依頼
何か聞こえる。優しい、暖かい声が脳髄に響き渡る。
これは夢だろうか、ずっとこの声に浸っていたいとすら感じるほどの心地よさ。だが、同時にそれは自分の心を他人に土足で踏み躙られるような不愉快さもあった。
その気持ち悪さで自分の頭が現実を見る準備を終え、切り替わっていく。 目を焼くほどの極光に包まれた不気味な空間から真っ暗な視界、そして見慣れた景色へと変わる。
灰色の天井、無機物の臭い、触り心地の悪い寝具。 自分が暮らしてきた、馴染み深く、されど俺を縛り付ける事務所。 23区の裏路地の一画に佇む寂れた自宅で今日も起き上がることができた。
寝具を軋ませながら、まだ重い体を起き上がらせる。緩ませてあった水筒に入れていた水を口に含むと冷たい感触が喉に伝わるのと共に外気が鼻へと侵入する。
今日の空気もどこか血の臭いが混じった様な異臭がしている。誰かが外で争いでもしたのだろうかと薄暗く、建物と道しかない路地を見ながら考える。「巣」と比べれば本当に殺風景だ、嫌でも慣れるしかなかったが。
準備運動の手始めに腕を振り、体を伸ばしながら深呼吸をして、体の状態を整える。 パキパキと小気味良い音が鳴り、眠っている間に強張った体がいつもの様に戻るのを感じる。今日も体調に悪いところはなさそうだ。
いつからか習慣になった軽い運動を終え、施錠してあった倉庫から栄養食を取り出し頬張る。
味は、やはり不味いな。まあ人肉食に比べればまだマシだ、とっとと飲み込んでしまおう。全く、あの嗅いだ瞬間に不味いと脳が訴える鉄臭と歯にまとわりつく食感の何が良いのか。美味いと喚く奴らの気が知れない。
さて、今日片付けるべき依頼はなんだろうか。包装紙を捨てて、ラックにかけたコートを羽織る。
着替えを済ませ、自室の扉を開く。
扉を開けた先はこの事務所で唯一床や壁が丁寧に加工された、少し高い料理店程度の様相の部屋。護衛や殺害などといった依頼が雑にファイリングされた紙束が交渉用の机、椅子にまでも散らばっている。
椅子を陣取る紙束を手に取って机に戻し、改めて危険度、報酬ごとに整理していく。
誰だ「都市の星」案件をこんな小さな事務所に送ってきた奴は。
この依頼内容ならもう少し金を絞れるかもしれないな。
報酬は良いが、何か裏が?だが、この組織は有名なもの、悪評が立てば利益に関わる。そんな真似をわざわざするだろうか。
等々を思案する必要も法外な条件で依頼を提示してくる輩もあった。
こうやって目先のことで考えねばならないことが山ほどあるというのに、どうしても依頼者の歪んだ顔が思考に割り込み、自分の頭の一部を埋める。こんな悪癖を抱えてよくここまで生きてこられたものだな。
下手な同情など、背中を刺される原因にしかならないのに。
突然、事務所の玄関の扉が大きな音と共に開けられ、敵襲に備え長剣を手に取る。
「代表!今日の仕事はなんですか!
って!得物構えるの止めてください!私です!」
頭が割れるかと危惧させる程の声量で女が挨拶をしてきた。
「うるさいな。あんな音を立てるのが悪いだろう。それに、術後なんじゃなかったのか。よくもまあ、そんな上機嫌にしていられるものだな、リィン」
乱暴に開けられた玄関には栗色の短髪を備え白色のシャツに真っ黒なトレンチコートを身につけた女が、身の丈ほどの大剣を壁に置いて息を整えていた。 どんな速度で走ってきたらあんなにも息が絶え絶えになるのだろうか。
「ははは、すみません。体の力が強くなって、気分が良くなったのではしゃいじゃいました。」
「全く。その様子だと施術の副作用もこれと言った問題もなさそうだな。安心した。二人しかいないこの事務所で、お前がいなくなったら人手が足りないどころの話じゃないからな」
流石に人員を増やしたい。しかし、こんな所で働く物好きが果たして見つかるのだろうか。
「ご心配ありがとうございます。施術は代表がおすすめしてた所で受けたのでお金も少し浮きましたし、性能も良いものになりました。ありがとうございます」
先程の快活な様子から打って変わり、リィンは丁寧な言葉で感謝を述べた。
その言葉にはあいつらの様な、澱んだ感情はないように聞こえた。こんな風に感謝を述べられるのは久しぶりだ。
「そうか、あそこで受けたか。また依頼が来たら少し贔屓してやらんとな」
貸し借りは出来るだけ精算しておくに限る。
「ところでだ、リィン」
俺は壁にもたげている黒々とした刀身と白銀色のパーツで補強された大剣を指差してリィンに質問した。
「あの大剣はどこで買った?見たところ、階級がそこそこ高い、BからA級の間くらいの工房のものに見えるが。いくらしたんだ?え?言ってみろ」
「えーと、ざっと100万から150万くらい?」
「幅が広すぎるだろう、誤魔化したいなら最初からそう言え。実際はいくらだったんだ?」
「120万とちょっとです、いい買い物しちゃいました」
まあまあな値段だな、だがこの品質の物がその程度で買えたのか。自信はないが相場は300万くらいか、それよりも上、だとすると不思議な割引幅だ。
「意外と安いな、一体どんな手を使ったんだ?拷問か?脅迫か?」
「そんな物騒なことしてないです。商人だったので、持ってた装備を下取りしてもらっただけですよ。まあ、あちらはあまり品質を分かってなかったのでちょっと吹っかけましたが」
最後の言葉と共に、少しだけ彼女の目が正面から逸れた。
悪どいことはやっているじゃないか。まあ文句を言うつもりはない、こんな世界なのだから騙されてしまう方が悪い。だが、昔に比べて中々肝の据わったことをするようになった。あの時はそんな事を考えもしなかっただろうにこの世界がそうさせたのか、はたまた彼女の生来の気質か。どちらであろうと足元を掬われる前に相手を転ばすには少しは必要な事だ。
しかし、一つ気になることがある。
「なあ、リィンその大剣の出所は何処からなんだ?」
どうやってその武器が裏路地に、それもただの商人の下へ渡ったのかだ。場合によっては廃棄も検討せねばならない。
「出所、ですか。商人本人は単に、とっても珍しい掘り出し物を見つけた。と言って舞い上がっている様子でした、これである程度は食事には困らない、と」
「なら、商人自体がフィクサー等の武力を持っている個人であるということは考えにくいか」
「そうですが、指などの組織の庇護下にある可能性は捨て切れないのでは?いや、組織がわざわざそんな金蔓に自分達の資金源になるものを渡すことはあるんでしょうか、すみません。変なことを言いました」
「いや、十分考えてくれた。助かる。」
そういった条件を考えると、一つ思い当たる節があるが、まだ確証には遠いな。
「その武器は、道端に落ちていたりしていた、といった風には言っていなかったか」
「どうでしたかね、ちょっと思い出します」
そう言って、彼女は頭の右側面に親指を軽く押し当て、少しだけ顔を顰めた。
「頑張って思い出してみましたが、そういったことを言っていた記憶はないです。何か思い当たることが?」
「ああ、確証はないが一つだけ」
プロファイリングされた資料の中から、数枚の紙が束ねられたものを取り出して見せる。
「『都市悪夢』迷い星。最近22区の方で発生したねじれだと推察されている。情報屋の連中の調べや目撃者の証言によると何者かの親である人間が優先的に狙われているとのことだ」
都市悪夢という言葉を聞いてか、彼女の目線が今までよりも鋭利になる。
「こいつと、あの武器にどういった関係があると考えたんですか?」
目を細め、頭を傾げて訝しむ様子で彼女は聞いた。
「こいつに襲われた人間は、星になる。そして、星になるときに身につけてある武器等の装備品はその場に放置される。ということがわかっている」
「なるほど、つまりあの武器は迷い星の手にかけられた人の遺品だったかもしれない、という事ですか」
壁にもたれた武器に目を向け、憑き物が取れたかの様な表情と共に言葉を発した。
しかし、その直後に顔に陰りが生まれ、口元を少し震わせながら言葉を発した。
「一応、聞いておきたいんですけど、その星というものは「都市の星」じゃないですよね」
「ああ、そんな事をこいつがしていたら「都市悪夢」で収まるはずがないからな。そこは安心していいだろう」
都市を恐怖で照らす星々。
そんなものを一介のねじれが量産することになれば地獄すら生ぬるい光景になる。だが、そんなことになったとしても都市の支配者が直々に出張るかどうかは怪しいところなのだから腹が立つ。
「昔に比べて星という言葉に敏感になったじゃないか。何かあったのか」
今までは、奴らの事を何となく危険度の極めて高いものと認識している様子だったが、先程の様子は捕食者に怯える獲物のようだった。
どういった心境の変化があったのだろう。
「その、言葉にしづらいんですけど。都市疾病とか、それよりも脅威の都市悪夢の連中と戦って自分の立ち位置をまざまざと思い知らされたというか。自分がまだ弱い、奪われる立場なんだって思うと怖くて。
だから都市の星なんてものと戦いたくない、死にたくない、って怯えるようになったんです。
今まで、こんな所で生きてきたのに。今更、怖気付き始めたんです。
恥ずかしい話ですよね。」
右腕で左腕を押さえながら、俯いた調子で彼女は言った。先程までの快活さはどこへ行ってしまったのか、掘り起こされた恐怖で震えてしまっている。
確かに、その恐怖は理解できる。生きることのみに神経を注がないようになれば、不完全に得てしまったものを奪われる事を極度に恐れてしまう。それでも、
「刺激してしまった。すまない。だが、この都市で生きるのならその恐怖と向き合って生きなければならない。それはお前もよくわかっている筈だ、リィン。強化施術を受けたのもそのためだろう」
心まで腐れば立つ事もできないのは知っている。現状から目を逸らす言葉に意味がない事も。
今までの態度が空元気だったのだとしても、それに戻るだけでもいい。この言葉が正しいのかどうかは分からない。それでも、ただ見ているだけでいられる状態ではなかった。
俺の言葉に意味があったのか、時間が経って冷静になったのか、彼女の震えは収まり始め、胸に手を当てて深呼吸をして、数秒黙り込んでいた。
「ありがとうございます。発破をかけてくださったおかげと、ちゃんと吐き出せたので落ち着けました」
その言葉とは裏腹にまだ彼女の腕には少し震えが残っている。それを自覚しているのか手力強く握られていた。
「そうか、それは、良かった。だが、申し訳ないが武器の出所に関係なくこの迷い星の依頼は受けなければならない、と思っている」
彼女の目が再び鋭くなる。しかし、先程までの怖気はなく力強い目だった。
「理由は主に、被害範囲の拡大だ。区を越え、検問を越え、巣、裏路地問わずに被害が出ている。俺達もいつ襲われるか分からない」
この世界はどうしてこう、俺達に対してこんなにも苦難を振り撒くのか。安心して暮らしてはいけないのか。
どうしてだ。憎悪が燃料を掛けられた火のように湧き出てくる。駄目だ、落ち着くべきだ今は。
「代表?大丈夫ですか、急に黙り込んで」
「ああ、大丈夫だ。少し考え事をしていた。施術後の力加減には慣れたのか。もしまだなら模擬戦でもして慣らそう」
自分の中のモノを遠くに押しやって平静を保つ、他の事を考えて忘れようとする。だが、自分の声が掠れているのは嫌でも分かる。
「わざわざ付き合ってくれるんですか。ありがとうございます。それでは準備してきますね」
彼女は、足早に自室へと戻る。その足音は少し乱暴だが、テンポは一定で冷静さも感じられた。
先程の感情を綺麗さっぱり忘れるためにも俺も、準備しなければならない。だが、まだ仕事をしていたい気分だった。
こんな風に振り回されるのは久しぶりだ。悪態とも懐古とも言える言葉が頭に浮かんでは消えていった。
俺は上手くやれているのだろうか、姉さんならもっと良い言葉をかけていたかもしれない。
書類仕事は余計なことを少しだけ忘れさせてくれる。この情報を吟味し終えたらあの子のために準備しよう。
上澄みの普通とは似ても似つかない日常に俺はこの上なく満足していた。だが、守りたいものを守ることができる力にはまだ遠く及ばない。仮初の平穏に心を蕩かせてしまえば、そこで終わりだ。そのために俺はあの子の、リィンの依頼を受けたのだから。
優しい声を聞いたことがあるんですが、土足で踏み躙られたなんて思いませんでした