その拳には、確かな手応えがあった。
力は抜いた。彼の意識をこちらに向けさせるには十分だ。
十数秒すると、男は無言のままゆっくりと立ち上がると、鼻を押さえて息を吐く。赤が床に点を打つ。
さあ、どう出る?――そう思ったのも束の間だった。
男は何事もなかったかのように元の席に戻り、頬杖をついて、またぼんやりと窓の外に視線を移した。
「……えぇ……あんた、それマジ……?合ってる?そのリアクション……」
唖然としながら、私は少し引き気味に呟いた。
「あぁ、そうだ……。急に殴るなよ。あんまり急に人を殴らない方がいいぞ」
思い出したように、男はぼそりと口にし、空いている手で鼻をさする。
「あんたが無視するからでしょうが」
もちろん手を出した私が悪い。でも、理屈じゃなかった。
「あー……すまん。なんか、別のこと考えてたかもな。で?用件は?」
男は悪びれる様子もなく、ぬるい返事を寄越してきた。
ぶん殴られた側が謝ってくるなんて、参ったな。
あのとき、しょうもない冒険者に煽られた苛立ちをこの男にぶつけただけなのかもしれない。思い返すほどに自己嫌悪が膨らむ。
「……いえ、特に用はないのだけれど。その、殴っちゃって悪かったわ」
「ん、いいよ」
「あぁ、うん。そうね……」
なんだこいつ。
とても人間とは思えない温度で、流れるように会話が終わっていく。返す言葉を探しても、口から出てくるのは空気ばかり。
「あんた、ここにいるってことは冒険者?」
「まあ」
またもやる気のない返事。
「私、メティス・イグレナ。今日このギルドに登録したの」
「そうか」
こちらの名乗りすら興味を示さない態度に、再びイラっとくる。
けれど、深呼吸してこらえる。ここでまた怒っても無意味だ。
「あんたは?」
「……ゼハン。ゼハン・ハヴェスト」
吐き捨てるように名を告げた男。
……こいつ、多分……じゃない。確実に変な奴だ。
「クレープ屋やりながら冒険者してるの?」
「いや、クレープ屋はクエストでやってただけだ。店主が腰を痛めたらしいから、今日はたまたま」
クエスト?あの美味しいクレープが?
「……そうだったのね。そういうのもあるのね、クエストで街のお店の手伝いとか」
「そうみたいだな」
また会話が止まる。
これ以上関わると、調子が狂いそうだ。今日の私はすでに限界を迎えている。クエストを見る気力もない。
私は席を立ち、ギルドを後にする。帰りの足取りは思った以上に軽い。
空を見上げると、茜と藍がじわりと溶け合いながら夜を呼び込んでいた。
そんな中、後ろから急ぐような足音が聞こえたかと思うと
「ねぇ!暗い青髪の剣士ちゃん!」
明るく響く女性の声に、私は振り返った。
「ねぇねぇ!」
私より十センチは背が高い、たぶん百七十センチくらい。
金髪にオレンジ色のメッシュがちらほら混じるポニーテールの女の子。
満面の笑顔が眩しいほどだ。何か面白いことでもあったのだろうか。
腰には彼女の武器であろうガントレットが下がっている。
「なに?」
「見てたよー!ギルドの集会所!あの調子乗った男たちに一喝入れて黙らせたの、超爽快だったよー!」
声が大きい。やけによく通る声に私は思わずたじろぐ。
「は、はぁ……」
「それに、あのいつも角に座ってる男!あれも殴り飛ばしたでしょ!滅茶苦茶するなーって思って!」
まるで自分が殴ったかのように、彼女は右ストレートを空に放って再現する。
「えっと……それで、私に何か用?」
「あ、そうだった!私、アリエッタ!アリエッタ・セラファ!よろしく暴力剣士ちゃん!」
「あのねぇ……その呼び方やめて。私、メティス・イグレナ。メティでいいわ」
「うわー!見かけによらず可愛い名前してるねー!よろしくメティちゃん!」
「ええ、よろしく。アリエッタ」
この街に来て、初めて同年代の女の子と話した。
騒がしそうな性格で、普段ならきっと距離を置いていただろう。
でも今は、悪い気はしない。
「それでね!メティちゃん、この街来たばっかりでしょ!」
「そうね、よく分かったね」
「ギルドで登録してたのチラッと見てたし、キョロキョロしてたし!」
「悪かったわね、田舎者で」
「そういう意味じゃないよー!でも、困ってることいっぱいあるでしょ?私が色々教えてあげる!」
拳で自分の胸を叩く彼女は、まるで頼れる姉貴分だぞと言わんばかりに見えた。
「ありがとう、正直助かるわ」
「んじゃ、ご飯奢って!酒場に行こう!続きはそこで!」
「そんなことだろうと思った……。仕方ないな、安いところにしてよね」
落胆したふりをして笑う。……内心では、ワクワクしていた。
酒場は活気に満ちていた。アルコールの匂い、蝋燭の灯り、ざわめき。全てが私にとっては異質だった。
私とアリエッタは空いたテーブルに座る。
「メティちゃんって、こういうとこ来るんだ?」
「全然来ない。来たことはあるけどね」
「そっかそっか!とりあえずエールとご飯頼もうよ!マスター!」
彼女は堂々と店主を呼び、注文を伝えた。
「すごいな……私、人前で大声出すの苦手だから」
「そうなの?人前で大男殴り飛ばせるのに?」
「……まぁ、それとこれとは別かな」
「別だね!殴る方がヤバいもんねー!」
ぐうの音も出ない。
そんなやりとりの中、木のジョッキ二つを店主がテーブルに置いた。
「アリエッタちゃんの友達かい?サービスしとくよ!」
「あ、ありがとうございます……」
友達、か。
「んじゃ、無事に友達になれた記念に――乾杯ー!」
木のジョッキがぶつかり合い、コツンと音を立てた。
口を付けた黒い液体は泡立っていて、舌に乗るとシュワッとした感覚が走る。その後にくるのは、圧倒的な苦さ。
「……苦い……」
「だよねー!私も最初はそうだった!けどそのうち飲めるようになるかもよ!」
「そういうもんなのかねぇ……」
「誰かが言ってたよ。酒は最初不味いけど、楽しいことや辛いことを乗り越えていくと美味くなるって」
「それって、どういう意味なの?」
「いや、全然わかんない!」
「……わかんないんだ」
「うん!」
笑い合う私たちの間に、ふっと風が抜けた。
これから楽しいことや辛いことがあるのだろう。きっとこの不味い酒も、いつか美味しく飲めるのだろう。そんな予感がした。