金が、なかった。
大学の食堂でカレーの皿を見つめながら、俺――ユウは現実から目を逸らしていた。
バイト代は携帯代で消え、家賃の引き落としが迫っている。残高は三桁。洒落にならない。
「……マジで詰んだな」
スマホを開いて、求人アプリを眺めていたときだ。
一件、妙に報酬がいい広告が目に留まった。
《監視業務 日給3万円 深夜勤務 体力不問》
《仕事内容:特定の部屋での監視・報告》
「は? 三万円? 怪しすぎだろ」
けど、応募ボタンを押していた。
この時点で俺の人生は、もう変な方向に転がり始めてたんだと思う。
面接は郊外の古びた研究施設で行われた。
白衣を着た男――神崎が、淡々と俺を出迎えた。
「夜間監視のアルバイトに応募されたユウさんですね」
「あ、はい。えっと、俺、監視って言われても何を……」
「簡単ですよ。対象は人間です。ただし、特殊な状態にあります」
「特殊、ですか」
「ええ。あなたはただ見て、報告する。それだけです。
何が起きても、ドアを開けない。それが唯一のルールです」
神崎の声には感情がなかった。
だけど、その目の奥に「人間」を見ていないような冷たさがあった。
「……対象って、病人とかですか?」
「似たようなものです」
そう言って、男は淡々とファイルを差し出した。
そこには「被験体管理記録」と印字されていた。
被験体一覧
V-01 吸血種(通称:エリカ)
→ 夜行性の人造生命体。血液を摂取しなければ生命維持が不可能。
目的:暗殺任務への応用実験。
V-02 夢侵入体(通称:リリス)
→ 対象の夢に干渉し、精神・記憶を操作可能。
目的:情報収集および心理戦への応用。
V-03 未来視個体(通称:ミナ)
→ 数秒から数年先の出来事を断片的に予知。
目的:未来リスク分析と戦略的意思決定補助。
「……これ、ほんとに人間ですか?」
「人間“だった”ものですよ。あなたが監視するのは、その延長線上にいる存在です」
俺は笑うしかなかった。
でも、日給三万円という現実が、すべての疑問を押し潰してくる。
「……やります」
神崎は小さく頷き、契約書を差し出した。
インクの匂いがやけに冷たく感じた。
こうして俺の“監視バイト”が始まった。
監視対象の部屋は三つ。
赤、青、白――それぞれが独立した観察室として並んでいる。
最初の担当は、赤い部屋。
ガラス越しに見えるその空間には――
小さな少女が座っていた。真っ白な肌に、紅い瞳。
まるで、血の中に沈んでいるみたいだった。
初日の監視業務。
俺は研究所の一室、モニタールームに案内された。
そこから見えるのは、三つの観察室。
赤、青、白。
今夜の担当は「赤の部屋」――被験体V-01、吸血種エリカ。
ガラス越しに見える室内は、照明を落とした静かな空間だった。
部屋の中央に、小さなベッドと椅子。
その椅子に、少女が座っていた。
年齢は十歳前後。
真っ白な肌に、透けるような銀髪。
そして、瞳は深紅。血のように、透きとおる紅。
「……」
彼女は無言で、じっとこちらを見ていた。
監視窓の向こう側。目が合った瞬間、心臓が少しだけ跳ねる。
――監視対象に見つめられてるのって、案外こえぇな。
そう思いながら報告書を確認していた時、
突然、スピーカーから声がした。
「あなた、名前は?」
その声は澄んでいて、妙に落ち着いていた。
子供の声というより、長い時間を生きた人のような響き。
「あ、俺? えっと、ユウ。監視担当の……バイトです」
「バイト……ふふ。あなたも、人間なんだね」
「まあ、そうだな。お前も――」
言いかけて、口をつぐむ。
“お前も人間だろ”なんて、簡単には言えなかった。
報告書に書かれていた。
――血を与えなければ死ぬ吸血種。
人造生命体。
エリカはゆっくり首を傾げた。
「どうしてそんな顔をしてるの?」
「いや……なんか、不思議な感じがして」
「わたしのこと、怖い?」
少しの間。
そして俺は正直に答えた。
「……少しだけ」
「ふふ。正直者なんだね。嫌いじゃないよ」
エリカは微笑んだ。
けれどその笑顔は、どこか冷たくて――
まるで血の温度を持たない微笑のようだった。
夜が更けていく。
モニター越しに見えるエリカは、ほとんど動かない。
ただ時折、唇を噛んで何かを堪えるように目を伏せていた。
報告書を思い出す。
――2時間ごとに給血が必要。
つまり今、彼女は“空腹”なのだ。
「ねぇ、ユウ」
不意にスピーカー越しの声。
さっきよりも少し、掠れている。
「な、なんだ?」
「あなたの血の匂い、ここまで届くの。
……とても、甘い」
心臓が跳ねた。
その瞬間、エリカの赤い瞳がかすかに光を帯びた気がした。
吸い込まれそうな、深紅の光。
「……そ、そうか。けど、あげられないんだろ? ルールだし」
「ええ、知ってる。
でも、わたしが我慢できるかどうかは、別の話」
その声は、甘く、静かに冷たい。
背筋を通る感覚が、恐怖なのか陶酔なのか自分でも分からなかった。
夜明け前。
神崎がやってきて交代の時間を告げた。
「初日、お疲れ様です。……何か異常は?」
「いや、特には。少し話しかけられたくらいで」
「会話は記録されています。
余計な感情移入は、不要ですよ」
「わかってます」
けれど俺の心は、どこか落ち着かなかった。
あの赤い瞳が、脳裏から離れない。
(――明日も、来るんでしょう?)
研究所を出る間際、通信端末にノイズが走った。
その中から、確かに少女の声が聞こえた気がした。
気のせいかもしれない。
だけど、その夜、俺はなかなか眠れなかった。
二日目の夜。
研究所の廊下を歩くたび、冷たい蛍光灯の光が肌に刺さる。
昨夜の赤い瞳が、まだ頭に残っていた。
「本日より、被験体V-01への“給血業務”を追加してもらいます」
モニタールームに入る前、神崎がそう言った。
淡々とした口調。まるで清掃当番を告げるみたいに。
「給血って……俺が、ですか?」
「ええ。あなたの血液型が一致している。適合者は少ないので」
「適合って……そういう問題なんですか?」
「拒否しても構いません。代わりは、すぐに探します」
その言葉に、どこか冷たい圧力があった。
やめるという選択肢が、実際には存在しないことを告げるような。
「……わかりました」
俺は頷いた。喉が渇いていた。
ほんの少し震える手で、書面にサインをした。
---
赤い部屋の前に立つ。
昨日と同じガラス越しに、エリカがいた。
彼女はうずくまるようにして、ベッドの端で息をしている。
呼吸が浅く、白い頬が透けるように見えた。
「……遅かったね」
「わ、悪い。なんか急に呼ばれてさ」
「もう、時間ぎりぎりだったの。
あと少しで、死んじゃうところだった」
その声は冗談めいていたが、笑ってはいなかった。
---
給血ルームに入ると、金属製の椅子と簡易ベッドがあった。
神崎の指示に従い、俺は腕を消毒され、チューブをつながれた。
その先には、エリカ。
彼女は静かに近づき、
俺の腕の血を吸い上げるチューブを指でつまんだ。
「ねぇ、直接でもいい?」
「は? な、なん――」
彼女の瞳が、ほんのりと紅く光る。
神崎が小さく頷くのが、視界の端に見えた。
「……っ」
「だいじょうぶ、痛くしないから」
エリカはゆっくりと俺の腕を取り、唇を寄せた。
次の瞬間、
皮膚を裂くような微かな痛みと、温かな吸引感。
血が吸われる。
生きている証が、彼女の中に流れ込んでいく。
「……あぁ……これ、あなたの味……」
その声は、吐息のように甘かった。
恐怖と、妙な安堵が胸の奥で混ざり合う。
痛みが消えていく代わりに、
心臓の鼓動だけが強くなっていく。
「ねぇ、ユウ。
この血、ずっとわたしにくれる?」
「……そ、それは、無理だろ。俺、死ぬって」
「ふふ……そうね。
でも、少しずつなら。
あなたがいなくなるまで、わたしの中に流してあげる」
ぞっとするような優しさだった。
その言葉に、なぜか体の力が抜けていった。
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しばらくして、エリカは離れた。
唇を拭い、目を細める。
「ありがとう。……とても、あたたかかった」
「……血って、そんな味するのか?」
「ううん。
あなたの“気持ち”の味。
それが一番おいしい」
彼女は微笑んだ。
そして、まるで恋人のように俺の頬を撫でた。
その瞬間、背後の扉が開き、神崎が入ってきた。
彼女はすっと手を引っ込め、無表情に戻る。
「終了です。帰って休んでください」
俺はうなずき、足取りの定まらないまま部屋を出た。
指先に残るのは、彼女の冷たく柔らかな感触。
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その夜、俺はなぜか眠れなかった。
目を閉じるたび、あの紅い瞳と唇の温度が蘇る。