博物館の空気は、埃と古びた記憶の匂いで満ちていた。
百花繚乱紛争調停委員会の社会科見学ツアー――表向きは平和な学びの場だが、キヴォトスの自治区はいつだって、静かなる棘を潜ませている。
アヤメはプラチナブロンドのウェーブを優しく揺らし、紫の瞳に完璧な笑みを浮かべた。隣を歩くユカリは、八重歯を覗かせて好奇心いっぱいの視線を周囲に投げかけている。
ナグサは少し離れた位置で、クールな白髪を風に靡かせ、スナイパーライフルを携え、警戒の目を光らせていた。
「ふむふむ……この展示、なかなか興味深いわね。身共、こんな古い遺物を見るの、初めてですの〜!」
ユカリの声は、明るい鈴のように響く。お嬢様言葉の端々に、ひらがなの横文字が混じる――「くれーぷ」みたいな可愛らしさが、彼女の現代っ子らしさを際立たせていた。
アヤメは内心で小さく頷き、口元を緩める。
「おぉ〜。ユカリちゃんの目、輝いてるね。こういう場所を楽しめるの素晴らしいと思うよ」
言葉はポジティブに、メリットを強調して。リスクなんて、口にしない。それがアヤメの流儀だ。だが、心の中では、疲労の影がゆっくりと広がっていた。
いつも余裕で、いつも頼りになる。それがみんなの期待。牢獄のような笑顔の裏で、彼女は囁く――労ってほしい。
弱い自分を、認めてほしい。
博物館を後にし、一行は激戦区の跡地へ。かつて怪異と戦った痕跡が、地面に黒く焦げた傷として残る。
空気は重く、霊脈の流れが微かに脈打っていた。ナグサの瞳が鋭く細まる。
「……霊脈、感じる。アヤメ、警戒して」
ナグサの声は低く、依存的な響きを帯びる。自分を下げ、アヤメを上げる。それが彼女の役割。
「アヤメなら、対応できる。私は……アヤメの指示を待つ」
アヤメは頷き、笑みを保つ。
「はいはい、そういう感じね。ナグサ、ありがとう。みんなで慎重にいきましょう」
ユカリは少し興奮気味に周囲を見回す。
「わぁ、こんなところに霊脈が流れてますわね。身共、ワクワクしますわ! でも、危ないかもですの」
「それはそれでお腹減ったね」
「霊脈を感じられるここでご飯は風情ありますわね」
「霊脈ねぇ、何も感じないなー。ナグサ、警戒いってきてー」
食事を摂るため、ナグサが警戒に周囲を巡回する。残されたアヤメとユカリは、簡素なベンチに腰を下ろし、弁当を広げた。
風が穏やかに吹き、遠くで鳥の声がする。だが、この静けさは、いつ崩れるかわからない。キヴォトスの日常だ。アヤメは箸を止め、ユカリに視線を向ける。
ふと、問いかけた。
「ねえ、ユカリちゃん。どう生きたい? こんな世界で」
ユカリの八重歯が、驚きの笑みに覗く。彼女は少し考えて、明るく答える。
「普通に生きて、普通に死にたいですの〜! 身共、勘解由小路家の巫女として生まれた義務があるけど……本当は、自由に夢を追いかけて、みんなと笑ってたいんですわ! でも、諦めてますの。家業を継ぐのが、身共の運命ですわね」
その言葉に、アヤメの胸が疼いた。同情? いや、共鳴。ユカリの瞳に映る諦めは、アヤメ自身の牢獄を映す鏡のようだ。
笑顔の仮面が、わずかに揺らぐ。
「なるほどねぇ……ユカリちゃんの気持ち、わかるかも。私も……ね」
言葉が、初めて本音を零す。アヤメの紫瞳に、疲弊の影が宿る。
「みんな私を頼る。それは嬉しいけど、もっと自分で何とかする努力をしてほしい。そして、私が弱いことも許してほしい。弱った姿を認めてほしいの。労ってほしい……ただ、それだけなのに」
声は小さく、風に溶けそう。ユカリの目が大きく見開かれる。明るいお嬢様の顔に、素直な驚きと優しさが混じる。
「アヤメさん……そんなこと、思ってたんですの? 身共、百花繚乱の委員長はいつも完璧で、輝いてると思ってましたわ! でも、苦しいんですのね……なんでこんな苦しいことやってるんでしょう? 身共も、巫女の義務で縛られて、自由が欲しいですわ」
二人は顔を見合わせ、沈黙が落ちる。だが、それは重くない。共有された痛みは、奇妙な温かさを生む。
アヤメの心に、初めての亀裂が入る。笑顔が、演技ではなく、自然に緩む。
「ははは……ユカリちゃんのおかげで、少し楽になったかも。人に話すのは楽になるね。まったくまったく私たち、なんでこんなに頑張ってるんだろうね。でも、思い出してきたわ。初心――人を助けたい」
その瞬間、アヤメの視界が歪んだ。風が止み、霊脈の脈動が鼓膜を直接打つ。目の前で、ユカリの笑顔がゆっくりと溶けていく。
代わりに現れたのは、焼け跡の路地。
崩れたビル。
血と硝煙の匂い。
この光景は数年前のまだ委員長になる前の景色だ。
まだ新人だった頃。アヤメは、初めての単独任務で失敗していた。怪異の群れに追い詰められ、スナイパーライフルを握りしめたまま、膝をついていた。
エルフ耳が震え、紫の瞳に涙が滲む。
怖い。死ぬ。助けて。そのとき、路地の奥から、小さな手が伸びた。「こっち!」掠れた声。
血まみれの制服。でも、笑顔だった。小さな少女――ユカリ。怪異に囲まれながらも、必死に手を差し伸べていた。
「早く! 身共が道を開きますわ!」
ユカリは、自分のアリサカ38式を乱暴に構え、怪異の注意を引きつけるように、ただの一発を撃った。
弾丸は外れた。退魔の力を持たない銃では怪異にダメージは与えられない。でも、その一瞬の隙に、アヤメは立ち上がれた。二人は路地を駆け抜け、
焼け跡の向こうに広がる朝焼けへ飛び込んだ。
ユカリは息を切らしながら、て笑った。
「助かりましたわね! 身共、初めての救出大成功ですの〜!」
アヤメは、震える声で呟いた。
「……ありがとう。でも、なんで? 私、知らない子なのに」
ユカリは、血の付いた手を振りながら、まるで当たり前のことを言うように答えた。
「だって、泣いてるお姉さんがいたからですわ」
その言葉が、胸に突き刺さった。
人を助けたい。
それが、最初だった。
完璧な委員長になる前。
笑顔を演じる前。
ただ、泣いてる誰かを、笑顔にしたかった。
視界が戻る。弁当の箱。
ユカリの八重歯。
風に揺れるプラチナブロンド。
アヤメの瞳に、涙が滲んでいた。でも、それは悲しみじゃない。
「……そうだった。私、忘れてた」
声は震えていた。でも、笑顔は――本物だった。「ユカリちゃん……あれは、貴方だったのね」
ユカリは、きょとんと首を傾げる。
「え? なんですの?」
アヤメは、ゆっくりと立ち上がる。
委員長の資格であり、退魔の銃「百蓮」を握りしめる。
「三年前。私を助けてくれた子供は……あなただった。あのとき、あなたが言った言葉、『泣いてるお姉さんがいたから』って」
ユカリの目が見開かれる。
記憶の糸が、繋がる。
「まさか……あのときの、泣いてたお姉さん……アヤメさん!?」
二人は、顔を見合わせる。
初めて、心から笑った。
「ははは……! 運命って、面白いわね」
「そうですわ! 身共、初めて助けたの……アヤメさんでしたのね!」
二人の笑いが、重なる。心からの、初めての響き。アヤメの胸に、温かな光が灯る。
霊脈の脈動が、優しく二人を包む。
ふと、視線を巡らす。ナグサの姿がない。警戒に回ったはずなのに、戻らない。
風が、再び吹き始めた。
「……ナグサ?」
アヤメの声に、微かな不安が混じる。
ナグサの姿は、まだ戻らない。
遠くで、銃声が――一発だけ、響いた。静けさが、棘のように刺さる。風が強くなり、霊脈の脈動が激しくなる。遠くで、何かの気配が蠢く。
「アヤメさん……ナグサさん、遅いですわ」
静けさが、棘のように刺さる。
嫌な予感が、空気を震わせる――。