あの穏やかで幸せだけれどどこか物足りなかったデートは夕方には終わり、私とマチエールはすっかり見慣れた探偵事務所へと戻ってきていた。街の喧騒が遠のき事務所の中には西日だけが静かに差し込んでいる。
私は買ってきた荷物をデスクに置くと、いつものようにソファに腰掛けた。すると足元に「にゃあ」という鳴き声と共に、もこお(ニャスパー)が擦り寄ってきた。
「ただいま、もこお」
私はその小さな体を抱き上げ膝の上に乗せると、その背中や喉元を優しく撫でてやる。もこおは私の手つきがすっかりお気に入りになったようで、ゴロゴロと満足そうに喉を鳴らしていた。
マチエールはそんな私ともこおの姿を、少し離れた場所からじっと見つめていた。彼女は今日一日、私がプレゼントした新しい服を着て、一人の女性としてエスコートされた。幸せだった。それは間違いない。
だが彼女の瞳には私の膝の上で無防備に撫でられている自分自身のポケモン――もこお――に対する、隠しようのない羨望の色が浮かんでいた。
(……いいな、もこおは。キョウヤに、そんなふうに撫でてもらえて)
あの当たり前の幸せでは満たされなかった、心の奥底の物足りなさ。彼女が本当に求めていたのは穏やかなデートではなく、もっと直接的なあの腕の中での支配的なまでの接触だったのだ。
しばらくの間マチエールはその場で葛藤するように立ち尽くしていた。だがやがて彼女は、ふっと何かが切れたように息を吐くと、確かな意志を持って行動を開始した。
まず彼女は壁際へと歩み寄った。そして事務所の壁にずっと飾られていた恩人であるハンサムとクセロシキの写真立てを無言で手に取った。彼女はその写真を裏返すとデスクの引き出しの奥へと迷いなくしまい込んだ。
私はもこおを撫でながら、その一連の行動を冷静に観察していた。彼女が自ら過去を隠した。
次に彼女は私と私の膝の上の、もこおに向き直った。
「もこお、おしまい」
「にゃ?」
マチエールはモンスターボールを取り出すと、まだ撫でられたそうにしていたもこおを、有無を言わさずその中へと戻した。
事務所からゴロゴロと喉を鳴らす音が消える。静寂。残されたのは私とマチエール。二人だけ。
そしてマチエールは私に向かってまっすぐに歩み寄ってきた。その瞳はもう、もこおを見ていた時の羨望の色ではなかった。あの三日間の飢餓の末に、私の首筋に噛み付いた時の剥き出しの欲望の色だった。
「……キョウヤ」
彼女は私の目の前で立ち止まると宣言した。
「今度はあたしの番だから」
その言葉はもう助手にならないかという、遠回しな懇願ではなかった。私に撫でられることを当然の権利として要求する、甘えた命令だった。
私はその見事な成長に満足し、笑みを浮かべた。膝の上の温もりが消えたソファに深く座り直す。
「おいで」
私がそう言うとマチエールは、待っていましたとばかりに、その顔を嬉しそうに輝かせた。彼女はためらうことなく私の脚をまたぐと、あの夜のように私と向き合う形でその膝の上へと深く腰を下ろした。
「……ん」
マチエールは私の胸に顔をうずめると、今日一日ずっと我慢していた私の匂いを、確かめるように深く深く吸い込んだ。
「……キョウヤの匂い……」
彼女はようやくホームに帰ってきた安心感にうっとりと目を閉じる。そして今日着たばかりの私に買ってもらった新しいブラウスが皺になるのも構わず私の体にぎゅうとしがみつき、その温もりと感触を堪能し始めた。穏やかなデートでは決して満たされなかった心の渇きが今、急速に潤っていく。マチエールはただ私の膝の上で、存分に甘えるのだった。
私はしばらくの間、膝の上で私にしがみつくマチエールのなすがままに身を任せた。彼女は今日一日の健全なデートで溜め込んでいた物足りなさを、今この瞬間に埋め合わせるかのように私の胸に顔をうずめ、外套越しに私の匂いを必死に吸い込んでいる。
(……キョウヤの匂い……キョウヤの体温……)
(これだ。あたしが欲しかったのは、これ……)
その体がようやく本当に求めていたホームに帰り着いた、とでも言うように。満足しきって、ふぅ、と安堵の息を吐きながら弛緩していく。私はその完璧なタイミングを見計らい彼女の耳元に唇を寄せた。
「……お帰り、マチエール」
そのすべてを受け入れるかのような低い囁き声に、マチエールの体が「ん……」と小さく甘く震えた。彼女は返事の代わりに、まるでその言葉に応えるかのように、さらに深く私の胸にその身を委ねてきた。
私は彼女のその素直な反応を楽しみながら、あえて先ほどの彼女の不可解な行動について静かに尋ねた。
「マチエール」
「……なに?」
「ハンサムさんたちの写真を、隠したんですね」
びくり、と。私の膝の上で、彼女の肩が分かりやすく跳ねた。見られていた。彼女がこの欲望に満ちた時間を過ごすために、自らの恩人であり理性や良心の象徴でもあった彼らの視線を自ら引き出しの奥に「封印」したことを。
マチエールは私の胸に顔をうずめたまま顔を真っ赤にして、くぐもった声で答えた。
「……だって……」
「……」
「……こんな、姿……。あの人たちに、見せられないから……」
それは彼女が自らの欲望を優先するために過去の自分と決別した、明確な告白だった。私は「ほう」と短く相槌を打つと、さらに彼女の心の奥底を暴く質問を重ねた。
「では、さっきのは?」
「え……?」
「もこおに、嫉妬したんですか」
「―――っ!」
マチエールの体が今度こそ分かりやすく硬直した。図星だった。今日一日デートで良い子にしていた自分ではなく。ただ私の膝の上で無防備に、気持ちよさそうに撫でられていた、あのポケモンに。ミアレNo.1の探偵が嫉妬した。
彼女はそのあまりにも恥ずかしい事実を突きつけられ、何も言えなくなった。ただ私の胸に顔を強く隠しながら小さくコクンと頷いた。
その姿に私は心の底から満足して笑みを漏らした。
「……そうか」
私は彼女の頭を優しく撫でた。
「偉いですね、マチエール」
「え……?」
マチエールが驚いたように顔を上げた。叱られるか、呆れられるか。そう思っていたのだろう。だが私は彼女の潤んだ瞳を見つめ、はっきりと褒めた。
「自分の欲望を忠実に表現できた。隠さずにちゃんと行動に移せたじゃないですか」
私はもこおをボールに戻し写真を隠し、そして私の膝の上を自分の番だと要求した、彼女のその一連の行動を、すべて肯定する。
「とても良い子だ」
探偵としてではなく。私の前で欲望に忠実なメスとして振る舞えたことを褒められた。その事実にマチエールの脳が焼けるような快感を覚えた。
「ぁ……んっ……!」
彼女の喉から嬉しさを隠しきれない、甲高い嬌声が漏れた。それは叱られると思っていた自分の悪い心を、絶対的な主人である私に肯定され、受け入れられたという至上の喜びに他ならなかった。
私はその喜びに打ち震える彼女の背中を、優しく撫でた。そして今日このために一日中デート中も外套の内に隠し持っていたある物を取り出した。ブティックの袋とは別の小さな黒い布袋。
「……?」
彼女はまだ快感の余韻に潤んだ瞳で、その袋を不思議そうに見つめた。私はその袋の口を指で弄びながら悪戯っぽく笑いかける。
「今日のデート、楽しかったですか?」
「う、うん……」
「でも、少し、物足りなかったでしょう?」
「……!」
図星を突かれ、彼女が息を呑む。
私はその袋の口を彼女の目の前で少しだけ開きながら、彼女の耳元でさらに甘く囁いた。
「もっと、楽しみたくはないですか?」
「……こ、これで……いい?」
マチエールは顔をこれ以上ないというほど真っ赤にしながら、私に問いかけた。彼女はソファに座る私の前に、不安そうに立っている。あの黒い袋の中身――それは彼女の髪色によく馴染む、紫がかった黒色の、猫の耳のカチューシャと、同じ色のフワフワとした尻尾のアクセサリーだった。
尻尾は彼女が今日着ていたスカートのベルト部分に器用に装着されている。ミアレNo.1の探偵。その理知的な面影は頭上の猫耳と、恥ずかしそうに揺れる尻尾によって完璧に打ち消されていた。
「ええ。とても」
私はそのあまりにも似合いすぎる姿に満足して答えた。
「お似合いですよ、マチエール」
「う……」
私が本心から褒めるとマチエールは「変じゃない……?」と呟きながら、照れたように自分の尻尾の先を指でいじった。彼女は自分の欲望を肯定され褒められたことで、恥ずかしさよりも嬉しさが勝っているようだった。
だが楽しみはこれからだ。私はソファに深く座り直すと、そのアンバランスな姿の彼女に次の「お願い」をする。
「マチエール」
「は、はい」
「いつも、ニャスパー(もこお)は、どんな風にあなたと遊んでいるんですか?」
「え? もこお……?」
「ええ。あの子は、私の膝の上で、とても気持ちよさそうに喉を鳴らす」
私はその猫耳をつけた彼女の姿を、じっと見つめた。
「あなたがいつもあの子にしているように。……今度はあなたが、私にそれを見せてください」
「―――っ!」
マチエールの顔が再びカッと赤く染まった。私が何を言っているのか、何をさせようとしているのか。その聡明な頭脳は即座に理解しただろう。
(もこおのように……? あたしが?)
彼女の瞳が羞恥とほんのわずかな好奇心で揺れ動く。だが彼女は写真を隠し、もこおをボールに戻してまで、私の膝を要求したのだ。もう後戻りはできない。
「……わかった」
マチエールは震える声でそう頷くと意を決したように、ゆっくりとその膝を床についた。そして今日買ったばかりのブラウスとスカートが汚れるのも構わず両手を床につく。四足歩行の体勢。
「……」
彼女はそのままソファに座る私の足元までぎこちなく這い寄ってきた。そして私の膝の上に前足をかけるように、その手を置く。私がその背中を押してやると、彼女は小さな抵抗の後、コロン、と私の膝の上へと乗り上げてきた。
ちょうどもこおがいつも収まっている場所。マチエールは私の膝の上で四つん這いの格好のまま、顔を上げることができずに俯いている。猫耳と尻尾をつけた女性が飼い主の膝の上に乗っている。そのあまりにも倒錯的な構図。
「……マチエール」
「……」
「足りませんね」
「え……?」
「もこおは、ちゃんと鳴きますよ」
「―――っ!」
彼女は羞恥に全身を震わせた。だがもうここまで来てしまったのだ。彼女は真っ赤な顔をゆっくりと上げ、潤んだ瞳で私を見つめると、意を決してその唇を開いた。
「…………ニャア」
それはか細く、恥ずかしさに震える、紛れもない猫の鳴き声だった。
「よくできました」
私はその完璧な服従を褒め称え、求めていたご褒美を与える。私の手が彼女の頭――その猫耳の付け根――を、優しく撫で始めた。
「あっ……ん……」
マチエールの喉から嬌声が漏れた。それはもこおが撫でられた時に出す、満足げな声によく似ていた。私はそのまま彼女の背中を腰を、そして尻尾の付け根を、まるで本物の猫を愛でるかのように、ゆっくりと執拗に撫で回した。
「ん……っ、ふ……ぁ……」
マチエールはその背徳的な快感に、もう何も考えられなかった。ただ私の手つきに身を任せ、されるがままになっている。
やがて彼女は撫でている私の手に、自ら顔を寄せ始めた。そしてまるでそれが当然であるかのように、私の指先にその熱い舌を這わせた。ぺろり、ぺろりと、私の指を舐め始める。
私はその姿を微笑ましく見下ろしながら、ふと、思い出した知識を彼女に教えることにした。
「マチエール」
「……ん……?」
「ペットの飼い主は、自分がされて嬉しいことを、無意識にペットにもしてあげるそうですよ」
「……え?」
指を舐めるのを止め彼女がきょとんとした顔で私を見上げた。私はその猫耳を優しく撫でながら、続けた。
「あなたは、いつも、もこおを膝に乗せて、優しく撫でて、可愛がっていた」
「……」
「……ずっと、マチエールは、そんな欲望があったんですね」
マチエールが誰かにそうして欲しかった。ずっと、心の奥底で。
「―――っ!」
マチエールは自分の心の奥底に隠していた、自分でも気づいていなかった欲望を、完璧に暴かれた。その衝撃に、彼女は言葉を失う。
彼女にできる、唯一の返事。それは再び私の手の指に、今度はすがりつくように舌を這わせながら、
「……ニャア……」
と、小さく、甘く啼くことだけだった。