リーグ本部の執務室は深夜特有の静けさに包まれていた。空調の低い駆動音だけが、ブーンと響いている。
(……ん、ぅ……)
首が痛い。変な姿勢で固まっていたせいか身体の節々が悲鳴を上げている。チリちゃんは重たい瞼を無理やり押し上げた。視界がぼやける。積み上げられた書類の山とパソコンの青白い光。どうやら決裁書類と睨めっこしたまま、意識を飛ばしていたらしい。
「……しもた。今、何時や……」
寝惚けた頭で時計を探そうとして──ふと、隣からリズミカルな音が聞こえてくることに気づいた。カタ、カタ、ッターン。小気味よいタイピング音。ゆっくりと首を巡らせると隣のデスクに“後輩”がいた。モニターの明かりに照らされた横顔は真剣そのもので。
『あ、おはようございます。チリさん』
視線は画面に向けたまま、まるで天気の話でもするかのような声色で後輩は言った。
「──ッ!?」
心臓が跳ねてガタッと椅子が音を立てる。一気に眠気が吹き飛んだ。
(うっそやろ、自分!? いつからおったん!? てか、チリちゃん寝てたで!? あかん、ヨダレ! ヨダレ垂れてへんか!?)
慌てて口元を手の甲で拭う。セーフや。たぶん。いやでも寝顔は見られた。無防備に口開けてアホみたいな顔して寝てたところを、バッチリ見られたに決まっとる。
「じ、自分……! いつからそこに……ッ! てか、起こせや! 先輩が寝てたら叩き起こすんが後輩の務めやろがい!」
顔から火が出そうなのを隠すためにわざと声を荒らげる。我ながら理不尽な逆ギレやけど、今はこうするしかない。そんなチリちゃんの剣幕にも後輩は動じない。キーボードを叩く手は止めず涼しい顔でコーヒーカップを手に取った。
『いやあ、あまりにも気持ちよさそうに寝てたんで。それにチリさんが起きるまでに、こっちのエリアの処理終わらせとこうと思って』
「……は?」
言われて自分のデスクの端末を見ると、未処理だったはずの申請データの山が綺麗に片付いている。チリちゃんが寝ている間に、全部やってくれたっちゅーことか?
「な……余計なことすんなや……! チリちゃんの仕事やぞ……」
「余計なこと」なんて言葉とは裏腹に、胸の奥がキュウと締め付けられる。仕事ができる男やとは知ってたけど、こういうさりげないフォローはずるい。感謝と恥ずかしさと、申し訳なさがごちゃ混ぜになってどういう顔をすればいいのか分からへん。
『はい、これ。どうぞ』
不意に、スッと何かが差し出された。コンビニのサンドイッチだ。
『腹減ってるでしょ。ハムレタス、好きでしたよね』
「……なんで、知ってんねん」
『いつも食べてるじゃないですか。見てますよ、ちゃんと』
自分はそこで初めて手を止め、クルリと椅子を回してこっちを見た。深夜のオフィスで二人きり。優しい目がチリちゃんを射抜く。
「……あほ。……ありがとさん」
ぶっきらぼうに礼を言って、サンドイッチを受け取る。指先が触れた瞬間、またあの居酒屋での熱を思い出してしまって、チリちゃんは慌てて封を開けた。
(……あかんわ。こんなん好きにならん方が無理やろ)
ハムレタスの味なんてちっとも分からんかった。ただ、隣で働く自分が立てるタイピングの音だけが、やけに心地よく耳に残った。
最後のひと口を飲み下して、チリちゃんは小さく息を吐いた。コンビニのサンドイッチなんて久しぶりに食べたけど、空きっ腹には五臓六腑に染み渡る美味さやった。
「……ふぅ。さてと」
腹も満たされたことやし仕事モードに切り替えや。チリちゃんは居住まいを正すと、自分が処理してくれたデータをざっと確認した。ジム視察のスケジュール調整に、挑戦者のデータ入力、経費の精算……どれも完璧や。文句のつけようがないどころか、チリちゃんがやるより丁寧かもしれへん。
(……ほんま、仕事はできるんよな、この男)
悔しいけど認めざるを得ない。こんだけ優秀やったらもっと上のポストに行けるはずやのに、なんでチリちゃんの下についてるんやろか。……いや今はそんなこと考えてる場合やない。
「助かったわ、自分。せやけど、ここからはチリちゃんの領分や。機密事項も多いからな」
まだ山のように積まれた書類の束を引き寄せる。四天王としての決裁印が必要な書類や、リーグ委員長への直訴状。こればかりは他人に任せるわけにはいかん。キーボードを叩く音だけが、静まり返ったオフィスに響き始めた。
集中せな。そう思うんやけど──視線を感じる。自分の仕事がなくなった手持ち無沙汰な自分が、椅子をズルズルと寄せてきて、チリちゃんのすぐ斜め後ろから、じーっとこっちを観察している気配がするんや。
「……なぁ、自分。見すぎちゃうか?」
たまらず手を止めて振り返る。自分は頬杖をついて悪びれもせずニッコリと笑った。
『いやあ、仕事してるチリさんも素敵だなと思って』
「っ、お世辞はええねん! 気が散るから、あっち行っとき!」
『暇なんですよ。俺の仕事、終わっちゃったし』
そう言うと自分は楽しげに目を細めて、とんでもない提案を口にした。
『じゃあ、ゲームしましょうか』
「は? ゲーム?」
『あと一時間。もし一時間以内にその書類の山を全部片付けられたら、チリさんの勝ち。終わらなかったら、俺の勝ちです』
自分は人差し指を立てて、チリちゃんの目の前で振ってみせた。
『負けた方は勝った方の言うことを【ひとつだけ】聞く。どうです?』
ピクリ、とチリちゃんの眉が跳ねた。言うことをひとつだけ聞く。その言葉の響きに、先日の居酒屋での出来事が脳裏をよぎる。もし負けたら? こいつのことや、またとんでもない要求をしてくるに決まっとる。「一日デートしろ」とか、「マッサージさせろ」とか、あるいはもっと……。
(……なめられたもんやな)
カチリ、と頭の中でスイッチが入る音がした。チリちゃんはパルデアの四天王や。売られた喧嘩を買わんかったら、名折れやろ。それにもしチリちゃんが勝ったら──。
(勝ったら、あいつに命令できる。「二度と変なちょっかい出すな」でもええし、「敬語もっとちゃんと使え」でもええ。……いや、いっそ「チリちゃんのことを好きって言え」って……あかんあかん! 何考えてんねん!)
邪念を振り払うように頭を振って、チリちゃんは不敵な笑みを浮かべた。ネクタイを締め直し、椅子の上であぐらをかくように座り直す。
「一時間? ……自分、誰に向かって口きいてんねん」
鋭い眼光で余裕ぶっている自分を睨みつける。
「チリちゃんを見くびったらあかんで。こんな程度の書類、一時間もかかるわけないやろ」
デスクの上の書類の山を、バチンと手のひらで叩いた。
「30分や」
『……え?』
「30分で終わらせたる。その代わり──負けたら覚悟しときや? チリちゃんの命令は絶対やからな」
挑発的に言い放つと、自分は少し驚いたように目を見開き、それから嬉しそうに「乗った」と頷いた。
『いいですね、その意気です。じゃあスタート』
スマホのタイマーを押す自分を横目にチリちゃんは猛然とキーボードを叩き始めた。指先が残像に見えるくらいのスピードで入力を済ませ、書類に次々とハンコを押していく。アドレナリンがドパドパ出ているのが分かる。
(見てろよ、自分……! 絶対勝って、その余裕な面、吠え面かかせたるからな!)
背後でクスクスと笑う気配を感じながら、チリちゃんは深夜のオフィスで、愛とプライドを懸けたデスマーチに突入していった。
『あと15分──!』
カチャカチャカチャッ! ッターン!執務室に、チリちゃんの鬼気迫るタイピング音が響き渡る。ゾーンに入ったチリちゃんは無敵や。思考と指先が直結したみたいに、次々と仕事を片付けていく。モニターの光が網膜に焼き付いてチカチカするけど、瞬きする時間すら惜しい。
(いける! このペースなら余裕で間に合う!)
勝利を確信して、ニヤリと口角を上げたその時やった。椅子のキャスターが転がる音がして、気配がぐわりと近づいた。
「……っ、近いて! 邪魔すんなや!」
画面から目を離さずに文句を言うけど後輩は退くどころか、さらに距離を詰めてくる。熱い吐息が敏感な耳殻にかかった。
『チリさん、手、震えてますよ?』
低く甘ったるい声が鼓膜を震わせる。
『もし俺が勝ったら……何してもらおうかなあ。やっぱり居酒屋の続き、とか?』
「ッ……!?」
ふいに耳元で囁かれた言葉に、指先がピタリと止まる。居酒屋の続き。その単語が持つ破壊力に脳味噌が一瞬ショートした。あの時の服の上から撫で回された感触、熱っぽい視線、身体の疼き──全部がフラッシュバックして、カァッ! と全身の血が沸騰する。
「な、ななな、何言うてんねんアホ! 今は仕事中やぞ! 神聖なリーグの本部で……っ!」
『顔、赤いですよ。想像しちゃいました?』
「し、してへんわ!」
嘘や。しまくったわ。動揺をごまかすためにエンターキーを強打する。あかん、ペース乱された。この男、本気で勝ちに来とる。卑怯やぞ、精神攻撃は!
その時。静まり返った廊下の向こうから、規則的な音が聞こえてきた。
コツ、コツ、コツ──。
硬い靴音が確実にこの部屋に向かって近づいてくる。チリちゃんの背筋が凍りついた。この時間の巡回警備員か、それとも他の四天王か、まさかのオモダカさんか。誰にせよ深夜のオフィスで二人きり、しかもこんな距離感でいるところを見られたら──。
『あーあ。これ、見られちゃいますね。深夜の密会』
自分は楽しそうに囁く。
『四天王のチリが深夜に年下の部下を招き入れる。……噂になりますかね?』
「っ……脅すなや!」
噂になるだけならまだしも、あらぬ誤解を受けて、リーグ本部の噂にでもされたら末代までの恥や!チリちゃんは焦りでパニックになりかけながら、後輩を小突いた。
「は、早よ隠れろ! 机の下! 早よ!」
『えー、狭いですよ』
「ええから入れっちゅーねん!」
強引に自分の背中を押して、デスクの下のスペースに押し込む。自分は渋々といった様子で、チリちゃんの足元へと潜り込んだ。ちょうどそのタイミングで足音がドアの前で止まる気配がした。
チリちゃんは慌てて姿勢を正し何食わぬ顔でモニターに向かう。心臓は早鐘を打っている。バレへんよな? 机の下に大男が隠れてるとか、普通は思わへんよな?
(頼む、そのまま通り過ぎてくれ……!)
祈るような気持ちで息を潜めた、その時やった。ブーツに包まれた足に、何かが触れた。温かくて、大きな──指。
(──っ!?)
ビクンッ! と身体が跳ねそうになるのを、歯を食いしばって耐える。机の下。暗がりの中。あろうことか、自分がチリちゃんの太ももに、そっと乗せてきたんや。
(な、な……っ!? 何してんねんコイツ!?)
声を出したら終わる。せやけどこの状況で黙ってられるか!?指は太ももの内側、生地越しでも分かる筋肉の柔らかい場所を、ゆっくりと味わうように撫でてきた。
「……ッ、ぅ……!」
喉の奥から漏れそうになる悲鳴を咳払いで誤魔化す。ドアノブがガチャリと回る音が聞こえた。誰かが入ってくる。絶体絶命の緊張感の中で足元の男はまるで獲物を追い詰めるように、指先をさらに奥へと這わせていく。
(あかん……これ、ほんまにあかんやつや……ッ!)
机の下の熱と入り口の冷ややかな気配。チリちゃんは引きつった笑顔をドアの方へ向けながら、机の下の狼藉者に蹴りを入れることもできず、ただ小刻みに震えるしかなかった。
「失礼しますよ。……まだ明かりがついていましたので」
入ってきたのはよりによって一番あかん相手──トップチャンピオン、オモダカさんやった。長い黒髪を揺らし、特徴的な無機質な瞳で部屋を見渡す。チリちゃんは椅子の上でカチコチに固まった。
(お、オモダカさん……!? なんでこんな時間に……ッ!)
「ち、チリです! お、お疲れ様です……!」
慌てて立ち上がって敬礼しようとしたけど、できへん。だって足元には後輩が潜り込んでて、あろうことかチリちゃんの太ももを指でなぞって遊んでるからだ。下手に動いたら後輩の存在がバレる。チリちゃんは不自然な姿勢のまま、デスクにしがみつくようにして笑顔を作った。
「──ま、まだ仕事してまして! 決裁書類が、ほら山積みやったんで!」
「そうですか。感心ですね。チリはいつも精力的でリーグの模範ですよ」
オモダカさんは疑う様子もなく、ゆっくりとデスクに近づいてくる。コツ、コツ、という足音が、死刑台へのカウントダウンみたいに聞こえる。
(来んでええ! 来んでええって! 足元見られたら終わりやぞ!?)
冷や汗が背中を伝う。せやけどもっとヤバいのは机の下や。オモダカさんと喋ってるのをいいことに、自分はいよいよ遠慮をなくしとった。太ももの内側一番敏感な柔らかい皮膚を、指の腹でいやらしく捏ね回す。
「ッ、ぅ……!」
「……? どうしました?」
「い、いえ! なんでも……ない、です……!」
ズボンの生地越しやのに指の熱さが直に伝わってくる。親指がグイと食い込み、そこからゆっくりと足の付け根に向かって這い上がってくる感覚。ゾワゾワとした電流が腰に走って膝がガクガクと震えた。
(あかん、声出る……ッ! こいつ、絶対楽しんでるやろ……!)
上ではトップの上司が労いの言葉をかけてくれてるのに、下では部下が太ももをまさぐり、あられもない場所を攻めようとしている。この異常な状況に頭がおかしくなりそうやった。
「顔色が優れませんね。赤いですし、汗もかいています。無理をしているのでは?」
オモダカさんが心配そうに顔を覗き込んでくる。近い。香水の匂いがする距離や。その隙を狙ったかのように、下の自分は、太ももの裏側を爪先でカリリと引っ掻いた。
「ひゃッ……!」
変な声が出た。オモダカさんがキョトンとする。
「ひゃ?」
「ひゃ、ひゃく……百人力ですわ! オモダカさんにそう言ってもらえたら、チリちゃん百人力やなって……!」
苦し紛れにも程がある言い訳を叫んで、咳払いで誤魔化す。心臓が破裂しそうや。お願いやから早く帰ってくれ。これ以上は、ほんまに理性が持たん。机の下の自分の頭を、足でガンガン踏みつけてやりたいけど、それをしたらバレる。完全に詰んでる。
「……そうですか。あまり根を詰めすぎないように。貴女が倒れたら、私も困りますからね」
オモダカさんはふっと微笑むと、デスクの上に缶コーヒーを置いた。
「差し入れです。終わったら速やかに帰宅して休みなさい。……では」
「は、はい……! ありがとうございます……! お疲れ様です……!」
踵を返してオモダカさんが部屋を出て行く。ドアがカチャリと閉まる音がした瞬間、チリちゃんは机に突っ伏して、荒い息を吐き出した。
「……はぁ、はぁ……ッ! 死ぬかと思た……」
全身の力が抜けてぐにゃりと椅子にもたれかかる。太ももにはまだ自分の手の熱い感触が残っていて、それが余計にチリちゃんの顔を熱くさせた。安堵と恥ずかしさと吊り橋効果みたいなドキドキが混ざり合って、もう感情がぐちゃぐちゃや。
(……このバカ後輩、出てきたら絶対にタダじゃおかへん……!)
そう心に誓うけど、震える足にはまだ力が入らそうになかった。
嵐が過ぎ去った後の静寂。オモダカさんの足音が完全に聞こえなくなるまで、チリちゃんは息を止めていた。肺の中の空気を全部吐き出して、デスクに突っ伏す。心臓がまだ、バクバクとうるさい。冷や汗でシャツが背中に張り付いて、気持ち悪いやら、安堵したやら。
「……あぶなかったですね」
のんきな声と共に、足元の空間──チリちゃんの聖域であり、さっきまで地獄やった場所──から、のっそりと『後輩』が這い出てきた。その顔を見てチリちゃんの理性はブチリと音を立てて切れた。
「……あぶなかったですね、ちゃうわアホんだらァ!!」
声を押し殺して叫ぶ。できることなら胸倉掴んで揺さぶりたいところやけど、そんな気力も残ってへん。睨みつけるチリちゃんの視線を、自分は涼しい顔で受け流して、埃を払うようにスーツの裾をパンパンと叩いた。
「ほんま、信じられへん……! オモダカさんの前であんな……! バレたらどないするつもりやってん! チリちゃん、パルデアの笑いもんや!」
「でも、バレなかったじゃないですか。スリル満点でしたね」
「スリルて……! 寿命縮んだわ!」
文句を言おうと口を開きかけた時、自分がスッと顔を近づけてきた。不意打ちの距離感に言葉が喉に詰まる。さっきまで太ももをまさぐっていた手が、今度はデスクの縁に置かれチリちゃんを閉じ込めるような体勢になる。
『……でも、チリさん』
耳元に落ちる声は、さっきの『悪戯』の続きみたいに、粘着質で甘ったるい。
『居酒屋の件といい、今のオモダカさんの件といい……バレそうになるの…本当は好きなんじゃないですか?』
「──は?」
思考が停止した。何を、言うて……?
『口ではダメだと言いながら、身体は正直でしたよ。…それにバレるのが問題で、触られるのが嫌ではないんですよね?』
「ッ……!」
図星を突かれて、言葉が出ない。否定したい。全力で否定したい。せやけど脳裏に蘇るのは、さっきの感覚や。オモダカさんというトップを前にして、バレてはいけないという極限の緊張感。その中で太ももを這い上がる熱い指の感触。恐怖と背徳感が混ざり合って、ありえへんくらい身体が熱くなったのは──紛れもない事実やった。
(うそや……チリちゃんが、そんな……変態みたいな趣味、あるわけないやろ……!)
顔が沸騰しそうになる。耳まで真っ赤になってるのが自分でも分かる。そんなチリちゃんの動揺を見てとったのか、自分は口元を歪めて、意地悪く囁き続けた。
『真面目な人ほど、こういう背徳的なシチュエーションに弱いって言いますしね。……可愛いなあ、チリさんは』
「……っ、黙れ……! 調子乗んな……!」
反論の声が震える。睨んでいるつもりやのに瞳が潤んでしまっているせいで、まるで誘っているみたいに見えるかもしれへん。自分がチリちゃんの髪を一房すくい上げ指先で遊ぶ。その手つきだけでまた背筋がゾクゾクした。
(あかん、ペース握られっぱなしや……! なんか言うて返さな……先輩としての威厳が……!)
必死に言葉を探していると、自分はふと、壁掛け時計に視線を移した。
『──ところでチリさん。賭け、まだ続いてますけど』
「……え?」
『あと、残り5分くらいですかね。仕事、しなくていいんですか?』
時が止まった。ゆっくりと錆びついたロボットみたいに首を回してモニターを見る。残り時間は無情にも刻々と過ぎていた。オモダカさんが来て後輩が隠れて、悪戯されて、悶絶して、やり過ごして……その間も時計の針は止まってへんかったんや!
「──ッ!? わ、忘れてたァー!!」
チリちゃんは悲鳴を上げてキーボードにしがみついた。まだ書類の山は残ってる。30分で終わらせるって大見得切ったのに半分しか進んでへん!
「ちょ、どいて! 邪魔や! 仕事せな!」
『おや、諦めないんですか? もう負けを認めて、俺の言うこと聞いた方が楽ですよ?』
「うるさいわボケェ! チリちゃんは勝負事には全力なんや! 絶対負けへん!」
猛然とタイピングを再開する。せやけどあかん。指が思うように動かへん。さっきの愛撫の余韻で指先が痺れてるし、何よりすぐ横で後輩がニヤニヤしながら見守ってるのが気になって仕方ない。
(……待てよ。こいつ、まさか)
エンターキーを叩きながら、ハッとした。
(これも作戦か? わざとオモダカさんの時に手ぇ出して、チリちゃんの集中力削いで……時間を浪費させるための……!?)
横目で自分を盗み見る。自分は「頑張ってくださいねー」なんて言いながら、またチリちゃんの二の腕あたりをツンツンと突っついてきよる。
「……自分、ほんま性格悪いな!?」
『何のことですか?』
「とぼけんな! この……っ、絶対終わらせたるからな! 見てろよ!」
怒りを原動力に変えてチリちゃんは画面に向き直った。せやけどドキドキする胸の鼓動だけはどうにもならん。書類の文字を追いながらも、頭のどこかで「もし負けたら、何をされるんやろう」という想像が膨らんでしまう。そしてそれを少しだけ「楽しみ」に思ってしまっていることに気づいて、チリちゃんはもう一度、心の中で絶叫した。
(あーもう! ほんま調子狂うわァ──ッ!!)
『残り0分──』
無情なタイマーの音が、深夜の執務室にピピピと鳴り響いた。その瞬間チリちゃんはガクリと項垂れた。デスクの上には、あと数枚──ほんの数枚だけ、未決裁の書類が残っていた。
「……あ、ああぁぁ……っ! あとちょっと! あとちょっとやったのにィ……ッ!」
悔しそうにデスクをバンバンと叩くチリちゃん。髪は乱れネクタイは緩み、目には薄っすらと涙が浮かんでいる。全力を出し切った後の心地よい疲労感と敗北の絶望感。そんなチリちゃんの背後から、俺はゆっくりと近づいた。
「残念でしたね、チリさん」
「──ッ!?」
ビクリと肩を震わせて振り返るチリちゃんに、俺はにっこりと笑いかける。
「あと3分あれば、終わってましたね。惜しかったなあ」
「う、うるさいわ……! 集中力が……さっきのオモダカさんの件で、集中力が切れたんや……!」
「言い訳は聞かない約束ですよ? 勝負は勝負です」
椅子の背もたれに手をかけ、逃げられないようにロックする。そしてまだ熱の冷めやらぬチリちゃんの耳元へ、唇が触れるか触れないかの距離まで顔を寄せた。
「さて──罰ゲーム、決定ですね」
「うッ……」
「期待していてくださいね。チリさんにも、絶対喜んでもらえるものにしますから」
低く、意味深に囁く。「喜んでもらえる」という言葉の響きにチリちゃんの想像力が悪い方へ──あるいは、本人が無意識に望んでいる方へと膨らんでいくのが、手に取るように分かる。顔が一瞬で沸騰したように赤くなり、瞳が潤んで揺れる。
「な、何を……何をさせる気や……っ! へ、変なことは許さへんで! チリちゃんは四天王やぞ……!」
「ふふ、それはその時のお楽しみです」
俺はチリちゃんの敏感な耳の裏あたりを、指先でコチョコチョとくすぐった。
「ひゃうッ!?」
「ふふ、いい反応。……じゃあ、俺はこれで。お先に失礼します」
「えっ……ちょ、待ち! 自分!? 焦らすなや! 何するか言うてから帰れ──ッ!!」
背後で叫ぶチリちゃんの声をBGMに俺は颯爽と執務室を後にした。明日の朝、顔を合わせた時のチリちゃんの反応が、今から楽しみで仕方がない。深夜の廊下を歩きながら俺は次の「攻め手」をあれこれと考え始めていた。