ある日の事務所のソファ。その静かな空間にカリカリ、という乾いた音だけが響いていた。私の膝の上ではニャスパーのもこおが、小さな皿に入れたポケモンフードを夢中で食べている。
「美味しいか、もこお」
私がその頭を撫でながら尋ねると、もこおは機嫌よさそうに「ニャー」と短く啼いた。やがて皿が空になると、もこおは満足したように一つ伸びをすると私の膝の上から軽やかに飛び降り、部屋の隅のお気に入りのクッションで丸くなってしまった。
主を失った私の膝。その温もりが消えた、まさにその時だった。
デスクの影から、もぞ、と何かが動く気配がした。現れたのは顔を真っ赤にしたマチエールだった。私が与えた猫耳をつけ、尻尾を揺らしながら、彼女はぎこちない動きで床に両手と両膝をついている。……四つん這いの姿で。
彼女は私ともこおが先ほどまで行っていた儀式を、ずっと物陰から羨ましそうに見ていたのだ。マチエールは羞恥に耐えるように唇を噛み締めながら、ゆっくりと私の足元まで這い寄ってきた。
私はその姿を静かに見下ろした。
「どうした、マチエール。お前もご飯にしようか」
そのまるで本物のペットに語りかけるかのような口調。マチエールはビクッと体を震わせたが、もう私の言葉に逆らうことはできなかった。
「……ニャア」
彼女は先ほどのもこおよりも、ずっとか細く甘えた声でそう啼いた。そしておずおずと私の膝に前脚(て)をかけると、そのまま私の膝の上へとよじ登ってきた。もこおがいた場所とまったく同じ位置に彼女が収まる。
「いい子だ」
私は彼女の猫耳の付け根を撫でてやると、あらかじめ買っておいた差し入れ――サンドイッチの包みを開いた。
「おあがり」
私はその一切れのサンドイッチを皿には置かない。私の指で直接つまみ、それを彼女の口元へと持っていく。
「……っ」
マチエールは目の前に差し出された餌を、潤んだ瞳で見つめていた。手があるのに。自分で食べられるのに。だが私はそれを許さない。
彼女は小さく震えながら観念したように、その唇をそっと開いた。そして私の指先からまるで小動物のように、サンドイッチを直接食んだ。
シャリ、というレタスの音と、パンの柔らかい感触。私は彼女がそれをゆっくりと咀嚼するのを待ってから、尋ねた。
「いつもより美味しいか?」
「……!」
マチエールは顔を真っ赤にしたまま、激しくこくこくと頷く。そして口の中のものを必死に飲み込むと「……ニャアッ」と、肯定の鳴き声を上げた。飼い主に褒められ手ずから餌を与えられる。その背徳的なまでの状況が、サンドイッチに何よりも強烈なスパイスを加えていた。
私はその様子に満足すると、今度はペットボトルの水を開けた。そしてコップには注がない。
「お水も飲みましょうね」
私は小さな皿を引き寄せると、そこへとくとくと水を注いだ。そして水皿を持ち上げるとマチエールの口元へと差し出す。
彼女はもう、一切ためらわなかった。
「……ニャア」
小さく甘く啼くと、彼女は私の持つ水に顔を寄せ、その小さな舌をちょろりと出して、ぺろぺろと水を舐めて飲み始めた。その姿はもはやミアレNo.1の探偵ではなく完全に私に飼い慣らされた、一匹の愛らしいペットそのものだった。
サンドイッチを食べ終わり、水が空になりマチエールは満足したように小さく息をついた。彼女はそのまま私の膝の上で丸くなり、先ほどのもこおのように、すっかりとくつろいでいる。猫耳と尻尾はもはや彼女の体の一部であるかのように馴染んでいた。
私はその背中をゆっくりと撫でてやりながら、もう片方の手であらかじめ用意していた二通の書類を取り出す。そしてマチエールが食んだサンドイッチの包み紙などを片付けたローテーブルの上に、その二通を並べて置いた。
「マチエール」
「……にゃ?」
私の声に、彼女はまだペットの気分のまま、甘えた声で返事をした。
「先日、あなたが私に『助手になってほしい』と言った件です」
「あ……」
その言葉に彼女の猫耳がピクリと動く。
「私なりに考えて、二つのプランを用意しました。どちらもひとまずは短い期間での契約を想定していますが……どちらが良いか、あなたに決めてほしい」
「……プラン?」
マチエールは、ようやく「仕事」の話であることを理解したのか、私の膝の上でゆっくりと体を起こした。そしてまだ猫の格好のまま、テーブルの上に並べられた二通の契約書を、真剣な目で見つめた。
一通目。そこにはこう記されていた。『探偵助手業務契約プラン』
「一つは、私があなたの探偵助手として、マチエールを公私ともに支えるプランです」
その契約書には添付資料として、マチエールの立派なプロフィールが記載されていた。
『氏名:マチエール』
『役職:ミアレシティNo.1探偵』
『実績:アンジュフラエッテ事件の解決に貢献、他多数』
彼女の「表」の顔。その輝かしい経歴が並んでいる。そして末尾には、彼女が判子を押すための欄が設けられていた。
マチエールはその書類をどこか眩しそうに見つめていた。自分が求めたまっとうな「鎖」が、そこにはあった。
だが私はその隣に並べた、もう一通の書類を指差した。
「そしてもう一つ」
二通目の書類。そのタイトルはあまりにも異質だった。『ペット愛玩飼育契約プラン』
「……!」
マチエールの息が止まった。
「こちらは、マチエールが私の『ペット』として、私に可愛がられるプランです」
彼女の震える視線が、その契約書に添付された資料へと落ちる。そこにあったのは、先ほどのような立派な経歴(プロフィール)ではなかった。そこに記されていたのは私だけが知る、彼女の「プロファイリング」。
『対象者:マチエール』
『特性:責任感の裏に被支配欲求(マゾヒズム)を潜在させる』
『生態:食事や睡眠などの自己管理能力が一部欠如。外部からの「管理」を必要とする』
『特記事項:ニャスパー(もこお)に対し、強い嫉妬心(独占欲)を示す。「ペット」としての扱いに、最大の快感を覚える傾向あり』
それは私が彼女を分析し調教し、作り上げた彼女の「本当の姿」だった。マチエールの顔からサッと血の気が引いていく。そしてその書類にもまた末尾には彼女が判子を押すための欄が、くっきりと設けられていた。
マチエールは私の膝の上から降りローテーブルの前に正座するような形で、床に座り込んでいた。その猫耳は不安と羞恥でぺたりと伏せられている。彼女の視線はテーブルの上に並べられた二通のプランの間を、激しく行き来していた。
『探偵助手業務契約プラン』――ミアレNo.1探偵としての、彼女の尊厳。
『ペット愛玩飼育契約プラン』――私の分析(プロファイリング)によって暴かれた、彼女の欲望(ほんとうのすがた)。
顔を真っ赤にし彼女は小刻みに震えていた。どちらを選ぶか。それは彼女が探偵として私と繋がるか、ペットとして私に飼われるかを、自ら決定する儀式だった。
私はそんな彼女の葛藤を静かに見つめながら、最後の選択を促すための道具を取り出した。
「マチエール」
「……っ!」
私は事務所のデスクから借りてきた朱肉の入った判子ケースと、そして今日のデートのために私が密かに用意していた、真新しい一本の真っ赤な口紅をローテーブルの上に、コトリ、と置いた。
「『探偵助手業務契約プラン』を選ぶなら、そちらの判子を」
私は立派な経歴が書かれた書類を指差す。
「ですが、『ペット愛玩飼育契約プラン』を選ぶなら……」
私は彼女のすべてが暴かれた書類を指差した。
「こちらの契約書に、あなたのキスマークを付けてくださいね」
「……!」
マチエールの息が、止まった。判子(理性)か、キス(欲望)か。そのあまりにも残酷で的確な選択肢に、彼女の顔はもう限界まで赤く染まっていた。
彼女の視線が判子と、口紅の上をさまよう。
永遠のような沈黙。やがて。
彼女の震える手がゆっくりと、判子ケース……ではなく。冷たい金属の感触がする真っ赤な「口紅」へと、伸びていった。
彼女はその口紅をまるで重い十字架でも掴むかのように、ぎゅっと握りしめた。そして私を潤んだ瞳で弱々しく見上げた。
(……本当に、いいの?)
その視線が、最後の助けを求めていた。
だが私はただ、優しく笑みを返すだけだった。
「どうぞ」
その一言で彼女の最後の理性が、砕け散った。
マチエールは覚悟を決めたように俯いた。カチリと小さな音を立てて口紅のキャップが外される。彼女は震える指先でその真っ赤な色を自らの唇へと塗り付け始めた。不器用に何度も。まるで自分の決意を塗り固めるかのように。
そして彼女は目の前にある『ペット愛玩飼育契約プラン』の契約書を、両手で引き寄せた。自分の生態が恥ずかしいほど詳細に記されたその紙を。
彼女は判子を押すべき、その末尾の空白欄を見つめ、一度目をぎゅっと固く閉じた。そして真っ赤な顔のまま、震えながらも、その紙の上に自らの唇を、ゆっくりと押し付けた。
「ん……」
生々しいキスマークが契約成立の証として、彼女のプロファイリングの下にくっきりと刻印された。
「…………」
マチエールは自分がしてしまったことの重大さに唇をつけたまま、動きを止めていた。
選んでしまった。「探偵」ではなく、「ペット」であることを自ら。
やがて彼女はすべての力が抜け落ちたかのように顔を上げた。その表情は燃え尽きたかのように茫然としていた。
そして彼女はそのまま、ソファに座る私に倒れ込むようにもたれかかってきた。私はそのすべてを受け入れたペットの体を、優しく抱きとめる。彼女の唇から移った口紅の甘い香りが、ふわりと鼻腔をくすぐった。
「……ぁ……」
マチエールは茫然としたまま私の胸にその体重のすべてを預けていた。真っ赤に塗られた唇は契約書に押し付けられた形跡を残したまま、わずかに開かれ熱い吐息を漏らしている。選んでしまった。探偵としての自分を捨て、ペットとしての自分を、自ら選んでしまった。
私はその燃え尽きたような華奢な体を、優しく抱きとめ支えてやった。そしてその猫耳の付け根に再び唇を寄せ囁いた。
「頑張りましたね、マチエール」
そのすべてを労うかのような優しい声。罰でもなく嘲笑でもない。「頑張った」という肯定の言葉。マチエールはその声に、張り詰めていた最後の糸が切れたように「ん……」と甘えた声を漏らし、さらに深く私にもたれかかってきた。
私は彼女がその倒錯的な安堵感に浸り、少しだけ落ち着きを取り戻した頃を見計らった。ローテーブルの上にはまだ選ばれなかった「もう一つ」のプランが残されている。
『探偵助手業務契約プラン』。ミアレNo.1探偵としての、彼女の立派な経歴が記された、彼女の理性の象徴。
私はマチエールを膝の上に乗せたまま、その書類をゆっくりと手に取った。
「……あ」
マチエールが私の行動に気づいて顔を上げる。
私はその書類を彼女の目の前に、見せつけるように広げた。
「マチエール」
「……はい」
「あなたは、これを選ばなかった」
「……っ」
「……ということは」
私は冷ややかに笑うと。
「これはもう、必要ないものですね」
ビリッ。
「あ―――っ!」
マチエールが甲高い声を上げた。私は彼女の目の前で彼女の輝かしい経歴が書かれたその書類を、何の躊躇もなく真ん中から引き裂いた。
「きょ、キョウヤ……! なにを……!」
「必要ないものを、処分しているだけですよ」
ビリビリッ。ビリビリッ。私は彼女の抗議などまるで意に介さず、その紙片をさらに細かく何度も何度も執拗に引き裂いていく。『ミアレシティNo.1探偵』という文字が、バラバラになり床に散っていく。『アンジュフラエッテ事件の解決に貢献』という功績が、紙くずと化していく。
マチエールは最初こそ驚きと戸惑いに目を見開いていたが。やがてその光景から、目が離せなくなった。
自分が捨てたもの。自分を縛っていたもの。自分の理性の残骸が、今絶対的な主人である私の手によって、徹底的に破壊されていく。
(ああ……)
彼女の背筋を、ぞくりとした悪寒が駆け上がった。それは恐怖ではなかった。紛れもない興奮だった。
もう自分はキョウヤの前では探偵として頑張らなくてもいいのだ。立派でいなくてもいい。あの山積みの書類(理性)は、もうどうでもいい。自分の過去が目の前で無に帰していく。その解放感とすべてを破壊する私の支配的な行為に、彼女の脳は快感で焼き切れそうになっていた。
「は……ぁ……っ、は……」
彼女は真っ赤な顔で荒い息を吐きながら、私が紙片を握りつぶす、その指先だけを恍惚とした表情で見つめていた。
やがて書類がただの紙くずの山になったことを確認すると、私はそれをゴミ箱へと投げ捨てた。そして今度は、ローテーブルに残された「もう一つ」の契約書――彼女の真っ赤なキスマークが刻印された、『ペット愛玩飼育契約プラン』――を手に取った。
私はその契約書を、まず自分のスマホで丁寧にスキャンした。
「……電子証明として、バックアップを保存しておきます」
「あ……はい……」
これでもう逃げられない。データとしても彼女の契約は私のものとなった。
そして私は事務所のキャビネットから、あるものを取り出した。それは高級な革張りの、重要書類を入れるための立派なファイルだった。
「これは……?」
マチエールの疑問の視線を受けながら、私はそのファイルの表紙を開いた。そして先ほどのキスマーク付きの契約書――彼女の欲望がすべて記されたあの紙を、まるで表彰状でも扱うかのように丁重に、そのファイルの真ん中に収めた。
「さて」
私はそのファイルを閉じると、それを膝の上に座るマチエールへと恭しく差し出した。
「……? キョウヤ……? これ……」
「あなたへの、プレゼントです」
「……プ、レゼント……?」
「ええ。あなたが、今日勇気を出して、自分の本当の姿を選んだ。その証です」
私は彼女に受け取るよう、促した。
「これはもう私のものですが……飼い主として、私の大切なペットであるあなたに預けておきます。大事にしなさい」
「……!」
マチエールは震える手で、その高級なファイルをおずおずと受け取った。ずしり、とした重み。表紙には金色の箔押しがされている。
(……あたしの、契約書…あたしが、「ペット」であることの、証……)
それをこんなにも立派なファイルに入れて、「プレゼント」された。自分の恥ずかしい秘密が、まるでこの世で最も尊い宝物であるかのように、扱われている。
その倒錯した事実にマチエールの思考は、完全にショートした。恥ずかしさ。嬉しさ。そしてこの上ない性的興奮。
「あ……あ……っ」
彼女は、そのファイルを胸に抱きしめたまま、どう反応していいか分からず、ただ「あぅ」とか「うぅ」とか、意味のならない声を漏らすだけだった。
「……ありがとう、ございます……っ!」
彼女は、涙目になりながらかろうじてそれだけを絞り出した。自分の「ペットとしての契約書」を、人生で一番嬉しいプレゼントのように、ぎゅう、と胸に抱きしめ、喜びに打ち震えているのだった。
ご飯を上げて、おしゃべりして、紙を2枚渡して1枚破いただけです。何も悪い事してません。