――送迎車内。
エンジンの低い唸りだけが、車内の沈黙を薄く撫でていた。夜の街灯が窓ガラスを斜めにすべり、オレンジの帯が座席を断ち切る。助手席にはビーム、後部座席には二人。運転席の雄英職員は前方の闇だけを見据えている。
「……なぁ、レゼ」
不意に漏れた声は、警戒と焦りを少しだけ含んでいた。
「お前の“お願い”って、なんなんだよ」
彼女は窓の外に目を置いたまま、口元に小さな笑みをつくる。
「お願い……?」
小さく繰り返して、わざとらしく首を傾げた。
「とぼけんなよ。さっき言ってただろ」
ゆっくりと視線がこちらへ向く。街灯の光が瞳に反射して、いたずらっぽく光った。
「……あぁ、あれね」
軽い調子で言うと、唇に指を当て、考えるふりをする。
「ん〜、どうしよっかなぁ」
その仕草に、肩がピクリと動いた。
「おい、まさか今考えてんのか!?」
くすっと笑い、彼女は短く間を置く。
「ううん、忘れてないよ。ちゃんと覚えてたもん。……でもね、聞かれたら、ちょっと考え直したくなっちゃった」
あまりにも軽い言い方に、喉がゴクリと鳴る。
「で……何頼む気だよ」
彼女は視線を落とし、髪を指にくるくると絡めた。窓の外、信号の赤が車内をうすく染める。
「ふふっ……そうだなぁ……」
――沈黙。エンジン音が腹の奥を揺らし、時間だけが進む。息を詰めたまま、横顔を盗み見る。
「ま、まさか……変なこと言う気じゃねぇだろうな」
「変なことってなに?」
「おい、わざとだろ!」
笑い声が、緊張をやわらかくほどいた。
「じゃあ、決めた」
「……は?」
「明日、デートしよ」
「……デート?」
「うん。合格祝い。二人で、ね」
一拍。思考が白く途切れる。
「……二人で?」
「うん、二人で。……ダメ?」
ほんのり甘い声音に、耳がみるみる赤く染まる。
(な、なんだ……デート?デート!?デート!!)
手のひらに、じんわり汗がにじむ。
「ビ、ビームは……?」
「今回はお留守番かな」
「分かりました! レゼ様!」
と助手席が間髪入れずに即答した。
「おい、ビーム……」
――カタン。車が軽く揺れて、肩と肩がふれ合う。柔らかな髪の香りが、ふっと鼻をかすめた。
「明日、空けておいてね」
「……なんだよ、急だし場所も言わねぇで」
「ナイショ。当日までのお楽しみ」
いたずらっぽくウィンク。視線を外へ滑らせる。ネオンの光がチカチカと流れていく。胸の奥だけが、落ち着かない。
「……まぁ、しゃーねぇ。勝負は勝負だしな」
「楽しみにしてて」
頬をかきながら、ぼそり。
「……変なとこじゃねぇだろうな」
それでも、口元はどこか嬉しそうだった。街の光があとへ遠ざかり、後部座席にテールランプの赤が淡く滲む。――その夜、なかなか眠れなかった。目を閉じても、横顔と「デート」の3文字がまぶたに残る。
――施設・朝。
カーテンの隙間から、やわらかな朝の光がこぼれていた。遠くで鳥が鳴き、廊下の時計が静かに秒を刻む。鏡越しに乱れた髪を撫でつけながら、小さくつぶやく。
「デンジ君起こさなきゃ」
昨夜の帰り道の緊張が嘘みたいに、「デートしよう」と言った瞬間の顔を思い出すと、頬がゆるむ。軽くノックして、ドアを開けた。
「デンジ君起きてる?」
……静か。布団はぐちゃぐちゃに乱れているのに、肝心の本人がいない。
「え?」
机に昨夜脱ぎっぱなしのシャツ、窓際には乾ききらないタオル。小首を傾げて室内を見渡す。
「まさか……もうお風呂?」
スリッパの音――パタ、パタ――を響かせ、廊下へ。浴室の前で耳を澄ますも、水音はない。食堂をのぞけば、食堂のおばちゃんが振り返り、にこり。
「おはようレゼちゃん デンジ君なら、朝早くから玄関にいるわよ」
「え、もう玄関に? ……早すぎない?」
小走りで玄関へ向かうと、かすかな靴の擦れる音と話し声。
「これでいいのか? どう思う、ビーム?」
「カッコいい! 完璧! 完璧!!」
「そ、そうか? 服とか変じゃねぇか?」
扉からそっとのぞけば、私服姿と、横で励ます影。リュックを背負い、靴紐を何度も結び直している。
「……なにしてんの?」
「お、おう!」
顔を上げた目の下には、薄いクマ。
「早くない? いつもなら寝てるのに。朝ごはんは?」
「もう食った。……レゼも食べてこいよ」
思わず、ため息まじりの笑みがこぼれる。
「出かけるにはまだ早いよ。私も準備してくるね」
踵を返して廊下の奥へ。――カツ、カツ。遠ざかる足音と入れ替わりに、玄関で息が抜ける。
「うわぁ……ドキドキ止まんねぇ……」
縁に腰を下ろし、夜のことを思い返す。布団に潜っても頭の中がうるさくて、寝つけなかった。二人きりで、出かける――その言葉だけで胸が騒ぎ続けた。
「なんで俺、ただ出かけるだけでこんな緊張してんだ……。何着てけばいいんだよ……聞くのもなんかアレだし……」
数少ない服を何度も着替え、髪をぐしゃぐしゃにしては直し――寝不足の朝。気づけば夜明け前に起き出し、玄関でうろうろ。
「……くそ、俺ってホント落ち着きねぇな」
それでも口元はどこか緩んでいて、もう一度靴紐を締め直す。
――数十分後。廊下の奥から足音。
「おまたせ」
顔を上げた視界に、とくん、と音が走る。淡いブラウスに薄手のコート。髪はゆるくまとめられ、差し込む光に肩先がきらりと揺れた。
「カワイイ!!」
裏返った声を、慌てて手で塞ぐ。
「ふふ、どうしたの?」
「……その、カワイイなって」
顔を真っ赤にして、リュックの肩紐を背負い直す。
「ありがとう。――じゃあ、行こっか」
「……お、おう!」
「行ってらっしゃい!チェーンソー様!、レゼ様!」と背中に声が飛ぶ。扉が開き、朝の光が二人の影を並べた。
――昼下がりの街。
冬の光は白く、冷たく、やわらかい。頬を刺す風に、ビルの影が長く伸びる。アスファルトに落ちた影が、寄っては離れ、また重なる。肩が触れそうで触れない距離で並んで歩く。白い吐息が重なるたび、どちらともなく目を逸らした。
「ねぇデンジ君」
「ん?」
「……手、繋いでもいい?」
ぴたりと足が止まる。視線が泳ぎ、喉が――ゴクリ――と鳴った。
「……い、いいけどよ」
「うん」
迷いなく、手を取る。指と指が絡む――恋人繋ぎ。混ざり合う体温に、心臓が不意に跳ねた。
「ちょ、近くね!?」
「寒いんだもん。あったかい方がいいでしょ?」
「……そ、そういうもんかよ……」
赤くなる耳、伏せられる視線。その横顔に、小さな笑みがこぼれる。風が髪を揺らし、二人のあいだをそっと通り抜けた。
商店街を抜け、雑貨屋やカフェを巡る。ガラス越しに冬の日差しが反射して、眩しい。
「見て、猫のマグカップ」
「おお、耳ついてるじゃん。飲みにくそう」
「可愛いものは機能より見た目だよ」
「……よくわかんねぇ」
可笑しそうに笑う横顔だけで、胸の奥が少しあたたまる。やがてゲームセンター。電子音と歓声の渦のなか、瞳がきらりと光る。
「ねぇ、あれ取ってみようよ!」
指さす先は、ぬいぐるみがぎゅうぎゅうに詰まったクレーンゲーム。
「まかせろ!」
百円玉を落とし、レバーを握る。爪はギリギリで景品を逃し、同じ位置へ落ちた。
「くそっ、あとちょっとだったのに!」
「ふふ、惜しかったね」
「クソッ、もう一回!」
「今度は私がやってみよっか?」
身を寄せて手元を覗く視線の前で、クレーンは一発でぬいぐるみを掴み取る。
「……うそだろ!? 一発かよ!?」
「ふふん、どう? これ、あげる」
差し出された小さな犬のぬいぐるみを、照れくさそうに受け取る。
「……ありがと」
「うん。似合うよ」
「似合うってなんだよ!」
人混みのただ中で、笑い声だけがふっと浮かんで弾けた。屋台では、紙皿の焼きそばを分け合う。ソースの香ばしさに、冷たい空気が少しだけ温まった。
「ほら、ソースついてる」
「どこ!?」
「ここ」
指先で口元をぬぐわれた瞬間、心臓が跳ねる。からかうでもなく、笑って指を拭った。赤提灯の揺れが、横顔をやわらかく照らす。
午後、アクセサリーショップ。ガラス棚に並ぶチョーカーが、光を受けて星のように瞬く。
「ねぇ、そろそろ交換したいな」
「交換?」
「うん。これ」
首元に触れた指先。黒いチョーカーは少し色があせ、革の端が柔らかくなっている。
「ちょっと古くなっちゃって。……選んでくれる?」
「俺が?」
「うん。せっかくだし」
真剣に棚を見つめる。細い黒革、金具、布地。似ているようで、すべて違う。飾り気のない黒革の一本に視線が止まった。
「……これ、いいんじゃねぇか? 派手じゃなくてさ」
「私もこれがいいと思ってた」
購入を済ませ、小箱を大事そうにバッグへ。
電車に揺られ、窓の外の街並みが灰色に溶けていく。遠い水平線が、鈍く光った。シートにもたれた彼女の頭が、そっと肩に触れる。
「……眠い?」
「いや、別に……」
本当は少し眠い。けれど、この重みを起こしたくはない。電車のリズムに合わせて、二人の呼吸が重なる。目が合うと、照れ隠しみたいに視線をそらした。
海に着くころ、太陽は傾きかけていた。冬の海は静かで、澄んでいて、世界の端に立っているみたいだ。
「うわぁ……綺麗……」
靴を脱ぎ、砂浜へ駆け出す。
「おい! 冷てぇぞ!」
「きゃっ! ほんとだ、つめたっ!」
寄せる波が足首をかすめ、笑い声が風に流れる。
「ほら、こっち!」
「しゃーねぇな!」
冷たい砂に顔をしかめながらも、笑いがこぼれる。並んだ足跡はすぐに波へさらわれ、消えた。風に舞う髪が、夕陽を抱く。その横顔が眩しくて、言葉を失う。
ひとしきりはしゃいで、砂を払ってベンチへ。オレンジの光が波間にきらめき、風は冷たいのに、隣の温度は不思議とあたたかい。
「今日は、楽しかったね」
「ああ。……デートって、こんな感じなんだな」
「ふふ、気に入った?」
「……悪くねぇな」
バッグが開き、小箱が取り出される。表情がすこし真剣に変わった。
「ねぇ、これ。つけてくれる?」
「ここで?」
「うん」
髪をかき上げ、背中を向ける。白い首筋が夕日に照らされ、やわらかく光った。喉が鳴るのをこらえ、チョーカーを手に取る。指先がわずかに震え、留め金を探る。
――カチリ。小さな音が静寂に溶け、海風だけが戻る。距離は戻らない。
「……どう?」
「似合ってる。……すげぇ、綺麗だ」
「ありがと。デンジ君が選んでくれたから、だよ」
振り向いた顔が、すぐそこ。睫毛が夕日を一粒すくい、音のない時間が落ちる。
「……なんだよ、その顔」
「なんでもないよ」
波が一度だけ静かに寄せ、何も言わずに引いていった。
「ねぇ……目、つぶって」
「……は?」
「いいから」
言われるまま、ゆっくりと目を閉じた。頬を撫でる風、潮の香り――そして、柔らかい温度が、唇に触れる。
それは一瞬。けれど、世界が止まるには十分だった。指先が熱を帯び、心臓が激しく騒ぐ。目を開けると、彼女が少し照れたように笑っている。頬に夕日の赤が差し、瞳がかすかに揺れた。
「……これも、お願いのひとつね」
「ずりぃよ、それ……」
「勝負、私の圧勝だったもん」
「……反論できねぇ」
そっと寄り添ってくる重み。波の音がどこまでも続く。太陽が水平線に沈み、夜の気配が街へ帰っていく。手を探して握った――恋人繋ぎ。今度は自分から。
驚いたように瞬いた彼女は、すぐに笑って握り返す。冬の海の冷たさが、指先の温もりに溶けていった。
「ねぇ、またデートしようね。次は、どこに行こうか?」
「ああ……今度は、俺が考える」
「ふふっ、じゃあ楽しみにしてるね」
空は紫に沈み、遠くでカモメが鳴いた。二人の影が長く伸び、砂の上でゆっくりと重なっていく。
頑張った