あの日、目の前で姉を魔族に食われた。
路地裏に充満した汚水と腐臭、そして姉の亡骸を今も夢に見る。腹から上は魔族に食い尽くされていた。
蓮を路地裏に押し留め姉は一人で幹線道路に飛び出す。手に握られた上着には蓮の血が染み付いてた。姉は知っていたのだ、自分の血が魔族の気を引くことを。魔族が欲していたのは姉ではなく自分だと知った時、蓮は決意する。
魔族を一片も残さず根絶やしにしてやる、と。
そうして蓮は爆発事故で瓦礫の山と化した研究所の一角に座り込んでいた。
「また、何も出来なかった」
独り言のようであり、背後の男に向けた言葉のようでもあり、ぽつりと漏れた。
「やっぱり僕、魔族は憎いです。でも今の僕じゃ全然足りない」
巻き上がる砂埃が差し込んだ西日に粉雪のように光っていた。見渡せば何棟も建っていはずの建物は跡形もなく崩れている。
「良かったな」
背後から男の声がする。蓮が見上げると男は紫炎を吐き出していた。
大枚を叩いたという自慢のスーツは砂塵に塗れ、煙を吸い込む唇は血の気が薄い。砂塵に汚れた顔は青白いのだろう。そんな状況にも関わらず、男はいつも通りであるかのように虚勢を張っていた。
「生きるには十分すぎる理由だ」
あの夜、姉を食った魔族を一人で倒した男は蓮に手を差し出す。
生きろ、と。
蓮はその手を取った。魔族の体液を浴びて腐臭を放つ、やたらと色の白い男の手を取ったのだ。
「はい」
そうして蓮は思い出すのだ。助けを求めて生き延びろ、と別離の瞬間まで蓮の身を案じた姉の後ろ姿を。
⚪︎⚫︎⚪︎
爆発事故が起きるずっと前、その施設が第五研究所と呼ばれていた頃である。
「装備品には金がかかるんだ」
と、その日も上司は不機嫌極まりない声をあげた。
蓮から見て親子ほど歳の離れた男は眼鏡越しに細く歪めた視線をじっとりと向けていた。柳眉を寄せ、眉間に深い皺を刻んだオールバックの髪には白髪が混じる。上司は不快感を露わにしていた。
この人は苦手だ、などと頭の片隅を掠めるが表情に出すわけにはいかない。なまじっか出してしまったがために隣に立つ中年の男は小言を聞く羽目になっているのだから。
「命には代えられないから配備をするが、次々と壊して良いものではないと何度言えばわかる」
「お言葉ですが、課長」
「なんだ、浦月」
「近頃出現する魔族が強敵になっていると報告書にも書きましたよね」
「それは読んだ。だから装備品を頻繁に壊すのも仕方がない、と?」
「現場は命がけなんですよ?」
上司が浦月と呼んだ男も引く気配はない。小言を言う方が間違っていると言わんばかりの勢いである。そうしていつ終わるともしれない応酬に巻き込まれている蓮はたまったものではないが、反省したふりをする以外の選択肢を持ち合わせてはいなかった。
「うちが本部でなんと言われているのか知っているのか?
『新地から金を喰いに来た魔族』だ。二個小隊にも満たない人員が本部の予算の半分以上を食い潰すとな」
「だったら人を増やしてくれと言っているでしょう。人員が確保できないなら金ぐらい文句も言わずに出してください」
「浦月、貴様……」
「なんでしょうか、山城課長」
山城の手元で乾いた音を立てて書類が握り潰される。日頃から両手に革手袋を着用する山城に対する違和感も薄れていた蓮は心の底から同情を覚えた。
この部下では課長も小言が増えるしかないだろう、と。
ビルの高層階に位置する部屋には大きな窓があった。窓の向こう側では絶えず雲が流れている。部隊が詰めるビルのある臨海部は風の強い地域だ。かつてビジネス街として栄えていた一帯だが、人の営みが残っているのは蓮が所属する組織が買い上げたこのビルだけである。都市の骸のようなビル群の間を海風が駆け抜けるたびに唸り声を上げている。
人の情念に塗れて育った蓮が抱いた強烈な違和感も今ではすっかり影を潜めてしまい、上司の小言も話半分に昼食の献立を考え始めていた。
「出動しない有瀬の装備品がなぜ壊れる?」
「はっ、はいっ!」
突然聞こえた自分の名に蓮は慌てて返事を返す。山城と浦月は言い争いを忘れて蓮に視線を向けている。自分にも小言が待っていることを上司の視線から悟った。上司の矛先が自分に向いた気配を、浦月が浮かべた笑みで悟る。
「その件でしたら始末書でご報告した通りでして……」
「あぁ、もちろん読んでいる」
後悔先に立たず、であった。
公安局港湾分署、とそのビルには看板が掲げてあった。臨海部へ伸びる地下鉄の終点から地下道を進んだA3出口に直結したビルである。オフィス街だった頃、そこは業界最大手の保険会社の本社ビルだったらしい。もっとも、心身も財産も不測の事態に備えるような生き方を蓮は知らない。
有瀬蓮《ありせ れん》と名乗る齢十六の少年である彼は部隊に所属して一年未満の新人だった。身分は公安所属の警察官である。分署のある臨海部に隣接した野末新地で生まれ育った蓮の生い立ちは語り出せばそれなりに長い話になる。しかし、少数精鋭と揶揄される場末の部隊には訳ありの隊員しか所属していない。それもまたここを居心地がいい場所と思わせる要因の一つであった。
「今日もしこたま説教されてきたか」
そう言った若い男の名は川桐武智《かわぎりたけち》。二十代半ばに見える武智はビルの屋上の片隅で紫炎を燻らせていた。上手い具合に風速の弱まる場所を見つけては時代遅れになった紙タバコに火をつけて美味そうに煙を吐き出すのだ。
細身の体にオーダースーツを着こなすが、明るい髪色が歓楽街の従業員を思わせる。実際、野末新地の性風俗店で客引きをしている。
一方で立場上、警察手帳を所持する蓮も鮮やかなピンク色の毛先と伸びてきた根元で見事なツートンカラーの髪色であった。部隊で支給されているジャンパーのインナーに着ているパーカーのフードを出している風貌からも学生とは言い難く、屋上で紙パックの飲料片手にサボタージュしている方がよほど似合っていた。
「そりゃ、浦月さん相手じゃ課長も黙ってられないでしょ」
「あー、総一朗がまた余計なこと言ってた?」
「余計なことしか言ってませんでした」
「だろうなぁ」
「あの二人、仲悪いんですか?」
「んなことないと思うぞ。ここが警察組織になる前から新地で魔族討伐してたらしいからな」
「そうなんですか?」
「俺が所属した時はもう公安だったから、詳しいことは知らないけどな」
「武智さん」
「なんだ?」
「僕らは『新地から金を喰いに来た魔族』なんですか?」
「なんだそりゃ」
「本部ではそんなことを言われてるって、課長が」
「はぁっ⁉︎ っざけるなっつーの!」
タバコ片手に声を張り上げた武智に驚いた蓮が咄嗟に身を引いていた。
「こちとら生身で魔族とやりあってるってのに敬意の欠片もないんだな。そんなに本部のエリート様はお偉いんですか?」
また聞きでしかないはずの蓮にすら噛み付かん勢いで迫る武智を慌てて制しながら、話題を出す相手を間違えていたことに気付く。しかし、後悔は先に立たないのである。
「そりゃそうだよなぁ、あいつらは俺達すら監視の対象だもんな。そっちがその気ならいつでも公安の敵に回ってやるよ」
「あの、ちょっと落ち着いてもらえますか……?」
「あいつらの眉間に一発、俺の妖刀で撃ち込めば終いだってのにな」
「妖刀での対人攻撃は規則で禁じられてますよね」
「そんなもん、証拠が残らなければいいんだよ」
「あっ、武智さん。後ろ、後ろっ!」
突然焦り出した蓮が武智の背後を指差していた。何事かと振り返った先には仁王立ちで見下ろす大男がいる。
「威勢がいいのは結構だが、本部の連中に引き金を引くのだけはやめておいた方がいいぞ」
「総一朗まで日和っちゃって情けないもんだな」
「大人の判断と言ってくれ。本部は本部なりに利用価値がある。使えるうちは利用するさ」
つい先刻まで課長の小言を一緒に聞いてた浦月総一朗《うらづきそういちろう》は若人のたぎりなど取り合う必要もないとばかりにあしらってしまう。武智は小さく舌打ちを漏らして会話を切り上げた。
「水を差すようで悪いが、集合時間を大幅に過ぎてから隊長が出てきてな。今からブリーフィングを始める」
「マジか。何時間押しだよ」
「課長の小言を一時間は聞けたなぁ……」
しみじみと思い返しながら呟く浦月の横で武智がげんなりとした表情を浮かべていた。日頃は風貌に相応しく歓楽街の潜入に専従している武智が久しぶりに分署に呼ばれた理由こそがブリーフィングだったのだ。潜入先には蓮もスタッフとして勤めているので同僚として会えるのだが、分署ほど気さくに話せる間柄ではない。春を売り物にしている店に未成年の蓮が雇われているだけ有難いのであって、バックヤードに詰めて勤務時間中の女性陣にすら面会を禁じられていたのだ。
自治区である野末新地の中でも厳しい部類の店に未成年である蓮が籍を置けるのは、蓮を育てた姉が勤めていたからである。新地で生まれて孤児となった蓮を同じく身寄りのない姉が育ててくれた。新地では珍しくない事だった。
その姉は五年前に死んだ。蓮の目の前で魔族に食われたのである。そして蓮は魔族の根絶を誓った。
「やっと出動の許可が出たんです」
「……知ってるよ」
「特警《とくけい》に所属して一年、やっと隊長が出動を許可してくれたんですよ!」
「妖刀を解放できないおまえが何しに来るわけ?」
驚くほど冷たい言葉が武智から返ってくる。先刻までの気さくな先輩である武智はどこにもない。新地で見せる顔のように他人を受け入れない冷淡な眼差しを向けている。
「僕、契約は出来たんです! 妖刀に対する適性はあります。あとは解放さえすれば……‼︎」
「姉ちゃんを殺した魔族を根絶やしにする、ってか?」
「そうです。僕はそのために……」
「やめとけ。んなことしてないで、姉ちゃんが守った命を大事にして生きてけ。ここで死んだら不孝だろうが」
「まぁ、特警にいることがすでに不孝だけどな」
蓮と武智のやりとりを眺めていた浦月が口を挟む。恨みがましげに見上げる武智を見ると楽しげに口元を歪めた。
「妖刀と契約した時点でまともな死に方は出来ないんだ。使えるものはなんでも使って目的を果たせ」
「おい、総一朗っ!」
「はいっ‼︎」
武智が上げた抗議の声すらなんのその、と言った勢いで蓮が身を乗り出した。若人のたぎりは充填も早く、蓮は意気揚々とブリーフィングが行われる予定の事務所へと向かっていってしまった。屋上に残された総一朗は満面の笑みを浮かべながら蓮の名残を見つめていた。
「おまえさ、死んだら地獄に落ちるぞ」
「地獄でも招いてくれるなら有り難いことだ」
二度目の舌打ちは、浦月にも聞こえるように大袈裟に鳴らしたのであった。
数十年前に都市の外れに整地されたその地は野末新地と呼ばれた。政府の鳴物入りで開発されたビジネス街である。
ある日、ビジネスマンの憩いの場である中央公園に〈門〉が開く。魔女が開いたと言われる〈門〉の向こう側は異界へと繋がり未知の侵入者を招いた。当初、警察と軍が事態の収拾に乗り出すが彼らは早々に撤退することとなる。異界からの侵入者、現在は魔族と呼ぶ異界の存在により壊滅的被害を受けたのだ。以降、警察や軍はおろか政府すら介入を放棄した自治区として、命を対価に自由を得られる歓楽街へ姿を変えた。
警察は公安局に対魔族戦闘専門部隊を設立し、妖刀と呼ばれる対魔族武器を扱える者を配備した。彼らに正規採用の隊員は一人もいない。公安が監視対象とする術者から魔法戦闘に特化した者を選抜し、討伐にあたらせているのである。公安に監視されることを選ぶか、公安として戦うことを選ぶか。多少の不自由を強いられる生活ではあるが、自らの意思が及ぶ範囲が多い立場を彼らは選んだのであった。