昨夜の理性と欲望が入り乱れた嵐は過ぎ去った。私が翌朝、何事もなかったかのように差し入れを持って事務所を訪れると、マチエールは一瞬、ビクッと体を硬直させた。だが、私がいつも通りの穏やかな口調で「おはようございます」と告げると、彼女は堰を切ったように安堵の表情を浮かべた。
「お、おはよう、キョウヤ……!」
彼女は自分が昨夜あれほど恥知らずな欲望を私にぶつけたにも関わらず、私が拒絶もせず軽蔑もせず、こうしてまた「日常」を運んできてくれたことに心の底から安堵していた。私がソファに腰掛けると彼女はどこか居心地悪そうに、しかし嬉しそうに私の買ってきた朝食のキッシュを頬張っている。
私はそんな彼女を横目で見ながら足元に擦り寄ってきたニャスパーの「もこお」を抱き上げ、その背中を優しく撫でていた。「にゃあ……」もこおは私の手つきが気に入ったのか、気持ちよさそうに喉を鳴らしている。
初めはキョウヤの下心を警戒していたもこおだが、マチエールが喜んでいたので今では警戒心を無くしていた。またキョウヤはAランクトレーナー、もはやもこおは警戒もせずにすっかり手懐けられていた。マチエールはそんな私ともこおを横目に入れていた。
事務所には静かな時間だけが流れる。だが私には分かっていた。マチエールがこの「日常」を、どれほどの恐怖と不安の目で見つめているかを。
彼女は私が額にした、あの所有を示すかのようなキスを一晩中考え続けたはずだ。そして理解したのだ。私と彼女の関係が、今、どれほど酷く不安定で、何の保証もないものかということを。
助手と探偵ではない。恋人でもない。ただ私が来るから、彼女は与えられる。だが私が来ないと決めた、あの三日間の地獄。あれがまたいつ、何のはずみで訪れるか分からない。今度は三日耐えても私が戻ってくるとは限らない。その恐怖が彼女の心を支配していた。
やがて朝食を食べ終えた彼女が、意を決したように、私に向き直った。その顔は緊張でこわばっている。
「……あのさ、キョウヤ」
「はい」
私はもこおを撫でる手を止めずに、穏やかに相槌を打つ。
マチエールは私の顔をまっすぐに見ることができないようだった。彼女の視線は私の膝の上で気持ちよさそうにしている、もこおへと泳いでいる。
「その……キョウヤに、お願い、があるんだけど」
「お願い、ですか」
「……あたしの、探偵事務所の……『助手』に、なってくれないかな」
彼女は絞り出すようにそう言った。それは、彼女が必死に考え出した、私をこの場所に縛り付けるための、唯一の「保証」だった。
私が何も答えないのを見て、彼女は慌てて付け加える。
「あ、いや、もちろん!お試し、でも良いんだ! 助手っていうか……その、バイト、みたいな感じでも!」
(……やはり、来たか)
私は内心で、彼女のその痛々しいまでの行動を分析していた。彼女は私との間に契約という名の鎖を求めている。あの三日間の放置(アメとムチ)が彼女の理性を壊し、私への依存を決定的なものにした証拠だ。
だが私はすぐには頷かない。私はもこおの顎を優しく撫でながら、少し考える素振りを見せた。
「……助手、ですか」
「う、うん……」
「光栄な話です。ですが……」
私は困ったように眉を下げてみせた。
「ご存知の通り、私にはMZ団でAランクトレーナーとしての仕事もあります。団の皆の事も放っておくわけにはいかない」
「あ……」
マチエールの顔がサッと曇った。拒絶されたと思ったのだろう。
「即答はできない。……少し、時間を貰っても良いですか? どういう形なら両立できるか、考えてみたいので」
それは拒絶ではない。だが肯定でもない。彼女が求めた「今すぐの保証」を、私はあえて保留にした。
「……うん」
マチエールは、その答えを聞き俯いた。その表情は失望を隠しきれていない。
「……そうだよね。いきなりこんなこと聞いて、ゴメンね」
彼女がこの不安定な関係に再び絶望しかけている。私はそのタイミングを正確に見計らい、次の「アメ」を与えた。
私はもこおを可愛がりながら、ふと、思いついたように顔を上げた。
「ああ、そうだ」
「え?」
「助手になるかどうかは、少し考えさせてください。……ですが、それとは別に」
私は彼女の潤んだ瞳を、まっすぐに見つめた。
「マチエールさん。たまには息抜きも必要ですよ。……偶には、二人で遊びに行きませんか?」
「……え?」
マチエールはきょとん、とした顔で私を見た。
「あそび、に……?」
「ええ。探偵の仕事もMZ団の任務も全部忘れて。ただのんびりと」
彼女はまだ状況が飲み込めていないようだった。彼女が求めたのは「仕事」という名の「鎖」だった。だが私が差し出したのは「遊び」という名のより曖昧でより個人的な誘いだったからだ。
彼女の視線が再び私の膝の上のもこおへとさまよう。
(……どうしよう)
彼女の心の声が聞こえるようだった。
やがて彼女はほんのりと頬を赤らめると小さく、しかしはっきりと頷いた。
「……うん」
彼女は私が差し出したその新しい「アメ」を拒否することができなかった。
午後の柔らかな日差しが差し込む、ミアレシティのオープンカフェ。マチエールは恩人たちからの服装ではなく、先ほど立ち寄ったブティックで私からプレゼントされたばかりの、新しいブラウスの袖口を少し照れくさそうに指先で撫でていた。目の前のカップからはアールグレイの芳醇な香りが立ち上っている。
「……美味しい」
ぽつりと呟かれた言葉には紅茶の味だけでなく、今日この瞬間そのものへの、深い満足感が滲んでいた。彼女は幸せそうに目を細めてカップをソーサーに戻した。
マチエールにとってこうして二人きりで「遊びに行く」のは、本当に久しぶりのことだった。
探偵の仕事も街の復興も、すべて忘れて。ただ一人のマチエールという女性として、私にエスコートされる。私が「こっちの服も似合うんじゃないですか」と勧めれば、それを試着室で着てみる。そして「やはり似合う」と私が言うと、それがプレゼントされる。
気の向くままに店を冷やかし気の向くままに服を着替えて楽しむ。そんな目的のない、ただ消費するだけの時間はマチエールが今までほとんど経験してこなかった種類の楽しさだった。
そして何より。半日近く、私が常に隣に居てくれた。あの三日間の恐怖。いつまた彼がいなくなるか分からないという不安定な関係。だが今日は朝からずっと私の時間は彼女のためだけに使われていた。
何の目的もなくただ気の向くままに、この穏やかな時間を無為に楽しく過ごす。その当たり前の幸せがどれほど尊いものか。マチエールはその温かさを久しぶりに、全身で感じていた。
……だが。そう、だが。
こんなにも満たされた完璧な当たり前の幸せの中にいても。マチエールは自分の心の奥底にほんの少しの物足りなさが、常に居座り続けていることにもはっきりと自覚していた。
(……おかしいな)
彼女はカップを持つ私の指先を、ぼんやりと見つめた。この手だ。この手が差し入れを運び仕事を手伝い、そして今日、私に服を選んでくれた。
……そしてこの手は。私の髪を撫でうなじをなぞり私の理性を麻痺させ、あのどうしようもない快感を与えてくれた手でもある。
(……足りない)
この穏やかな幸せは心地良い。だがマチエールのすべてを支配し有無を言わさぬ力でねじ伏せ、安心と興奮の極致へと叩き落としてくれた、あの強烈な何かが、ここにはない。
あの腕の中でマチエールの欲望が暴かれ、それでも許されるという背徳的な安堵感。今のこの健全な100点のデートには、それが決定的に欠けていた。
マチエールはその心の奥底の小さな疼きに気づかないふりをしながら、私に向かって、今できる一番幸せそうな笑顔を向けるのだった。