––逃げるのよ
と彼女は強い口調で言った。歓楽街の薄暗い路地裏に蓮は座り込んでいた。走り疲れて動かない足と深い傷で出血した腕の痛みで飽和する頭を振って言葉を絞り出した。
––嫌だ、姉さんと一緒に行く
姉の細い腕が全身の力を込めて蓮の腕の付け根を縛っている。少しでも蓮の出血を止めようと必死であった。過去と言うにはまだ生々しい記憶の中には路地裏に滞留した異臭が残っていた。そして、姉そのものである香水の匂いも。
––公安の浦月さんを訪ねなさい、あなたを保護してくれるから
その男は姉の恋人だったのか。決して肯定はしなかったが、二人で過ごした翌朝の姉は幸せそうだったことを覚えていた。生まれた時から育ててくれた、血の繋がらない姉が蓮は大好きだった。最後に見た彼女の姿は、大量の血の海に沈んでいた。上半身は魔族に喰われて失われていた。
あの時のように目の前に血の海が広がっていた。蓮は震えが止まらない足を平手で打った。立ち止まっている場合ではない、目の前で腹部を押さえて身を屈める武智はまだ生きている。蓮がいなければ避けられたはずの攻撃が武智を襲った。戦わなければ、あの時の姉のように物言わぬ肉塊と化す。
しかし、蓮の足は動かない。
「逃げろ。生きるんだ、蓮」
「嫌だ……。僕は、僕は一緒に行く」
「おま……、ばっ……かじゃねーの」
吐き捨てる悪態もすでに弱々しい。無理やり浮かべているケレン味に満ちた笑みも時折目の焦点を失いかけていた。
(僕は武智さんも殺すのか……?)
あの路地裏で姉は蓮の血を大量に含んだ上着を掴んで大通りへ飛び出した。歓楽街のネオンに彩られた姉のシルエットはすぐに真っ黒い影に襲われて消えた。自分の血が魔族を誘導したことを知ったのは特警に所属してからのことである。姉が身代わりとなったのだと知った。
(僕が、姉さんを殺した)
蘇る慟哭に喉の奥が詰まる。上手く呼吸ができずに唇が震えた。吐き出せない呼吸と感情の代わりに目の奥から涙が溢れてきた。目を見開いたまま大粒の涙をこぼす。
「……うな。僕から……な」
呻くように絞り出した声を聞いたのは武智だけだ。しかしそれも痛みで飽和した頭では幻聴のように遠い。
「僕から奪うなっ‼︎」
体の奥底から溢れ出したのは、絶望と後悔と無力感と秘めたる魔力を具現化した槍の形状をした妖刀であった。
握りしめた妖刀を渾身の力を込めて目の前まで迫る魔族の触手へと投げつけた。槍投げのように投擲された妖刀は魔族の幹を捕えて深々と突き刺さる。苦しんでいるのか触手を暴れさせてのたうち回ったのちに魔族は消滅した。
「できん、じゃねーか」
そう言って笑った武智の体が血の海に沈んだ。苦しげに繰り返す呼吸に傷の深さを知る。
「戻れ。おまえは戦える」
「でも、武智さんが……!」
「休んだら、出る。大丈夫」
眉間に皺を深く刻みながらも武智は笑った。痛みに耐えながらも蓮に託そうとする思いが滲んでいる。グッと奥歯を噛み締めると蓮は立ち上がった。
「俺は死なねーよ」
今にも泣き出しそうな、既に頬に乾いた涙の跡がある顔で蓮が見下ろしていた。何も言わずに引き返した蓮の足音が聞こえなくなって、ようやく呻き声と噛み殺していた痛みを吐き出した。このまま死んだら化け出てやる、と恨み言が思い浮かぶ頃には意識が途切れた。
蓮は駆けた。伝わる振動が大きな方へ。酸味の強い臭いがする方へ。連れ出された時は部屋であったはずそこは天井が所々崩れ落ち、砂埃の中に大きな何かが這いずり回っていた。それにまとわりつくように跳ね回る小さな影は理奈であろう。刀を振っても振っても終わらない相手に手こずっているようであった。
「何しに戻ってきた」
不意に聞こえた声に蓮は慌てて振り返る。崩れた天井の瓦礫に浦月が背を預けていた。
「離脱させたはずだ」
「解放しました! 僕は戦えます!」
浦月は魔族の証である紅い双眸を持つ男だ。日頃その瞳を隠しているサングラスはフレームだけになって胸ポケットに収まっていた。
「浦月さん、サングラスが……!」
「また始末書だよ」
力なく浮かべた笑みで吐き出したのは冗談だったのか。浦月がぐったりとして血の気の引いている理由はすぐにわかった。口元に拭い切れていない跡や、ワイシャツの胸元にも広がる血の跡がある。浦月は何らかの理由で吐血をしていたようだ。
「生きて帰れるなら何でも書くけどな」
諦めないで戦いましょう、とはとても言えない様に蓮は言葉を飲み込む。
「死ぬんですか?」
「〝女神〟が間に合えば希望はある」
「女神……?」
「あぁ、僕らの女神様だ」
言葉の意味を探るよりも早く足元から振動が突き上げた。建物全体が揺れて、ぬるりと肌を覆う感触が撫でる。蓮が不快感を覚えた感覚に浦月はニヤリと笑っていた。
「女神様のご到着だ」
瓦礫に手を突いて浦月が立ち上がる。そして砂埃の中に向かって声を張り上げた。
「第二小隊の結界が完成した! これからは全力で行け! 反撃開始だ!」
⚪︎⚫︎⚪︎
女神の一人は紅茶の好きな人だった。じっくりと時間をかけて茶葉から入れた紅茶にたっぷりのミルクを入れる。そして砂糖をティースプーン一杯。出会った頃の彼女はスプーン三杯だった記憶があるから、少女の名残が薄れゆくにつれ甘み以外の楽しみを見出したのだろうと考える。
彼女は職場の自動販売機でも紅茶を買う。温かくて甘い柔らかな口当たりが落ち着くのよ、と言った横顔には責任者として背負う重責が垣間見えて頼もしく思ったものだった。
「浦月君はあの命令を聞くの?」
隣でホットミルクティーを口にした椎葉の言葉に浦月は思わず手を止めていた。
「驚いたな。あなたの口からそれを聞くとは」
「私は命令を聞くのかと聞いているのよ」
浦月よりも一回り以上若い椎葉の放つ鋭い言葉に、彼女の階級を思い出す。すでに隊長になっていた椎葉は、三班体制の第二小隊を率いていた。組織の管理上、小隊、とは称される部隊だが実際は中隊に近い規模の部隊である。たかだか数名の隊員すらまともに指揮をしたがらない牧に比べれば威厳の差は歴然であるのだ。それでともに現場で戦う同僚から立場を違えても階級をひけらかすことを好まず、鋭い言葉に椎葉の決意を悟った。
「僕の立場じゃ命令に背くことは出来ませんよ。と言っても答えにはなっていないか」
紙カップのコーヒーを片手に浦月は観念したように口を開く。
「命令には従います。彼の処遇には興味ないんでね。でも、組織の命令で処分することを課長は嫌がる。僕は課長の意向に沿います」
しばし沈黙し、ミルクティーを一気に飲み干したのが椎葉の答えのようだった。
「本事案について、後追いで第二小隊も出動させます。課長も承認済みです」
まっすぐに前を向く凛とした横顔が美しい人だと浦月はぼんやりと考える。女だてらの隊長職と一族を率いる当代を背負うには相応しい強さを纏っている。
「浦月君はどのような事態でも全員の生存を最優先に考えること。二課の配備が完了してこそ、あなたたちの能力を最大限に発揮できることを忘れないで」
「もちろん、頼りにしていますよ」
椎葉が隊長の表情に隠した本心を浦月は察する。それに気付かぬふりをして見送った椎葉の後ろ姿が廊下から消えるまで見つめていた。
「彼女にも結果は教えられないか……」
研究所から直接の電話で知った検査の結果を思い出して浦月は頭を掻くのだった。
⚪︎⚫︎⚪︎
浦月が女神様と呼んだ同僚である第二小隊は雑居ビルを囲むように展開していた。女性だけで構成される第二小隊の指揮を取るのは隊長である椎葉杏だ。現場に出ることが珍しい第一小隊長の牧と違い、結界を構築するための大所帯を仕切る女傑でもある。
現場と個人の判断に委ねる、と言って滅多に現場に来ないはずの牧は椎葉に連行される形で雑居ビルの前に待機していた。課長室での一件をたっぷりと説教された後だけに出動拒否は出来なかったのである。
「凛々しいよねぇ……」
部隊の側に停めてあるセダンの中から第二小隊の動きを眺めていた牧が感心したように呟いてた。
「俺には無理だわ」
胸元で振動する気配がして携帯端末を取り出す。二つ折りの端末の小さな液晶に表示されている名前を見て電話を取る気になったようだった。
「はいはい、現場で待機している牧隊長ですよ、っと」
「おまえいつからそんな真面目な隊長になったんだよ!」
電話の向こうから聞こえてくる素っ頓狂な声に牧は柳眉を歪めた。
「たまには連れてこられるさ。で、用件は?」
「そこにいるなら丁度いい。こちらで準備したアレはどんな感じだ?」
「あぁ、アレ、ねぇ……」
牧は切れ長の目をそっと閉じる。耳を澄ませるようにしばし瞳を閉じていた。
「随分と凶悪なのが出現している。どれほどの悪意があればあんな代物が出来上がるんだ?」
「悪意、か。真偽は確認しておく。それよりも樹里がタイミングを逃してまだそこに居るらしいんだ。うまく逃してやってくれないか」
「樹里……か。できる限りのことはしておく」
「頼んだぞ、じゃあな」
一方的に電話を切られて取り残された牧は恨みがましく画面を見つめたままだった。しばらくして、諦めたように携帯端末を閉じて胸ポケットに収めるとセダンの外に出たのだ。
「牧隊長、どこに行くの?」
現場の指揮を取る椎葉が尋ねる。当然であるその質問に牧は頭をかきながら言い訳がましく口を開く。
「連中を迎えに行ってくる」
「了解。手が必要ならすぐに連絡してちょうだい」
「その時は頼む」
ひょいと片手を上げて立ち去りかけた牧を椎葉は呼び止めた。振り向いた牧に向けて指先で耳を叩く仕草を見せる。
「現場では無線を装備して」
「失礼、あまりに久しぶりで」
小一時間説教をした上で現場まで連れ出したが、相変わらずの牧に大きなため息をついた椎葉であった。
椎葉の前では装備品のイヤホンを耳に装着した牧だったが、現場のビルに入る頃にはすでに外していた。先刻より足を止めている部屋の中では床に体を横たえている部下の姿がある。今こそ救助の連絡を入れるべき時であるが牧はその場を後にする。部下を残した部屋の程近くで足を止めた牧が見つめる先には一人の少女がいた。ポニーテールに制服にも見えるカジュアルな雰囲気の健康そうな少女であった。出現した魔族との戦闘が始まったので脱出ルートを探していた樹里である。
「おじさんが玲の友達?」
怪訝そうな表情を前に牧は満面の笑みを浮かべた。造形の良い顔が魅惑的に歪むが、樹里の気を引いた様子はない。
「そうだよ。俺が所長さんとお友達で、特警の隊長さん」
ドヤァ、とでも言いたげな表情に樹里に浮かぶ疑念は増したようである。何かを握ったような手を牧に向けると、そこから打刀を出現させた。特警の隊員でもない樹里が妖刀を顕現させた事実に牧は驚いた様子はない。
「じゃあ、あそこで倒れてたのはおじさんの部下じゃない? なんで見捨てて来たの?」
「別に見捨てちゃいないさ。まだ死ぬわけじゃないしな」
両手を上げて無抵抗をアピールする牧は眼前に突き付けられる刀の切っ先を凝視していた。先刻、樹里は突き出した手を動かさずにこの打刀を出現させている。通常であれば呪文の詠唱なりモーションを要する妖刀の顕現を何もせずに行う。それが出来る術者は牧の知りうる限り二人だけだった。一人は部下であり、一人は上司である。
「気を失っている方が今は都合が良い。君を逃した後に救助を呼ぶよ」
「私を逃す?」
「所長さんに頼まれたんだ。君を逃して欲しいって」
「玲が……?」
「だからコレは早急に引っ込めて欲しい。部下に君の存在を勘付かれたくない」
牧の意図が伝わったのか、樹里は打刀を消滅させて腕を下げた。牧もようやく両手を下げる。そして、樹里の疑いに満ちた視線を受け止めた。
「ありがとう、助かった。俺が先に歩いて誘導するから、気に喰わない事があれば遠慮なく刺せ。妖刀と契約していない俺には何もできん」
ここまで抵抗する意欲を投げ出してくる相手に刃を突きつけることは、樹里にはまだ出来なかったのである。
本当にその美麗な隊長は人目を避ける出口へと樹里を誘導した。野末新地の中央公園に近い出口には人の気配はなく、鬱蒼と茂る木々の向こうで這いずり回る気配のみがある。
「一般人には危険極まりないエリアだが、君なら大丈夫だろ」
「そんな場所に女子高生一人放り出していいの? おじさん警察でしょ?」
「残念ながら新地は警察が不介入の地域なんだ」
牧の言葉に首を傾げながら鋭い視線を向けた樹里に、美麗の隊長は女神の微笑を浮かべて口を開く。
「俺たちは、警官の犬という名のカナリアだからな」
「カナリア、って小鳥の?」
「炭鉱のカナリア、と言ってな。常人には感知できない危険を知らせるための道具だ」
「危険って例えば?」
「俺たちには常人には見えないモノが見えてる。気付かない臭いも嗅ぐことができる。そりゃそうだ、俺たちはアレとは紙一重の存在だからな」
公園の中で這いずり回る何かが吠えた甲高い声が雑居ビル街に響いた。牧の言葉の意を探る樹里の意識には生活音の一つとして特別認識されるものではなかった。
「アレを感知して、アレと戦う。それができる限り俺たちは警察の装備品の一つだ」
「もしかしておじさんは魔族なの?」
「正解っ!」
這いずり回っている大きな魔力を持つ何か、その正体こそが魔族である。中央公園に魔女が開いた〈門〉から流入する異界の存在は魔力を持ち、人間を喰らい、魔族と呼称される。その中でも人の形を保てるほどの魔力を持つ存在を魔人と呼んだ。
樹里の目の前に立つ男は魔人であった。
「なんで警察なんかにいるの?」
「目的を果たすためにはここが一番手っ取り早いからだよ」
「目的って?」
この美麗な隊長に樹里は無性に興味を惹かれていた。自分を捕える気配どころか、背を向けて立ち去っても追いかけそうもない様子の一体何が樹里の関心を引いたのか。好奇心に任せて質問を重ねていた。
「魔女を復活させる」
すでに手垢のついた都市伝説として語られる、街に災厄をもたらした魔女を復活させたいのだと美麗の隊長が言い出した。今時、配信者すら口にしないようなことを真面目に言い切る。
「俺は彼女を愛していた。一人残された時間はあまりに長い。だから彼女を取り戻すんだ」
狂気すら垣間見える正気さを欠いた発言に樹里は思わず身を引いた。牧が意に介した様子はない。
「大きくなったな、樹里。彼女によく似ている」
「おじさんは誰なの?」
「俺か? 今は牧尚人だ。彼女はマキトと呼んだよ」
「マキト……? おとうさ……!」
樹里が突然の情報に混乱していると、上空から大きな物体が落下してくる気配がした。見上げるとそこには何本もの腕が絡み合っている塊がある。その物体が先ほど樹里自身で発生させた擬似魔族であると気付くとすぐに身を翻す。この場に留まり続けるわけにはいかなかった。
中央公園の茂みに身を隠す頃には大きな地響きが轟き、周囲にうごめいていた魔族の気配が一斉に引いた。自らより強大な力を持つ存在を避ける意思があることが樹里にとっては意外であった。それは樹里に対しても同様のようで、住人が近づくことすらない公園を突っ切って逃亡することに成功したのである。