雨がやんでも、空気はまだ錆びてた。
トタン屋根の上に溜まった水がぽたぽた落ちて、
油と血の臭いが混ざる。喉の奥がじんわり焼ける。
ここはスラム。
ヒーローのポスターだけがやたら綺麗で、
実物は一度も見たことがない。
デンジは、刃の先を布で拭いていた。
赤黒い汚れが、なかなか取れない。
足元ではポチタが丸くなって眠っている。
チェンソーの悪魔だけど、寝息は人間みたいに静かだった。
「……ポチタ、昨日の分は終わりだ。」
「ワン。」
それだけの返事で、少し落ち着いた。
背後で足音がする。
レゼが髪を拭きながら近づいてきた。
服の袖口は焦げていて、
その匂いがこの工場によく似合っていた。
「おはよう、デンジ君。朝から血の匂いだね。」
「俺の匂いじゃねぇ。仕事の匂いだ。」
「ふふ。うちら、“雇われ”だもんね。」
レゼが缶コーヒーを投げてよこす。
ラベルが剥がれかけ、底が錆びていた。
開けた瞬間、酸っぱい匂いが鼻に抜けたけど、飲んだ。
苦くて、うまい。
「今日も?」
「あぁ。仕事だ。」
「じゃあ、私が行く。爆発なら早いし。」
レゼは首元に手をやり、
ぶら下がったピンを無意識にいじる。
デンジが顔を上げる。
「その個性、あまり使うな。……痛ぇだろ。」
レゼの指が止まり、少し笑った。
「平気だよ。慣れてる。」
デンジは刃を置き、声を落とす。
「個性使った時、痛そうじゃねぇか。」
レゼが目を瞬かせ、笑顔がわずかに揺れた。
「……見てたんだ。」
「そりゃ見てたよ。お前、顔に出るし。」
「デンジ君、優しいね。」
「違ぇよ。お前が爆発すると、ポチタがビビるだけだ。」
「ワン。」
レゼはくすっと笑い、ピンをそっと押さえた。
「……でも、ありがとう。」
その声が、やけにあたたかかった。
少し間をおいて、レゼがぽつりと言う。
「ねぇ、デンジ君。……学校って行ってみたかったな。」
デンジが眉をひそめた。
「学校? あんなとこ、だりぃだけじゃねぇの?」
「うん。たぶんだるいよ。でもさ、制服着て授業受けて、友達と笑って……
そういう“普通”の毎日、ちょっとだけ憧れるんだ。」
レゼは少し笑って、続ける。
「……デンジ君、字読めないでしょ?」
「……ああ。看板の漢字とかもわかんねぇ。」
「そっか。」
レゼは立ち上がり、口の端を上げる。
「じゃあさ、私が勉強教えてあげる。授業ってやつ、してあげるよ。」
「は? 今さら勉強?」
「うん。ここで、二人だけの学校。」
レゼが笑う。目が本気だった。
デンジは目を逸らして、少しだけ口の端を上げる。
「……学校なんて興味なかったけど、
レゼと一緒なら、行ってみてもいいかもな。」
レゼが一瞬、目を丸くして、ゆっくり笑った。
「じゃあ決まり。私が先生ね。」
「宿題とか出すなよ。」
「うふふ、優しくしてあげるから大丈夫。」
その笑い声が、少しだけ救いみたいに響いた。
ポチタが「ワン」と鳴き、尻尾を振る。
そのとき、古びた通信端末が震えた。
レゼが拾い上げ、画面を見つめる。
「……ねぇデンジ君、連絡きたよ。」
「読んどいてくれ。字、わかんねぇ。」
「うん、わかった。」
レゼは画面を指でなぞり、
先生みたいな声で読み上げた。
「標的、幹部・サワダ・ケイジ。
個性は“鉄皮”。夜明け前に西倉庫街へ移動、排除せよ。」
「鉄皮か。硬ぇのはめんどくせぇ。」
「うん。でも、こういうの読むときちょっと先生っぽいね、私。」
「先生が殺しの授業すんなよ。」
「ふふ、特別授業だよ、デンジ君。」
デンジは笑って、ポチタの頭を軽く撫でる。
「……じゃあ、先生。今日も宿題、片付けるか。」
「うん。終わったら、また授業ね。」
雨音が完全に止んだ。
代わりに、心臓の音がやけにうるさい。
「もし生まれ変わったら、“殺す仕事”じゃなくて、“笑う仕事”がしたいな。」
レゼがぼそっと言った。
「じゃあ、そんときゃ一緒にやろうぜ。」
「……うん。約束だよ、デンジ君。」
ポチタが短く鳴いた。
その声だけが、やけに綺麗だった。
錆びた街の朝。
ヒーローなんて、今日も来やしねぇ。