数分、駆け足混じりに歩いていくと、レンナの脚が止まった。それを合図として辺りを見回すと、人型の的や身を隠せるだけの壁などの分かりやすく訓練を行うための設備が金網越しに見える場所についた。
私が幼い頃に使っていたところよりも、何倍も広い。これなら数百人単位で訓練を行うことができそうだ。
彼女が、鉄扉に鍵を差し込む。見た目に違わず、地面を削りながら重厚な音を立てて開いていった。彼女はその小さな体躯からは想像がつかない膂力で押し開けた。一体どんな施術を受けたのだろうか。
中に入ると、外から見た時よりもその空間が広大に見える。いや、見えるというより実際に広いのか。明らかに外から見るよりも奥行きがある。裏路地の五大組織なだけあって資金力は莫大なんだろう。
彼女の足が進むのを見計らって私もその空間へと入ろうとする。だけど、なぜかレンナが私を腕で制した。
「私が先に入るべきだ。君はこの場所を何も知らないだろう」
なるほど、尤もだ。私が何かミスをすれば依頼相手でも、この人も、中にいる人もきっと危害を加える事を躊躇はしない。自分が自分の想定よりも走る気持ちを持っていたことを見つめ直す。
彼女の歩みに合わせて、訓練場へと入る。
石がすり潰されている匂いが、赤黒くなっている内壁と合わさってこの空間は使い古した調理器具のような印象を与えてくる。
辺りを見回すと、錆びた銃剣の刃や、ボロボロになった人型の的が乱雑に押し込まれた部屋。厳重に施錠され、注意書きのような文字で埋め尽くされた板が掛けられた扉が見えた。
「鍵が付いているのは、弾薬の保管庫だよ」
私がそこに視線を向けているのに気付いたのか、彼女は私の顔を見上げて言った。こうやって見上げられると、子供が母親に対して話しかけているような気がしてしまう。
「そんな目をしないで、イライラする。私は君よりも歳は上なんだから、そんな生暖かい目はこっちがするべきだよ」
そうなのか、見た目に違う雰囲気をしているとは思っていたけれど。この都市である程度生きてきたつもりではあるけれど、まだまだ不思議なこともあるものだ。
私が目を逸らすと、彼女はため息を吐きながら歩き始めた。
広場に近づくために、煉瓦の壁で挟まれた坂の緩い曲がった通路を歩く。遠くから、微かに金属音や砂が擦れる音が聞こえる。
「煉瓦というのは、親指に相応しい資材だとは思わないかい」
「......私にはよく分かりませんが」
「煉瓦というのは、整然と組まれ自分をあるべき場所にあるべきように慎んで存在している。私はこれが親指のような礼儀正しさだと思うんだ。
皆が自身の格や役割を理解し、組織のために、目上の人のために動き、その体を収める。親指と同一視しても差し支えない」
質問の体をなした、一つの説教だろうか。こんな建材一つを取って、自分の正当性を誇示しようとするのは代表やクレスさんから聞いていたように指という組織の碌でもなさを表しているように思える。自分たちを自分たちで正しいと思わせればいいのに。
煉瓦を手でなぞりながら、彼女はスロープを降りていく。
「でもね、礼儀で縛られるべき欲望とそうでないものは切り離すべきでもある。自分の身を守る、のし上がる、これらの保身や出世欲なんてものは巡り巡って私達に利益を与える。
今朝、私が見逃した男は欲に忠実で誠実だった。欲望に礼をしっかりと施していた」
だから自分も礼を返した、と言いたいのだろう。私からすれば、それ以外の横暴が限らなく重い負債となっているようにしか見えない。一つの偽善が溢れ返った悪行を染め直す事なんてない。
私だって、それは分かった、分からされた、分かっているからこそ。ただ、愚直に、実直に、貪欲に力を身につけるために動いている。
「その欲望が、組織に利があっても組織を害する場合は、どうするんですか」
納得という水で飲み下せなかった疑問が、逆流してしまった。親指に質問は、禁句だ。
自分の身を守る為に腰の剣に手を伸ばす。
「その場合は、利益だけをそいつから掠め取るさ。親指が損害を受ける事なんて全員が平等になることと同じくらいにあり得ないさ」
私の危惧は取り越し苦労として一旦霧散する。その一方で彼女の宣教は続いていた。ひどく傲慢で、目を背けたくなる思考だ。だけれども、裏打ちされた力は確かなもの。私が欲しいものの一端の筈だ。
見たくないものが、その実必要な物。そんな事は何度もあったし、きっとこれからも経験するのだろう。しかし、数度数える内に私の命が消えてしまう可能性だってあるわけだが。
そんな事を考えながら、レンナの後ろをついて行く。度々こちらを見ながら、微かに口角を上げているのが見える。その気色悪さが、何とも言えない彼女らしさのように感じられた。
スロープを渡り始めた時から聞こえ続ける、金属同士が打ち合う音が近づいてきたと思った瞬間その音が鳴りを潜めた。
レンナはスロープの終端に立ち、話をしている。きっと相手は親指の人間だろう。今更かもしれないが、指の人間との関わりはなるべく少ない方が良い。
レンナの話し相手から見えない所に身を潜めていると、彼女の側から手招きされた。
余計な事をしないで欲しいのに。
断ればどうなるかは明らか。渋々、彼女の元へ向かう。
彼女が会話をしていたのは、二人の親指の男だった。左襟元にある2つのプレートを見るに彼女より一段階階級は下なのだろう。
「この女が、貴女の言っていた…確かに良い目をしていますが…」
「が、なんだ?」
「少し、迷っているように見えます。目的地だけがあって道を知らない子供のような。そんな印象を受けます」
私の意志も意見も介在する余地もなく、ただ自分を解体されている。道を知らない?そんな事はない。私はいつだって、今だって走っている。走れているのは道を知っているからだ。
反論の資格も与えられず、ただ目の前で私の吟味がなされている。検品されるような不気味なものは…ああ、この左手の剣か。
「成程、私が感じていた違和はそれか。だからくすんで見えたのか。助かる、これで方針が固まった」
「お役に立てて何よりです」
男が、レンナに対して胸を当てて礼をする。ここではあの様な堅苦しい礼が通っているのだ。初対面の時もレンナは私にああやって礼をしていた。
いまさらそれが何だと言うのかと言われれば、返す言葉もないけれど。
「……それを見せてくれ」
レンナと話していた男の隣にいた男が、私に話しかける。
代表と同じくらいの背丈で、私より頭一つ分大きい。その威圧感は代表が依頼相手に向けるものと雰囲気は酷似していた。でも、あの人の方がもっと刺す。そこにいる相手が自然発火すると錯覚させる程のものを振り撒いてくる。
「……胆力はあるな。今はそれはどうでもいいが」
そう言いながら、私の左手に癒着した剣にその男が触れようとした瞬間。
荊が、その男の心臓目掛けて伸びていく。私が体を後ろに引き、荊の到着を遅らせる。それが功を奏したのか元々の彼の技量か判断できないが、荊は彼の長銃で受け止められていた。
「……ただ触れようとしただけでこれですか。レンナ様、貴女が破壊を試みた時はどの様になりましたか」
「私がバトンに推進弾を惜しみなく使う羽目になったよ。酷いものさ」
手を挙げて質問の許可を得る事を試みる。
「…何だ」
ため息から発話を始めるのが癖であろう男から許可を得たと認識し、頭に浮かぶ疑問を言葉にする。
「私が、死んで?いる間に何をしたんですか......」
「私があの部屋で言った事が殆どだ。後は、その荊の利用方法の考察くらいだな。良い結果は得られなかったが」
好き勝手にされていた訳ではない。そのレンナの証言は私の疑問を晴らすには届かないが、一先ずの溜飲は下がった。
「さあ。ずっと話しているばかりじゃあ、私がつまらない。方針も決まった訳だ。今すぐ始めよう」
レンナは手を叩いて、その話を切り上げる。彼女は二人の男に目で何か合図をしたのが見えると、男達はその場から離れていった。
今から、この人に私は扱かれるのだろうが武器はどうすればよいのだろう。この荊を使うのも癪に触るし、ここにあるものを使えば制裁が飛んでくるやもしれない。
「そう辺りを見回すな。これ、返すよ」
声が聞こえた方を見るとレンナが鞄をこちらに投げていた。
中に手を突っ込むと初めに出てきたのは、私がいつも使っている熱棒だった。鞘から引き抜き、軽く数回手癖で振るう。出力される動作が馴染み深いものであったから、私はこの場で初めて息を深く吸うことができた気がした。
「ありがとうございます。拾ってくれて」
「何、部外者に親指の備品を勝手に触らせるわけにはいかないだけだ」
少し乱暴な言い草だが、次元鞄に入っていた、刃毀れのあった間に合わせの武器もしっかりと手入れされていた。武器に対して調査なり何なりしていたのを見るに、几帳面なのだろう。
通路を抜け、広がる視界が私の息を呑ませる。
地平線が見えるほどに広大な空間。通路からの光景とはまた違う印象に何度目か分からない驚きを感じる。
靴が砂と擦れ合う。私があの血鬼から逃げた時もこんな感覚の中で歩いていた。
唾棄すべき思い出に心を許していると、荊が少し跳ねた気がした。それと同時に、あの男の声が少しずつ頭に響き始める。気持ち悪い。少し黙ってくれ、黙れ、黙れよ。
数呼吸の間抑え込むと、私の頭を無遠慮に汚していた声は止み、荊も肘のあたりまで後退していた。
これなら、左手でも得物を使える。
その安堵も束の間、レンナの小さな口から大きな声が発される。5メートルほど離れているのに、机越しに話しているのかと錯覚した。
「良い?これから、私が小言挟みながら君と何時間か打ち合う。殺しはしないけど、腕の数本は無くなるかもしれない。まあ、留意しておいて」
その合図に身構えた瞬間。
彼女は、私から腕二本程の距離まで迫って来ていた。
跳び迫ってきた姿勢のまま、彼女は私の胴を両断しようとしてきた。すんでの所で身を逸らして避け、左手で全身を支え腰をひねる。
刃が振られ、ガラ空きになった彼女の横腹に蹴りが入り数メートル先まで吹き飛んだ。
横目で彼女を見ると、剣を地面に突き立てて斥力を軽減させていた。
殺す気がない?嘘を吐くな。そう言いたかったけど最初に戦った時よりも確実に殺気は薄い。これが、親指の訓練。
無理に動き、少し体が痛むが許容範囲。
鞘に熱棒を入れ込み、着火させる。紅色の炎が剣身から迸るのを視界の端に捉えながら彼女を見た。
その時には既に蛇腹剣が私の足を目掛け、伸びて来ていた。
回避、間に合わない。熱棒を闇雲に振るうと、蛇腹剣の一部が熱棒に絡みついた。力の限り振るい、細くなっている部分を何とか切り落として自由を得る。
纏う炎が私の顔の近くでちらつき、汗が滲んでくる。拭う余裕もない、そして彼女は攻勢を崩さない。
弾いても、蛇腹剣の一部を破壊してもあの剣の刃が使い捨てのカッターのように折れた先から新たな刃になる。彼女の攻め気を制御するのではなく、最大限許容する武器の作り。
あれを作ったのは、彼女を深く理解している人物だろう、何ともまあ羨ましい。
何度も向かってくる刃を弾き、斬り、逃げ、避ける。
彼女に有効打を与えられないまま数度同じことを繰り返しても彼女の姿勢一つ崩すことができない。
最初に与えた打撃も簡単にいなされた。その一方で私は隙を晒され、致命的にならないすんでの所で加減をされている。
自分を一級フィクサーと対等だと思うだけの戦闘力だと改めて実感する。
だけど、私はこの機会を無駄にするわけにはいかない。対応しろ、神経を研ぎ澄ませ。反射しろ、彼女の一挙手一投足に。
彼女の加減で生まれた、時間の一片。それを冷静さの補填へ回す。目を深く閉じ、内省する。
私は強くなる、ならなきゃいけない。だから、ここは通過点だと思わなければいけない。目の前の相手を越えられないで何が強者だ。
目を見開く。回復した冷静さが、視界を鮮明に情報を的確に処理させてくれている。
彼女の動きは毎回、どこかぎこちない。反転、踏み込み、振り払いどれをとっても。私にも分かる事、それ即ち意図的なズレ。
それ以外、それ以外はどこかにないのか。
思考の最中、彼女から向けられる剣を鞄から出した長剣で絡めとる。
巻き付いた剣身を自切するかもしれない、その危惧から長剣を地面に突き立てる。
彼女は咄嗟に柄から手を離す。しかし、彼女の動きに明確な遅れが見えた。
先程までのわざとらしい物とは別の真の隙、私が作り出したもの。全力で彼女に肉薄する。
武装解除、焦り、それらによって見えた隙の線。それを私は渾身の剣で、なぞった。
陽炎と共に、彼女の胴に一閃が入る。私が繰り出せる最良の一撃だった。それでも、目の前にいる少女のような体躯の女は、二つの足で地面に立っていた。
油断から、彼女の手が首元に来ている事に気づかなかった。
顎を掴まれ、地面に叩きつけられる。接地の瞬間に受ける振動が脳を揺らし、私の手から剣が離れてしまった。
口内が切れたのか鉄の味が舌を包み込んで、涎が出てしまった。
彼女は膝を折りたたみ、地に臥した私に視線を合わせる。
「今のは、良い剣だった。意図的に晒したわけじゃない隙をちゃんと突いて来た。だけど、威力はお粗末だったね」
彼女は私の斬った筋を見せてきた。彼女の服を何とか切り裂き、薄皮を火傷させる程度。それくらいしか、届かなかった。
力を振り絞り、剣を持ちながら起き上がる。狙うわけでもなくただ徒らに刃を振り回す。
たが、それは避けられる事もなく、彼女の手で掴まれていた。
屈辱が、私の頭を沸き上がらせる。ここまでして届かなかった事にも、今この瞬間止まっている事にも私は耐えられなかった。
彼女の手を掻っ捌いて、バラバラにすれば収まるだろうか。その思考を実行に移しても少し彼女の手から血が垂れるだけだった。
私を見上げながら、彼女は言った。
「君に私は可能性を見た。ああ、そうだ。しっかりと思い出した。事実は一つ、私は君をただあの時に見ただけだった。それだけだよ、私が君に執心するのは」
理外だ、コイツは私の理解の外に居る。私を相手にする理由も、態度も気持ち悪くて仕方がない。
嫌悪が一定を超過して、漸く頭が冷えていく。
彼女の手から刃を離し、頭を下げる。
「申し訳ありませんでした」
いくら頭に血が上ってしまったとしても、訓練相手にする礼儀ではなかった。これは、私の誠意だ。
「まあ、確かに酷い行動だ。私が温厚でなければ君の腕は飛んでいただろう」
そこに対しては私は返す言葉もない。歯を食いしばりながら、彼女の続く言葉に耳を傾ける。
「ようやく、君の陰りが少し晴れた。私の見立ては正しかったようだ」
陰りという人に使う言葉としてここでは不適切なものに、内心で首を傾げる。
疑問を払拭するため質問をしようと顔を上げ、彼女の目を見つめた時だった。最初のカフェ、彼女の部屋で見た時と同じ目を彼女はしていた。私の奥を見つめるどこか不気味な目。
何となく、彼女が見ているものの正体が彼女の話から組み上がる。
「私の、欲望を見ている?」
零れ落ちた言葉に、彼女は帽子を取って胸に当てて微笑んだ。
「正解だ」
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