彼の圧倒的な暴力をあの場で見てからというもの、父の賞賛を浴びることが生きる術だと私は思い込んだ。
そして、次第に自分という存在を殻へと押し込むようになっていった。
父の顔が険しくなれば、体を固め叱責に備える。彼の足音が家でする時は彼の腕が届かない距離に逃げ続けた。
しかし、それらはただの取り越し苦労であった。振りもしない災難に怯えて、這い寄る苦難から目を背けたのだ。
事実、彼は依頼の失敗や不備は自分のせいだと考える人であった。そのような人間が少し出来の悪かったくらいで、私に剣を振るうとは今では到底思えない。
彼はあの出来事があった後もいつもの日常と変わらずに私の鍛錬に付き合ってくれていた。変わった点と言えば真剣での打ち合いになったことだろう。それも、私の足に枷をはめるものであったが。
体に傷がつく頻度が増すたびに私の恐れは強くなっていった。彼も私の年齢が上がるたびに何につけてもほめるということは少なくなっていった。
その重ね合わせが、私をあの場から遠ざけたのだ。
「父さん。私、独立してフィクサーになりたいんだ」
当時の私からすれば護身のための一世一代の家出宣言だった。
この言葉を木製の机で夕食を摂っている父へ言った途端、私を見る父の目は同業者を見る鋭い目つきへと変わった。
自分の喉奥から呼気が滲み出てきた。一つ、小さな照明だけが私たちを照らしている部屋ではそれが私の胸を貫こうとする刃にしか見えなかった。
「リィン。お前はその意味を分かっているのか。この都市で、一人で生きることは大変という言葉では足りないんだぞ」
出た来たのは至極真っ当な、心配に満ちた言葉だった。芯の周りにしっかりと揺れがあった。
「そんなことはわかってるよ。今まで父さんに連れられて、嫌という程見てきたんだから」
「なら、どうしてだ」
反論に私の口は塞がれた。
どうして。その言葉が私の心に爪を立てて残った。
逃げることに必死になるが余り、言い訳の思案が間に合っていなかった。失敗した。
近づいてくる、父の手を反射的に振り払いたかった。でも、肩を掴まれて問いただされた。
「もう一度聞く。どうして、そんなことをしようと思った」
まともな理由なんてなかった、ただ逃げたかった。恐怖に向き合うことなく逃げ続けたかった。そんな浅慮な感情で動いてしまった。
それに対する弁明なんて大それた物は、瀕死の重体で生き延びられると言い張るほど滑稽なものだ。
「ごめんなさい。調子に乗りました。許してください」
私からは命を取らないでくれと懇願することしか出来なかった。
「そんな大袈裟に言わなくてもいいよ。誰だって自惚れる事はあるからね。フィクサーになりたいなら独立せずともなれるから、一回免許が取れるか試してみよう」
ただ、平坦に聞こえた。
彼の言葉はただの気まぐれなんだと勝手に刷り込まれた。
彼の姿を目に入れたくなくて、私の体は勝手に視界を滲ませた。
私はただ首肯して、そのまま俯いた。
弱さを見せれば狩られる、家族でも同様だ。私にとって父親こそ最も神経を注ぐべき者だった。
私は父の言ったことを実現しようと、後日フィクサー協会支部へと赴いた。
南部ハナ協会23区支部。白と黒の四卦を玄関の顔として、佇んでいた。
鉄球が括り付けられたみたいに足が重く感じていた、しかし、それでも行かなければならなかった。
「南部ハナ協会23区支部へようこそ。要件は依頼でしょうか、フィクサー登録や事務所登録でしょうか」
白を基調にし、黒色の線状の装飾を肩に施したロングコートを着た女が私に事務調に話しかけた。
閑散とした屋内では彼女の声はひどく響き、まるで空いた席に観客がいると思い込んでいる雰囲気だった。
「フィクサー登録をしたくて、ここに来ました」
「フィクサー登録ですか。なら何か能力を示すもの、戦闘能力であったり情報収集の技術等が最低限あることを提示してもらいます」
父が言った通り私は彼の名前を使った。彼女は少し目を見開いて、私の事を眺めると
「へえ、君があいつの娘さんかあ。こりゃ可愛いねえ」
今までの雰囲気は霧散し、とても馴れ馴れしく、砕けた口調で話してい始めていた。話は暴投され、元に戻さなければならなかった。
「あの、免許の件は」
「ああ、済まないね。君の出自からすると9級には届いてるだろうし免許は発行できるよ」
「そんななおざりに業務をしても大丈夫なんですか」
彼女から先程の硬さが無くなったからか、私は普段しないような問いを投げていた。あの空気感が私には心地よかったのかもしれない。
「なおざり、か。まあ確かにそう見られても仕方ないねえ。でも、私もフィクサーやって長いから、それぐらいの実力は見ればわかるものだよ」
彼女の言葉からは、軽薄な強がりが顔を覗かせなかった。私とは遥かに違う強い人間だと羨望が胸に湧いた。
「そういうもの、ですか」
「ああ、そういうものだ。理不尽や、意味不明だとしても、ね」
理不尽、その言葉が私の中で反響していった。
「さて、後は降格処分や、免許剥奪が罰則として行われた事例についてだけど。もう説明しなくて良いかな」
それは、直感での業務放棄を逸脱していないだろうか。
「良からぬ印象を持つのはわかるけど。そもそもそんなことを説明したくらいで最初からやる奴はやるんだよ」
私の目線と合った瞬間に彼女は諦念混じりにそう言ったように聞こえた。ただ息だけが漏れるのを止めることが出来なかった。
「それに、そういった馬鹿をする奴らは駆け出しの子たちの良い小遣いになってくれるから。上手い事できているよ本当に」
彼女は、この世界の機能を小馬鹿にしながら語った。
静寂が私たちを覆おうとした瞬間、疑問が湧いた。
「どうして、私の話を信じたんですか。嘘を言っている可能性だってあるのに」
私を彼の娘と断定した事。
「それも直感だったけど。まあ、今の言葉を聞く感じ本当らしいね。実際はちょっと似てるなあっていう欠片程度の根拠はあったけどね」
この世界で生きてきたからこそ、そういった感覚が研ぎ澄まされてきたのだろうか。その疑問までは私の口を滑る事はなかった。気が引けたのか、もし改造などならそれを知って危険が降りかかるのを恐れたのか。
「それに、それが仮に嘘でただ免許を取得したいだけの輩だったら数日で死ぬだけだしね。そこまで慎重にならなくて良いのさ」
冷たい言葉だった。でも、それは私の胸に地面に落ちる小石くらい容易く落ちてきた。
私も彼女の言う輩と同じみたいなものだ。父に言われて、怯えて、ここに来ている。重ならない訳がなかった。
「そうだ、君があいつの娘って分かったから聞きたいんだけど。なんでフィクサーになろうと思ったの」
彼女は、喜劇を待ち望む観客のようにこちらを見つめていた。
昨日も父から聞かれた質問だ。そんなものに答えるだけの理由なんてない。
「ただ、自分にはそれだけだと思ったから。弱い自分にできることはこれだけだって」
頭にはなかった言葉が口から這い出ていた。
「そっか、生きたいからとかじゃないんだ。それは、少し良くないかもね」
良くないとはどういう意味だろうか、命に関わるものではないからという意味なのか。
思わぬ言葉が自分から出てきたことへの困惑と、それに重なるように流れてくる謎に頭が破裂しそうになってしまう。それでも口と胸は声を上げた。
「どうして良くないんですか。自分の事を省みて、できる事を少しでも考えた結果命を捨てる仕事に就くことの何が」
「そこだよ。命を省みない、馬鹿じゃないのか。こんな世界でも君は子だ、親も存命している。そんな子供が命を捨てようとするもんじゃない。大人しく親の脛を齧って生き長らえていれば良いのさ」
観客だった彼女は、主人公を引き留める相棒に役を変えていた。私を睨み、腕を掴んでいた。それでも、力は軽くて傷つけるためのものではなかった。
「そんな心構えで生きられるんですか。あなたのことは知りませんが、協会に入ってることで甘くなっているんじゃないんですか。それに、何で私に肩入れするんですか。私はただ、あなたの友人の娘、ただの他人だ」
ひどい顔をして私は彼女を見ていたのだろうか。彼女の眉は先程とは反対を向いていた。
「今、そんな気持ちでいる必要はないと言いたいんだ。そして、その答えは昔のあいつに似てるからだ」
父に似ている。私は受け入れたくなかった、あんな人と私が似ているなんて。あの人は私の命を軽んじている、だからあの場に放り込んで人を殺させるように仕向けた。そんな残虐性が私にもあるだなんて認められなかった。
「似ている、ふざけないで下さい。あんな人と私にどんな共通点があるんですか」
湧き立った感情は言葉になって噴き出した。
「そうやって、直情的で抑えが効かない所だよ」
冷めた口調でそれに蓋をされた。
彼にそんな素振りはなかった。いつだって、私に冷静な口調で話しかけていたし、あの時だって飛び散る内臓をゴミみたいにしか思ってなかった。直情なんて言葉は真逆の彼を表す言葉だろう。
「あいつは、何かを守るために全てを犠牲にできる人間なんだろう。愛する者を守りたい、その一心で行動している。だから、あいつの嫁さんが死にかけた時、仲間に目もくれず突貫したって話を聞いたな。ツヴァイに入っていないのが不思議なくらいだ。話した時恥ずかしがる様子もなく、平然と言うものだから驚いたよ」
そんなことがある訳が、ない、筈だ、だってあの人は。
「顔を見るとわかるよ、信じられないんだろう。それに君の顔を見て少し嫌な予感がした。何されたんだい、あんな事を言うだけの感情になるのは並大抵のことではないんじゃないかい」
自分が受けてきた重圧を、私はこの人にぶち撒けるべきだろうか。見ず知らずだった他人に。それに、もしこの人が言ったことが丸っ切り嘘で、私が彼への関わり方を変えれば、彼の激情を買う事になるかもしれない。そんな風に死にたくない。
「そんな風に怯えられたら、聞くに聞けないよ。分かった。私がついていくよ、それで何したかあいつから聞きただしてやる。だからそうやって泣かないでくれよ。仕事場なんだから」
そう言ってくれた後、彼女はカウンターを飛び越えて私を抱き締めてくれた。
暖かかった、あの血の暑さとは違う包み込むような暖かさ。私の体にそれが伝わってくる毎に涙が湧き出てきた。今までの感じた苦しみを押し出すように。
「仕事が終わるまではまだ時間があるから、裏で休んでいきな。なに、少しサボってもバチは当たらないさ」
頭を撫でながら彼女はそう言って、私を従業員の控え室に連れて行き仕事に戻って行った。
控え室は、ベッドや小さめの椅子があるくらいで仮眠室というのが正しい様子だった。窓もなく、普段ならば閉塞感が勝つのだろうがこの時ばかりはそんなものは吹き飛んでいた。不意にベッドに転がり込みたくなって体を重力に預けた。家のものとあまり変わらない手触りだが、何故か温もりを感じた。そんな風に楽しんでいるうちに、意識が遠くなって行った。
「 い。おーい」
声が聞こえる、何だろうか。
敵。ギャング。
その考えが頭に巡った途端私の体に一気に血液が周り、飛び起きた。
「あらまあ、随分と寝起きは良いんだねえ」
声の方を見ると、受付の彼女がいた。
安息が漏れて、体から力が抜け落ちた。そのせいで少し身体がふらついてしまった。
「おっと、無理しないでおくれよ。これから帰るってのに、元気じゃなかったら逆恨みされちまう」
彼女は冗談を言って私をからかった。それが楽しかった。
「さて、あんたの家に帰んなきゃね」
でも、その言葉が私にまた、枷を嵌めた。
「分かってるつもりだよ。苦しんだことだけは。私が代わりに殴ってやるから安心しな」
また、私は震えていたのだろうか。そう言った彼女と共に私は自分の家へと帰って行った。
朝ぶりに帰ってきた家はひどく久しぶりに来た場所のように感じた。彼女が私の後ろについてドアを叩くように言う。
意を決して私はドアを開けて、一言。
「ただいま」