「7」のボタン、「閉」を押下する。常識的な速度でエレベーターの扉は閉まり、静謐な夜とこの一室を完全に隔離した。
エレベーターは静かに上昇を始める。操作盤の上に備え付けられたディスプレイが上昇のアニメーションを映し出す。2階、3階、4階、そして5階。その時、不意に大きな揺れと共にエレベーターが急停止した。照明は点いたままだが、ディスプレイの数字にはノイズが掛かっている。僕は慌てず「開」ボタンを押した。反応はない。何度押しても分厚い鉄の扉は固く閉ざされたままだ。
その内、階数表示のノイズが収まった。そこにあったのは「6」でも「4」でもなく、「B4」だった。
このアパートに地下はない。しかし、エレベーターはゆっくりと下降を始めた。噂は本当らしかった。一応、もう一度「7」を押すが、プラスチックが軋む音を立てるだけだった。僕は大人しくその時を待った。
エレベーターは徐々に減速し、停止した。
扉が開く。
そこは打ちっぱなしのコンクリートのだだっ広い空間だった。天井は低く、等間隔に裸電球がぶら下がっているが点いているのは一つもない。奥の方は闇に沈んでいて何も見えない。僕は鼻を鳴らした。錆びた鉄と、腐臭がぷんと立ち込めた。
何か音がしたので、僕は迷わず「閉」を押した。
扉が閉まると、エレベーターはまた勝手に動き出した。今度は上昇だ。階数表示は『B3』『B2』『B1』『1』と戻っていく。だが、エレベーターは7階を通り過ぎ、さらに上へと昇り続けた。最上階である10階を通り過ぎ、11、12、13階。
そして、扉が開いた。
目の前に広がっていたのは一本の果てしない廊下だった。明らかにアパートのものではない。ホテルだろうか。真っ白い壁に等間隔に並んだエレベーターの扉、深紅のカーペット、銀細工の照明。
軋む音がした。その方向に目をやると、扉の一枚が少しだけ開いた。暗い隙間の向こうから、何かがぬっと顔を出して僕を見た。目が合った。
僕は迷わず「閉」を押した。扉が閉まる直前、その隙間から白く細い腕が伸びてくるのが見えた。
エレベーターはもはや上昇とも下降ともつかない不規則な動きを繰り返した。
床も壁もなく、ただ星々が渦巻く宇宙空間に僕は迷わず「閉」を押した。
逆さまになった自分の部屋のベッドから、もう一人の僕がにたりと笑ってこちらを見下ろして、僕は迷わず「閉」を押した。
扉が開いた瞬間、凄まじい轟音と共に熱風が吹き込んで、僕は迷わず「閉」を押した。
階数表示はとっくの昔に数字であることをやめていた。「n」、「√」、「a」、「N/A」、「罰」。意味不明な記号や漢字がノイズと共に明滅を繰り返す。
僕は扉が開く度に閉じるという動作を繰り返した。どれくらいの時間が経ったのか。永遠にも感じられた。
やがて、エレベーターはぴたりと動きを止めた。全ての揺れと音が消え、完全な静寂が訪れた。ディスプレイも消え、ただぼんやりとした蛍光灯の光が閉鎖空間を照らすだけだった。
僕はゆっくりと顔を上げた。
チーン。
その澄んだ音は到着を告げるチャイムではなかった。仏壇の輪の音、あるいは呼び鈴。その意味を理解し、目を閉じる前にエレベーターの扉が静かに、滑るように開いた。
扉の向こうに何があったか。それを正確に言い表す言葉を人類は持たない。
そこにあったのは、「空間」ではなかった。光であり、闇であり、色であり、音だった。
美しいと思った。
恐ろしいと思った。
理解できないと思った。
そして、完全に理解した。
僕の脳は喜びの悲鳴を上げた。全身の細胞が歓喜に打ち震え、涙がとめどなく溢れた。
そして、
ダンジョン:五階層
いつも通りダンジョンに潜ったらなんかミノタウロスがいた。ミノタウロスは十三層以下の中層と呼ばれる区域最強のモンスターで、適正ランクは2。俺のランクは1。死ぬぜ!
死にたくはないので必死に逃げ回っていると、丁字路で同業者のベル君と遭遇。あっちも追いかけられていた。
手を挙げて挨拶したが、返してくれなかった。全く、水臭いぜ。俺は大声を上げた。
よ、二人で闇派閥の拠点に火をつけて回った夜以来だな!
「勝手に巻き込まないでくださいよ! ツルハシさんが適当なこと言うから、最近僕に対する風評被害が酷いんですよ!」
後ろからどすどすと二匹分の足音が聞こえる。その重量感は階層全体を揺らす様だった。たまにその手に持った石榑の棍棒が床を打ち、異様な威圧感を放つ。
「またなんかやったんですか!?」
これは俺じゃねえよ。多分、テイマーの誰かがミスったんだ。怪物祭が近いからな。
だとしても、何で五階まで上がってきてるんだ? 俺は一瞬考えたが、考えてもどうしようもないのでやめた。そういうのは逃げ切ってからでもいい。逃げ切ってからでいいんだが……。
ベル君? ちょっと走る速度落とせる?
「嫌ですよ押し付ける気満々じゃないですか!」
ちぇっ、ケチが。
俺たちは冒険者だ。探索する階層のマップは当然頭に入っている。今までは出口までの最短ルートを進んできたわけだが、このままのペースだと普通に追いつかれる。撒くのは当然不可能だ。
おいベル。次の丁字路で二手に分かれるぞ。お前右な。
右は行き止まりであるが、ベルはもう喋る余裕も無くなったようで、汗を散らして頷いた。え? 嘘だろ? 先程言った突き当りはもう直ぐだ。俺はちらりとベルの顔を盗み見た。本当に気付いてないのか? 気付いてなさそう。いや、気付いてるだろ。冒険者だし。
数秒後、俺の言った通りベル君は何処にもつながらない右に曲がった。出口に繋がる左に曲がった俺は啞然とそれを眺めていた。オイオイオイ、死ぬわアイツ。
マップを覚えてないのか。そんな馬鹿な。いや、俺は悪くない。覚えてない方が悪い。俺は悪くない。日本でもこれは許されるはずだ。
そして、予想通りというか、ミノタウロスの片方は俺を追って来た。ベルの方に二匹行ったら楽だったんだがな。
しかし、ここで俺は致命的なミスを犯す。ベルに気を取られて、曲がり角を一つ間違えた。そして、最悪なことに俺が迷い込んだのは袋小路だった。
僅かな時間で切らした息を整える。思考が冷却され、原始的な生存意欲が心臓を満たした。奴の横を擦り抜けてもすぐに追いつかれるだろう。ならもう、道は一つだ。
俺は獲物の鶴嘴を構えた。のそりと角から顔を出すはミノタウロス。勝てる見込みは限りなくゼロに近い。それでもやるしかなかった。
ミノタウロスが咆哮し、戦闘が幕を開けた。びりびりと空気が振動し、鼓膜を破らんばかりの音量。恐怖に俺の体は縛り付けられた。強制停止。ランク1ではレジスト不可能な拘束技。中層最強たる所以であり、つまり、俺はこれから死ぬということだ。
早いって。「ここ」に来てから一か月も生きていない。脳の裏側がチリチリと弾ける。汗が目に入って視界が歪む。やばい。幻覚が見え始めた。
pow×5=>68 [success]
幻覚は視界の左上辺りでぼやけている。英語っぽいけど読む余裕はない。
ミノタウロスは棍棒を掲げた。俺は思わず後退って……。
まあいいか。
油断し切ったその顔に鶴嘴を振り上げ、叩きつけた。しかし、当然のように無傷。奴がハエでも払うように手を振ると、俺の右腕は容易くへし折られた。悲鳴を噛み殺す。肘から先が、熱した針が内側から発生したような痛みに襲われる。だが、鶴嘴は手放さなかった。
左手に持ち替えて一歩踏み込んだ。通用するとすれば、思い切り体重を乗せた攻撃だ。奴は棍棒を振り下ろし、それを後ろに飛んで避けようとした俺の右足は反動で砕けた。肉を押し分けて、皮膚を突き破って骨が露出する。もう踏み込めない。
奴はもう一度その石柱を振り上げ、振り下ろした。俺は左手を突き出した。奇跡的に手の甲がそれを往なす。皮膚と肉を引き裂かれながらもなんとかベクトルを逸らした。左足で地面を蹴る。空中に飛び出した俺はもう力の入らない左手を奴の目に向けた。生物共通の弱点。装甲の欠如した柔らかなそれなら今の俺でも十分潰せる。
だが、あと数cmというところで、無情にも俺の体躯は地に落ちた。べちゃりと粘着質な音を立てて、崩れ落ちた。怪物は棍棒を振り上げた。負けだ。
なんだよ。俺の全身全霊って、こんなもんか。理屈ではなく、感情によって動かされた左腕が地面を打って体が転がる。直後、見ることすらできない速さの一撃がすぐ横を穿った。今度こそ本当に動けなくなった俺は意識を飛ばした。
あー、思ったより嫌だな。なんだか、既視感がある。記憶はないのに。俺はここに来る前、
ま、次は勝つ。
真っ暗だ。ここは、地獄か? ベルも来てるだろうし探しに行くか。
そうして立ち上がろうとしたら、手足の感覚がなかった。ついでに頭も同様に感覚がなくて動かせない。なんでさ。
何もできずにいると、白いスクリーンが下りてきて怪映像の上映を始めた。瞼はなかったので閉じられない。ここ八大地獄のどこだよ。
夕日の指す教室に一組の男女があった。窓は悉く割れており、涼しげな風が吹き抜けていた。
「もうすぐね」
「ああ」
「出来ることはない?」
「今から勝利の塔を探す時間はない」
沈黙。誰か説明してくれ。
「EとBに気をつけて」
「分かってる」
男は窓枠を飛び越えたかと思うと消失した。女はその場で消失した。
意識が強制的に上層へ引っ張られる。瞼が復活したので開いてみると、目の前にミノタウロスがいた。あれ、俺死んだんじゃなかったっけ。
周囲には俺の血が飛び散っている。明らかに致死量だ。けど五体満足で生きている。つまり、生き返った可能性が高い。それを認識すると同時に、視界にカットインが入った。
ミノタウロスー>補正値:120
何だお前! いや、もうどうでもいい。こいつを殺す。
殺意という名の魔法が体中に満ちる。ミノタウロスが咆哮を上げるが、力を入れれば硬直は一瞬で砕け散る。俺は地面に転がった鶴嘴を掴んで振り上げて、その隙にミノタウロスは俺の顔面に拳を放った。正面からモロに食らった俺の首はぐるんっと一回転して俺は死んだ。
バキバキと音を立てて首が戻る。なんか分からないけど復活。
ミノタウロスー>補正値:2000
補正値がデカくなっている。
続け様に放たれたジャブを鶴嘴で受け流した。鶴嘴から嫌な音が聞こえたが、なぜかミノタウロスの動きが目で追えるようになっている。多分、補正値とやらの仕業だ。しかし、目で追えるからと言って対応できる訳ではなく、俺はキックで壁に叩きつけられ、赤黒いシミになった、
モゴモゴと肉塊が蠢いて人の形をとる。復活。
ミノタウロスー>補正値:5000
補正値がもうヤケクソになっている。
振り上げた鶴嘴と拳がかち合う。鶴嘴が折れるが、俺は伸びてきた拳を躱して、落ちていく鶴嘴の頭を掴んだ。その鉄塊で床を砕いて小石を作り、いくつかとっておく。瞬間、俺は繰り出された蹴りを紙一重で避けて一気に前に出る。右手での掴みを飛んで躱し、そのまま腕を蹴ってその胸に鉄塊の先端を突き立てた。肉を掻き分けて骨を砕いた。
浅い。下がりながら拳を逸らして捌き、体制を整える。魔石狙いなのがバレたのか、向こうは左手で傷のついた胸を庇っている。感覚的に、もう一度同じ場所を突ければ殺せるだろう。だから、まずはその腕を退ける。
前へ跳躍すると同時に左手に隠し持った小石を目に投げる。予想通り、目を瞑って適当に腕を薙ぎ払ってきたので、潜り抜けて左の上腕に鉄塊を突き刺した。骨を砕く感覚。先端は貫通した。
そのまま背後に回り、飛んできた回し蹴りをアッパーで上に逸らして更に近づく。そして、ミノタウロスが唯一動く右腕で胸を庇った瞬間、俺はニヤリと笑った。バカが。
俺は素早く伸びあがるように顎と首の間の、骨のない軟らかい箇所を鉄塊で突き上げた。先端は脳を貫通して、ミノタウロスは崩れ落ちた。無駄にデカい体躯は瞬く間に塵と化し、風に紛れて解けて消えた。残るはいつも見るそれより二回り大きい魔石。
俺の勝ち。へっ雑魚が! (三敗)
俺は倒れた。
その後、何とか地上に戻って来た。魔石を換金しに行ったら担当員がぐちぐちと面倒くさいことを言って来そうだし、何より疲れたので自宅に直帰した。
ただいまー。
リビングの扉を開くと、全身をローブで覆い隠した神様がソファで横になっていた。
「お帰り。我が眷属よ」
聞きなれた炎のような声。俺はテーブルに魔石袋を置いた。
悪いけど、今日の収入はまだ換金してない。明日にでもこの袋を持ってギルドに行ってくれ。
「ああ、分かっ──」
神様は俺の方を向いて硬直した。どうしたのだろうか。数秒後に聞こえて来たのは、非常に困惑しているような、そんな声色だった。
「”向こう側”に行って来たのか?」
俺が聞き返す前に、神様は畳み掛けるように続けた。
「ステュクスの川を渡ったのか? 或いは、ヴァイタラニー川。いや、貴様の素性からすれば三途の川が一番近いか」
死んだのかってことか?
俺がそう訊くと、神様は首を振ってそれを否定した。
「死んだら死んだきりだ。普通はな。だから、生きたまま向こうに渡ったのかと訊いたのだ」
俺は少し考えて言った。
死んだ。三回も。
神様は全身を硬直させた。
「背中を見せろ」
その言葉を待ってたよ。
俺は素早くシャツを脱いだ。神様は起き上がり、背中に手を翳した。光が迸り、文字が躍る。
ファルナ。神に許された唯一の力の行使。それはステイタス要素の追加、そして更新。日々の経験は数字として背中に蓄積し、その数字は実際に体に影響を与える。そして稀に、数値に表せない経験はスキルとして結晶する。
しばらくして更新が終わり、神様はステイタスの書かれた紙を見せて言った。
「やはり。スキルが発現している」
スキルの欄にはこうあった。
≪スキル≫
【
・早熟する
・死に近付く程、然るべき箇所に際限なく補正
絶対あのカットインのことだ。
ミノタウロスとの戦闘が引き金となって開花したであろうそのスキルは、実に使い勝手が悪く、強力なスキルだった。
死に瀕するほどに補正値は加算され、死を打開する力が沸き上がる。即ち、全力を出すには死の綱渡りを行う必要があるということだ。そして、一歩踏み外せば真っ逆さまなそれを何度も成功させられるほど、人生は甘くない。あと、然るべき箇所という謎を解明しない限りまともに運用できない。
そして、一番の懸念点は
「なぜ死んだ。なぜ三回も死ねた。説明しろ」
神様も興味津々だ。俺は今日の出来事を最初から語った。神様は考えてやろうと言って部屋に引きこもった。俺は疲れたので寝た。
翌日、欠伸をして目を擦り、異変に気付く。もう一度目を擦る。俺は察して目を強く瞑った。なるほど、瞼の裏に監視カメラで見ているような画質の映像が四つあった。それぞれ天秤、糸、鏡、砂嵐を映している。目を開くと見えなくなる。目を閉じればそれが見える。実に鬱陶しい。発現したスキルの副作用だろう。
それはそれとして、今日も今日とて、俺はダンジョンへ潜る。俺は机の上の籠からフランスパンを取って嚙み千切り、それから洗面所に行って水を飲んだ。いつものように玄関の鶴嘴を持って出ようとするが、昨日ぶっ壊したことを思い出した。買いに行くか。
そういう訳で、バベルに行こうか。
「どんな使い方をしたらあの鶴嘴がぶっ壊れますの?」
ああ、シルバーバックのパンチを正面から受け止めたらポキッと。
「バカ?」
直球過ぎる。
黒髪の少女、エリ―は部屋の隅の転がっている鶴嘴を指して、代金を置いて持って行けと言った。俺は鶴嘴の代わりに、まだ換金していない魔石袋を置いて出て行こうとした。その時、彼女は炉を見ながら声を上げた。
「知っているかしら。最近、治安が随分と悪いの。盗難に詐欺、失踪事件が多発していますわ。被害者は皆、若者」
それがどうした。
「くれぐれも油断をするなということですわ」
俺はその忠告を鼻で笑った。
それはこっちのセリフだ。お前の方が狙われそうだぜ。非戦闘職。
「
エリ―の生態は謎に包まれている。何時出勤しているか、何時退勤しているか、何時トイレに行っているのか。誰もその現場を見たことがない。俺は見る気もない。
バベルを出た俺はダンジョンに直行した。目指すは、七階層。
お前まだ七階層の研修受けてないよな?
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