ミアレシティ探偵事務所の、あの使い古されたソファの上。外の喧騒がまるで遠い世界のことのように静まり返っていた。
いや静かなのではない。私の膝の上でマチエールがすべての音を遮断するかのように、私に必死にしがみついていたからだ。彼女の体は昨日とは比べ物にならないほど、小さくガタガタと震えていた。
あのマチエール&タウニーVS私との2VS1のポケモンバトル。それはジガルデなどという切り札を出すまでもなく、私の圧勝に終わった。
当たり前だ。マチエールがバトル中、私が決めておいた秘密のサイン通りに、完璧に動いてくれたのだから。タウニーが指示を出そうとする、その一瞬前にマチエールがわざと技の指示を誤る。タウニーのポケモンが私を追い詰めた、その決定的な場面でマチエールのポケモンが、タウニーのポケモンの進路を偶然塞いでしまう。
公衆の面前であのプライドの高いタウニーと街の皆を、完璧に裏切る行為。そのすべてを彼女は私の指示通りに、やり遂げた。結果タウニーは「ああ、もう」と混乱し、街の皆は「調子が悪いな、マチエール」と戸惑う中、私は危なげなく二人のポケモンをすべて戦闘不能にしたのだった。
そして今。事務所に戻ったマチエールはその背負いきれない罪の重さに、押しつぶされていた。
「……っ、……ぅ……」
私の胸に顔をうずめたまま彼女の喉から抑え殺した嗚咽が漏れる。彼女は震える声で懺悔を始めた。
「……キョウヤ……あたし……っ」
「……」
「……わざとキョウヤに……負けちゃった……」
それは私がやらせたことだ。だが彼女の口から改めて事実として紡がれる。
「街の皆を……タウニーを……裏切っちゃった……!」
彼女の瞳からついに堪えていた涙が、ぼろぼろとこぼれ落ち、私のシャツを濡らしていく。私はそんな彼女の姿を、ただ静かに見下ろしていた。なんと可哀そうなマチエール。
私はその震える背中を、まるで赤子をあやすかのようにゆっくりと優しく撫でた。
「可哀そうなマチエール」
私は彼女の耳元に唇を寄せ、囁きかけた。
「……大丈夫だよ」
「……で、でも……あたしは……!」
「悪いのは、全部、私なんだから」
「え……?」
マチエールが涙で濡れた顔を、驚いたように上げた。
私はその潤んだ瞳を、まっすぐに見つめ返した。そして彼女が最も欲しがっている免罪符を与えてやる。
「マチエールは、悪くない」
「……」
「マチエールは、私に命じられたとおりに、動いただけだ」
「あ……」
彼女の瞳から理性の光がふっと消えた。そう。彼女は裏切ったのではない。ただ私に命令されたから、その通りに従っただけなのだ。その事実は彼女の心をどれほど軽くしたことだろう。
私は彼女の思考に、最後の楔(くさび)を打ち込む。
「だから、マチエールは悪くない。……私と共にいる限りはね」
「―――っ!」
マチエールは、その条件付きの赦しに、まるで、溺れる者が浮き輪に掴まるかのように、再び私の胸にぎゅっと抱き着いてきた。そうだ。私と一緒にいればマチエールは悪くないと言ってもらえる。だが私から離れれば、マチエールは街の皆とタウニーを裏切った、ただの卑怯者に戻ってしまう。
彼女はもう私から離れられない。
「マチエールが、それを罪だと思っても」
私は彼女の髪を優しく撫でながら、さらに言葉を続けた。
「私だけは、それを『罪ではない』と主張するよ」
「……キョウヤ……」
「私がマチエールを街の皆の非難からも、タウニーの怒りからも、全部、守ってあげるから。
…それにこの嘘は犯罪ではないし、誰も苦しまない。」
私は彼女のすべてを肯定する。
「……だから、大丈夫だよ」
その言葉を証明するように私は彼女の涙で濡れた額に、そっと軽いキスを落とした。
「ん……っ」
マチエールは、そのあまりにも優しい接触にうっとりと目を閉じる。
そして彼女はか細いがはっきりとした声で、私にねだってきた。
「……もっと」
「……」
「……もっと、して……」
私はその見事な成長に静かに笑みを返した。彼女はもう自分の欲望を私に差し出すことを覚えてしまった。
「ここは安全だよ、マチエール」
私は彼女の耳元で再び囁く。
「お前が本当に欲しいものを、私に求めてもいい、唯一の場所だ」
私は彼女が望むままに、今度はその真っ赤な唇に深くキスをした。彼女はもう何も考えず、ただその与えられた快感と赦しに、夢中になって応えるだけだった。
しばらくの間、私はマチエールの望むままにキスを続けた。彼女の体からあれほど激しかった罪悪感と恐怖による震えはいつしか収まっていた。その代わり私の腕の中で与えられる快感に、とろりと蕩け始めている。
私はそっと唇を離すと、その潤んだ瞳を見下ろした。
「……もう、大丈夫かい?」
「……ん」
マチエールは私の胸に頬をすり寄せたまま、か細い声で答えた。
「……でも、離れたくない」
彼女はぎゅっと私の服の裾を掴んで離さない。この腕の中から離れれば、またあの裏切り者としての現実に引き戻される。その恐怖が彼女を私に縛り付けていた。
私はその依存しきった姿に小さく息をつくと少し考える素振りを見せた。
「……そうだ」
私は自分のポケットから、この日のために用意していた、一つのプレゼントを取り出した。それは彼女の首筋によく映えそうな、細くシンプルな黒い革のチョーカーだった。
「マチエール。これを付けるのは、どうだろうか」
「……これ……?」
マチエールは私が差し出したそれを、不思議そうに見つめた。ただのアクセサリー。
私はそのチョーカーを彼女の目の前で揺らしながら、その本当の意味を、優しく教え込んだ。
「これはマチエールが、私のものであるという『証』だ」
「……!」
「これを首に付けていれば、マチエールは、常に『私のものである』と、感じられる」
私は彼女の顔や耳を優しく撫でた。
「そうすれば、罪悪感も、感じなくなるだろう?」
「……え……?」
「だってそうだろう?マチエールは私の『もの』なんだから。私の『ペット』なんだから。飼い主の命令に従っただけで、罪なんてあるはずがない」
「あ……」
彼女の瞳から理性の光が再び溶けていく。そうだ。あたしは、キョウヤのもの。だからキョウヤに言われた通りにしただけ。悪いのはキョウヤ。あたしは悪くない。
私は彼女の思考を完璧に誘導する。
「これならマチエールのスーツの下にも、隠れるだろうし。誰にもバレない」
(……ずっと、キョウヤのものだと感じられる)
(そうすれば、もう罪悪感に、苦しまなくていい)
その甘美な赦しと所有の提案にマチエールの顔が、パァッと輝いた。彼女はまるで最高の玩具をねだる子供のように、目を輝かせて私に手を伸ばした。
「それ……!」
「……」
「それ、着けて……! 早く!」
「うん。分かったよ」
私はその完璧な反応に満足して頷いた。そしてその首筋にゆっくりと黒い革のチョーカーを回す。カチリ、と。小さな留め具の音が静かな事務所に響いた。
マチエールは自分の首輪(チョーカー)に恐る恐る、指先で触れた。確かな革の感触。マチエールは確かに彼に繋がれた。その事実に彼女は恍惚とした表情を浮かべるのだった。
私はチョーカーを装着したマチエールを、その手を取ってソファから立たせた。そして事務所の隅に置かれたあの大きな姿見の前へと、二人でゆっくりと歩いていく。
「……あ……」
鏡の前に立ったマチエールは、そこに映る自分の姿を見て、息を呑んだ。そこにはミアレNo.1の探偵の顔ではなく、ただの女の顔をした自分がいた。そしてその首筋には私が今しがた着けた、黒い革のチョーカーがくっきりとその存在を主張していた。
彼女はまるで、初めて見る宝物かのように、鏡の中の自分の首元にそっと指先で触れた。
(……あたし、繋がれてる…キョウヤに)
それは拘束具であるはずなのに、彼女の目にはこの世で最も美しい装飾品のように映っていた。自分が「彼(キョウヤ)のもの」であるという、揺るぎない証。このチョーカーが彼女の罪をすべて吸い取り「あなたは悪くない」と囁きかけてくれているかのようだ。
マチエールは鏡に映るその繋がれた自分の姿にうっとりと目を細めた。
「似合ってるよ、マチエール」
私が鏡越しにそう声をかけると、彼女は嬉しそうにはにかむように微笑んだ。
「……うん」
罪悪感から来ていた彼女の体の震えはもう止まっていた。彼女はもう大丈夫だろう。「ミアレNo.1探偵」という重い鎧を脱ぎ捨て、「私のペット」という、彼女が本当に望んでいた場所(やくわり)に、ようやく落ち着いたのだ。
私はその安心しきった横顔を見届けると、彼女の肩を抱き寄せた。マチエールも何の抵抗もなくその体を私に預けてくる。
私は彼女の真っ赤な唇に自分の唇を重ねた。もう言葉は必要なかった。事務所の西日が二人の影を一つに結ぶ。私はマチエールと、いつまでもいつまでもキスをしていた。
ヒロインを罪の意識から解放し、一生もののプレゼントを送る。これは王道ですね