VSタウニー、マチエール戦から一夜明けた昼過ぎ。ミアレシティ探偵事務所の空気は、昨日までのそれとは比較にならないほど重く張り詰めていた。ソファの上。私とマチエールの間には一人がやっと座れるほどの絶妙な、しかし決定的な距離が空いていた。
彼女は昨日のあの公衆の面前での屈辱的なディープキスと、私の再調教宣言の後だというのに、それでもこの事務所で気丈に振舞っていた。その顔には疲労と屈辱の色が濃く浮かんでいたが、その瞳にはまだミアレNo.1探偵としての、最後のプライドの光が宿っていた。
「……来週は」
マチエールが沈黙を破った。彼女は私の方を見ようともせず、壁に飾られた恩人たちの写真を、ぼんやりと見つめながら言った。
「……来週は、負けませんから」
その声は震えていた。自分に言い聞かせるかのように、必死に紡ぎ出された抵抗の言葉だった。
「ああ、それは怖いな」
私はその痛々しいまでの虚勢を、穏やかな声で受け流した。そして二人の間にあった、そのわずかな距離を音もなく詰める。私の体が彼女の隣に、ぴたりと密着した。
マチエールの肩が分かりやすく跳ねる。だが私はお構いなしに、その震える肩にそっと腕を回した。
「あ……っ」
「仕方ないんだよ」
私は彼女が抵抗の言葉を口にする前に、その耳元で、甘く囁いた。
「許してほしいな。マチエールも、タウニーも、君たちは二人ともとても魅力的なんだから」
「……!」
それはまるで私が二股をかけたのは不可抗力であり、悪いのは私をそこまで夢中にさせたお前たち二人の方だ、とでも言うかのような、理不尽な論理だった。マチエールは「ふざけないで」と叫びたかっただろう。だが私の手が拒絶する間もなく、彼女の髪をゆっくりと梳き始めた。
「……っ、……」
マチエールは唇をきつく結び、その愛撫に耐えようとした。昨日の今日だ。こんなふうにまた簡単に撫でられて、たまるものか。彼女のプライドがそう叫んでいた。
だが私の指は彼女の弱点を知り尽くしている。私はじっくりと丹念に、彼女を愛で続けた。髪を梳き耳の裏をくすぐり、首筋を労わるかのように指の腹でそっとなぞる。
「ん……っ、ふ……」
彼女の喉から抗いきれない甘い吐息が漏れ始めた。プライドが理性が、昨日私に負けたという事実が。そして何よりこの手に触れられることでしか得られない快感が、彼女の抵抗を内側から溶かしていく。
彼女の瞳から次第に抵抗の光が消えていった。焦点がぼんやりと合わなくなっていく。その表情にじっとりとした粘り気が、滲み出てきた。私の手に完全に再び陥落しかけている証拠だった。
私はその完璧なタイミングを見逃さない。彼女がこの快感に再び身を委ねようと、思考を停止させかけた、その瞬間。私はその耳元でさらに甘く残酷な賞賛を囁きかけた。
「それにしてもマチエールは、本当に頑張ったね」
「……え……?」
その予期せぬ褒め言葉に彼女の思考が、一瞬フリーズする。私はその隙を突き彼女の心の一番脆い部分を容赦なく抉った。
「たった3日、私と会わなかっただけで、あんなに限界だったのに」
「―――っ!」
マチエールの体が今度こそ恐怖で硬直した。あの三日間の地獄。『会いたい』と、みっともなくメッセージを連投し、私の声を聞いてパニックになったあの記憶。
「私がいないとダメなのに」
私は彼女の髪を撫でながら続ける。
「自分が選ばれないかもしれないっていう、一番怖い賭けに乗ってまで……」
「……よく二人の内一人を選んでなんて、言えたね」
「そ、それは……!」
マチエールは恐怖を感じた。それは褒め言葉などではなかった。お前は私無しでは生きられないくせに、何を血迷った真似をしているんだ、という、絶対的な支配者からの嘲笑だった。
「……っ、街の皆も、昨日のことは、キョウヤが卑怯だって言ってます!」
マチエールは最後の力を振り絞り、外部の正義に縋ろうとした。
「皆、私たちを、応援してくれてます……!」
「うん」
私はその必死の抵抗に深く頷いてみせた。
「マチエールは、立派だね」
私はその首筋に顔を寄せ彼女を抱きしめる腕にぐっと力を込めた。そして囁く。
「でもその街の皆は、分かってるのかな」
「……?」
「マチエールは……私がいないと不安で、声が聞けないと錯乱して、膝の上じゃないと安心できないっていう、その本当の恐怖を」
「そ、それは……っ」
マチエールは口ごもった。分かるはずがない。街の皆が応援しているのは、あくまでもミアレNo.1探偵としてのマチエールだ。私がペットとして調教し、依存しきっている、この本当の姿など誰も知らない。私だけが知っている。
私は彼女を、その支援者たちから心理的に完全に孤立させた。
「強くて、賢くて、自立してて、立派なマチエール」
私はまるで詩でも詠むかのように、彼女の表の顔を並べ立てる。
「街の皆から尊敬されて、頼られる、立派な女性だ」
「……」
「でも」
私は彼女の耳たぶを、軽く甘噛みした。
「ひゃぅ……っ!」
「マチエールが、本当に欲しいものは、そこにあるの?」
「……っ!」
マチエールは黙り込んだ。彼女が自ら選んだのは、何だったか。『探偵助手プラン』ではなかった。自分のすべてを暴かれ、それでも自らキスマークをつけたあの『ペット愛玩飼育契約プラン』。それが彼女の本当に欲しいものだったはずだ。
彼女はもう反論できなかった。私にすべてを見透かされている。
私はその黙り込んだ彼女に最後の一撃を与えた。あの彼女の心の最も古い傷跡に触れる。
「……マチエールの恩人である、ハンサムさんたちとは長い事会えていないのでしょう」
「……!」
マチエールの体が震えだした。なぜ今、その名前を出すのか。彼女にとって最も大切な失われた庇護者の記憶。
私は彼女を抱きしめたまま、悲しそうに呟いた。
「もし来週の賭けに私が敗北したら…選ばなかった方とは、きっと、もう二度と会わないほうがよいだろうね」
「あ―――」
マチエールは息を呑んだ。恐怖。その言葉が彼女の脳天を直撃した。
(キョウヤが、いなくなる?もし、タウニーが選ばれたら?もし、私が選ばれなかったら?)
ハンサムが消えた時のように。また私は一人になる。あの三日間どころではない。永遠に。その恐怖が彼女の最後のプライドを粉々に打ち砕いた。
「……っ、……っ」
彼女の体はもう恐怖でガタガタと震えていた。もう来週の勝負のことなどどうでもよかった。ただ今この瞬間に、彼がいなくなるかもしれないという恐怖がすべてを支配した。
私はその震える体を優しく抱きしめた。もう責める声は、どこにもない。ただ甘く優しい救いの声だけが彼女の耳に届いた。
「……弱くて、かわいそうなマチエール。頑張ったね。辛かったね」
私は彼女の背中をまるで赤子をあやすかのように、ゆっくりと撫でる。彼女の恐怖をすべて肯定してやる。
「もう、大丈夫。一人で立派な探偵として震えなくていい」
私は彼女の額にそっとキスを落とした。
「マチエールが本当に安心できる場所に、また来ても良いんだよ」
その赦しの言葉。
「……ぅ……あ……」
マチエールの瞳から堪えていた涙が、ぼろぼろとこぼれ落ちた。
彼女はもう私から離れて座っていることなどできなかった。ふらふらと、まるで何かに引き寄せられるかのように私にすり寄る。そして自ら私の膝の上へと、その身を預けてきた。
彼女は私の胸に顔をうずめ、まるで子供のように声を殺して泣きじゃくり始めた。再調教はもう始まっていた。彼女が自ら再び私の「ペット」の定位置に戻ってきた。
マチエールはしばらくの間、私の膝の上で、まるで嵐の後の巣に戻った小動物のように、ただひたすらに甘えていた。彼女の体は、昨日までの恐怖と緊張から解放された安堵に、まだ微かに震えている。やがて彼女はこの状況こそが、今の自分にとって最も安全なのだと理解したのだろう。
ごそごそと身じろぎしながら私の胸に頬を押し付け、私の心音を聞き匂いを確かめられる、完璧な定位置を見つけ出す。そしてふぅ、と。心の底から安心しきった、熱い吐息を私の首筋に吐きかけた。もう彼女の瞳に、昨日の抵抗の色は欠片も残っていなかった。
その完全に力が抜けきった姿を見届け、私はあらかじめ用意していた「それ」を、無言で彼女の目の前に差し出した。あの猫耳のカチューシャ。
「……!」
マチエールは、それが何を意味するのかを、即座に理解した。だがもう彼女に、昨日のような葛藤や羞恥の色はなかった。彼女は自らの手でそのカチューシャを私から受け取ると、何の躊躇もなくその乱れた髪の上へと装着した。
まるでそれがいつもの儀式であるかのように、ごく自然に。私のペットとしての姿に彼女は自ら戻ってきた。
私はその姿に満足し彼女の頭を、今や猫耳ごと優しく撫でた。
「おかえり、マチエール」
その声に彼女は、嬉しそうに「ん……」と喉を鳴らした。そして私から二度と離れまいとするかのように、その腕を私の背中に強く回し、ぎゅうと私にしがみついてくる。
「…キョウヤ」
「はい」
「……キョウヤと、ずっと、一緒に居たい」
彼女のか細く切実な声が、私の胸に響く。
「……自分だけを、見ていてほしいんです」
それはこの悲惨な賭けの発端となった言葉。彼女の、そしてタウニーの独占欲。私はその告白を穏やかに受け止めた。
「そうだね」
私は彼女の猫耳の付け根を指先で優しくくすぐる。
「それがマチエールの本心だよね」
「……っ、……はい……」
自分の最も醜いと思っていた感情を、私にあっさりと肯定された。その事実に彼女は安堵と背徳的な喜びに、再び体を震わせた。
「大丈夫だよ」
私は彼女が最も欲しがっている言葉を与えてやる。
「マチエールのことは、こうして一緒に居なくても、常に考えているよ」
「あ……ぅ……」
彼女はその甘い言葉に、もう何も言えなくなった。ただ私の胸に顔をうずめ、すりすりと甘えるだけだった。
だが。どれほどこの腕の中が心地よくとも、現実の問題はまだ解決していない。しばらく私の腕の中で、その安心感を堪能していたマチエールだったが、やがて不安そうに顔を上げた。
「…でも…キョウヤとタウニーとの、賭け…」
彼女の瞳が、再び、恐怖に揺らぐ。
「…今更、引き下がれません。街の皆にも知られてる…」
彼女は自分の探偵としての公の立場に、再び縛られようとしていた。せっかくペットの姿に戻ったというのに、またあの恐怖に満ちた現実が彼女の心を苛む。
私はその様子に、まるで子供をあやすかのように穏やかに言った。
「そうだね。大変だね、マチエールは」
「……う……」
その、どこか他人事のような、しかし優しい口調に、彼女は言葉を詰まらせた。
「そうだ」
私はまるで、今素晴らしいことを思いついたとでもいうかのように、彼女の耳元で囁いた。
「マチエールがわざと、ポケモンバトルの賭けで『負ければ』よいんだよ」
「―――え?」
マチエールの思考が、完全に停止した。猫耳が驚きにぴんと立つ。
(……負ける? あたしが? わざと?)
「な、なにを……言ってるの……? そんな、こと……」
「できるよ」
私は彼女のその戸惑いを一言のもとに、断ち切った。そして彼女をこの上なく甘美で背徳的な共犯へと、誘い込む。私は彼女の耳に唇が触れるか触れないかの距離まで顔を寄せ、その計画を囁き始めた。
「予め、秘密のサインを決めておくんだ」
「……サイン……?」
「そう。私がバトル中に、例えば『帽子のツバを触ったら』、マチエールは、次の技を『こうかばつぐん』ではない、別の技にする」
「……!」
「私がバトル中に『咳払い』をしたら、マチエールはタウニーとの連携を、わざと一瞬だけ遅らせる」
「……そ、そんな……」
「マチエールは、私の指示通りに、バトルをするんだ」
私は彼女の心を完全に読み切っていた。
「そうすれば」
私は彼女が最も気にしている弱みを優しく撫でてやる。
「街の皆は、どう思うかな?」
「……」
「マチエールは、あの卑怯なキョウヤ相手に、最後まで正々堂々と立派に戦った。……そう思ってくれるよ」
「あ……」
「タウニーも、まさかあなたが私と裏で繋がっているなんて思いもしない」
彼女は自分の「公の立場(プライド)」を守ることができる。観客からもタウニーからも非難されることはない。それどころか「立派に戦った」と、賞賛されるかもしれない。
「……で、でも……!」
マチエールの最後の理性が抵抗を試みた。
「そんな……街の皆を、タウニーを……騙すような、ことは……」
私はそのあまりにもか弱い抵抗を、嘲笑うかのように、彼女を抱きしめる腕に力を込めた。
「大丈夫だよ」
私は彼女の耳元に決定的な事実を囁きかける。
「この関係と一緒だ」
「―――っ!」
マチエールの体が、硬直した。
(この、関係と、一緒……?)
私が彼女をペットとして調教し、膝の上に乗せ猫耳をつけさせている、この秘密の関係。これもまた街の皆を、タウニーを「騙して」いることと、何ら変わりはないではないか、と。
「バレないよ」
その一言がマチエールの、最後の抵抗を完全に沈黙させた。彼女はもう何も言えなかった。この新しい「嘘」を拒否することは、今自分が溺れている、この「快感(うそ)」そのものを、否定することになるのだから。