神を集中させるなんて珍しいじゃないか」
二人の視線が私へ向けられる。責めているわけじゃない。純粋に心配してくれているのが分かる、優しい眼差しだった。
「それは……」
私は言葉に詰まる。
話していいのだろうか。あの不思議な空間で起きた出来事を。
目の前にいる八木さんを見る。いや──オールマイトを見る。
日本で彼を知らない人なんていない。誰もが憧れるナンバーワンヒーロー、平和の象徴。その一方で、本名も年齢も個性も、公表されている情報はほとんどない。だからこそ最初は、"八木俊典"という一人の男として私の前に現れたのだろう。
あの空間で聞いた話は、その秘密へ確かに繋がっている気がした。
「ワン・フォー・オール……」
考えるより先に、その名前が口から零れ落ちた。
「っ!」
空気が凍り付く。
「渡我少女……今、何と言った?」
オールマイトの表情が一変する。隣のリカバリーガールも、驚いたように私を見つめていた。
(……隠し通せませんね)
ここまで来たら、もう誤魔化せない。私は深く息を吸い込み、あの空間で起きた出来事を一つずつ話し始めた。
真っ黒な空間で目覚めたこと。
崩れかけた部屋と、そこへ並ぶ八人の人影を見たこと。
その姿は誰一人として判別できず、光の集合体のようにしか見えなかったこと。
その中で唯一、白髪の青年だけは姿も声もはっきり認識できたこと。
そして、その青年の口から"ワン・フォー・オール"という名前が出たこと。
二人は途中で一度も口を挟まず、静かに最後まで耳を傾けていた。
「……それと」
私は最後に、その青年から託された言葉を思い出す。
「オールマイトと、新しい継承者を手助けしてほしいって頼まれました」
「……!」
その一言に、オールマイトの瞳が大きく揺れる。
「まさか……先代たちが、そんなことを」
思わず漏れたその言葉には、隠し切れない驚きが滲んでいた。どうやら、この話はオールマイトにとっても初耳だったらしい。特に「新しい継承者」という言葉には強く反応し、小さく何かを考え込むように呟いている。
「そこまで……知っているとは」
しばらく沈黙したあと、オールマイトはゆっくりとリカバリーガールへ向き直った。
「まさかワン・フォー・オールに、まだ私さえ知らない領域があったとは……」
一度目を閉じ、静かに決意を固める。
「リカバリーガール。彼女には話そうと思います」
「オールマイト」
リカバリーガールの声色が変わる。
「私はあくまで治療のために、この場を整えたんだ。これ以上、被身子をこの話へ深入りさせるつもりはないよ」
その言葉には、私を守ろうとする強い意志が込められていた。
しかし、オールマイトは静かに首を横へ振る。
「ですが、彼女はもうワン・フォー・オールの存在を知ってしまいました。それだけで、狙われる理由になり得ます。それに、中途半端な情報だけを持ったまま、彼女が独自に調べようとする方が危険です。であれば、こちらから正しく話した方が安全だと私は考えます」
「それは……」
リカバリーガールはすぐには答えられなかった。私を守りたい気持ちと、真実を隠し続ける危うさ。その二つの間で揺れていることが、その表情からはっきりと伝わってきた。
「私も……その話、詳しく知りたいです」
気付けばそう口にしていた。ここまで来てしまった以上、何も知らないまま終わる方が、私には怖かった。
リカバリーガールは私の顔をじっと見つめ、小さくため息をつく。
「被身子、あんたはまだ分かってない。これは、あんたが想像しているより何倍も危ない話なんだよ」
その声には、医者としてではなく、一人の大人として私を守ろうとする気持ちが滲んでいた。
「確かに……私はよく分かってないのかもしれません。たぶん、覚悟だって足りてません。でも、助けてほしいって言われたんです」
自然と拳に力が入る。
「まだ私は学生です。半人前……ううん、それ以下かもしれません。でも、私は逃げたくないんです。助けを求める声から」
その一言だけは、胸を張って言えた。
リカバリーガールは黙ったまま私を見つめている。私は少し照れくさくなりながら、続けて小さく笑った。
「それに……」
「それに、どうしたんだい?」
リカバリーガールに促され、私は八木さんの方へ視線を向ける。
「八木さんは……私の患者第一号ですから」
一瞬、部屋の空気が止まる。
そしてリカバリーガールは、呆れたように大きく息を吐いた。
「はぁ~……そう言われちゃ、私も止めにくいね」
肩をすくめながら苦笑する。
「オールマイト、適度なところで頼むよ」
「分かりました、リカバリーガール」
オールマイトは真剣な表情で頷くと、改めて私へ向き直った。
そこから聞かされた話は、私の知る世界を大きく覆すものだった。
個性黎明期から暗躍し続けている、一人の巨悪の存在。
その男へ対抗するために運命的に生まれた、一つの個性──ワン・フォー・オール。
その力は一人で完結するものではなく、人から人へと受け継がれ、歴代の継承者たちが命を懸けて繋いできたこと。
そして、その対極に立つヴィラン、『オール・フォー・ワン』という存在。
歴代継承者たちが彼との戦いの中で命を落としてきたこと。
八木さん自身も、その戦いで今の傷を負ったこと。
一つ語られるたびに、胸の奥が重くなっていく。ヒーロー社会の裏側で、こんな戦いが何十年も続いていたなんて、想像したこともなかった。
「……」
話が終わる頃には、私は何も言えずに俯いていた。
オールマイトは静かに私を見つめる。
「……にわかには信じられない話かもしれない。だが、今話したことはすべて事実だ」
私はゆっくりと顔を上げる。
「確かに……すぐに全部を飲み込める自信はありません。でも、オールマイトが、こんなことで嘘をつく人だとも思いません」
それだけは断言できた。この人の目を見れば分かる。ここまでの話は、誰かを騙すためのものではない。
「私に何ができるかは、まだ分かりません。でも……もし私にできることがあるなら、その時は力になりたいと思います」
その言葉に、オールマイトは静かに微笑み、小さく「ありがとう」とだけ呟いた。
「そういえば……伝言を頼まれていたんでした」
ふと思い出したように口を開く。
「伝言? それはいったい……」
オールマイトが表情を引き締めた。
私はあの空間での最後の光景を思い返した。消えゆく意識の中、あの白髪の青年とは別に、一人だけ姿を現した黒髪の女性。優しく微笑みながら、「俊典に」と確かに口を開いた。だけど、その先が思い出せない。私の意識が消える方が早かった。
「えっと……」
焦れば焦るほど記憶がぼやけていく。何か大切なことだったはずなのに。どうしよう。
『被身子、聞こえる?』
「アルエちゃん?」
突然、頭の中へ声が響いた。思わず目を閉じる。
『私たちの中に、まだ彼女の残滓が残ってる。今なら、個性を使えば思い出せるかもしれないわ』
その言葉を聞いた瞬間、私は静かに息を吸った。
「少しだけ……試してみます」
二人へそう告げ、ゆっくりと意識を深く沈めていく。
アルエちゃんと同調する。私の意識と彼女の意識が重なり、一つになっていく。
暗い意識の奥。そこに、一人の女性が浮かび上がる。服装までは曖昧だったけれど、その顔立ちと立ち姿だけははっきりと残っている。
「……いける」
目を開くと同時に個性を発動した。私の身体がゆっくりと変化していく。
長い黒髪。穏やかな表情。どこか包み込むような優しい雰囲気。
その姿を見た瞬間、オールマイトの目が大きく見開かれた。
「まさか……その姿は!」
変化した私は、女性の面影を宿したまま静かに口を開く。
「俊典……」
その声を聞いたオールマイトの表情が震える。
「……お師匠」
絞り出すような声だった。
私は、いや彼女は、穏やかな笑みを浮かべる。
「俊典。笑顔を忘れるな。世の中、笑ってる奴が一番強いからな」
その言葉を最後に、私はそっと個性を解除した。長い黒髪が消え、見慣れた自分の姿へ戻っていく。
保健室には静寂だけが残った。
オールマイトは何も言わず、その場に立ち尽くしている。目の奥には驚きだけではなく、懐かしさや後悔、そして言葉にできないほど多くの感情が入り混じっているようだった。
私は静かに頭を下げる。
「……私からは、以上です」
しばらくの沈黙のあと、オールマイトはゆっくりと目を閉じ、小さく息を吐いた。
「そうか……ありがとう、渡我少女」
短い感謝の言葉だった。けれど、その一言には、どんな長い言葉よりも深い想いが込められているように、私には感じられた。
◇◇◇◇
あの後、話はひとまずそこで切り上げとなり、私は一人保健室を後にした。廊下を歩きながら、大きく息を吐く。
今日一日で起きた出来事があまりにも濃すぎて、頭の中がまだ整理しきれていなかった。
オールマイトの正体。ワン・フォー・オール。あの不思議な空間。歴代継承者たち。どれも現実味がなく、まるで夢でも見ていたような気分になる。
そういえば保健室を出る時、オールマイトが「来年からよろしく頼む」なんて言っていた気がする。あれは一体どういう意味だったんだろう。聞き返そうにも、その時は頭がいっぱいで、それどころじゃなかった。
「……気にするだけ無駄か」
小さく呟き、考えるのをやめる。
今はそれよりも、オールマイトを手伝うと約束してしまったことの方が気になっていた。勢いで「やります」と答えてしまったけれど、本当に私なんかが力になれるんだろうか。もっとちゃんと考えてから返事をするべきだったんじゃないだろうか。
そんなことを考えながら廊下の角を曲がると、見慣れた背中が目に入った。
「お疲れ様、被身子。どうしたの、やけに疲れた顔して」
福音君だった。背中からケーブルを伸ばし、学校に電力を補充しながら作業をしていた。
……というか、この学校、UCCの自動販売機がやたら多くないだろうか。ふと、そんなどうでもいいことが頭をよぎった。
「後ろ向きなのによく分かりましたね、福音君」
「気配がした……って格好つけたいところだけど、分かってたからね」
「分かってた?」
「これでも汎用人型決戦兵器を名乗ってるからね。そういうのには敏感なんだよ」
「それ、答えになってます?」
思わずツッコミを入れてしまう。昨日までの福音君だったら、もう少し遠回しな言い方をしていたはずだ。なのに現在は、どこか肩の力が抜けている。
変わった。本当に。まだたった一日しか経っていないのに。
でも、それを忘れてしまうくらい今日の放課後はいろいろありすぎた。
「福音君は……なんだか楽しそうですね」
「そう見えるかい?」
作業を続けながら、少し照れくさそうに笑う。
「ごめん。初号機が格好良すぎて」
「え?」
思わず聞き返す。
「急にどうしたんですか」
「いやさ、今までずっと目を逸らしてたんだけど、改めて気付いたんだよ。俺、自分の姿のことちゃんと好きだったんだなって。だからこれからは、もっと自分を出していけたらって思ってさ」
その言葉を聞きながら、私はじっと彼を見る。
本当に変わった。前までの福音君は、自分自身を隠すことに必死だった。でも今は違う。全部を変えたわけじゃないけれど、きっと、自分の見せ方を変えたんだ。
前みたいなミステリアスな雰囲気は少し薄れたけれど、その分、今の方がずっと近くに感じる。
……でも。少しだけ、本当に少しだけれど、変わりすぎた気もする。
「トゥ! ヘァー!」
気付けば私は福音君の真横へ回り込み、勢いよく脇腹へ軽い手刀を叩き込んでいた。
「うわっ!」
福音君がびくっと身体を震わせる。
「急にどうして!?」
「ごめんなさい」
私は悪びれもせず笑う。
「なんか、急激な変化がカァイくなくて」
「ごめん。俺も少しテンション上がりすぎてたかもしれない」
素直に謝ってくる。……なんだろう。今日だけで二人目だ。テンションが上がると、みんなこんな感じになってしまうんだろうか。
「二人目ですね」
「それは一体……?」
「なんでもありません」
私はそれ以上答えず、そのまま歩き出す。
背後では「あっ、待って」と福音君の声が聞こえた。けれど次の瞬間、「まだ補充中だった……!」と慌てた声が響き、自動販売機へ戻っていく音が聞こえる。
思わず吹き出してしまった。少し前まで悩み続けていた人とは思えないくらい、どこか間の抜けた姿だった。
でも、その背中を見ていると不思議と安心する。
きっとこれでいい。悩みながらでも、迷いながらでも、一歩ずつ前へ進んでいけばいい。そんな当たり前のことを、今日はたくさんの人から教えてもらった気がした。
私は小さく笑うと、夕暮れに染まり始めた廊下を、一人ゆっくりと歩き出した。