約束の三日目の夕方。私はホテルZのカフェで注文した、まだ温かいディナーセットの紙袋を片手に、マチエールの探偵事務所のドアの前に立っていた。この三日間、私はほとんどの接触を断った。彼女がどれほどの飢餓感に苛まれているか想像に難くない。
静かにドアを開ける。事務所の中は三日前と変わらないようでいて、どこか空気が淀んでいた。デスクの上には私が来る前に彼女が飲んでいたのであろう、コーヒーのマグカップが乱雑に置かれている。
「……!」
デスクで端末に向かっていたマチエールが物音に弾かれたように顔を上げた。私だと認識した瞬間、彼女の瞳が大きく見開かれる。
「キョウヤ……!」
彼女は椅子から立ち上がった。その顔には隠しようのない三日間の疲労と、それ以上の安堵が浮かんでいた。私が想定していた通り、いつもは綺麗に整えられている彼女の髪は少し乱れて後れ毛が頬にかかっていた。
だが彼女はすぐにハッとしたように表情を引き締める。ミアレNo.1の探偵としての、プロフェッショナルの仮面を慌てて被り直した。
「……ひ、久しぶり。任務、お疲れ様」
その声は平静を装ってはいるが、わずかに上ずって震えていた。
「仕事は……上手くいった? 怪我とか、してない?」
彼女は必死に「いつもの自分」を取り繕い、私を気遣う言葉を並べる。だがその瞳は私という存在に釘付けになり、私が持ち込んだ差し入れのディナーセットなどまるで目に入っていないようだった。
私は彼女のその痛々しいまでの虚勢には答えなかった。それはもはや何の意味もなさない。私は黙って彼女のデスクに近づき、温かいディナーセットを「こん」と音を立てて置いた。
「え……あ、ありがとう。ご飯……」
彼女が食べ物に視線を移した、その隙に。私は彼女の横を通り抜け事務所の奥、私と彼女の「定位置」となったソファへと向かう。外套が空気をはらむ音。私がソファに深く腰を下ろすとスプリングが軋む微かな音が、静かな事務所に響いた。
マチエールはデスクの横に立ち尽くしたまま、不安そうに私を見つめている。彼女は私がいつもと違うのではないか、あの三日間で何かが変わってしまったのではないかと、最後の理性を総動員して分析しようとしている。
私はそんな彼女の最後の抵抗を、一言で終わらせる。
「マチエール」
私はソファに座ったまま、彼女を見つめ言った。
「おいで」
「―――っ!」
その一言が引き金だった。彼女が必死に被っていた「探偵」の仮面が、音を立てて砕け散る。彼女の瞳に、堪えていた涙の膜が張り詰めた。
「……っ、……まっ……」
彼女は何かを言いかけた。だがもう言葉にはならなかった。
彼女はまるで糸が切れたマリオネットのように、ふらふらと一直線に私の元へと歩み寄った。
「……待ってた」
かろうじて絞り出した、そのか細い声と共に。マチエールは、私の膝の上へと、まるで崩れ落ちるかのようにその身を預けてきた。彼女は私に向き合うようにして座り、そのまま私の胸に顔を強く押し付けた。
「……ん……っ」
彼女は言葉にならない嗚咽を殺すように、私の外套とシャツを掴む。そしてこの三日間ずっと焦がれていた匂いを確かめるかのように、必死の形相で私の胸に顔をうずめ、深く深く、息を吸い込んだ。
(ああ……この匂い……)
マチエールの思考が安堵で溶けていく。私の外套の匂い。私の体温。私の存在そのものの匂い。毎日嗅いでいた、彼女を絶対的な安心感で包み込んでいたホームの匂い。それが今、確かにここにある。
私は三日間の飢餓状態だった獲物が、ようやく餌にありついたのを確かめると、その背中にゆっくりと腕を回した。そして乱れた彼女の髪を優しく労わるように撫で始める。
「……っ、ふ……ぅ……」
私の手のひらが彼女の頭に触れた。その瞬間、彼女の体からこの三日間張り詰めていた緊張の糸が、ぷつりと切れた。もう平静を装う必要も探偵である必要もなかった。
「ん……ぁ……」
マチエールはまるで安心感を求める子猫のように、私の胸に自分の頬を額を、何度もこすりつけ始めた。自分の匂いを私に擦り付けるかのように。いやそれ以上に私の匂いを自分の全身に再び染み込ませようとしているかのようだった。
私の膝の上はマチエールにとってのホーム。この三日間、彼女は帰る場所を失っていたのだ。
私は彼女が望むままにさせた。彼女はしばらくの間、私の胸に顔をうずめたまま私の体に自分の体をぎゅう、と押し付け、その温もりと感触を堪能している。失われていたものが、今、急速に満たされていく。その背徳的なまでの多幸感に、マチエールの体は微かに震えていた。
マチエールは子供の頃は常に一人だった。だがハンサム、クセロシキらという恩人により彼女は救われたが、結局彼らとも離れ離れになり連絡も付かず、この街で一人で自立して過ごしてきた。私がいない間にもその恐怖に襲われていたため、この幸福はマチエールとって猛毒だった。
私はただ黙ってその背中を、肩を、頭を、ゆっくりと撫で続ける。「大丈夫だ」「もうどこにも行かない」と、言葉ではなく手のひらを通して伝える。
やがて最初の興奮が少しだけ落ち着きを取り戻すと、マチエールは私の膝の上でごそごそと身じろぎを始めた。私の体に、より深く、より隙間なく密着できる場所を探している。
彼女は自分の座る位置をわずかにずらし、私の太ももの上に、自分の体重が最も安定して預けられる場所を見つける。そして私の胸に埋めていた顔を少し上げ、今度は私の首筋に自分の頭の側面をこてん、と預けてきた。私の耳元で、彼女の熱い吐息が感じられる。
彼女は自分が最も安心できる体勢――私の心臓の音を間近で聞きながら私に完全に体重を預け、そして私が撫でやすい角度――を本能的に見つけ出した。
「……ふぅ……」
ようやく自分の「定位置」を見つけた彼女の体からすべての力が抜けていく。彼女の手は私のシャツを掴んだまま、固く握りしめられていた。もう二度と離さないとでも言うかのように。
私はその様子を冷静に分析しながら彼女の髪を撫で続ける。「餌を与えないこと」は成功だ。彼女はこの三日間で私という存在への依存度を深めた。
彼女自身の感情を、彼女自身がこれ以上ないほど明確に自己認識したのだ。この腕の中こそが彼女の本当の居場所なのだと。
「……キョウヤ……」
私の首筋に顔を埋めたまま彼女が、か細い声で、私の名前を呼んだ。ただ、呼んだだけ。だがその響きには、三日前の彼女にはなかった、甘くねっとりとした色が、確かに含まれていた。
私の膝の上でマチエールはようやく呼吸を取り戻していた。荒く喘ぐようだった息遣いは、今はすっかり落ち着き、私の心臓の音に合わせるかのように、すぅ、すぅ、と穏やかな寝息に近いものへと変わっている。首筋に預けられた彼女の頭。その乱れた髪を優しく撫でながら、私は三日間の「餌を与えないこと」を完了させるための、最後の一手を打つ。
「マチエール」
私は彼女の耳元、すぐそばで囁いた。
「この三日間、連絡もあまりできずに、ゴメンね」
びく、と彼女の肩が小さく震えた。私の声が直接鼓膜を揺らした刺激。そして謝罪という予期せぬ言葉。
「……ううん」
彼女は顔を私の首筋に埋めたままか細い声で答えた。
「キョウヤが仕事で忙しかったのは、分かってる……。あたしが勝手に……」
勝手に不安になって勝手にメッセージを連投して、勝手に電話をかけまくった。彼女の消え入りそうな声には「あなたの邪魔をしてごめんなさい」という罪悪感が滲んでいた。
人間誰しも他人から嫌われるというのはストレスを伴う。ましてやこの三日間、彼女が感じていたのは嫌われたかもしれないではない。「見捨てられたかもしれない」という、生存本能に関わる恐怖だ。
私はその恐怖の源を根こそぎ断ち切ってやる必要があった。
「違いますよ」
私は彼女の体を抱きしめる腕にわずかに力を込めた。
「私が忙しかった。それだけです。あなたのせいじゃない」
私はまるで赤子をあやすかのように、ゆっくりとしたリズムで彼女の背中をトントンと叩き始めた。
「むしろ……」
私は続ける。
「会議中にあなたの着信を見た時、少し、安心したくらいだ」
「え……?」
マチエールが私の首筋に埋めていた顔をわずかに上げた。戸惑った瞳が至近距離で私を見つめている。
「あなたが私を必要としてくれているのが分かったから」
「……!」
マチエールの瞳が驚きと、そして次の瞬間堰を切ったような喜びで潤んでいく。彼女がこの三日間、最も恐れていた懸念。
「キョウヤに迷惑をかけたのではないか」
「しつこいと思われたのではないか」
「もう、私のことなどどうでもよくなったのではないか」
それらすべてが杞憂だった。それどころか彼は私の連絡を「必要とされている」と、肯定的に受け止めてくれていた。
「あ……ぅ……」
信頼の回復。いや、それはもはや信頼を超えた何かだった。彼女の心の奥底に突き刺さっていた不安という名の棘が、私の言葉によって跡形もなく溶かされていく。
「……よかった……」
マチエールの全身から本当に最後の、最後の緊張が抜け落ちた。彼女はこの世のすべてを手に入れたかのような、心からの安堵の溜息を吐き出すと、再び私の首筋に、今度は先ほどよりも深く甘えるように顔をうずめた。
(……今だ)
私は彼女が心から安心しきった、その一瞬を見計らった。
私は彼女の首筋に預けられた頭を固定するように、その髪に指を深く差し入れた。そして彼女の耳に顔を寄せると
「……っ!」
その耳たぶの柔らかい部分を吐息と共に軽く、しかし明確に歯を立てて甘噛みした。
じゅ、という小さな水音。マチエールの体がまるで感電したかのように、ビクンッ!と大きく跳ね上がった。
「な……っ!? きょ、キョウヤ……!?」
彼女は何が起きたのか理解できず、真っ赤な顔で私から身を離そうともがいた。だが私は彼女の頭を掴んだ手と腰に回した腕の力を緩めない。
安心感(リラックス)の頂点から性的な刺激(興奮)の奈落へ。それはあまりにも唐突な、彼女の理性を吹き飛ばす一撃だった。今まで私が与えてきた庇護としてのスキンシップとは明らかに種類が違う。
「い、今……な、に……」
「耳、噛みました」
私は彼女の混乱を意にも介さず事実だけを淡々と告げる。その耳たぶは私の唾液で濡れ赤く熱を持っていた。
「……っ、……!?」
マチエールは言葉を失う。頭が働かない。でも耳たぶに残る、あのじわりとした熱と、背筋を駆け上がった痺れるような快感は本物だった。
私はその真っ赤に染まった耳元で再び囁いた。
「嫌?」
「……!」
その問いかけにマチエールはハッとした。嫌か、と聞かれている。数週間前の彼女なら即座に「やめて」と拒絶すべき場面だ。だが。
「……いや、では……ない、けど……」
彼女の唇からこぼれ落ちたのは拒絶ではなく、戸惑いに満ちた「容認」だった。嫌じゃない。嫌などころか、怖かった三日間の後だからこそ、彼が与えてくれる刺激のすべてが渇いた体に染み渡る水のように甘美ですらあった。
「良かった」
私はその答えを聞くと満足そうに笑みを浮かべた。そして今度は先ほど甘噛みした耳たぶに、ちゅ、と吸い付くようなキスを落とした。
「ひゃぅ……っ!」
マチエールが甲高い悲鳴を喉の奥で殺す。私の唇は彼女の抵抗など意にも介さず、その耳の輪郭を舐めるようにたどり、そしてそのまま彼女が最も無防備に晒していた場所――細い首筋へとその軌道を変えた。
「ん……っ、ぁ……ま、待っ……」
熱い唇が首筋を這う。時折ちりちりと肌を啄むようなキスが落とされる。三日間の経験がマチエールの脳裏をよぎる。私がまたいなくなるかもしれないという恐怖。連絡が取れなくなるあの絶望。
何よりも嫌というほど理解させられた自分の特別な感情。マチエール自身は、この男が、キョウヤが欲しいのだ。
もうマチエールには拒否ができない。この男に拒絶され再びあの暗闇に突き落とされるくらいなら。この腕の中で、彼が望むままにされる方が遥かにマシだった。
「ぁ……キョウヤ……っ、ふ……」
彼女の細い指が私のシャツを掴む力はもはや抵抗ではなく、ただこの快感と安心感にしがみつくためのものへと完全に変質していた。
私が10分ほど彼女を可愛がり続けた頃だった。耳たぶへの甘噛みから始まった愛撫は首筋を舐め鎖骨のあたりを指でなぞり、彼女が庇護として受け入れていた領域を、確実に愛欲の色へと塗り替えていった。
私の膝の上でマチエールの体温は明らかに上昇していた。
「ん……っ、ふ……ぁ……」
彼女の口からは、もう抵抗の言葉ではなく、抑えきれない甘い吐息だけが漏れ続けている。
私が与える微細な痛みと快感の波状攻撃に、彼女の性的興奮は堰を切ったように高まっていた。この三日間の絶食が、彼女の感受性を極限まで高めていたのだ。
私が少しだけ動きを止め彼女の反応を観察しようとした、その瞬間だった。
「……キョウヤ」
今まで私の首筋に顔を埋め、されるがままになっていたマチエールがふいに顔を上げた。その瞳は三日間の不安と疲労、そして今の興奮で潤み理性の光はどこか遠くへ霞んでいる。
そして今度はマチエールから。彼女はまるで私の動きを真似るかのようにおずおずだが確かな意志を持って、私の首筋へとその唇を寄せた。
「……ん」
ちゅ、と小さく吸い付く音。そして私の耳元へと顔を近づけ、先ほど私が彼女にしたのと同じように私の耳たぶを小さく甘噛みした。
「……!」
それはあまりにも拙いが、あまりにも明確なお返しだった。今まで私の腕の中で庇護され、撫でられ、与えられるがままだったマチエールが、自らの意志で私に明確な愛情や欲望の発露を示している。
私は驚かなかった。ただその背中を優しく撫で返し、彼女の行動を黙って受け入れる。それが彼女の行動を肯定する合図だと、彼女は本能的に理解したのだろう。
彼女の理性を縛っていた「探偵としての自分」という檻が、今、完全に壊れた。マチエール自身の欲望が、三日間の渇望を経て、ついに溢れ出し彼女自身を溺れさせ始めている。
彼女は私の耳元を何度も舐め甘噛みし、そして再び私の首筋に顔をうずめるとまるで子猫が甘えるように、その肌に自分の唇をすりつけた。
「……キョウヤの匂い……キョウヤの味……」
彼女が陶然とした声で呟く。私はそんな彼女の頭をゆっくりと撫でながら、最後の調教を仕上げるために、その耳元で、静かに言葉を紡ぎ始める。
「ここは、マチエールの帰る場所だ。……安心だね」
「あんしん……」
「そう、安心だね。……幸せだね」
「……しあわせ……?」
彼女はその言葉に、わずかに顔を上げた。
「これが……しあわせ……?」
「そうだよ」
私は彼女の潤んだ瞳をまっすぐに見つめ返し、断言した。
「私に触れられて、私に触れて……今、マチエールが感じている、このゾクゾクするような安心感。それが『幸せ』なんだ」
「……!」
マチエールは、その言葉をまるで神託のように受け止めていた。この三日間の地獄。そして今の、天国のような多幸感。そのすべてがこの男によって与えられている。
「だから」
私は、彼女の頬を優しく撫でた。
「マチエールがやりたい事、私になら好きにやって良いんだよ」
「……わたしが、やりたい、こと……?」
「そう。キスしたいなら、キスしていい。噛みつきたいなら、噛みついていい。……私にもっと甘えていいんだ」
私は、甘く、甘く、言葉で彼女を責め立てる。それは命令ではない。許可だ。彼女の欲望を解放するための絶対的な許可。
「……いいの……?」
「いいよ。マチエールは、この三日間、よく我慢したから。……ご褒美だ」
「ごほうび……」
彼女は私が与えた新しい感情のラベリングを、ゆっくりと反芻する。「安心」「幸せ」「ご褒美」。そして「好きにやって良い」。
マチエールは私の言葉をすべて受け入れた。彼女はふにゃり、と子供のように笑うと、再び私の首筋に顔を寄せた。
「……じゃあ、キョウヤ……」
今度は先ほどまでの拙さとは違う。明確な「欲望」を持って、彼女は私の首筋に、ちゅ、と強く吸い付いた。
「ん…キョウヤの、匂い……もっと……」
彼女は私の首筋から耳元へ、耳元から頬へ、そして私の唇の端へと、自分が満足するまで何度も何度もキスを繰り返す。時折、小さく歯を立て、私の肌の感触を確かめるように甘噛みする。
私はそのすべてを、ただ彼女の背中を優しく撫でながら受け入れた。
彼女はしばらくの間、まるで生まれて初めて玩具を与えられた子供のように、夢中になって私の肌を堪能し続けた。私が与えた「幸せ」という名の「許可」を、その全身で謳歌するように。
彼女がミアレNo.1の探偵であったことなど、もうこの腕の中ではどうでもいいことだった。彼女は今、ただ私に溺れ、私を求める、一匹の獣になっていた。
しばらくの間、マチエールは私を貪り続けた。それはまるで三日間の飢餓の末に、ようやくありついたご馳走を夢中で味わうかのようだった。私の首筋に、頬に、唇の端に、彼女は自分の存在を刻みつけるようにキスと甘噛みを繰り返す。私が「幸せ」とラベリングしたその感情に、彼女は文字通り溺れていた。
だが人間の興奮には限界がある。ましてやこの三日間の絶望的なまでの精神的消耗。そこからの、急激な安堵と性的興奮。彼女の心と体は、その強烈すぎる振り幅にやがて耐えきれなくなった。
「……ん……っ、ふ……はぁ……」
あれほど激しく私を求めていた彼女の動きが、徐々に緩慢になり、ついにはぴたりと止まった。彼女は私の膝の上で燃え尽きたかのように、ぐったりとした。私のシャツを掴んでいた指先から力が抜け、荒い息だけが、静かになった事務所に響いている。
私はその様子を静かに見届けると、彼女の体を支えながらゆっくりとソファへと横たわらせた。マチエールはもう抵抗する力も残っておらず、されるがままにソファに沈み込む。その瞳はまだ興奮の熱で潤んではいたが、焦点はどこか遠くを彷徨っていた。
私はソファに横たわる彼女の姿を見下ろした。ミアレNo.1の探偵。その理性の鎧は完全に剥がされ、今はただ私の前で無防備にすべてを晒している。
私は彼女のそばに膝をつくと、その乱れた前髪を指先で優しくかき分けてやった。汗でわずかに湿った額が露わになる。
そしてそこに。私はそっと自分の唇を押し当てた。先ほどの愛撫のような熱や欲望を含まない、ただひたすらに穏やかで、慈しむようなキスを。
「―――っ!」
マチエールの体が小さく震えた。彼女はその予期せぬ、あまりにも優しい接触に驚いたように私を見上げた。
私は彼女の瞳をまっすぐに見つめ返すと、囁いた。
「おやすみ、マチエール」
私は彼女が何かを言う前に立ち上がる。
「また明日ね」
「あ……」
彼女が何かを言おうと、か細い声を漏らす。だが私はそれに振り返ることなく事務所のドアへと向かった。デスクの上には、彼女が手をつけるのを忘れていた、冷め切ったディナーセットが置かれたままだった。
バタン。ドアが閉まり、私は夜のミアレシティへと再び踏み出す。
冷たい夜気が火照った肌に心地よかった。私はホテルZへの帰路に就きながら、先ほどの事務所での光景を反芻していた。
今頃マチエールは一人、あのソファの上で、呆然としているだろう。そして一晩中考えるはずだ。
この三日間自分を襲った地獄のような不安と孤独。再会した私に自分がどれほどみっともなく縋り付いたか。そして、何よりも――私に促されるまま、自分自身がどれほど恥知らずな「欲望」を剥き出しにして、私を貪ったか。
あの冷静な探偵としての彼女が、その記憶にどれほど顔を赤らめることか。だがその羞恥を上書きするように、私の最後のキスが、彼女の思考を支配する。
耳でも、首でも、唇でもない。額への、あのキス。それは、まるで父親が娘にするかのような、あるいは主人が忠実なペットを労うかのような、絶対的な庇護と所有を示す行為。
彼女の獣のような欲望と私の安心感を与えるキス。そのアンバランスな落差が、今夜、彼女の頭を掻き乱し続け、私という存在を彼女の脳髄にこれ以上ないほど深く焼き付けることになるだろう。
私は満足のいく笑みを浮かべながら、街のネオンを見上げていた。
まだ純愛です、純粋なキョウヤくんを信じてあげてください。
次は再びタウニーです。・・・おや!? タウニーのようすが・・・!
(二股?に関する感想を見て)だいじょうぶだ、ドラゴンボールで生きかえれる