全面ガラス張りで吹き抜けのエントランスは多くのビジネスマンが行き交ったのであろう。何基も並ぶエレベーターは各階を行き交い、ビジネスマンの悲喜交々も運んでいたに違いない。
今はもう、見る影もなかった。窓枠だけ残したエントランスを抜けて、ぽっかりと口を開けたままのエレベーターを覗き込む。見上げると真っ黒な空間がどこまでも続き、風の巻いている音がした。
「どうやって上がってくんだ?」
「階段がある。一フロアずつ確認していくぞ」
「げっ、まじで?」
武智が露骨に嫌な表情を浮かべる。
「二課の探索で上級魔族の出現が確認されているからな」
「いや、この辺りはどこで上級が出てもおかしくないだろ。すぐそこに〈門〉が開いてるんだぞ?」
「それでもここに何かがいることは間違いない。上の方から何かわからないが強い魔力を感じる」
「なんだよそれ、魔人でもいるのかよ」
「いるかもしれないね」
先刻より浦月はじっと天井を見上げていた。正確には天井よりも上の階へと意識を集中してビルの中にいる魔族の気配を探っている。通常であれば強い魔力の気配こそ特定が早いのだが、中央公園が近く〈門〉から漏れ出す異界の気配にノイズが入ったようにはっきりと見えない。
「魔人って、魔族の上位種ですよね?」
「そうだ」
「大丈夫ですか……?」
不安げに声を上げたのは蓮である。初めて出動が許可された現場で遭遇するには遠慮したい相手だっだ。
「おまえさ、魔人がそんなホイホイ出てくると思ってんの?」
「えっ、出て来ないんですか?」
「あのなぁ……」
呆れた様子で武智は肩をすくめただけだ。会話を続けるつもりのない武智の代わりに口を開いたのは理奈だ。
「魔族の中でも〝人の形を保てる〟ほどの魔力を持つ個体を魔人と呼んでるの。その中でも向こう側に繋がる〈門〉を開けられるほどの存在を魔女と呼んだ。蓮も知ってるでしょ」
「〈門〉を開けたのは魔女?」
蓮が視線を向けた声の主、ただ一人場違いのようにごく普通の少女である理奈は赤茶色の双眸で見つめていた。
「わからない。私は生きている母を知らないから」
「おしゃべりはその辺にしろ。上がって確かめる。先頭は武智、続いて理奈、蓮だ。僕は後方を警戒する」
浦月の指示で一行は探索を開始することになる。
背後に周囲を警戒している浦月の魔力を感じながら蓮は歩く。
(理奈は魔女の娘。つまり、魔族だ。その兄の浦月さんも魔族ということになる。人の形を保てるほどの魔力を持つ個体を魔人と呼ぶなら、二人と同等の魔力を持つ存在が待っているってこと……?)
ゾクリと嫌な感触が背筋を駆け上がる。それはこれから遭遇するであろう敵を妄想してだけではなかった。
(そもそも魔族ってなんだよ)
野末新地の中央公園に開いた〈門〉から流入する異界の存在は便宜上〝魔族〟と呼称されるようになった。人間と魔族を判別する手段が魔力の有無である。魔族の中でも人の形を保つ存在を魔人として区別し、その中で最も魔力を持つと言われる存在が魔女だ。
この街の災厄は魔女が引き起こした。その魔女は十六年前に死んだ。娘を残して。
都市伝説というのも憚られるほど手垢のついたネタを扱うのは配信者の中でもオカルトマニアと呼ばれる界隈のみ。生まれた頃からネットのある世代の蓮には今更興味がわくネタでもない。
しかし、である。
死んだ魔女に娘がいたことを蓮は知っている。同僚として共に戦う華奢な少女が自らの出生に思い悩む姿を目の前で見ていた。
「もう近いぞ。備えておけ」
背後から聞こえた声で蓮は我に返る。かつては扉があったであろう壁に開いた大きな穴を通り抜けると広々とした部屋に入った。左右を見回しても相当の広さであることがわかる。オフィスであった頃はさぞや活気に満ちた空間であったのだろう。
「なんだありゃ」
武智の声に蓮が視線を向けた先にはポツンと椅子が置かれ、座っている人物がいた。
「探索した魔力はアレか?」
「わからない。魔力の混濁が酷くて当たりが掴めないんだ」
「おまえがそこまで惑わされるってことはヤバいんじゃないか?」
このメンバーの中で魔族探知に関してなら浦月が最も優れていた。広範囲に影響を及ぼす魔力の特性から範囲内の魔力を探知するのだ。
「ねぇ理奈、あれってさ……」
「うん、やっぱそうだよね」
「なんだよ、知ってんのか?」
椅子に座る人物に見覚えのあった蓮がこっそりと理奈と交わしたやりとりを武智が拾い上げる。問いかけに言葉を選ぶ理奈の横から蓮が割り込んだ。
「『或る廃墟の地下室で』です」
「なんだそりゃ」
「みんなで公開日に観に行った映画です」
「あぁー、あのB級ホラーね」
「今朝のランキングでは二位です」
「で、その映画がどうしたわけ?」
「同じようなシーンがあるんですよ。廃墟の地下室にポツンと椅子が置いてあって、ある人物が座ってるんです」
「で、それから?」
「それを見つけた主人公が声をかけるんです」
「何て? で、どうなる?」
「そいつの頭が一回りして落ちるんです。んで、呪いが解けて主人公の秘めた願望と……」
「やっぱB級じゃねーか」
さもつまらなさそうに話を打ち切った武智だったが、浦月はそうでもない様子で蓮を見ていた。
「戦わずに挙動が確認できるなら悪くないかもしれない。同じように声をかけてみろ」
浦月の指示に蓮は理奈と顔を見合わせる。フィクションだから楽しんだ演出が目の前で起きては困るのは同じであったのだ。
「理奈、武智、万が一に備えろ」
「りょーかい」
武智はすっかり呆れた様子である。そんなあつらえたように演出された魔族の出現など遭遇したことがないのだ。それは浦月も同様で、これで不審物の挙動を探れたのならば儲けものぐらいの認識である。
とはいえ、武智はこれが何かを誘発したのであれば即撃ち抜いてやるつもりでいた。胸の前で交差させた両腕を払う。そうして構えた両手の中には先ほどまではなかった銃が握られていた。
妖刀は術者の魔力を増幅させて対魔族戦の武器とする呪具である。契約した者の魔力と特性と嗜好に合わせて様々な形状をしていた。中距離で指向性の強い魔力を有する武智は銃の形状を好んだし、視線を人物に向けたままの理奈はいつの間にか右手に打刀を握っている。
「やっぱり、あいつは規格外だな」
ポツリと武智はひとりごちた。
本来なら呪文の詠唱などを含めた何かしらのモーションを必要とする妖刀の具現化であるが、理奈はそれを必要としない。魔女の娘だから為せる技なのだろうか。かつてその疑問を浦月の前で口にした時、言外に殺意を向けられたこともあり武智は触れることをやめた。
ただ一人この場では武器を持たない蓮が一歩、また一歩と人物へと近付いている。相手の表情がはっきりとわかる距離まで近付いて、それが自らの体を不自然に抱き抱える女だと気付いた。
(これ、本当にアレなんじゃないのか……?)
街頭で流れる予告編では数秒だけ映る怪異と同じ女の姿に蓮は確信を強める。
「よーうこさん、かーえりましょっ」
楽しそうな調子で蓮が声をかけたがそれに反応はなかった。やはり違うかもしれない、と安堵しかけたその時である。
「いーやーよっ!」
それが首を左右に振って拒否をしたのだ。蓮は自分の心臓が異常な強さと速さで拍動するのを感じていた。耳の奥に心臓があると錯覚するほどだった。
「よーうこさん、……あーそびましょっ!」
震える唇で調子がとれたのかはわからない。締め付けられるように熱を帯びた喉から声が出たことが奇跡だった。
それはゆっくりと首を回し始めた。
「いーいーよっ!」
返事が聞こえる頃には、それの顔は真後ろを向こうとしている。明らかに人間の可動域を超えた動作であった。一回りして首を捻りながらそれは再び蓮を見る。
そして、捻り切れたようにごとんと頭部が床に落ちる。転がった頭部は床の上から蓮を見上げ、ニコリと笑った。あの映画と同じように。
「出るぞっ! 構えろっ!」
張り上げた浦月の声をかき消すように地響きが轟いた。
蓮は強い風圧で煽られてよろめく。残された胴体の中から勢い良く飛び出してくる何かが次の瞬間には眼前に迫る。そこで蓮の意識はぷつりと途切れた。
魔女の娘と言われたのは一度ではなかった。事あるごとに、それも女医が苛立ちをぶつける時に限って出てくる言葉だった。必ず彼女の上司である所長がいない時にである。保護者でもある女医から向けられているのが女としての敵意と気付いた時に、樹里の中である男に対する感情も自覚することになる。
「玲は私が魔女の娘だから大事にしてくれるのかな?」
フリースクールの面談には父親として参加してくれる所長を思い出すとため息に塗れた笑みが浮かぶ。
「玲の頼みだって知ってるから私も協力するんだぞ?」
女医に託された手のひらサイズの石を廃墟のような雑居ビルの中で見かけた野良猫に埋め込んだ。こんなところにいる生物が本当に野良猫なのはかわからないが、石を埋め込まれたそれが目の前で人の形に変化するのを見ていた。それがフリースクールの友達と一緒に観に行った映画に出てきた怪異と同じ形であることが樹里には意外だった。その石が生み出すモノは術者の意思を反映させると聞かされていたのだ。
「あれが私の嫌なもの? ホラー映画はあんまり好きじゃなかったけどさ……」
自分では鑑賞しようと考えないような映画だって友達と一緒ならば楽しかった。いつもは穏やかに笑うだけの少女は表情ひとつ変えないのに、熱心に誘った少年の方は終始悲鳴のように妙な声を上げっぱなしなのだ。
こんな酸味臭に満ちた場所で思い出すには酷く遠い記憶のような気がした。
「擬似魔族発生装置、だっけ」
装置というからには機械なのだろうが、石としか呼べない物体だった。
「特警……、公安局特殊警備課、だっけ?」
興味がないことは真剣に覚えないもので、先ほど発現させた魔族を倒す警察の組織、程度の認識である。
「強い魔力が四つもある」
階下から近付いてくる術者の気配に気付く。樹里は部屋の奥から続く細い階段で上の階へと上がった。特警との遭遇は絶対に避けろ、と女医にも所長にも言われてきたのだ。
上の階も広い空間があるだけだった。窓枠のみになった窓から吹き抜ける風は階が高いせいか少し強い。乱れた髪を抑えながら、風を避けつつ休憩できる場所を探す。
「メッセ送らなきゃ」
新地の喫茶店で別れる時、一緒に買い物へ行く約束をした。彼女でなければ頼めない買い物だ。ポケットから取り出した携帯端末の待受画面には樹里をこんな場所に送り込んだ女医からのメッセージ受信の通知が表示されている。用件のみの事務的な連絡しかないが所長と同じ立場であるかのような意識が透けて見えた。
「香水おばさんはさ、ただのセフレじゃん」
配置完了、と状況報告だけ書いて返信してから樹里は窓枠の外に視線を向けた。
「玲の本命になれるならなんだってするのに」
所長の肩書を持つその男は、樹里には若さと生命力に満ちた性を捧げるに値する存在であったのだ。
「生きてるか蓮!」
視界いっぱいに広がった剥き出しのコンクリート、そしてカビたような臭いが蓮の意識を強引に引きずり出した。傍には武智が妖刀を構えて周囲を警戒している。あたりには砂埃が舞い、何が起こっているのか把握するまで数秒を要する。
横たわる体に床を這いずる振動が伝わる。何かバカでかいものがフロアを動いていた。
「映画で観たって化け物は頭が落ちた後にどうなった?」
「えっと、あれは、頭が落ちて……」
体を起こすと鋭い痛みがこめかみから差し込んだ。体を酷く打ちつけたようであった。
実際は慌てて飛び込んだ武智が蓮を引き倒しながら二、三発打ち込み、怯んだ隙に理奈の打刀が一撃を見舞っていた。それでも討伐される気配がないそれが理奈とやり合い始めて砂埃の中に消えていった。
大概の魔族は武智の攻撃か、理奈の一撃で倒されている。理奈と数分も戦える魔族など異常事態だ。
「話が違うだろ」
呟いてみた所で周囲の状況が変わるわけもない。探索をした際に総一朗が口にした、魔力が混濁する、意味を肌で理解していた。混ざりそうで混ざりきれない魔力がぬるぬると絡み合う感覚に悪寒を覚える。
「なんなんだよ、これ」
こんなものが自然発生するのか。そんな疑問を思考する間もなく体が反応する。蓮を庇いつつ右手は前方に、左手は後方寄りに向けて魔力を撃ち込んだ。何発撃ち込もうが手応え以上の存在が湧いてくる。やがてその感覚が頭上から降ってきた。
腕が足らない、と考えた横で蓮が立ち上がる気配がした。頭上から迫る魔力の強い存在を相手に蓮は構える。体勢を低くしてグッと踏み込むと、蓮を掴もうと伸びた触手に拳を伸ばした。攻撃の勢いを削いで身を守りはしたが、たった一撃の身代わりにグローブの甲を飾る装飾品が砕け散る。キラキラと舞う破片に一瞬見惚れた。しかし、すぐ武智に体を床へと引っ張られてしまう。
「伏せてっ!」
理奈の声が間近で聞こえるのと同時に頭上で何かが振り抜かれていた。強引に引っ張られてバランスを崩した体が床へと叩きつけられる直前、理奈の小さな体が軽々と舞う姿を視界に捉えた。
「バカかおまえはっ!」
突然怒鳴りつけられた蓮は床で強打した肩を抑えている。先刻、理奈が打刀を振り抜いた場所には自分の体があった。武智と理奈の助けがなければ今頃蓮の身体はどれほど残っていたか。それは理解の出来ることだったが怒鳴るのはあんまりである。
「さっさと総一朗の所へ行け。武器のないおまえに何ができる」
その通りである。魔力を宿した武器である妖刀との契約は済ませたが解放はできていない。蓮は同じく魔力を宿した防具であるグローブを身につけることで魔族と戦っていた。それが、圧倒的な魔力差から蓮を守るために限界まで耐え壊れた。蓮を守るものは何もない。その事実に魔族は気付いたのだろう。標的を蓮に定め、何本もの触手を伸ばしてくる。
蓮と触手の間に立つ武智と理奈が四方から伸びてくる触手を払うが終わる気配が見えない。
「キリがねぇ。本体を叩くぞ」
「これ、面倒だよ」
「……幾つだ?」
武智の言葉に、理奈がしばし黙り込んだ。何かを確かめているようでもあるし、無視をしているようでもある。
「ごめん、わかんないや。とにかくたくさんいる」
「じゃあ、核は?」
「うん。……足元の、床から二十センチぐらいの所にあるよ」
「また難儀だな」
呆れたように武智がこぼす。
目の前で全貌を現した魔族は、天井に当たらないように身を屈めるほどの大きさである。床には木の根のような足が何本も蠢き、幹のような体の部分はコブのように凹凸があった。そして枝なのだろうか。触手と呼ぶ方が相応しい幾本の腕がそれぞれ意思を持っているかのように機会をうかがっていた。
「本体の〝おばさん〟以外は雑魚だから気にしなくていいよ」
「おばさん?」
「だって、香水臭い」
雑居ビルの中で見たこともないような魔族と対峙している最中である。理奈の発言には疑問以外浮かぶことがなかった。
「香水……? 確かに臭いが」
鼻から吸い込む空気に意識を向けてみた。暴れ回る魔族のおかげで舞い上がる砂埃の臭いと、魔族特有の酸っぱい臭い。それから酸味を持つフルーツのような匂いも混じっている気がした。
「わからねーよ」
素っ気ない答えに理奈は不満げに口を尖らせる。口にはしなかったが武智に理解できることもあった。酸味臭を放つのは魔族に限るのである。より強い魔力を持ち人の形を保つ魔人からは臭いがしないのだ。だから群衆に紛れ込む魔人を判別することが難しくなる。最初から魔族だったのではなく、何らかの理由で後天的に魔人と化した人間であれば尚更だ。臭いを放つほど中途半端な魔族化が襲われる人間と襲われない人間の分かれ目であると研究レポートで読んだことがある。異界への〈門〉が開かれ、歓楽街でもある野末新地では純血の魔族も魔族化した人間もよく臭っていた。
それらとは異なる臭いがするのである。まるで、様々な種類の魔族をかき集めて混ぜ合わせたような。想像ですら信じがたい代物が目の前にいたが、別の意味では納得の出来る状況であった。
「あつらえたにしちゃ上出来すぎるだろ」
この任務から生きて帰って拳一発でも見舞ってやらねばならぬ相手の顔を思い出す。大きな深呼吸のあとに武智は妖刀を構え直した。
「やっぱ、一発打ってやれば良かったわ」
記憶の中にあるオールバックの狸オヤジの顔は珍しく笑みに歪んでいるのだった。