喫煙室から眺める街の灯りは色とりどりに輝いていた。野末新地が本来の輝きを取り戻す時間帯である。一人で喫煙所にこもる山城は真っ暗な喫煙室から歓楽街を見下ろしていた。
魔族討伐、からの現場撤収と負傷者の救急搬送はすでに数時間前のことだ。野末新地に近い港湾分署に戻ってきた牧から簡単な報告を受け、詳細は浦月から、などといつも通りの口上を聞いてからようやく自分の仕事に手を付けた。そうして帰る機を逃し、日付が変わりそうになる頃には諦めて徹夜仕事と決めるのが常だった。
家に待つ者が誰もいない中年男にはどこで寝るかだけの問題なのだ。仮眠室もシャワー室も整備し、電気水道代も気にしなくて良い分署の方が経済的だと思える時すらあった。
「とは言ってもなぁ……」
野末新地に近い分署には弱点がある。初代港湾分署は魔族の襲撃により壊滅的被害を受けたため、現在は旧ビジネス街の一棟を買い上げて改修された二代目港湾分署に詰めていた。旧ビジネス街は魔族出現の際にオフィスも店舗も全て撤退していた。つまり、ビルの一棟二棟破壊したところで都市機能には影響を与えない僻地なのである。
「腹が減った」
男は呟く。目下の最大の問題は備蓄の食料が在庫切れしていることだった。24時間営業のコンビニエンスストアはある。最寄りの駅から電車に乗れば、であったが。しかし、そうすると家の方が近くなる。階下では警備任務にあたる当直の隊員はいるが、女性だけの職場に食事を頼みに行く管理職(中年男性)、と時代錯誤の図式が出来上がってしまう。性別問わずに能力で任務を任せている以上は、食事も自ら準備せねばならないのだ。
仕方なく食料調達のため牧の所に向かうと決めた。大して期待の出来る相手ではないが、買い出しを頼むこともできたからだ。
電子タバコを端末に収めていると喫煙室のドアが開く気配がした。顔を上げて視線を向けると、そこには長身の男が立っている。手にした白い袋を手近なテーブルに置くとガサガサと大きな音がした。
「総一朗……、どうしてここにいる」
現場から救急搬送されたと報告を受けていた部下の姿に山城は驚きの声を上げていた。
「そっちこそ、真っ暗な喫煙室で何してるんですか」
「綺麗なんだ」
「何が?」
「新地は夢の世界のようだ」
山城の言葉に興味を惹かれたのか隣まで歩み寄った浦月も窓から新地を見下ろす。野末新地を彩るのは赤やオレンジ色の光だけではなかった。青もピンクも混じる歓楽街独特の配色が煌めいている。その正体が酒や色を売り物にした店が競うように点滅させている外観の光であることを浦月は知っていた。
「一歩中に入れば金と女と欲しかない臭い街だよ」
「おまえは一時期潜入してたからな」
「顔が良ければ男も女もなんでも喋ってくれるからな」
山城から漏れた小さな笑いが呆れだったのか気になりはしたが、手にしたコーヒー缶のプルトップを引いた。病院からの帰り道に寄ったコンビニエンスストアで買った時には冷たかったはずの缶もすでに温い。甘さを際立たせる温度のコーヒーを流し込んだ。
「今だって髭を剃ればいけるだろ?」
「剃ったらあいつに似るだろ。今はもうあいつの顔は要らん」
真っ暗な喫煙室を背景に窓ガラスに浮かび上がる浦月は顎の髭を撫でながら自分の顔を見る。
「それにだ、克己はあいつの顔を嫌ってるだろ」
「嫌いではないよ。好きではないだけだ」
「それを嫌いと言うんだ」
190センチ近い身長に中年の割には鍛えられた肉体を備え、顎髭を蓄えたうえで任務時は魔法具でもあるサングラスを着用している。そこまでして隠したい男の面影は今でも浦月の視界から消えることはない。
それは山城にとっても同じであった。長年ともに戦う部下である浦月はあの男とは違う。頭では理解している事実だ。それでも時折夢に見るほど忌まわしい少年の頃の記憶を浦月の横顔に重ねてしまう瞬間があるのだ。
「あんなやり方はやめろ。一人で恨まれるつもりか」
浦月の言葉に山城はしばし考え込む。課長室の一件についてだと思い至ると山城は背を向けた。
「気にするな。それが私の役割だ」
全てを諦めたかのように力のない言葉だが、浦月には拒絶にしか見えなかった。課長という立場も、現場で魔族討伐を続けることも、同じ目的を達成するために選んだことだ。庇う言葉の裏で山城の視線の先が別の誰かだと透けて見えることが浦月を無性に苛立たせる。
「で、どうして戻ってきた?」
「報告書があるからな。念のため武智は一晩入院させたが、僕は輸血があれば回復する」
「最近輸血の回数が増えたな」
「そうか?」
「血をやってるのに文句しか言わない、と牧のぼやきをしょっちゅう聞かされる」
確かに、出動により輸血が必要になっても牧に対してきちんと礼を言った記憶が薄かった。
「今度は礼ぐらい言う」
「そうじゃない。頻繁に輸血が必要なほど無理をしてるんじゃないか」
「検診結果は見ただろ。何ともない」
「おまえに輸血ができるのは牧しかいないんだ。アレもいつまで生存するかわからないんだぞ」
「あー、もう、悪かった。僕が悪かったよ。克己に心配かける真似はしない。だから、僕の質問にも答えてくれ」
上司の顔を崩してまで問い詰める山城に降参する態勢を見せた浦月は背後から腕の中に抱え込んだ。喫煙所の窓ガラスには重なった二人の輪郭が浮かび上がる。山城よりも頭半分は高い浦月の腕の中に収まると耳輪を呼吸が掠めた。
「新地で出てきたアレはなんだ?」
思ったよりも低く響いた声が耳輪をなぞる感触にゾクリとした感覚を覚える。
「質問を変えるよ。新地にアレを出したのは誰だ?」
その答えを浦月は持っている。だから山城に問いかけているのだと気付いて声が出せなくなる。無言のままの山城の頬を浦月の指先が優しく撫でて持ち上げた。窓ガラスに映る浦月と視線が重なった。
「蓮一人を殺すには過剰すぎる演出だろ」
「私は、何も聞いていない」
「椎葉隊長の増援がなければ全滅していた」
「そんなことまで頼んでいない」
「知ってるよ。度が過ぎた悪ふざけについては玲に直接聞くさ」
浦月が口にした名前に山城は反応する。反論を遮るように浦月の指先が口腔内に滑り込み、咄嗟のことに言葉を飲み込んだ。
「悪いが少し黙ってくれ」
浦月の太い指が二本、山城の口腔内でうごめいていた。ふしくれだった硬い感触が柔らかく蹂躙するのを受け入れる山城の耳輪に熱を帯びた粘膜が触れた。
「今夜は虫の居どころが悪くてね。スッキリさせてくれ」
情欲にまみれた囁きを耳の奥まで注がれても喉の奥からはうめく声しか出てこなかった。
「嫌なら指を噛みきれ。そうしたら解放してやる」
そんなことできるわけがない。同じ考えを抱いたのを合意のサインとして浦月は空いている方の手で胸元を弄り始める。深夜の勤務でもネクタイを緩めることさえしない山城の矜持を乱すことはしない。シャツ越しの感触を大きな手のひらでしばし楽しむ。そして素肌ならここにあるとばかりに無防備なうなじに唇を這わせて軽く前歯を立てた。押し殺したうめきと強張りを増した筋肉に急所を外していないことが伝わる。山城は長い間口を開けているせいか飲み込みきれない唾液が垂れて浦月の手を濡らしていた。それでも口腔内の指に歯を立てぬようにと理性を繋ぎ止めている健気さに浦月の劣情はいやでも高まっていく。
「代わりに咥えてくれ」
耳輪に熱っぽいささやきが触れた。浦月の欲望が下半身に押し当てられて山城の身体がこわばる。浦月自身の半分にも満たない指先を唇で喰むと舌先で骨ばった感触を確かめた。すぐにゆっくりと指が抽送され始め、唾液の絡む音が頭の奥に響いた。
「見えるだろ? 僕に見せてくれる顔だ」
窓ガラスに映る自分と目が合った刹那、山城は目を強く瞑ってしまう。他人であればすぐに目を背ける淫らな表情だった。直視などできるわけがない。より激しくなる指の抽送する音が頭の中で強く反響した。
「ちゃんと見ろ」
総一朗は言葉を続けようとしたのだろうか。不意に唸った自動ドアの駆動音に息を飲み込む気配がした。咄嗟に振り向いた自分の体で山城を隠していた。ようやく解放された山城は身を屈め乱れた呼吸を整えようとする。
「取り込み中のところ悪いが先に帰るぞ」
総一朗越しに聞いた声の主を窓ガラスで確認する。細身のスーツのよく似合う長髪の男が映っていた。珍しく遅くまで残っていた牧である。喫煙所の入り口に立つ牧は開いたドアから中には入る気配はなかった。
「どうぞ、ご自由に」
「戻ってきたなら報告書と始末書を書いていけ。明日の午後には報告に来い」
「大怪我してきた部下に随分な仕打ちで」
「それは俺の血を分けただろ。早速下半身に回してる分を使え。十分に釣りが来る」
立場としては牧は総一朗の上司であり、山城にとっては部下だ。その山城を守ように総一朗は盾となり無言で見据えていた。
「了解」
ようやく発した言葉は部下としての発言のようであった。自動ドアが閉まる気配がしてから振り返ると、山城が座り込んでいる。
「気にするな。あいつは僕らの関係を知ってる」
「違う、そうじゃない」
思ったよりも強く否定した山城を訝しげに見下ろしていた浦月であったが、自分もしゃがみ込んで視線を合わせる。間近で見た山城は頬を上気させ、乱れた呼吸を吐き出す口元は拭いきれない唾液に濡れていた。顎を掴まれて持ち上げられた山城は目の前で笑みに歪む浦月の双眸を見つめることになる。
「このままじゃ収まり悪いだろ。課長室で続きだ」
それはダメだ、と頭をもたげた上司として矜持はものの数秒で浦月により吸い出され、吐き捨てられていた。