いわゆる男の欲望について理解が出来たのはそんなに遠くの時期ではない。
店で蓮を可愛がってくれるキャストの面々はまるでマスコットのように愛でた。そんな彼女たちが歓楽街で春を売るに至った事情は様々で、饒舌に語るものから口をつぐむ者、営業トークにする者まで多様である。
昼間の性風俗店は束の間の眠りについていてた。数名のスタッフが開店準備をしているが夜の気配とはほど遠い冷たく重い空気が溜まっている。その影に蠢いた何かを蓮の視界は捕らえていた。
「こんなところにまで……」
蓮は何か歩み寄ると力を込めて踏みつける。突然発生した大きな音に作業中のスタッフが慌てて顔を向けて身構える。
「なんだ、蓮か。驚かせるなよ」
「突然すいません。アレが中に入り込んでたんで」
「あぁ、おまえは見える側だったか」
「店の結界が綻んでいるみたいだからあとで補強しておきますね」
「いつも悪いな」
「いえ、このくらいなら僕にもできるんで」
スタッフには蓮が踏みつけた魔族の存在は認知できていない。魔力の微弱な者には認識できないほど低級で害のない魔族なのだ。その程度の個体を店に侵入させない結界ならば蓮は構築することができた。武智曰く、おまじないにしては上出来、と称されるレベルではあったがキャストやスタッフを守るには充分だった。事実、この店では原因不明の体調不良による離職が著しく少ない。
だが、浦月が構築する結界であれば上級すら寄せつけはしないだろ、と靴底のぬるりとした感触を確かめては考えるのだ。
「ところでさ、武智さんいる?」
「川桐は控え室で色々と[#「色々と」に傍点]巻き込まれてるからやめとけ」
「そうもいかないんですよ。武智さん回収していきますね」
ペコリと頭を下げて蓮は店の奥へと進む。黒を基調とした高級感を売りにした店内だがまだ蛍光灯が煌々と輝く時間帯であった。これが営業時間には薄暗いムーディなライトに香で満たされるのだが、未成年の蓮は当然立ち入ったことがない。染みついた残り香に夜の世界を想像してしまう。
個室の扉が並ぶ店内の一番奥、一見して壁のような扉を入った先にも細い通路が続いてた。店内と異なり剥き出しのコンクリートが白熱灯で照らされている。通路を少し進むと少し開いた扉から灯りが漏れている部屋があった。その手前で蓮は足を止めた。呼吸を整えて部屋の中の音に耳をそば立てる。室内には女が二人、男が一人いるようであった。女は言い争っているのか強い語調での応酬が聞こえる。時折挟む男の声はなだめようとするのか言い聞かせているようにも聞こえた。
また喧嘩の仲裁してんのか、とげんなりした表情が蓮に浮かんだ。
ここは歓楽街でも風俗店が並ぶ区画の一店舗だ。男の欲望も、女の我欲も並外れている街で諍いは日常茶飯事なのだ。
近寄りたくない、関わり合いたくないと抗う心を深呼吸を繰り返してなだめる。そしてようやく歓楽街で武器にしている少年の笑顔を満面に張り付けて扉を開けた。
「すいません! 武智さんを迎えにきました!」
突然の第三者の登場に場の空気が固まり、一変した。
「蓮くーん!」
「どうしたの? こんな時間に」
アイドルの登場さながらに女性は揃って声のトーンを上げる。人間の欲望が澱のように溜まる歓楽街の最下層に降臨した弾ける若さで眩しい蓮に迫っていく。
「武智さんを迎えにきました!」
「えー、そんなことよりお姉さんと遊ぼうよ」
「いえ、武智さんを迎えにきましたので!」
「もーう、相変わらずつれないんだからー」
「僕はまだ未成年なので、大人になったらよろしくお願いします!」
「やーん、かわい〜」
とりあえず二人の気を引くことには成功したようである。必死に仲裁に入っていた武智はすっかり蚊帳の外だ。
彼女たちは仕事前である。当然、露出の高い勝負服で自信のある部位をなおさら魅力的に見せていた。甘い香りの香水や、ふっくらとして艶やかな唇も魅力をアピールする部位の一つである。しかし、どの部位よりも彼女たちの魅力を伝えるのがこぼれ出しそうなほど豊満な乳房であった。それが蓮の目の前に二組も迫ってきている。思わず具体的なサイズを想像してしまう。
それは思春期の男子が無視をするにはあまりにも魅力的な膨らみであったのだ。
「あー、姐さんがた」
背後から聞こえてきた情けない声に蓮は視線を向ける。
「蓮が未成年のうちはこちら側に入れないのが〝スズカ〟の方針だからさ、頼むわ」
「そうね、〝クイーン〟の方針なら仕方ないわね」
「助かります」
二人は渋々だが納得したようであった。武智は深々と頭を下げる。
金髪に近い髪色をした黒スーツ姿で店の従業員としても違和感のない武智が口にしたのは歓楽街を統括する者の名だ。スズカと呼ばれた名が本名であるかを知る者はなく、女王様、あるいはクイーンと呼ばれる。歓楽街では知らぬ者はいない人物だった。武智はその人物の飼い犬として歓楽街に名を馳せているはずなのだが、風俗店のキャストの諍いを仲裁しているのだった。
⚪︎⚫︎⚪︎
女王様の犬、と称される武智は公安の潜入捜査員としてこの街に暮らす。そしてこの街で生まれ育った蓮は恩人でもある武智の後を追って公安に所属していた。
店を出た二人は目的地へと向かって歩いていた。野末新地でも外れに近いこの地域は〈門〉が開いている中央公園にも近い廃墟さながらのビル街であった。周辺に人の気配はない。あるのは魔力の低い魔族の気配だけであるが、さして魔力のない一般人が立ち入ればたちまち餌食になるであろう。障害物を避けながら歩く蓮の足取りは心なしか軽かった。無言のまま武智の跡を追っているが、鼻歌でも歌っているような息遣いに口元には笑みが浮かぶ。
ビルの谷間を抜ける階段の踊り場で武智が足を止めた。ここを降りれば目的のビルはすぐそこであった。
「どうしたんですか?」
「俺が言ったこと覚えてないのか?」
「ここは……僕がいるべき場所じゃない、ですか?」
沈黙が背を向けたままの武智の答えだったようだ。
「僕は魔族を全滅させたいんです」
「バカかおまえ」
武智が振り返って見上げる。突き放された言葉に反論する隙を与えずに口を開いた。
「魔族を全滅させる? どうやって? すぐそこにある〈門〉だって誰が開いたのか、どうやって閉じるのかも分かってないんだぞ」
「それは研究所の人達が……」
「第五研究所か? 魔女を飼ってた研究所だぞ? あいつらが味方だと本気で思っているのか?」
「武智さん、魔女の悪口はやめてください」
「あいつの前では言わないだろ」
「理奈は魔女の娘であることを負い目に感じてます。母親の記憶なんかないのに」
「そんなわけあるか。おまえもあいつが戦う姿を見りゃわかるよ」
理奈が特警に所属したのは蓮よりも三年早かった。その間何度も武智は共に出動している。経験を根拠にして言い切る武智の言葉に反論する言葉を蓮は見つけられない。
「魔女は魔族の筆頭みたいなもんだ。全滅させるってことは理奈とやり合うことになるんだぞ。おまえに出来るのか?」
「それは……」
「姉ちゃんを殺した魔族が憎いのはわかる。だけどな、魔族と戦えるのは俺たちだけなんだよ。わずか数人の部隊でどうやって全滅させるんだ」
「でも、僕は、姉さんを殺した……」
「姉ちゃんはそんなことをさせるためにおまえを生かしたのか?」
武智の言葉に十一歳の夜に見た光景が鮮明に蘇る。
それは魔族に襲われて逃げ込んだ路地裏であった。怪我を負った蓮の腕をきつく縛った後、大量の血に染まった上着を手にした姉が一人で大通りへと飛び出す。刹那、姉の姿が黒い影に飲み込まれた。それが蓮の血に誘われた魔族の捕食行為だと特警に所属した後に知ることになる。
「だって、僕が姉さんを……」
殺した、とその言葉は唇が震えるだけで音になったことはない。ないはずなのに蓮の頭の中では繰り返し響くのだ。下半身だけ残された姉の亡骸の記憶と共に。
「俺はあの時……」
武智の言葉で蓮は現実に引き戻される。ここは出動先に向かうビル街なのだ。
「死なせるために助けたわけじゃない」
その言葉を受け止めた蓮の戸惑いは気に留めず武智は背を向けた。足早に階段を降りていく武智の後ろ姿を蓮は必死で追う。早く掴まないと手が届かない場所に行くしまうような気がしたのだ。
姉の死を目の当たりにした夜に、生きろ、と言って手を差し出した。あの時に掴んだ手を振り払われることが、蓮にとっては何よりも恐ろしかったのである。
⚪︎⚫︎⚪︎
時は少し戻る。
課長室で勢揃いした上司三名の重しから解放された事務所でのことだ。
「おまえ、あんな命令聞くのかよ」
勢い余って掴んだネクタイを力任せに引き寄せられても、浦月は表情を変えもしなかった。年もだいぶ上なら身長もかなり高い浦月はしばし武智を見下ろしていたが口を開く。
「組織の命令だ、仕方ない」
「総一朗テメェ……!」
流石に首元が苦しいのか、ネクタイを掴む武智の手を緩めて屈めていた身を伸ばす。それから浦月はサングラスを外して両眼を武智に向けた。普段は隠している鮮血色の双眸を相手に向ける行為が浦月にとっては信頼の証であることも武智は知っている。少々乱暴な手段ではあったが、浦月をこの話題に付き合う気にはさせたようであった。
「落ち着け。処分の条件は、妖刀を解放できないことだ。口止めもされなかった。全てを話して行動することも出来るだろ」
「逃げろっていうのか?」
「その時は……」
浦月が再びサングラスをかけた。
「蓮と武智、二人分の処分命令が下るだけさ」
「おまえに出来んのかよ」
「組織の命令であれば仕方がない」
それ以上は浦月と理解を深める余地はなかった。それから武智は一切口を聞いていない。大人気ない自覚はある。
しかし、取りつく島のない大人への意思表示は反抗しかなかったのだ。
⚪︎⚫︎⚪︎
「おまえは〝クズ〟だからな」
階段を降りた武智は足を止めると、昔から聞き慣れたフレーズを呟いてた。視線の先には魔族の出現により廃墟と化した雑居ビル群とその前で待つ一組の男女。黒髪で長身のサングラスの男、浦月総一朗。そしてセーラー服の小柄な少女、氷室理奈である。見上げる理奈を見下ろす総一朗は頭ひとつはゆうに背が高い。兄妹の二人だが親子としか見えないし、理奈には浦月姓を名乗らせなかったので苗字も異なる。親子と呼んでも差し支えない二十七歳の年齢差がある二人にも話せば長い身の上話があるのだ。
「クズでも妹の前じゃそんな顔するんだよな」
娘みたいに歳の離れた妹の話を聞く浦月の横顔は優しさに満ちている。その視界の隅に武智たちの姿を見つけたのだろう。口元の浮かんでいた笑みがスッと消える。
「遅いぞ」
「すいません!」
武智の横を蓮が走り抜けて行った。慌てて浦月の元に駆け寄ると二言三言の小言は言われているようで、何度も頭を下げている。
「武智さーん! 行きますよー!」
それはまるで遠足に向かう浮かれた子供のようだった。大きく手を振り遅れてきた友達を迎え入れようとしている。蓮の無邪気な姿に思わず舌打ちが漏れた。
「バカが……。俺は、おまえを始末するために来たんだよ……!」