私は子供の頃の父親の話を思い出していた。あの格が違う一匹。それは聡明で美しいラプラスだった。父がどうやってあの孤高のラプラスを手懐けたのか、私はしつこく尋ねたことがある。
父は最初は「ラッキーだった」としか言わなかったが、私が食い下がると、ようやくその「ラッキーパンチ」の内訳を教えてくれた。
『あれは父さんがトレーナーの頃だった』
父はそのラプラスが棲むという人里離れた湖の噂を聞きつけ、そこへ向かったらしい。そしてまずはその湖の近隣にある草むらなどで、自分のポケモンたちを育てることにした。
『もちろん、ラプラスの縄張りのすぐそばだからな。毎日、顔を合わせるんだ』
『そのたびに、父さんは必ず挨拶をした。「今日も場所を借りるよ」ってな。礼儀は大事だ』
父はただ挨拶するだけでなく、場所代として近くで採れた木の実をいくつか湖畔に置いていった。ラプラスがそれを受け取るかどうかは別として敬意を示すために。
『それから湖が荒れていないかも毎日チェックした。流れ着いたゴミを拾ったり嵐で倒れかけて湖を塞ぎそうな木をロープで固定したりな』
それはポケモントレーナーとしての行動ではなく、ただの「親切な隣人」としての振る舞いだった。ラプラスも最初は遠巻きに警戒していたが、数週間もすると父の存在を認め、父が湖畔にいても気にするそぶりを見せなくなったという。
『これで第一段階はクリアだ。ラプラスは父さんを「無害で、ちょっと親切な隣人」として認識してくれた』
父はそこで一度言葉を切り私を見て頷いた。
『だがな、キョウヤ。問題はここからだ』
『親切な隣人。……ただそれだけじゃあ、あのラプラスは絶対に捕まってくれなかった』
いくら木の実を置いても、いくらゴミを拾っても、ラプラスは父のポケモンになる気など毛頭なかった。必要なのは決定的な何か。
『だから「運」が必要だったんだ』
父はそう言った。
『幸い、あの年は異常気象が続いていた、父さんはそれを知っていて、何かが起きるのを待っていたんだ。そして来たんだよ。あの地方の内陸の湖には滅多に来ないはずの、巨大な台風がな』
それが父の狙った「ラッキーパンチ」の正体だった。暴風雨が湖を荒らし水位が上がり周りの森からは小さなポケモンたちの悲鳴が聞こえてきた。
『父さんはすぐにラプラスのところへ行った。そして一緒に戦ったんだ。バトルじゃないぞ? あの嵐と、だ』
父は自分のポケモンたちを総動員し、ラプラスと協力して、まず湖の周りにいた怯えた野生のポケモンたちを、近くの安全な洞窟へと誘導し始めた。
『ラプラスも分かっていたんだろうな。これは自分一匹じゃどうにもならないって。父さんの指示に従って、小さなポケモンたちを背中に乗せて、何度も洞窟と湖を往復したよ』
丸一日続いた嵐が過ぎ去った後。湖は氾濫こそ免れたが周囲の森はめちゃくちゃになっていた。だが父とラプラスが守った洞窟の中では、避難させたポケモンたちが静かに息をしていた。
『ラプラスはそりゃあ感謝してくれたよ。言葉は通じなくともあの目を見れば分かった』
父はそこで誇らしそうに笑った。
『そのまましばらくやり取りをしたり遠出をした少し後だ。父さんがいつものように湖畔で木の実を置いて帰ろうとしたら、ラプラスが呼び止めてな。……自分から、父さんが持っていたモンスターボールをつついてきたんだ』
そう言って父は嬉しそうに私の頭を撫でた。あの誇らしげな顔を、私は昨日のことのように覚えている。
私はそんな父のラプラス捕獲の逸話を思い返していた。親切な隣人としての地道な信頼構築。そして決定的な「危機」の共有。それこそが父の言った「狙って出すラッキーパンチ」の正体。
私は幾つかの依頼をこなし終え、日が沈んだ頃、すっかり見慣れたマチエールの事務所へと帰る道を歩いていた。この1週間ほど、私の半日はそんな日々だった。
朝はMZ団のAランクトレーナーとして任務をこなし、昼過ぎには差し入れの食べ物を持ってマチエールの事務所を訪れ、彼女の探偵業を手伝う。私が毎日運ぶ食事によってマチエールの顔色は良くなっていた。彼女も最初は遠慮していたが、今では私の差し入れを「今日のエネルギー源」として素直に受け取るようになっている。第一段階は順調だ。
MZ団には「ミアレシティ北部の復興支援及び情報収集」として報告済みだ。幸いホテルZも団の運営も、私が半分不在でもどうにか回っているらしい。……ただ一つ、タウニーは何かを勘づいたのか。私からの次の教育を待っているのか、それとも急に別の女(マチエール)の元へ通い始めたことに警戒しているのか。ホテルZで顔を合わせるたび、やけに私を注視する視線を感じていた。
(何かタウニーに手を打つべきだろうか?いや、下手にこちらから行動を起こしてもな…)
私がそんなことを考えていた、その時だった。マチエールの事務所が見えかけてきた角を曲がろうとした瞬間、甲高い子供の泣き声が耳に飛び込んできた。
「うわーん! だから、早くしないと!」
「ぼうや、落ち着いて。今、皆を集めてくるから!」
「そんなのじゃ間に合わないよぉ!」
見ると、一人の少年が、通りかかった復興作業員らしい大人の服を掴んで必死に何かを訴えている。
「あっちから! ポケモンの集団がいっぱい来て……!」
「ポケモンの集団?」
「マチエールお姉ちゃんが、助けてくれたんだけど……! お姉ちゃんが、まだあっちに……!」
私の足が、ぴたりと止まった。マチエールが? ポケモンの集団?
「わ、分かった。とにかく危険だ! 皆に応援を頼んでくるから、ぼうやはここに!」
「早くしないと、マチエールおねえちゃんが!」
子供の悲痛な叫びと、危機的状況を前に手が回らない大人の対応。私は先ほどまで思い返していた父の言葉を、鮮明に反芻していた。
『幸い、あの年は異常気象が発生していた。……滅多に来ない台風が来た際に、ラプラスと一緒に……』
(……来たか)
私の口元に、無意識のうちに笑みが浮かんだ。私が待ち望んでいた、決定的な危機。私の「台風」が、今まさに発生したのだ。
瓦礫が山積みとなったミアレシティの裏路地。復興作業の手がまだ回っていないその場所で、マチエールは荒い呼吸を繰り返していた。
「はぁっ、はぁっ……!」
対峙しているのは、三体の暴走メガシンカポケモン。赤い蒸気のようなオーラを全身から立ち上らせ、理性を失った瞳がマチエールという獲物だけを捉えている。まだ暴走した個体がこんなにも残っていたなんて。
(……まずい、な)
マチエールは冷静に戦況を分析しようとしながらも、額から流れ落ちる冷や汗を感じていた。先ほどこの近くで遊んでいた子供が彼らに遭遇し、襲われそうになっているのを発見した。マチエールは即座に介入し自らを囮にして子供を逃がすことには成功したが、その代償は大きかった。
子供を瓦礫の影から突き飛ばす際、暴走したポケモンの攻撃の余波が彼女を庇ったイクスパンションスーツを直撃。護身用に着続けていたスーツは胸元を中心に大きく破損し、その機能を停止していた。
「お願い……っ、まだ立って!」
マチエールの手持ちポケモンも暴走するメガシンカポケモンたちの圧倒的なパワーの前に次々と倒れ、残るは最後の一体。そのパートナーもすでに満身創痍だった。
このままではやられる。マチエールがそう覚悟し、最後の反撃を試みようとポケモンに指示を飛ばそうとした瞬間。三体のうちの一体がしびれを切らしたようにマチエール本人に向かって突進してきた。
回避が間に合わない。マチエールは咄嗟に腕を交差させ、衝撃に備えた。
だが攻撃が彼女の体に届くことはなかった。突如として横から現れた影が、マチエールの前に立ちはだかり、暴走メガシンカポケモンの攻撃を、より強大な力で弾き返したのだ。
「……え?」
土煙が晴れる中、そこに立っていたのは見慣れない、しかし圧倒的な威圧感を放つ一体のポケモン。そしてその後ろから瓦礫をものともせずに歩いてくる、見慣れた人影。
「マチエール」
私の声に彼女は呆然としたまま顔を上げた。私はマチエールの目の前まで一切の躊躇なく踏み込み、その近距離で片膝をついた。そして汚れた彼女の顎にそっと手を添え、強制的に上を向かせる。
「……っ!」
彼女の瞳が驚きと混乱に見開かれた。
私はその潤んだ瞳を真正面からのぞき込み尋ねた。
「無事か」
至近距離で見つめられ顎を掴まれたままのマチエールは、完全に思考が停止しているようだった。
「あ……ぶ、無事……です。キョウヤ、なんで……」
彼女はしどろもどろになりながら、かろうじてそう答えた。その返事を聞き私は満足した。
「すぐに片付ける」
私はそれだけを告げると掴んでいた顎から手を離し立ち上がった。そして彼女を守るようにその背を向け、暴走する三体のメガシンカポケモンたちと真正面から対峙した。
「さあ、お前たちの相手は私だ」
私のパートナーが主人の意思に応えるように低く唸り声を上げる。父が言った「台風」は、確かに今、私の目の前にあった。
私にとって戦闘と呼ぶほどの時間はかからなかった。私がジガルデや仲間と共にアンジュフラエッテすら止めたその力は、目の前の暴走個体たちを遥かに凌駕していた。数分後、三体の暴走メガシンカポケモンはその力を失い元の姿に戻って静かに折り重なるように倒れていた。
私はパートナーをボールに戻すと、まだ状況が飲み込めず呆然と立ち尽くしているマチエールの元へ振り返った。彼女のスーツは破損し頬には戦闘の余波でついた土埃が筋を描いている。
「マチエール、事務所に戻りますよ」
私は彼女にそう告げると、その場でくるりと背を向け彼女の前でしゃがみこんだ。マチエールを背負う体勢だ。
「えっ……?」
マチエールは、私が何をしようとしているのかを理解し、素っ頓狂な声を上げた。
「ちょ、ちょっと待ってキョウヤ! 歩けるよ、あたしは!」
彼女の慌てた声。だが私はその抵抗を許さなかった。私はゆっくりと立ち上がると、再び彼女の目の前に迫った。
「ダメです。あなたは先ほど、暴走ポケモンの攻撃を受けそうになった。イクスパンションスーツも破損している。アドレナリンで気づいていないだけで、どこか怪我をしているかもしれない」
私はあの差し入れの時と同じように、彼女の瞳を真正面から射抜く。
「あなたがここで無理をして倒れる方が、街にとっての損失です。私に運ばせるのは探偵としての『業務』だと判断してください」
私のその有無を言わせぬロジックと圧に、マチエールは「う……」と言葉を詰まらせた。理屈で言われれば、彼女は反論できない。ましてや、ついさっき命を救われた相手に強く出ることもできなかった。
観念したように小さくため息をつくと彼女は恥ずかしそうに視線を伏せた。
「……わかった。お願いします」
私が再びしゃがむと、マチエールはおずおずと、その背中に身を預けてきた。私は彼女の膝裏に腕を回し、その細身の体をしっかりと背負い直すと、瓦礫の山をものともしない足取りで事務所へと歩き出した。
最初は背中のマチエールがひどく緊張しているのが分かった。私の体に触れないよう、わずかに体をこわばらせている。
「マチエール」
私は歩きながら、背後に声をかけた。
「体で痛い所は有りませんか」
私の耳元、すぐ後ろで、彼女が息を呑む気配がした。
「だ、大丈夫……。どこも、痛くない、から……」
その声は顔を真っ赤にしているのが容易に想像できるほど上ずっていた。だがその強がりとは裏腹に、彼女の体重は先ほどよりも深く私に預けられてきている。
ミアレシティのNo.1探偵。凄腕のポケモントレーナー。だが今私の背中にあるのは、ただのマチエールという一人の女性の体温だった。
彼女はおんぶされながら、私の背中に意識を集中させていた。記憶の彼方である親や尊敬する国際警察ハンサムらに、おんぶしてもらったらこんな気持ちだったんだろうかと夢想する。
(……大きいな、キョウヤの背中)
戦闘で疲労したはずなのに、その足取りには一切の乱れがない。外套越しに伝わってくる体温が、戦闘で冷え切っていた彼女の体をじんわりと温めていく。さっきまでの死の恐怖が嘘のように、絶対的な安心感が全身を包み込んでいた。
マチエールはもう抵抗することをやめた。それどころかまるでその温かさを確かめるかのように、自分からすり寄るように、ぎゅっと私の背中に体をくっつけた。
その明確な態度の変化に、私は足を止めることなく尋ねた。
「……どうかしましたか?」
「―――っ!」
私の声にマチエールはハッと我に返った。自分が今、無意識に何をしていたかを自覚し顔から火が出そうになる。
「な、なんでもないっ!」
彼女はそう叫ぶと羞恥に耐えきれず、私の背中に顔を強く押し付けた。私の外套と、その下のシャツ越しに伝わる、確かな筋肉の感触と鼓動。
(なんでもないから、このまま運んで)
マチエールはもう真っ赤になった顔を上げることもできず、ただ私の背中の温かさと広さを目的地に着くまでの一時、存分に堪能するのだった。
素材の味を生かすことこそ調教 「競うな、持ち味を生かせ」