想起
過去というものは往々にして、現在の航路を縛る錨となるものだと思う。こんなことを大湖の連中に言ったらなんて顔をするのかわからないけれど。
自分たちが鯨共に執心していることが誇りになっている奴らは、そう言った過去を今の在り方を作った羅針盤だとでも言うんだろうか。
私はあそこで終わった、なら今の私は何だというのか。弱い自分に酔いしれて、幸福を幸福とも思わないで守ろうともしなかった。そんな所業で全てを失った私には弱さを挫くことが唯一の希望だ。
でも届かない、私の力は代表にすら届いていない。私の目指すものはそこで止まっていいものじゃない。ただ、力を求めることだけが私の生き方。あの時の後悔を引きずって、地面に跡を残しながら歩くのが私の道だ。
私は、23区の裏路地の中でも巣に近い区域で過ごしていた。美食の路地なんて揶揄されているところだけど、私が住んでいた区域は血の匂いや、人殺しの噂は少なかったし、青白さも今よりも少し綺麗に感じていた。これは私の感性が変わったのか、本当に色彩に富んでいたのかもう調べる術はない。
そこでは珍しく親子があった。父と母そして私という娘で成っていた。両親は比較的高位のフィクサーであったから、路地の他の住民からも抑止力として恐れられていた。
そのおかげで私は巣の中に負けずとも劣らない安全を享受していられたし、少しだけ戦闘について教わることもあった。
「なあリィン、少し訓練してみないか」
「くんれん?」
「そうだ。父さんみたいに強くなれるぞ」
「やる!お父さんみたいに強くなりたい」
昔の私はそれがただの遊びの延長だと思い込んでいた。父のその陽だまりのような笑みと、暖かい声は私の記憶に深く刻みつけられている。
最初に父に連れられてやってきた広場は周りに家も何もなく、少し不気味だった。その理由のはぐらかしも、代表と似たようなものであったと思い出した。
多分どちらもよく知らなかったのだと思う。私は当たり前のように聞けば答えが得られると思っていたから、性懲りもなく聞いて困らせていた。今度は聞かせてくれるかと、期待を膨らませて聞いていた。代表を困らせたことは恐らくない。
父は刃引きしてある剣を渡して、自分の思うように振ってみろと言った。私はその通りに父が母との手合わせでしているように見よう見まねでやってみた。 私は自分に才能があるという手応えを感じていた。
だが、父は、母に怒られている時と同じ顔をして、手痛い酷評を与えた。振るうときに体が前のめりになっているだとか、剣に振られすぎだとか。子供にするものであるから、小さな針で突かれるようなものではあった。それでも、あの時の私には痛みというだけで泣き喚ける余裕があったのだ。私はそれが、きちんと教えてくれているのだと分かってはいた。
訓練の終わりにはいつも、頑張ったなと言って頭を撫でてくれた。それが、一番自分を認められている気がして嬉しかったのだ。
でも、私はその褒められることを目標にしてしまった。
私が13歳になった頃。父は初めて刃引きのされていない剣を私に渡してきた。
「お父さん。これは?」
「これはな、リィンが13歳になったお祝いだ」
「ほんと!?嬉しい、大事に使うね」
朝の光が差し込み父の体が光を受ける。私は彼の硬く暖かい手から受け取って高揚していた。
自分は、物を与えられるほど認められているのだと。それだけと誤解してただ舞い上がっていた。剣というものの用途は何か理解していなかった。
「さて、これから出かけるか」
「出かけるってどこに?」
あまり家の敷地内から出たことがなかった。守るものがいても一足先は人殺しの横行する地域。少女が出歩く場所ではないのは火を見るより明らかだから。
父の期待を込められたような柔らかく口角を上げた顔に惹きつけられて、その短い足を進めていった。
青白さに幾ばくかの赤黒い絵の具を混ぜた景色。住み慣れた地域よりも濃い血の臭い。道の方々に横たわっている人々。彼らは休んでいるようでもあり永遠に眠っているようでもあった。
でも、流れ出ている血がそんな状態でも生かされているのだと思い知らせた。壁に対し、骨の見えた拳を振るものもいた。歯を食い縛り何度も何度も。
その光景を隣の大人は少し荒れた部屋を見るかのような眼差しで見ていた。
「おい、ここらの取り締まり役の方が何の様だ」
服の役割を果たさないほど擦り切れたボロ切れを身につけた男。私には彼が隣の大人と同じ生き物に見えなかった。明日も生きれない哀れな獣。私はそんな獣に可哀想などと思ってしまった。
「いい話があるんだ。私の娘と手合わせをして欲しい。もし君が勝ったら、君には私の予備装備とある程度の金をあげよう」
父は両の手を上げながら、私を賭け金のように提示した。
「娘を道楽にでも使うのか?俺たちに負けず劣らずのクズだな、お前も」
「はは、君たちには勝てないよ。平気で人を騙し、空き家に潜むネズミ共。それにあの子を道楽にはさせないよ」
私たち家族には向けない、棘に巻かれた口調だった。
顔に浮かべる笑みは、見た目こそいつも通りだったがその表情の奥には目の前の者への殺意のようなものが潜んでいると子供ながらに読み取れた。
「大丈夫だよ、リィン。あいつらには負けない、君は私たちの自慢の娘だから。いつも通り剣を振ってあいつらの体を切ればいい」
先程の棘を隠して、毛布で私を包むように父は言った。
今思えば、あの代わり様は少し気味が悪い。だが、恐らく父が身につけた処世術であったのだろう。
「さあ、ちゃんと持った?よしじゃあ始めようか」
父はこれから散歩をするみたいな軽快さで私に準備ができたか尋ねた。
私はそれに対して少し震えながら答えた気がする。今も依頼の時に感じる胸のざらつきはここから始まったのかもしれない。
「本当にすまないな。でもこっちも命がかかってるんだ」
粗暴な人間にも一定の礼儀はあるのか、はたまたただ見下しているだけなのか。どちらとも取れる言葉を男は言い切って、路地の男たちが数人、私に向かって走って来た。 棒切れや、錆びついた剣など武器と呼ぶにはあまりに粗末なものを携えて。
前方、後方双方から彼らの足音は聞こえてきた。遠近の明確な音に私の体は惹きつけられる 。
後方、鉄棒を持った男。振り下ろしを横に避け、彼の腕へ剣を下ろす。耳に入った呻き声と共に振り返される私の剣は、赤い軌跡を描いた。
一人。
後ろへ目を向けている間に、先程までの正面にいた二人に距離を詰められた。 一人が横に錆びた剣を薙いだ。避けず突貫、腰から脚にかけて割く。眼前の男が仰け反った。
その瞬間、風の音と共に視界の中心を何かが支配する。
反射的に体を逸らしたが、切先が頬をかすめたようだ。顔の左側にほのかな熱を感じ、揺れる意識の焦点が戻る。訓練の慣れが役立った。痛みは慣れない者には、動揺を与える物でしかない。だが、思考を研磨するものにもなる。と父が言っていたことが脳によぎる。
それに習い息を細かく吐いて、落ち着ける。
あと二人だ、大丈夫倒せる。
武器を投げた男には予備は無い、押し切れる。そう思って倒れた男を踏み台にして突き進む。
しかし、前方から破れかぶれに振られた脚が私の体に突き刺さった。腹の内部が潰されて、掠れた汚い声が漏れる。
「おぐえっ......くふ」
訓練をしていたとしても施術も何もないただの子供。大人に蹴られれば簡単に吹き飛ぶ。
容赦の無い蹴りに襲われて、視界が滲んだ。
硬く冷たい壁を堪能させられた間に、先程私が倒した男たちも起き上がっていた。
私の方に少しずつにじり寄り、獲物として私を見つめていた。
父に目を向けても手を振るばかりで動く気配はなく、自分で何とかする他なかった。
虫が中で這い回っているような腹に手を当てて、立ち上がる。先程とは違う雑な道をなぞって得物を振るった。
幸運にも私の剣は迫る男の胴と腰を分けた。抵抗なく入る刃から伝わる柔い感触に自分が重なった。そして、初めての景色と臭いが私の体に染み渡った。路地に舞う臭いとは程度が全く違っていた。
その命を私が散らした、私が奪ったのだ。
私が初めての人殺しを成したのを見てか、父は私に近寄ろうとしていた他の男をみんな肉にしていた。
抜かれたはずの彼の剣は乾き切っていて、彼は満足げな笑みを浮かべていた。
「初めての実践なのによく頑張った」
父は剣をしまい、私と目線を合わせてさっきまで命を奪っていた手で頭を撫でてくれた。
褒められたことと命の脆さをその目で見たことが、散乱した臓物や血液の色の空気で私を満たした。
褒められて、命を守らなければ。そんな風に私の生き方は歪んだ。