「僕のヒーローアカデミア 偽りの福音」 に変更しました。
さすがにエヴァのタイトルをそのまま使うのはマズいかなと思いまして……。
内容はこれまでの続きですのでご安心を。
言葉を得て、名前を得て。
“新世 福音”として生きるようになって、いくつかの季節が過ぎた。
世界は静かで、やさしい。
風の温度、陽の匂い、紙の手触り。
そうした細部の一つひとつが、僕に「今ここ」を教えてくれる。
包帯の下の僕は、いまだ“異形”だ。
肌に相当する組織は人工めいて硬質で、胸の奥にはコアがある。
けれど――流れる血は、人と同じ赤だ。
その温度が脈打つたび、僕は確かに“生きている”と思える。
孤児院の人たちは、そんな僕を恐れなかった。
だから僕も、人を学ぼうと決めた。
全にはなかった常識を覚え、ヒーローなんかも周りに合わせて覚えた。
幸いにして――前世の記憶のおかげで、文字はすでに読めたし、書けた。
ある朝、先生がやわらかな声で告げる。
「福音くん、来週は個性診断に行きましょう」
「個性診断……僕の個性を確かめるために…ですね」
「そう。世間ではね、個性はだいたい四歳ごろに発現するの。
だからこの時期に診断所で個性を調べて、役所に個性登録をする義務があるわ。
あなたは生まれながらの異形型で、身体の特徴はある程度わかっているけれど、正式な記録が必要なの。」
「それと――当日は待っている間に“事前診断票”を書いてもらうと、診断がスムーズに進むの」
「待合室で、僕が僕を言葉にする……了解です。僕が感じていることを書けばいい、ですね」
「ええ。それがいちばん正確よ。難しく考えなくて大丈夫」
胸の奥でコアが、静かにトクンと脈を打つ。
――僕は、自分を知りたい。
その願いが、透明な形になって胸中に沈んでいった。
翌日、先生と並んで診断センターに入る。
白い壁、白い床、消毒の匂い。
無菌の夢に踏み込むような、静かな緊張が足首から上ってきた。
受付を済ませると、職員が微笑んで紙束とペンを差し出す。
「新世 福音くんですね。
生まれながらの異形型の方は、個性がある程度判明していますので、こちらの事前診断票を待合室でご記入ください。
書き終えましたら受付へお持ちください。以後の検査と、役所への登録用書類の作成が速く作れます。」
「承知しました。ありがとうございます」
白い紙面はまっさらで、少し冷たい。
呼吸を整え、ペン先を落とす。――前世で覚えた文字が静かに線を結びはじめる。
個性名:人造人間
概要:胸部中央にコアが存在し、心臓の役割を代替。
血液は赤色で、人と同様に全身を循環。
摂食は可能だが、排泄は生理的に発生せず、摂取物は代謝・エネルギー化される。
身体能力は平均を上回る。
危機時、見えない“壁”のような反応が出現(詳細不明/防御的)。
書き終わると僕は立ち上がり、診断票を受付に提出する。
番号札を受け取り、再び椅子に戻る。
壁掛け時計の針が、白い部屋の空気を細く切り分けていく。
「新世 福音くん、診断室へどうぞ」
呼ばれた名に小さく頷き、僕は立ち上がる。
白い扉を押し開けた瞬間――肺の奥で、空気がひときわ冷たく澄んだ。
診断室はさらに白かった。
機器の低い唸り、計器の灯、無数のモニター。
その中心に、一人の女性医師が座っていた。
「はじめまして、福音くん。私は赤木 理久(あかぎ りく)。あなたの診断を担当します。よろしくね」
……息が、半拍遅れて胸に落ちた。
――赤木リツコだ。
いや、違う。ここはあの世界ではない。
それでも、整った金髪のボブ、無駄のない所作、冷静な眼差し――
記憶の中の“彼女”にあまりにもよく似ていた。
「……よろしくお願いします、先生」
僕の視線の意味を察したのか、彼女はわずかに口角を上げた。
「気づいた? 本来の私は男性なの。
個性で性別表現を変えられるから、今日は“子どもが安心しやすい姿”で来ているだけ」
「なるほど……。配慮という名の、やさしい変換ですね」
「ふふ。そう受け取ってもらえるなら嬉しいわ。
さ、はじめましょう――君という存在の、輪郭測定を」
その声と同時に、胸の奥でコアが明確に鼓動した。
運命が、少しだけ角度を変える――そんな予感があった。
診断室に、機器の低い唸りが満ちている。
白い光は冷たいのに、僕の胸の奥ではコアが静かに温度を保っていた。
赤木先生――今日は子どもを安心させるための“女性の姿”――は、タブレットを軽く指で払ってから、ゆっくり僕を見る。
眼差しは理性的で、同時に、驚くほどやさしい。
「では、問診から始めましょう。気楽に答えてね」
「ええ、先生。僕は、僕のことを知りたいと思っています」
先生はわずかに微笑んで、最初の問いを置いた。
「**診断票の個性名は『人造人間』**となっているけれど、どうしてその名にしたのかしら?」
「胸の中心にあるコアが、そうだと“告げている”感覚があるんです。
鼓動は心臓に似ているけれど、役割は少し違う。
僕を動かし、維持し、僕という存在の中心(核)を“定める”器官。
“造られた在り方”に、僕自身がうなずいた――そんな感じです」
先生は短く「自己同定による命名、了解」と記し、続ける。
「血液について。記載では『赤色で、人と同様に循環』とある。実感も、その通り?」
「はい。温度も、出血時の痛覚も、人と変わらないと思います。
ただ、大量出血時の回復は、人より速いように感じました。
実験したわけではなく、包丁で切ってしまった時の感覚からの推測ですが」
「止血・修復が速い傾向、ですね。後で軽微採血と凝固時間を測りましょう」
「代謝・排泄。『摂食は可能だが、排泄生理は発現せず、摂取物はエネルギー化』とある。
空腹感は?」
「あります。空腹は“熱が落ちる”感覚として来ます。
食べると胸のコアが少し温かくなり、体全体の出力が戻る。
……けれど、排泄の必要は来ない。
食べたものは、燃えて“僕を動かす”方へ収束している印象です」
「なるほど。代謝産物の排出経路が非定型。呼気・汗・皮膚ガスの比率が高い可能性。これも検査しましょう」
「身体能力。『平均超』とある。何か危険な力の自覚は?」
「いえ、普段は抑制が利きます。
跳ぶ、走る、持ち上げる――やろうと思えば強くできるけれど、
人を傷つけない範囲に調整できます」
「随意的な出力制御ね。良い傾向だわ」
「では**“見えない壁”の呼称**から改めて確認しましょう。
あなたは、それを何と呼んでいる?」
「ATフィールド――そう呼んでいます」
先生の睫毛が一拍分だけ揺れた。
「理由を聞いてもいい?」
「名前が欲しかったんです。
孤児院の子たちとヒーローごっこをしていた時、みんな“必殺技”や“ガード”に呼び名をつけていて。
僕も“壁”を出すときに、ちゃんと呼べる名があれば怖くないと思った。
……だから、“ATフィールド”。響きが強くて、やさしいから」
先生は目を細め、ふっと笑った。
「いい名ね。
では、公式登録名は“保護膜(通称:ATフィールド)”として添えるわ。
仕組みと手触りを、あなたの言葉で詳しく」
「基本は面です。僕の体から一定距離――だいたい腕を伸ばした先から掌一枚ぶん外側に、シールドみたいな硬い何かを置く感覚。
前面に板を一枚、あるいは強く念じると複数重ねる、どちらもできます。
貫通はされにくいのですが、衝撃そのものは体に入ることがある。
壁ごと押されると、僕の足が流れて――吹き飛ぶこともありました」
「可動の固定はしていない、つまりあなた自身の慣性は残る。
力を相殺するのではなく、接触面で力を“受け持つ”タイプね」
先生は手元の端末をスワイプし、壁のモニターに僕の胸部スキャンを映す。
赤の波形が規則正しい鼓動を描き、中央の球形の器官――コアが、呼吸とは独立したリズムで微光を返す。
「見える? これがあなたの“中心”。
心臓の様だけど、心臓ではない。
循環と出力、そして“自己”の安定を同時に担っている――そんな“ふるまい”をしているわ」
「ええ、感じます。
僕が僕であることを、内側から“肯定”する脈動。
鼓動というより、在り方の定着……先生、そんなふうに思えるんです」
「“存在の核”と表現しておきましょう。
良いニュースとしては――**役所登録の観点でも“恒常安定型”**の所見が出ている。
暴発しにくい構造は、あなたにとっても周囲にとっても安心材料ね」
先生はそこで、すこし声音を変えた。臨床家ではなく教育者のそれに。
「これから学校に通い、社会に触れる。
そこで大切になるのは、二つ。
ひとつ、“壁”は“守るために使う”と自分に約束すること。
もうひとつ、“強くなりたい時ほど静かに呼吸する”こと。
“壁”は拒絶にも抱擁にもなる。あなたの選び方が、あなたを決めるの」
「……はい。約束します。
僕は守るために、穏やかに、使います」
「いい子」
微笑みは、白衣の端整さに似合わないほど柔らかかった。
“本来は男性”という事実を、ふっと忘れさせるくらいに。
先生は続ける。
「発声器官は? 診断票では『正常』。声に違和感は?」
「話すことは、嬉しい。
言葉は、心のかたちを他人と分かち合えるから。」
「ありがとう。――最後の確認よ」
先生はタブレットを閉じ、真正面から僕を見る。
「“人造人間”であることを、あなたは“嫌い”ではない?」
少しだけ胸に手を当て、鼓動ではない肯定の脈を感じる。
「僕は、僕であることを選びます。
“どう生まれたか”より、**“どう在るか”**で、人になれると信じたい」
長い一拍ののち、先生は小さく笑った。
「――登録名:『人造人間』。分類:異形型(恒常安定)+防御発現。
備考:壁状反応は意思連動・情動影響あり。自己統御優秀。
安全管理:咄嗟のときは“深呼吸→狭く強く→短く止める”を基本」
端末に確定音が鳴り、プリンタが軽い紙音を吐く。
それは“社会の中の僕”が正式に刻まれる音だった。
先生はプリントをファイルに収め、僕へ差し出す。
「これで役所への個性登録が可能になるわ。
福音くん――あなたは“人として生きる準備ができている”。
あとは、選ぶだけ」
「ええ。誰かのために選びたい。
僕を受け入れてくれた人たちのように」
個性診断から、さらに季節はいくつか過ぎた。
僕は小学校に通いはじめ、規則正しい鐘の音に合わせて日々を歩く。
廊下を行くたび、空気は少しだけ波打つ。
包帯で覆った顔、露出した口元、瞳だけが覗く目。
背は子ども離れして高く、影は長い。
だからだろう、誰も近づいてこない。
けれど、いじめはなかった。
無言の距離は、時に平和の形にもなる。
僕は黒板を拭き、花瓶の水を替え、落とした消しゴムを拾う。
役に立つことは、言葉より先に届く挨拶だ。
先生は「助かるわ」と言い、何人かの子は小さく会釈を返した。
友達はいない。
けれど、穏やかな日々は保たれていた。
――その日までは。
放課後、河川敷をひとり歩く。
風は草を撫で、遠くで鉄橋が軋む。
高架下に差し掛かったとき、銀色の小さな鏡が夕陽を跳ね返した。
鏡を片手に、笑顔の練習をしている女の子。
笑っているのに、痛そうだった。
近づき思わず、声が出た。
「その笑顔は、心のどこかが泣いている――そんなふうに見えるよ」
言ってから、胸のコアが小さく脈打つ。
踏み込みすぎただろうか。
けれど彼女は逃げなかった。
鏡の向こうの自分を見つめたまま、ほんの少しだけ顎を下げた。
「……誰?」
「新世 福音。この近くの小学校に通っている。
君の“笑顔”が、君を傷つけているように見えたから、つい」
高架の影が、ふたりの間に薄い線を引いた。
???視点
――わたしは、血が好き。
家は“普通”。朝は味噌汁、夜はテレビ。宿題、歯みがき、「ただいま」と「おかえり」。
世界は角砂糖みたいに四角くて甘い形で並んでいる。そこから、わたしだけが少しはみ出す。
はじまりは小鳥だった。公園の端に落ちていたスズメ。羽が乱れて、赤がこぼれて、まだあたたかい。
わたしはしゃがみこんで、そっと抱きあげて、口を寄せた。
……生きてる味がした。鉄みたいで、でも甘くてやさしい。胸の奥がほどけるみたいに。
そして私は血が好きになった。
わたしは家に帰って、血が好きなことを笑顔で親に話した。
「なんだそれは! 異常だ!」
家に帰ると、お父さんは黙って難しい顔をして、机をトントン叩いた。
お母さんは泣きながら、わたしの両手を強く握って言った。
「普通になりなさい。普通の笑顔をしなさい。普通の子でいなさい」
その日、矯正って言葉を覚えた。世界は角砂糖、はみ出す形は削られる。
それからわたしは仮面の練習をはじめた。
血の話はしない。匂いがしても深呼吸で押し流す。
笑顔は口角二ミリ、目尻一ミリ、息は止める。
家の鏡の前でやると、お母さんが言うの。
「そんなことも自然にできないの?」
夕方の河川敷。高架の下、川面がオレンジに染まる。
草の匂い、遠くの自転車のベル、風がスカートの裾をすべっていく。
わたしは手鏡を出して、口角二ミリ、目尻一ミリ。――仮面、装着。
胸はすこし苦しい。呼吸を忘れてしまうから。
そのとき、気配が揺れた。
目を上げると、川のほとりの草の上に、ひとりの男の子が座っていた。
包帯で顔を覆って、片膝を立て、肘をのせて、水面の光をじっと見ている。
夕焼けの風に、包帯の端がかすかに揺れた。覗いた瞳は深い緑。
ほんとうは怖いはずの姿なのに、怖くなかった。
遠い星みたいに静かで、責める目をしていなかったから。
「その笑顔は、心のどこかが泣いている――そんなふうに見えるよ」
沈黙が、ひと呼吸ぶん落ちる。
鏡に映る仮面がわずかにぶれて、わたしの口が先に動いた。
「……誰?」
「新世 福音。この近くの小学校に通っている。
君の“笑顔”が、君を傷つけているように見えたから、つい」
福音視点
高架の影がゆっくり伸びて、川面の橙に夜の色が混ざりはじめる。
僕は草の上に座ったまま、**鏡の中の“仮面”**を見つめている彼女へ、波紋になるように声を投げた。
「どうして、笑顔の練習をしていたんだい?」
彼女は少し肩をすくめ、鏡を胸に抱きよせる。
「わたしは“普通”でいなくちゃいけないの」
「どうして、“普通”でいなくちゃいけないんだい?」
風が一拍はさんで、彼女の喉が小さく鳴る。
「“普通”じゃないと、みんなの顔が冷たくなるから。……それが正しいって、言われたから」
それは呪いの言い方だ、と胸の奥のコアが静かに告げる。
僕は立ち上がり、距離を崩しすぎない一歩だけ近づいた。
「少しだけ、僕の“普通”を見せてもいい?
驚かせたら、ごめん」
彼女が、ためらいながらも頷く。
僕は指先で包帯の端をつまみ、ゆっくりほどく。
額、頬、顎――皮膚のない、淡い筋肉の地図が夕焼けを吸い、緑の瞳が露わになる。口元は布の外で、人間と似た歯並びが静かに覗いた。
「これが、僕の“普通”だ」
「……こわい、かも。でも――見られる」
「ありがとう。周りの人は、これを“普通じゃない”と呼ぶ。
その言葉は、ときどき胸を冷たくする。
普通に思われないのは、悲しいね」
彼女の指が、鏡の縁をぎゅっと掴む。
僕は包帯をふたたびゆるく巻き直し、声だけを残す。
「君のことを、教えてくれる? できる範囲でいい。ここは僕たち二人だけだから」
しばらくの沈黙。川音が言葉の代わりに流れて、やがて彼女は小さく息を吐いた。
「……血が、好き。小さいころ、道ばたでケガした小鳥を見つけて……血がきれいで、チウチウした。あったかくて、胸が楽になって……それから、そういうのが好きなんだって、気づいたの」
「うん」
「でも、それを言ったら、家で怒られた。『普通じゃない』『そんな笑い方はおかしい』って……。だから、普通の笑顔を練習してるの。言われた通りに、ちゃんとしようって」
彼女の声は、石の下から見つかった小さな泉みたいに震えている。
「ありがとう。苦しい記憶を、話してくれて」
言いながら、僕は彼女の顔を見た。
仮面の跡がうっすら残っている。目の下の緊張は薄氷みたいで、触れればぱきんと割れてしまいそうだ。口角は上げる癖だけが残り、呼吸のたびに滲む痛みが、その形の端から零れている。
――動けなかった頃の自分を思い出す。
声も出せず、ただ視線だけで世界に触れていたあの日々。
それでも、孤児院の大人たちは毛布のあたたかさをくれ、子どもたちは名前のない僕に話しかけてくれた。
捨てられた僕に、居場所という返事をくれた。
いま、彼女はひとりで捨てられている。家の中にいながら、外に置かれている。
助けてもらった僕が、辛そうな人を見過ごすのは――不公平だ。
お節介だと分かっていても、僕は彼女の隣に座ることを選ぶ。
「“普通”って言葉はね、人の数だけ違うんだ。
無理に合わせるものじゃない。
君がそのまま呼吸できる形こそ、本当の“普通”だよ。」
夕風が草を渡る。波音のように静かな間を置いて、僕はまっすぐに告げる。
「でもその“普通”を続けていたら、いつか君が壊れてしまう。」
言葉を刃にしない。布にする。
そっと包むように、しかし曖昧にはしない。
「僕の前では、君は君の“普通”でいていい。ここは、呼吸を止めなくていい場所にしよう」
彼女の睫毛がかすかに震えた。
「……どうして、そんなことを言うの?」
「僕がそう言われて救われたからだよ」
胸の奥でコアが静かに鳴る。
「産声も上げられず、形だけの存在だった頃、『ここにいていい』と先に言ってくれた人たちがいた。
その言葉は、檻の鍵になった。
だから今度は、僕が先に差し出したい。君の“好き”が最初に着地できる場所を」
風が草を撫で、川音が間を繕う
「もうひとつ。不公平の修正でもある。
君が息を止めつづける世界を、僕は見過ごせない。
呼吸を“まちがい”と呼ぶ言葉のほうが、ほんとうは拙いから」
彼女は小さく息を呑む。
逃がさないように、でも追い詰めないように、声の温度を保つ。
「僕は壁になる。外が冷たくなったら、先に当たって砕ける面でいる。
そのあいだに、君は君の速さでほどいていけばいい。
仮面のない笑顔は、いま決めなくていい。頷くだけでも、十分だ」
夕陽が一段と深くなり、彼女の瞳に橙が溶ける。
指先が鏡から離れて、胸の前でそっと握られた。
呼吸が、ひとつ、静かに通る。
風の音が、言葉の余白をやさしく埋めた。
僕は少しだけ身をかがめて、視線を合わせる。
「ねえ、君の名前を教えてくれる?」
トガは驚いたように瞬きをして、それからためらいがちに口を開いた。
「……トガ ヒミコ。」
僕は穏やかに笑って答える。
「僕は――新世 福音(しんせい ふくいん)。この近くの第三小学校に通ってる」
彼女は目を見開き、手鏡を握る指を少し震わせた。
「……えっ、第三小!? わたしも……同じだよ!」
「そうなんだ。じゃあ――」
僕は一呼吸おいて、夕風の中でゆっくりと微笑む。
「時々、二人で話さないか? “仮面の君”じゃなくて、“本当の君”と話すのがいい。
きっと楽しいと思うから」
トガは、ほんの少しだけ目を伏せた。
「……わたしと話してて、楽しいの?」
「ああ。嘘の笑顔よりも、君の言葉が見える今のほうが、ずっといい」
その言葉に、彼女の肩がふっとゆるむ。
そして――
トガはゆっくりと、自然な笑顔を浮かべた。
作りものではない、心の底からあふれた素の笑顔。
血のように紅く、けれど痛みのない笑顔。
「……変じゃない?」
「ううん。そっちのほうが、ずっときれいだ」
彼女は少し照れたように笑い、頬を指でかいた。
「……なんか、変な人だね、君」
「よく言われるよ」
二人して、ふっと笑った。
高架を電車が通り過ぎ、遠くで犬が吠える。
橙の光が草の上に落ちて、風が少し冷たくなる。
「じゃあ、また明日」
「……うん、また明日」
彼女は小さく手を振り、夕暮れの向こうへ歩いていった。
その背を見送りながら、僕は胸の奥のコアがやわらかく明滅するのを感じた。
――あたたかい。
それは、きっと“心”が動いた証だった。