田中さんのことにも触れます!
朝5時の、美浦トレセン。
まだ薄暗い空の下、厩舎に明かりが灯る。
「おはよう、ヒメ」
田中さんの声が、馬房に響いた。
いつもの、優しい声だ。
私は、絶好調であることを示すように小さく嘶いて応えた。
「よく眠れたか?」
田中さんが、馬房に入ってくる。手には、飼い葉桶。
「今日も一日、頑張ろうな」
飼い葉桶を置いて、私の体をチェックしてくれる。
脚、背中、首……
丁寧に、一つ一つ確認していく。
「……よし、どこも問題なしだな」
田中さんが、安堵の息を吐いた。
「ダービーまで、あと6日。お前の体調が一番大事だからな」
その声が、少し震えている。
……緊張してるんだぁ田中さんも。
「さ、朝飯食えよ」
飼い葉桶を近づけてくれる。
私は、ゆっくりと食べ始めた。
田中さんが、馬房に寄りかかったまま話し始める。
「……なあ、ヒメ。俺、お前と出会えて本当に良かったって思ってる」
「ブルルッ……(急にどーしたのよ)」
「去年の夏、お前が来た時……正直、驚いたんだ。白毛の馬なんて、初めて担当したから」
田中さんが、遠くを見つめる。
私は、ゴハン美味しいなーなんて考えながら横目で見つつ聞いていた。
「でも、お前の目を見た時……分かったんだ。この馬は、特別だって」
田中さんが、私を見つめた。
「お前の目、綺麗だよな。それでさ、新馬戦で勝った時、嬉しかった。札幌2歳Sで勝った時、もっと嬉しかった」
田中さんの声が、温かい。
「ホープフルで勝った時、泣いた。皐月賞で勝った時、もっと泣いた」
ああ、あの時ね。田中さんの涙枯れるまで勝ち続けちゃる!って思ったんだっけ。
田中さんが、小さく笑った。
「俺、厩務員になって5年目なんだ。でも、GI勝ったのはお前が初めて」
……そうなんだ。
「しかも、2回も。ホープフルと皐月賞」
田中さんが、私の首を撫でてくれる。
「次は、ダービー。日本一のレースだ」
その手が、少し震えている。
「……怖いんだ、正直」
田中さんが、ポツリと言った。
……珍しいね。
「お前が怪我したらどうしよう、って。お前が負けたらどうしよう、って。俺の世話が悪くて、お前の調子が崩れたらどうしよう、って。今までどんな馬にも真摯に向き合ってきたつもりだけど、こんなに真剣に考えたのは初めてかもしれない」
田中さんの声が、震えている。
「お前が、師匠から、世間から特に期待されてる馬ってのもあるかもしれない……でもな」
田中さんが、私の目を見つめた。
「お前の力を信じていれば…………無事に最後まで走りきってくれる、そう信じてれば。どんなものにも立ち向かえる。そんな気がするんだ」
その目が……真剣だった。
私は、田中さんの手に顔を寄せた。
……ありがとう、田中さん。私も、頑張るよ。
あなたの想いに、みんなの想いに応えるために。
調教の時間。
「ヒメ、行くぞ」
田中さんが、手綱を引く。私は、馬房を出た。
外は、すっかり明るくなっていた。
初夏の風が、心地よい。
トレセンには、たくさんの馬たちがいる。
それぞれの厩舎で、それぞれの調教。
『やあ、おはよう。今日もいい天気だね』
「(そうだね、おはよう)」
私は、すれ違う馬に挨拶をされたので首を振って返した。
やっぱり白毛は目立つようで、トレセンを歩いていると道行く馬たちに話しかけられることが多い。
さっきは鹿毛の牡馬で、若めな感じだった。調教にいくのかな。
「おっ、馬同士で挨拶かぁ〜?」
田中さんが撫でてくれる。
そうだよ。馬同士でも挨拶するんだから。
「なんかやっぱり感じるもんでもあるのかねぇ?あの馬も期待されてる2歳馬だし」
そうなんだ。やっぱり2歳馬なのね。
どうりで若いと思ったわぁ。私もお姉さんかぁ。
そういえばあの子の名前聞いてなかった。また会ったら聞いとこ。
調教コースに着くと、佐藤さんが待っていた。
「おはよう、ヒメ。今日は軽めだ」
佐藤さんが、私の背中に跨る。
「ダービーまで、あと6日。無理はしない」
コースへ向かう。
ゆっくりと、常歩。
それから、速歩。
「いい動きだな。脚も軽い」
佐藤さんが、満足そうに言う。
「このままいけば、ダービーはカタいな」
軽い駆歩で、コースを一周。
体が、軽い。
調子は、バッチリ。
「よし、終わり」
佐藤さんが、馬房に戻る合図を出した。
調教を終えて、馬房に戻る。
田中さんが、タオルで私の汗を拭いてくれる。
「お疲れ様、ヒメ。いい動きだったぞ」
その声が、嬉しそうだった。
「このまま行けば、ダービーも大丈夫だってみんなが言ってる」
田中さんが、ブラッシングを始める。
シャッ、シャッ、シャッ……
ブラシが、私の毛並みを整えていく。
心地よい。
「……なあ、ヒメ」
田中さんが、ブラシを動かしながら言った。
「昨日、実家に電話したんだ」
……実家?
「親父とお袋に、お前のこと話したんだ」
田中さんが、少し照れくさそうに笑う。
「『ダービーに出る馬を担当してる』って。そしたらさ、親父がすごい喜んでくれて」
田中さんの声が、温かくなる。
「『俺の息子が、ダービー馬の厩務員か。すごいな』って。お袋も、『絶対勝ってね』って……ははっ、まだ勝ってもないのにだぜ?」
田中さんが、私の首を撫でた。
「親父もお袋も、競馬好きなんだ。小さい頃から、よく競馬場連れてってもらった」
……そうなんだ。
「だから、俺も競馬が好きになって。馬が好きになって。厩務員になりたいって思ったんだ」
田中さんが、遠くを見つめる。
「高校卒業して、すぐにJRAの厩務員課程に入った。最初の2年は、きつかったな。朝早いし、力仕事だし……でも、馬と一緒にいられるのが嬉しかった」
田中さんが、私を見つめた。
「そして……5年目に、お前と出会った。白毛の、牝馬だ。最初は不安だったけど……お前、すごく良い子で」
田中さんが、優しく笑った。
「人懐っこくて、賢くて、強くて。最高の馬だって、思った」
その言葉が嬉しかった。
「親父に、『ダービー当日、来るか?』って聞いたんだ……そしたら、『当たり前だろ』って。お袋も、『絶対行く』って」
田中さんの目が、少し潤んでいた。
「だからさ、ヒメ。勝とうな、ダービー」
その声が心に、響いた。
私は、小さく鼻を鳴らした。
……うん。勝つよ、ダービー。
だから、安心してね。
ダービーへ向けた調教も佳境に入ってきたとある日。
朝の調教を終えた私は、田中さんと一緒にトレセンを歩いていた。
ウォーキングダウン。
運動後のクールダウンのための散歩。
いつもの、日課。周りには、たくさんの馬たちがいる。
調教に向かう馬。調教を終えた馬。厩舎に戻る馬。
みんな、それぞれの目標に向かって頑張っている。
同じ厩舎の馬とすれ違うと、今日の天気や調教のことなどを話し合ったり……
いつものことである。
「ヒメ、いい天気だな……あっと、ちょっとヒメ、すまん、ここで待ってろ。トイレ行ってくる」
田中さんが、私を柵に繋いで離れていった。
待ってるねーと鼻を鳴らして大人しく待つ……一人だ。
まあ、すぐ戻ってくるだろうし。
平和な、トレセンの午後だ。
……と、その時。
『ねーねー!そこのかわいこちゃん!』
後ろから、声がした。
振り返ると……大柄な、青鹿毛の牡馬がこちらを見ていた。
見たことない馬だ。どこの厩舎の子だろう?
『サクラノヒメって君のこと?』
その牡馬が、私に近づいてくる。
「(……そうだけど)」
『噂通り、綺麗だなぁ?』
……え?
『白毛の
は?
「(え、一緒にって……併せたいの?)」
『いや、そうじゃなくて……なんというかァ……』
さらに近づいてくる。
『もっと、こう……親密にならない?』
アッ、そゆこと…………エッ、これナンパ!?
馬の世界にも、ナンパってあんの!?
なんでやねん!
「(あの、ちょっと……)」
『綺麗な牝馬は好きなんだよなァ、俺。白毛で、スタイルも良くて。しかも強いって聞いたぜ?』
「(あ、あの……)」
なんか、嫌な予感がする。
『俺と一緒にどう?レース後、放牧とか』
「(いや、遠慮します。というか牡馬と牝馬は一緒にさせてくれません)」
『まあまあ、そう言わずに』
「(いえ、本当に結構です)」
私は、少し後ずさりした。
でも、柵に繋がれているから逃げられない。
早く田中さん戻ってきてぇ……!
『固いこと言うなよ。お前、可愛いんだからさ』
「(……)」
距離が、さらに近づく。
やだァ、この馬しつこい……!
『なあ、ちょっと話そうぜ。お前みたいな牝馬、初めて見たわ』
「(だから、遠慮しますって……)」
どうしよう。
田中さん、まだ戻ってこない。
お腹でも壊したんか!?
『そんな冷たいこと言うなよ。俺、お前のこと本気で……』
「(やめてよ!)」
私は、強く言った。
でも……
『おいおい、怒るなよ。俺はただ……』
「(しつこい!!)」
もう……
前世でも、こういうしつこいナンパ男いたけど……
マジで、ウザい。
『だからさあ、ちょっと……』
その時。
私の、堪忍袋の緒が……
ブチッ……
と、切れた。
「(うるっさいんだよォォォォッ!!!)」
私は、後ろ脚を思いっきり振り上げた。
そして……その牡馬の、顔面に直撃。
バコーン!!!
鈍い音が、響いた。
『ギャッ……!?』
牡馬が、よろめいて後ずさる。
「(二度と話しかけんなクソ馬ァァァッ!!!)」
もう一発。
バァンッ!!
今度は、胴体に命中。
『ぐはっ……!』
牡馬が、完全に怯んだ。
「(調子乗ってんじゃねーぞコラァァァ!!テメェみてーなナンパ野郎は大っ嫌いなんだよォ!!私の前から消えろボケーーーッ!!!)」
……完全に、キレてしまった。
『わ、わかった!もう近づかないから!!』
牡馬が、慌てて逃げていく。
「(フンッ)」
私は、それを見ながら鼻を鳴らした。
あーいうことするからだよ!!!
もうくんな!!!
ところで、その一部始終を……
少し離れたところで、見ていた馬がいた。
調教を終えて、厩務員に引かれて戻ってくるところだった。
『えっ』
………………タイトルホルダーは、呆然としていた。
遠くに、白い馬体が見える……あれはもしかしてサクラノヒメか。
そして、その前に……
何やら大柄な牡馬が、しつこく話しかけている。
サクラノヒメも中々に大柄……ン"ン"ッ、自分よりも少し大きいくらいだが、あの牡馬も中々だな。なんて。
『……あれは』
そんなことを考えているうち、タイトルホルダーの目が、鋭くなった。
サクラノヒメが、困っている。嫌がっている。アレは完全に嫌がってる。うん、嫌がってる。
なんて奴なんだアレは!僕の仲間に手を出すなどと!!ゆるさない!!!
『……助けないと』
タイトルホルダーは、急に方向を変えた。
「おわっ!?タイトルホルダー、どうした!?」
厩務員が、驚いた声を上げる。
『あっちだ、あっちに行くんだ!』
タイトルホルダーは、サクラノヒメの方へ向かおうとする。
「ちょ、待て!引っ張るな!」
厩務員が、引きずられながらついてくる。
『許さーーーん!!!』
「……って、おい!」
タイトルホルダーは、必死に引っ張った。
物凄い力で。いつも逃げているその脚はこの場でも健在で。
完全に厩務員さんは振り回されているのである。
『早く行ってやらなきゃ!!!』
「だから、なんなんだよ!?」
……と、その時。
バコーン!!!
鈍い音が、響いた。
『……え?』
タイトルホルダーが、動きを止めた。
見ると……
サクラノヒメが、後ろ脚を振り上げて……
その牡馬を、蹴り飛ばしていた。
『ギャッ……!?』
牡馬の悲鳴。
そして……もう一発。
バァンッ!!
『ぐはっ……!』
完全に、ノックアウト。
牡馬が、慌てて逃げていく。
『……』
タイトルホルダーは……
呆然と、その光景を見つめていた。
厩務員も、同じく呆然。
「……今の、見た?」
厩務員が、小さく呟いた。
「サクラノヒメが……牡馬を……蹴り飛ばした……?というか吠えてる……?あの大人しい牝馬が?」
サクラノヒメが自分より大きな牡馬を……完璧に、撃退した。
『……強い』
タイトルホルダーは、思わず呟いた。
レースでの強さだけじゃない。
気性も、強い。
嫌なことには、ハッキリと抵抗する。
『……凄いな、君は。本当に凄いなぁ』
タイトルホルダーは、感心したように笑った。
「タイホ、どうした?そんなに見つめて」
厩務員が、不思議そうに聞く。
ヒヒッ、と小さく嘶くと、タイトルホルダーはもう一度サクラノヒメを見た。
白い馬体が、堂々と立っている。
『……君は、本当に特別な馬だな。他の馬とは全然違うね』
そう思った。
この前の走りで負けたのも……納得だ。
こんなに強い牝馬、見たことがない。
『今度のレースで、また会おう』
タイトルホルダーは、心の中でそう呟いた。
『今度は……負けないけどね』
その頃、サクラノヒメこと私は深呼吸をしていた。
……やっちゃったぁ。
完全に、ブチ切れちゃった。
でもめ〜っちゃスッキリした。
しつこいナンパ野郎は、これくらいしないとダメだよね。
前世でも、そう思ってた。
でも、人間の時は怖くて何もできなかった。
でも今は……馬だから。蹴れるから。
……最高じゃね?????
「ヒメ!待たせたな!」
田中さんが、戻ってきた。
「どうした?何かあったか?」
私は、何もなかったかのように小さく鼻を鳴らした。
んも〜あんたがいてくれたらあーいうことにはなってないんだからね!
すっきりしたからいいけどね!
「そっか。じゃあ戻るか」
田中さんが、手綱を解く。
……うん、何も無かったよ。何も!!!
その夜。
トレセン内で、噂が広まった。
「サクラノヒメが、牡馬を蹴り飛ばしたらしいぞ。牡馬の厩務員曰く、繋いでおいたはずがどっか行ってて、探してたら悲しそうに嘶きながら逃げてきたらしい。それで、その場に居合わせたタイトルホルダーの厩務員曰く、サクラノヒメがしつこく絡んできてた牡馬を後ろ蹴り一撃で黙らせたって」
「……強ッッッwww」
「レースだけじゃないんだな、あの馬」
そして……
馬たちの間でも、噂になった。
『あの白い牝馬、変に絡むなよ』
『なんで?』
『蹴られるぞ。マジで』
『それはお前がしつこく絡むからだろ』
『サクラノヒメかっこいい♡蹴って欲しい♡』
『……ヤバいなお前』
こうして……しつこいナンパは……
ピタリと、止まった。
翌日。
調教中、タイトルホルダーとすれ違った。
『……おはよう』
タイトルホルダーが、少し笑いながら言った。
「(おはよう)」
私も、普通に挨拶する。
『昨日は……そのなんというか、すごかったね』
「(……見てたの?)」
タイトルホルダーが首を振る。
『うん。助けに行こうと思ったんだけど……』
「(自分で解決しちゃった)」
私が言うと、タイトルホルダーが笑った。
『そうだね。君は強い。強すぎるくらいだ』
「(ありがとう)」
タイトルホルダーが、真剣な顔になった。
『今度は、レースで会おうね』
「(うん)」
私も、頷いた。
『今度は……負けないから』
「(こっちも、負けないよ)」
それぞれの道を、進んでいった。
……この2人の未来のレース結果は、まだ誰にも分からない。
しつこい男は嫌われるぜ!ヒメちゃんみたいに蹴られるぜ!
凱旋門賞 前哨戦としてどこ行くか
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ヴェルメイユ賞※牝限
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フォワ賞
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ギヨームドルナノ賞
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プランスドランジュ賞