その「しつけ」、ポケモン用です   作:マウスブン

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マチエール3 安心

あの暴走メガシンカポケモンとの遭遇から、どれくらいの時間が過ぎただろうか。ミアレシティは復興の槌音を響かせ、街は確実に日常を取り戻しつつある。だがあの日を境に、私とマチエールの日常は、決定的にその姿を変えていた。

 

その日も私はいくつかの依頼を終え、差し入れの紙袋を片手にマチエールの探偵事務所のドアを叩いた。「どうぞー」気の抜けた返事と共に中へ入ると、彼女はデスクで山積みの書類と格闘している最中だった。

 

「お疲れ様です、マチエールさん」

「あ、キョウヤ! お疲れ様。いつもごめんね、手伝わせちゃって」

「いえ。それより、差し入れです。今日はあそこのカフェの新作キッシュが買えました」

「やった!」

 

彼女は私から紙袋を受け取ると、子供のように無邪気に喜んだ。私が毎日運ぶ食事は今や彼女の重要なエネルギー源となっている。私が事務所に来てからの彼女は、あの日以前のように一日一食といった無謀な生活を送ることはなくなっていた。

 

彼女がキッシュを頬張るのを横目に、私は事務所の奥にある今や定位置となったソファへと腰を下ろした。マチエールは食べ終えると手を洗い、そして何の躊躇もなく、私の元へと歩いてくる。

 

彼女は私が座るソファの前、その脚の間にまるでそこが自分の指定席であるかのように、すとん、と背中を向けて座り込んだ。私は当然のようにその細身の体を背後から抱きしめ、自分の胸に彼女の背中を預からせる。

 

これがあの日以降に定着した、私と彼女の「日課」だった。

 

最初は口実があった。あの夜、事務所までおんぶして送り返した彼女は、イクスパンションスーツの破損と恐怖心からか、微かに震えていた。私はソファに座らせた彼女の隣に座り、「体が震えている、落ち着くまで」という名目で、その肩を抱き寄せた。あの絶対的な安心感を与えた「おんぶ」の記憶がまだ新しい彼女は抵抗しなかった。

 

次の日も、また次の日も、私は「怪我していないかチェックの為」「今日は少し肌寒いから」と理由をつけて彼女に触れた。そして今やそんな口実も必要としなくなっていた。マチエールは私が事務所を訪れソファに座ると、吸い寄せられるように私の隣で腕の中へと収まりに来る。

 

「……それでね、今日来た依頼なんだけど」

 

私の腕の中で彼女の緊張がふわりと解けていくのを感じる。彼女は探偵事務所の主としての緊張感をすべて私に預け、その日にあった出来事や時には彼女の過去の話をぽつりぽつりと話し始めた。

 

「昔、ハンサムさんと一緒に調査した時の話なんだけど……」

「ほう」

「あの人、見た目によらず結構ドジなところがあってね。聞き込み中に派手に転んで、容疑者候補の屋台をひっくり返しちゃったんだよ」

「ふふ、それは大変でしたね」

 

私の指は彼女の話を聞きながら、その柔らかな髪をゆっくりと梳いていた。彼女の体温が、服越しにじわりと伝わってくる。暖かい。

 

私はまだマチエールの性的な部分――例えば胸や尻や太ももなどに、あからさまに触れることはしない。私が撫でるのは彼女の頭や、肩、背中、そして腕。あくまでも「労い」と「庇護」の範疇に留めたスキンシップだ。

 

私は聞き役に徹し、適宜質問や合いの手を入れるだけ。だがその間も私の分析は止まらない。

 

(……今日の手の回し具合は、昨日より深い)

 

私の腕を掴む彼女の指先。その力加減。私にもたれかかる体重のかけ方。日を追うごとに、彼女が私に預ける「重さ」は増していた。最初はただ腕に触れているだけだった彼女の手は、今や私の体幹にそっと回され、私の服の裾を無意識に掴んでいる。警戒心は完全に溶解し、そこにあるのは庇護者(私)への全面的な信頼と依存の萌芽だった。

 

父の本を思い出す。『対象の信頼を得るには、まずその生態を把握し、必要な欲求を満たしてやることが近道である』今のマチエールにとって必要な欲求は、食事と、そして日々の激務から解放される「絶対的な安心感」。私はそれを、この腕の中で完璧に提供していた。

 

だがそれだけでは足りない。父は言った。「親切な隣人」だけでは、ラプラスは捕まらなかった、と。信頼と安心。それはあくまでも途中段階。必要なのは私という存在を「特別」なものとして、彼女の心に焼き付けること。

 

私は彼女が過去の話に夢中になっている、その一瞬の隙を狙う。彼女がハンサム氏との思い出を懐かしそうに語る、その耳元。そこに顔を寄せ吐息がかかるほどの距離で囁いた。

 

「……その時、マチエールさんはどうしたんですか?」

「ひゃっ……!?」

 

マチエールの肩がビクンと大きく跳ねた。耳に直接吹き込まれた私の低い声。それが彼女の全身を駆け巡ったのが、抱きしめた腕を通して伝わってくる。

 

「きょ、キョウヤ……? ち、近い……」

「すみません。話が面白くて、つい」

 

私は謝罪しながらも顔の距離はそのままに、今度は彼女のコートの襟足から覗くうなじに指先を滑らせた。なぞる。ゆっくりと、確かな圧をかけて。

 

「ん……っ、ふ……」

 

マチエールは言葉を失った。髪を撫でられるのとは明らかに違う。肌を直接的に狙いすまして愛撫されたその感触。ぞわぞわと粟立つ感覚が背筋を走り、彼女の呼吸がわずかに乱れる。

 

リラックス。そして、興奮。

 

安心しきって油断している状態だからこそ、不意打ちの微細な刺激(興奮)は、彼女の理性を揺さぶるのに絶大な効果を発揮する。タウニーへの「教育」がルールとペナルティという「快感と痛み」を伴う調教だったとすれば。マチエールへの調教は、安心の中に毒のように「興奮」を垂らしていく、より繊細な手法だ。

 

彼女が私の指の感触に戸惑っている、その刹那。私は抱きしめている腕の力を、不意に強くした。

「―――っ!」

 

彼女の華奢な体が、私の胸に強く押し付けられる。

「きょ、キョウヤ……? ど、したの……?」

「いえ……なんでもないです」

 

私は彼女を強く抱きしめたまま、再び耳元で囁く。

「ただあなたが今、私の腕の中にいることが、とても……満たされる、と感じただけです」

「え……あ……」

 

マチエールの顔が耳まで真っ赤に染まっていくのが、暗がりの中でも分かった。もう彼女はいつもの冷静な探偵の顔などしていられない。私の腕の中でただ翻弄され、与えられる刺激に耐えているだけの子猫のようだった。

 

私はゆっくりと腕の力を緩め、再び元のただ優しく背中を撫でるだけのリズムに戻る。マチエールの心臓がドクドクと速く脈打っているのが伝わってきた。彼女はしばらく何も話せず、ただ荒い呼吸を整えようとしている。

 

この緩急。安心の中に仕込まれた、支配の楔。彼女はもうこの儀式なしではいられなくなっている。

 

その証拠に。この「儀式」の時間は、日によって私が意図的に長短をつけていた。彼女が仕事に集中している時や、私が他の予定がある時(と見せかけている時)は、このスキンシップの時間は短くなる。

 

そしてこの日は意図的に短い日だった。私は一通り彼女のうなじを堪能した後、すっと体を離した。

 

「さて。そろそろ私もMZ団の仕事を終わらせないと」

「……あ」

 

突然、温もりが消えた。私があっさりとソファから立ち上がると、マチエールはまるで捨てられた子供のような顔で、床に座ったまま私を見上げた。

 

その瞳がわずかに潤んでいる。口元が、何か言いたそうに「……」と動くが、言葉にならない。

(……悲し気な顔だ)

私はその表情を冷静に観察していた。彼女はもっと撫でてほしかったのだ。もっとこの腕の中にいたかった。だがそれを自分からねだる術を、この自立した探偵はまだ知らない。

 

「……そ、そうだね。お疲れ様、キョウヤ」

 

彼女は必死にいつもの笑顔を取り繕うとぎこちなく立ち上がった。

「今日も、ありがとう。差し入れも、手伝いも」

「いえ。では、また明日」

 

私は彼女のその悲し気な顔を脳裏に焼き付けながら、事務所を後にした。この獲物はもう、私の腕から逃げることはできない。

 

 

 

 

ここまでくると私の膝の上――正確には、私がソファに座り、彼女を背後から抱きしめるあの時間は、マチエールの生活サイクルにとって、もはやなくてはならないものとなっていた。

 

食事。睡眠。そして私による「庇護」の時間。それは彼女の精神的なバランスを保つための重要なルーティンとして、彼女の日常に深く組み込まれていた。

 

長い時間をかけた。父がラプラスの信頼を得るためにゴミを拾い、木の実を置いたように、私は毎日食事を運び彼女の仕事を手伝った。父が「台風」という危機をラプラスと共有したように、私は「暴走メガシンカポケモン」という危機から彼女を救い出し、おんぶして運んだ。そして今、私は彼女の心に誰よりも確実な安全地帯としての居場所を作り上げた。

 

腕の中のマチエールは、もうミアレNo.1の探偵の顔をしていない。警戒心は完全に溶解し、ただの「マチエール」という一人の女性として、その体重と信頼のすべてを私に預けきっている。私の指が彼女のうなじをなぞれば、彼女はビクッと体を震わせ、私が耳元で囁けば顔を真っ赤にして私の胸に顔を埋める。彼女はもう私という「毒」に、心地よく侵されていた。

 

だが父の言葉を思い出す。『親切な隣人だけでは、ラプラスは捕まってくれなかった』安心と信頼、そして微かな興奮。それだけでは、この聡明な探偵を「捕獲」するには足りない。彼女自身に私なしではいられないという事実を、骨の髄まで理解させる必要があった。

 

次のステップは「餌を与えないこと」だ。

 

その日もいつもの儀式を終え私はソファから立ち上がった。マチエールがいつものように短い日であることを察し、悲し気な顔で私を見上げる。だが今日私が告げるのは、それよりも遥かに残酷な通告だった。

 

「マチエールさん」

「……なに?」

「急で申し訳ないのですが、明日から3日間、MZ団の任務が詰まっています」

「え……?」

 

マチエールの表情が凍りついた。

 

「少し急ぎのものもあり、連絡も取れない可能性が高い。なので……」

私はあえて言葉を切る。

「3日間、こちらの事務所には来られません」

 

「……3日も?」

 

彼女の声はか細く震えていた。探偵としての理性が、必死に状況を理解しようと努めている。「仕事なら仕方ない」「キョウヤもMZ団の一員だ」と。だが彼女の本能が3日間もの間、あの温もりと安心感が奪われるという事実に警鐘を鳴らしていた。

 

「……そっか。わかった。仕事なら、仕方ないよね」

彼女は必死にいつもの笑顔を取り繕おうとした。だがその瞳は不安に揺れ、あからさまにしょげているのが私には手に取るように分かった。

「キョウヤも、気をつけて。大事な任務なんでしょ?」

「ええ。ですが、問題ありません」

 

私は彼女の動揺を真正面から受け止めながらも、一切の優しさを見せることなく、心を鬼にして事務所を後にした。

「では、また3日後に」

 

バタン、とドアが閉まる。後に残されたマチエールの絶望的な表情を想像しながら、私はホテルZへと帰路についた。「調教」の最終段階が、今、始まった。

 

 

 

 

【1日目】

ホテルZの自室に戻る。タウニーが廊下で何か言いたそうに私を見ていたが、私は一瞥しただけで、町の問題を解決しに行った。

 

夜。21時。いつもなら、マチエールを腕の中に抱き、彼女の体温を感じている時間だ。案の定、私の端末が短く震えた。マチエールからのメッセージだ。

 

『キョウヤ、お疲れ様です。任務、順調?』

 

当たり障りのない、探偵としての彼女がギリギリの理性で送ってきたであろう文面。私はそのメッセージを開き既読をつけた。だが返信はしない。画面の向こうで彼女が「既読」の文字を見つめたまま、次の言葉を送れずに固まっている姿が目に浮かぶ。

 

数分後またメッセージが来た。

『あ、忙しいよね! ごめん、返事は大丈夫だから! おやすみ!』

 

私はその必死の取り繕いにも何の反応も返さなかった。与え続けられていたものが、突然、理由も告げられずに断たれる。その不安が今夜、彼女を中々眠らせないだろう。

 

 

 

 

【2日目】

昼過ぎ。端末が今度は電話の着信音を鳴らした。画面には「マチエール」の文字。

 

私はそれを鳴り止むまで放置した。数分後、メッセージが立て続けに送られてくる。

 

『キョウヤ? どうしたの?』

『もしかして、任務で何かあったんじゃ……』

『昨日から返事ないけど、大丈夫!?』

 

今までにないペースだ。冷静な彼女からは考えられない、切迫した連絡。私はそこで初めて、短いメッセージを返信した。

 

『すみません。会議中でした。何か?』

 

その返信からおそらく3秒も経っていなかっただろう。再び、端末が激しく震えた。マチエールからの電話だ。私は、わざと数コール待ってから、ゆっくりと通話ボタンを押した。

 

「……はい」

『キョウヤ!? あ、よかった……! 声、聞けて……!』

 

電話口から聞こえてきた彼女の声は、安堵と、それ以上の混乱で上ずっていた。私はそんな彼女に、一切の感情を排したそっけない声で返す。

 

「どうしました? 今、少し取り込み中なのですが」

『え……あ、ご、ごめん! その……なんでもない! 本当に、なんでもないの!』

 

私が任務と言ったことを思い出したのだろう。彼女は私の声が聞けた安堵と、私の邪魔をしたかもしれないという罪悪感でパニックに陥っている。

 

「そうですか。では、切ります」

『ま、待っ――』

 

彼女が何かを言いかけるのを遮り、私は一方的に通話を終了させた。

 

理不尽なまでの愛情を与えられた後、軽く放置される。彼女の理性は、今この瞬間に崩壊し始めている。「仕事の邪魔をしてはいけない」という理性のブレーキと、「キョウヤに触れたい、声が聞きたい」という本能のアクセルが、同時に踏み込まれている。彼女は今、一種の錯乱状態に置かれていた。

 

 

 

 

【3日目】

 

最後の一日。もはや彼女からの連絡に、探偵としての体裁は残っていなかった。早朝から、メッセージが届く。

 

『おはよう。今日は、帰ってくる?』

『声が聞きたい。少しでいいから』

『キョウヤ……』

『会いたい』

 

最後の一言は、彼女がこの3日間、必死に抑え込んでいた本心そのものだろう。事務所では、きっと仕事もあまり手についていないかもしれない。私が毎日運んでいた差し入れ(食事)も、この3日間は途絶えている。彼女は精神的な飢餓だけでなく、物理的な飢餓状態にも逆戻りしている可能性すらある。

 

私はその悲痛な『会いたい』というメッセージにすら、すぐには返信しなかった。午後になりようやく一言だけ返す。

 

『任務は、今日の夕方には終わる予定です』

 

それだけだ。「会いに行く」とも「事務所に寄る」とも言わない。ただ事実だけを告げる。

 

この苦しい三日間は、彼女にとって地獄だったろう。だがこの地獄こそが、彼女自身の感情を自己認識させるために必要なプロセスだった。

 

彼女はもう理解したはずだ。自分が私に抱いていた感情が、単なる「助手への信頼」や「命の恩人への感謝」などという生易しいものではなかったことを。それは私の腕の中で撫でられ私の声で囁かれ、私という存在に支配されることへの強烈な渇望と依存であったことを。

 

父さん、ありがとう。父さんがラプラスを捕まえた時の気持ちがようやく分かったよ。教えてくれたラッキーパンチを私も得られたんだ。(※注意:キョウヤ父「そんな事教えてません。」)

だがもはやこの段階ではラッキーパンチは必要ない。獲物が自らその喉笛を差し出すように仕向ける、完璧な「調教」となるだろう。

 

私は端末をスリープさせ外套を羽織る。3日間の絶食を終えた獲物の元へ「餌」を与えに行く時間だった。




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