その路地は歓楽街と商業地区の境目であった。
一本隣には片側二車線の幹線道路が、反対方向に一本隣には店頭で黒服の男たちが客引きを行う歓楽街が広がっている。まるで現実と夢世界が境界のように入り混じる生活道路にその喫茶店は存在していた。店構えは旧世紀の喫茶店文化全盛期に建てられた年季の入った作りであり、道路に面したガラス窓は経年変化で装飾を施したかのように染まっている。好奇心に釣られて店内を覗き込んでみても透明度の低いガラス越しに見えるのは店内を彩る電球色の明かりだけだ。
受動喫煙防止が謳われて久しいご時世に世間体程度の分煙しか行われていない店内には蓮の姿がある。見渡せば同年代か十歳程度は年上ぐらいの年代が多い。先月ぐらいにレトロな喫茶店と紹介されて以来、客層に変化が生じているのだ。
「お待たせしましたー、スペシャルパフェ二人前でーす」
家族向けのファミリーレストランかと勘違いするほど朗らかで明るい定員の声が響いた。そしてテーブルの上に重量感たっぷりのパフェを並べる。パフェの向こう側では同年代の少女が二人で大きな瞳を輝かせてパフェを凝視していた。最近入ったアルバイトの店員も、写真映えしそうなパフェも、すっかり軟弱になったものだと蓮は呆れるばかりだ。
「つまんなそうだね」
「別に。チャラついてんなって思ってさ。僕が通ってた頃はさ……」
「時間をかけて淹れたドリップコーヒーの香りで満たされて、仕事終わりの姉さんが幸せそうに飲んでた、ですか? 蓮の姉さん自慢は聞き飽きた」
「じ……、自慢じゃない。思い出だよ。僕と姉さんの尊い思い出だ」
「おんなじじゃん。姉さん大好き蓮くんにとってはさ」
「なんだと……⁉︎」
蓮が向かい側に座っている少女と白熱し始めると斜め前から小さく宥める声が聞こえてきた。
「樹里ちゃんもそのぐらいにしなよ」
「だってさ、この店に来るといっつも姉さんの自慢話するじゃん」
「お姉さんが大好きなんだからしょうがないよ。私もお兄ちゃんが好きだからよくわかる」
「理奈は優しいんだからー」
向かい側に座る理奈は穏やかに笑っている。自ら兄を好きだと言ったことが気遣いではないことを蓮は知っていた。同僚でもある理奈が浦月を父親のように慕っているのを間近で見ているのだ。浦月は四十を過ぎている。世間的には父娘の年齢差だったが異父兄妹だと言っていた。ある時、好奇心に負けた蓮は兄妹の母親の年齢について考えてみたがすぐに後悔をする。
「知らない方がいいことばかりだよな」
思わず口をついていた言葉に樹里と理奈は視線を向ける。
「知らない方がいいことって?」
「そのパフェのカロリーとか?」
「はぁっ⁉︎」
「また太ったとか今年は水着着られないとか大騒ぎしてたの誰だよ」
「そ……それはそれ。甘いものは別腹です」
「んなわけあるか」
蓮と樹里の他愛のない口論を聞きながら理奈が楽しそうに笑う。理奈と共に学び始めたフリースクールで出会ったのが同い年の樹里だ。二人にとっては珍しい同年代の友人であり、年頃の少年少女で許される僅かな時間でもある。
授業は基本的にオンラインで参加し、出動などで不参加の場合は配信動画による学習を進めた。万人に学習機会を、が方針のスクールなので学ぶ年齢も職業も様々で、時々参加するスクーリングでは人生の大先輩方にも会える。
この学生としての生活が蓮はとても楽しかった。同級生と一緒に喫茶店に行って、一日限定十食のスペシャルパフェに一喜一憂する。生まれ育った歓楽街では一生得ることは出来なかったことだと理解していた。
だが、そんな時間も長くは続かない。手元の携帯端末が震えてメッセージの着信を告げる。ひらがなで、そういちろう、と表示される相手だった。
「そうちゃんから連絡来た?」
「やっと来た」
そっけない様子で、思春期特有の男友達の距離感を装うがメッセージの送信者は浦月だ。
「総ちゃんはなんて書いてた?」
「武智さん回収してから来いって」
「一緒に行くよ?」
「いや、いい。理奈は来ちゃダメ」
理奈とのやりとりを怪しんで樹里が横槍を入れようとするが、蓮は自分が食べたナポリタンの代金を置いて席を立つ。飲食店で他人とゆっくり食事をする時間を名残惜しみつつ店を出る。幹線道路を背に慣れた足取り歓楽街へと足を向けるのだった。
「君はこんな世界なんか知らなくていいんだ」
闇に浮かび上がる色鮮やかなネオンの下では決して見せることのない歓楽街の顔を横目に蓮は足早に歩いた。昼間の歓楽街はそこかしこにゴミ袋の山が積み上がっている。まだ回収者が来る時間ではないのだ。赤、オレンジ、青、ピンクと鮮やかなネオンは人間の倫理観を麻痺させる。象長させた欲望も脅威の一端となる。カラスに突き散らかされた残飯のように、歓楽街には魔族以外の脅威がこびりついて異臭を放つ。
「何者じゃなくたって、普通の女の子で良かったんだよ」
歓楽街の奥深くまで入ってきた蓮はある店の前で足を止めていた。陽の元でもわかる、男の欲望を受け入れんと広がる暗く深い店構えだ。
「姉さん、僕は魔族を許せないんだ」
ネオンに彩られた姉の姿を蓮は知らなかった。物心がついた頃から別離の瞬間まで姉としての顔しか見せない人だった。
蓮は一度大きく深呼吸をすると笑みを浮かべる。
「だから、僕はやるよ」
そうして、迷いのない足取りで店の中へと入っていくのであった。
⚪︎⚫︎⚪︎
ちょっと目を離した間に大量のメッセージが届いていた。本当は受信に気付いていたが、目の前にいる友達とパフェの方が大事だった。そんな言い訳ももう出来ない樹里は諦めてメッセージの一つを開く。
連絡をください、とだけ書いてあるメッセージだった。
樹里は大きなため息を漏らす。気軽に連絡ができる相手ならメッセージを無視などしない。そんな心情を見抜いたかのように携帯端末が震える。今度は直接連絡を取ろうとしているのか、画面に表示された名前に眉根を寄せた樹里は諦めて通話ボタンを押した。
「樹里ちゃん、今どこにいるの?」
開口一番、詰問めいた女の言葉が聞こえた。
「新地を出たところ。ターミナルに向かってる」
「そのまま新地に戻ってくれる?」
「なんで?」
「メール読んでないの?」
苛つきを露骨にぶつけられ、樹里は反論する言葉を飲み込む。
「……ごめんなさい」
「特警が出動場所に指定したのが新地の外れの雑居ビルよ。彼らの配備が完了する前に待機していて」
「特警が先にいたら?」
「その時は帰ってきなさい。あなたが特警に劣るとは思っていないけど、相手は組織だから。一人で戦わないで」
「わかった」
女は一方的に通話を切った。大通りに出る手前の人通りが増える辺りまで戻ってきていたので、道端に寄った樹里は受信してたメッセージを一つ一つ確認する。口を開けば感情を隠さない女性ではあったが、事務連絡のメッセージでは冷たさを感じるほど用件以外のことは書かれていなかった。
「悪い人ではないんだよ、きっと」
ポツリとひとりごちて樹里は歓楽街へと再び向かって行った。
一方、通話を切った側は喉まで出かかっていた言葉を盛大なため息に乗せて吐き出していた。
「どこをほっつき歩いてるのよ、あの子は」
「捕まったんだから良いじゃないか」
「所長……!」
聞こえてきた呑気な声の主を振り向く。白衣姿の中年の男である。短く切り揃えられた黒髪には白髪が混じり、ひょろりとした長身の痩躯を丸めている。男はマグカップに瓶から直接インスタントコーヒーを入れている最中であった。勢い余ったのか小さく、あっ、と呟いて電気ポットからお湯を注いでいる。
男は一人で過ごすには広すぎる部屋の主であった。所長室とプレートの掲げられたその部屋には立派な本棚がいくつも並んでいる。しかし資料の大半をサーバー内で管理している時代には実用よりも鑑賞向きの家具になってしまった。アンティークな風情の本など背表紙のタイトルを確認すると児童書だったりするので本当に見栄えのために本を並べているのかと驚いたぐらいだ。
「連絡を下さればコーヒーぐらい淹れてきますよ」
「私はそこまで手のかかるように見えるのか?」
「見えます」
女がはっきりと言い切った。
「そもそもいつ家に帰ってるんですか。最後までいて最初にいるのは帰ってないからでしょ」
「あー、はいはい、三日帰ってません。今日は帰ります。コーヒーも淹れてもらいます」
女の剣幕に早々に観念したのか、両手をあげて降参のポーズを見せた。
「まったく、あの子がそっくりになってますよ」
「樹里が私に? そりゃいいな」
男の嬉しそうな姿にいよいよ呆れた様子で女は眉間を押さえて俯いた。
「とにかく、特警相手にあの子を一人で行かせるのは初めてなんです。なんでそんなに呑気なんですか」
「気張りすぎだよ、充《みちる》くん。樹里が特警と戦うわけじゃないだろ?」
「同じようなものです」
「だとしたら公安のおまわりさんと戦う我々は悪役になっちゃうじゃない」
「室月所長、お忘れですか?」
充の声音が急に真剣みを帯びる。所長と呼ばれた室月は何も答えない。仕方なく充は口を開いた。
「我々、第五研究所は公安局所属です」
「うん、我々は公安の職員だね」
室月が所長室に誂えた立派な机の引き出しを開けた。中から取り出したのは個包装の菓子である。コーヒーの付け合わせにするつもりらしかった。
「有瀬蓮は妖刀を解放させれば〝廃棄〟を回避できる。そのための出動だ」
「解放できなければ?」
「いきなり廃棄はしないだろうよ」
バリバリと菓子を噛み砕きコーヒーで流し込む。その様子を充は黙って見ているだけである。
「検査だ実験だと称してこちらに回されてくるさ」
「それを回避したいんです」
「私とて同じだ。今さら人体実験などやりたくない。だが、うちが拒否すれば……」
「彼を被験体として欲しがっているところに……」
「そゆこと。申し訳ないが樹里にはやってもらわねばならない。もちろん君にも」
ふいに充を見つめる眼差しが優しくなる。
「嫌な役目を任せてばかりですまない」
「いえ、私はあなたのためなら……」
室月の笑みに充は思わず視線をそらす。恥じらいを見せる様に立ち上がった室月は充の側に歩み寄る。俯く頬を大きな手でそっと包んだ。
「今夜時間を取れるか? 私は君の隣が一番休まるんだ」
「……はい。調整します」
室月を間近で見上げた充には女の表情が浮かんでいた。聡明で頼りにしている部下の顔は微塵も残っていない。それを見下ろす室月も満足げに目元を歪めるのであった。