夕焼けが、崩れたビルの稜線を血のように染める。
三人は屋上から屋上へ跳躍する。ナグサが先頭でスナイパーライフルを構え、遠くの路地を監視。
アヤメが中央で百蓮を握り、ユカリを背後に守る。
下の通りでは、銃声が遠く響く――増援が旧市街を封鎖し始めている。
ナグサが振り返り、言う。
「敵は三方向。東の橋は封鎖済み。アヤメ、屋上を西へ抜けるルートでいい?」
アヤメは頷き、ユカリに微笑みかける。
「西の屋上ルート、悪くないね。私としては、博物館まであと十分。ユカリちゃん、息は大丈夫?」
ユカリは銃を肩に担ぎ、八重歯を覗かせて笑う。
「はいですの〜! 身共、こんな冒険、初めてですわ! でも……博物館、絶対に行きたいんですの!」
屋上の風が、少女たちの髪を乱す。
アヤメは歩きながら、紫瞳を細めて尋ねる。
「なるほどねぇ……ユカリちゃん、博物館に興味がある理由、もっと聞かせてくれる? 私も、歴史は好きだから」
ユカリの顔が夕陽に輝く。
「実は、身共の家系、昔はキヴォトスの守護者だったんですわ! 博物館の奥に、『勘解由小路の槍』が展示されてるって聞いて……あれが、身共の先祖の武器なんですの! 触ったら、先祖の誇りがもっと強くなる気がしますわ!」
アヤメはくすりと笑う。
「ははは! 先祖の槍かぁ……伝統と絆、いいよねぇ。私としてはも歴史を知ることで、みんなのモチベーションが上がるかなって思うの。私も、実は……」
彼女は一瞬、言葉を切り、百蓮を撫でる。
「……昔、委員長になる前に、博物館で『調停の石碑』を見たの。あれが、私の信念の原点。だから、ユカリちゃんの槍も、きっと力になるよ」
ナグサが、屋上の端で銃を構えながら呟く。
「……アヤメの原点」
「アヤメ先輩の原点ですの!? 身共、感動しましたわ! 博物館で、一緒に先祖の力を感じる……これぞ、百花繚乱の絆ですの〜!」風が止む。
前方、博物館の尖塔が見える。だが、その手前――屋上の影から、新たな敵影。
ナグサの銃口が光る。
一発。
敵が倒れる。
戦闘は、一瞬で終わる。アヤメは微笑む。
「はいはい、そういう感じね。博物館まで、あと少し。私たちは、ユカリちゃんを守るから安心してね」
ユカリの笑顔が、夕陽に輝く。
「身共、みんなと一緒なら、どんな敵も怖くありませんわ! 社会科見学、最高の思い出にしますの〜!」
博物館の扉が、遠くに見える。
銃声は遠く、博物館の奥はまるで別世界だった。薄暗い照明が、古い木の床を優しく照らす。空気はひんやりと澄み、紙と墨の匂いが漂う。少女たちの靴音だけが、静かに響く。
ユカリは展示ケースに顔を寄せ、八重歯を覗かせて息を弾ませる。
「わあ……これが、『鬼火の玉』ですの! 昔の百鬼夜行では、夜道をさまよう人を惑わす怪異だったんですって。でも、百花繚乱の先人が、退魔の札で封じて……今はただの光る石ですわ!」
アヤメは隣で、紫瞳を細めてパネルを読む。
「ふむふむ……『鬼火は人の迷いを映す』か。心の弱さを試す怪異、ね」
ナグサは無言で後ろに立ち、アヤメの背中を静かに見守る。
「……アヤメが興味ある? なら全部見よう」
次の展示は、巨大な巻物。
【怪異図鑑・其の七 「雪女」】 冬の山に現れ、息を吹きかけて人を凍らせる。しかし、百鬼夜行の娘が自らの孤独を差し出して語りかけ、雪女は涙を流し、春を呼ぶ存在へと変わったという。
ユカリが頬を染める。
「孤独を分かち合う……これ、原点ですわ! 身共、胸が熱くなりますの〜!」
アヤメはくすりと笑い、百蓮の銃身をそっと撫でる。
「ははは! 力じゃなくて、言葉でね。私たちも、そうありたいよね」
百花繚乱調停委員会の本質は、対立者同士の調停である。お互いが納得し、平和的な解決することである。しかし武力で制圧して争いを消滅させるのが現在である。
さらに奥へ。
ガラスケースに、割れた鏡が置かれている。
埃一つなく、しかし鏡面は歪んでいる。
パネルには、静かに文字が浮かぶ。
【怪異図鑑・其の十三 「ドッペルゲンガー」】
「会えば死ぬ」と恐れられる影の分身。だが百鬼夜行の古記録によれば、それは「己の内なる自分」を映す鏡に過ぎない。暴走を恐れて打ち払うのではなく、向き合い、受け入れ、融合することで、自らを調伏する一助となる。
勘解由小路の槍と百蓮が並び立った夜、鏡は砕け、少女は「完全な自分」となった。
「……身共の、内なる自分? 融合……?」
アヤメは、鏡の前に立ち尽くす。
紫の瞳が、鏡の中に――自分自身の笑顔を映す。
完璧に演技された笑顔。その奥に、疲労と、本当の願いが、ちらりと見える。
「……なるほどねぇ」
彼女は、ゆっくりと息を吐く。そして思わず、内心を吐き出した。この人数なら大丈夫だろう、という油断の台詞だった。
「これを見てると私はずっと『完璧な委員長』でいなきゃって思ってた。でも……これなら、疲れた自分も、弱い自分も、受け入れていいのかもね」
ナグサが、初めて自分から一歩前に出る。
「アヤメ。アヤメは完璧だよ。アヤメは疲れもしないし、弱い部分なんて存在しない」
アヤメの胸に、冷たい棘が突き刺さるような感覚が広がった。ようやく、鏡の前で零れ落ちた本音――疲れた自分、弱い自分を、受け入れてもいいのかもしれないという、僅かな希望の言葉。
それを、ナグサは一瞬で踏みにじった。
完璧だ、疲れない、弱くない。まるでアヤメの内なる叫びを、存在しない幻として否定するかのように。
(……どうして。どうして、わかってくれないの?)
絶望が、静かに確実に彼女の心を蝕む。
ナグサの言葉は、愛情のつもりかもしれない。依存の証かもしれない。でも、それはアヤメを人としてではなく、理想の偶像として縛りつける鎖でしかない。
弱さを共有したかったのに、受け止めてもらえなかった。むしろ、強制的に「完璧」を塗り固められる。笑顔の仮面の下で、誰も本当の自分を見てくれないこの牢獄が、ますます深く、暗く感じられる。
誰も、労ってくれない。
誰も、弱いアヤメを抱きしめてくれない。そして、ナグサへの失望が、静かな怒りとなって湧き上がる。相棒のはずの彼女が、こんなにも鈍感で、こんなにも自分本位で。
ナグサの目には、アヤメの疲弊など映っていない。ただ、自分の居場所を確保するための「完璧なアヤメ」を求めているだけ。
指示待ちの副委員長として、補佐役としてではなく、本当のパートナーとして向き合ってくれない。
失望は、信頼の糸を一本ずつ引きちぎる音のように、心の中で響く。
「……ふむふむ、そうねぇ」
アヤメは、いつもの曖昧な口調で返す。笑顔を崩さない。だが、内側では、希望の欠片が砕け散る音が、虚しくこだまするのだった。
ユカリは両手を握りしめ、声を震わせる。
「身共も色々と辛いことはありますが、先輩方と一緒に頑張りますわ!」
鏡映ったユカリが光に溶けていく。その純真さにアヤメは笑う。
「はいはい、そういう感じね。私としては……これからも、みんなと一緒に、全部抱えて歩こうか」
ユカリが、ぽん、とアヤメの手を握る。
「身共、約束ですの! 内なる自分も、外の自分も、全部百花繚乱の誇りですわ!」
ナグサは、静かに頷く。
「……アヤメとなら、私も」
展示室の奥、照明がゆっくりと明るくなる。
鏡は、もう割れていない。
ただ、静かに、三人の姿を映していた。
ユカリとナグサは、少し離れて次の展示「河童の手形」に目を奪われている。
笑い声が、遠く響く。だが、アヤメだけが、鏡の前に立ち尽くしていた。
紫の瞳が、鏡の中の自分を見つめる。
完璧な笑顔。
エルフ耳の先が、わずかに震える。
『本当の自分ってなんだろうね?』
そう問いかけて来ているようだった。
百蓮が、腰で重く沈む。
怖い。言葉には出さない。
出せない。
辛いことはいつだって消してきた。
「ははは!」と笑って誤魔化すこともできる。
「なるほどねぇ」と流すこともできる。
でも、今は――誰も見ていない。怪異。
人の心の闇を喰らう存在。
ドッペルゲンガー。
己の内なる自分。
暴走ではなく、融合。
百蓮。
退魔の銃。
怪異を封じる力。
でももし、私の中にも、怪異がいるなら?
もし、私の「完璧な演技」が、ドッペルゲンガーなら?
百蓮が、私自身を封じているとしたら? 鏡の中の自分が、笑う。でも、その笑いは本物じゃない。アヤメの指が、百蓮のグリップを強く握る。
冷たい。
まるで、銃が「触るな」と囁いているように。
私は、百花繚乱の委員長。
みんなの希望。
誰も泣かせない世界を創る。
でも、本当は――疲れた。
怖い。
本当の自分を見たら、みんなが離れていくかもしれない。
弱い自分を認めたら、もう笑えなくなるかもしれない。
百蓮が、私を封じてくれているから、今の私が成り立っているのかもしれない。
鏡の中の自分が、ゆっくりと首を振る。
違う。
お前は、もう逃げられない。
融合しろ。
さもなくば、暴走する。アヤメの喉が、かすかに鳴る。
息が、浅くなる。
自分の防衛センサーが跳ね上がるような錯覚。
「………」
言葉には出さない。
出したら、崩れる。
笑顔が、崩れる。
委員長が、崩れる。
彼女は、ゆっくりと百蓮を抜く。
銃口を――鏡に向ける。
紫の光が、銃身を走る。
まるで、拒絶するように。
封じろ。
私の中の怪異を。
ドッペルゲンガーを。
弱い自分を。でも、銃口は震える。
引き金に、指がかからない。ユカリの声が、遠くから響く。
「アヤメ先輩! 次は『天狗の羽』ですの〜!」
アヤメは、銃を下ろす。
笑顔を、完璧に貼り付ける。
「……ふむふむ。すぐ行くよ」
鏡の中の自分が、微笑む。まだ、逃げられると思っている。
アヤメは背を向け、歩き出す。
百蓮は、腰に戻る。
重い。封じられた怪異のように。
怖い。でも、言えない。
言ったら、終わりだから。彼女は、ユカリとナグサの元へ歩いていく。
笑顔は、完璧。でも、背中だけが――震えていた。鏡は、静かに、何も映さなくなった。