桜の姫がターフを駆けた軌跡   作:夜刀神 闇

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牧場編
第1話 普通って


数週間、馴致は順調に進んだ。

 

 

 

ゲート練習も完璧。

 

 

「止まれ」と言われれば止まる。

 

「行け」と言われれば走る。

 

「もっと速く」と言われれば加速する。

 

 

 

まるで、人間の言葉を理解しているかのように。

 

 

 

牧場スタッフや厩務員たちも……

 

みんな、私を褒めてくれた。

 

 

 

「サクラノヒメは天才だ」

 

「ドゥラメンテの血は伊達じゃない」

 

「こんなに素直な馬、初めて見た」

 

 

 

嬉しかった。

 

認められるのは、嬉しい。

 

 

 

でもさ。

 

 

 

「……なぁ」

 

 

 

ある日の夕方。

 

若い厩務員が、先輩に小声で話しかけているのが聞こえた。

 

 

 

「サクラノヒメ、やっぱり変じゃないですか?」

 

 

 

変。

 

その言葉に、私の耳がピクリと動いた。

 

 

 

「まぁ、な。間違いなく普通の馬じゃないよな」

 

「何て言うか……怖いんですよ。馬なのに、まるで人間みたいで」

 

「分かる。時々こっちジローって見るもんな。何考えてんのか分かんねぇ」

 

 

 

観察、か。

 

確かに、私は人間たちのことをよく見ている。

 

表情を読み取ろうとするし、声のトーンから感情を推測しようとする。

 

それは、人間だった頃の癖だ。

 

 

 

でも、馬にとってはそれが……

 

「不自然」なんだろう。

 

 

 

「まぁ、従順でいい馬だけどな」

 

「ええ、でも……何考えてるのか分からないのが、ちょっと」

 

「お前、考えすぎだって。所詮は馬だぞ?」

 

 

 

二人は笑いながら、厩舎を出て行った。

 

 

 

私は静かに、自分の寝藁の上に横たわった。

 

 

 

怖い、か。

 

 

 

そんなつもりはなかったんだけどな。

 

ただ、人間と上手くやりたかっただけなのに。

 

仲良くしたかっただけなのに。

 

 

 

でも、そうか。

 

あまりにも理解しすぎると、逆に不気味なんだ。

 

馬として「自然」じゃないから。

 

 

 

人間だった頃のことを思い出す。

 

学校で、すごく空気を読む子がいた。

 

先生の機嫌も、クラスの雰囲気も、全部察して動く子。

 

すごく「いい子」だったけど、みんなちょっとだけ距離を置いていた。

 

 

 

「何考えてるか分からない」って。

 

 

 

……私も、そうなってるのかな。

 

 

 

 

 

 

シンプル。

 

すごくシンプル。

 

馬らしい。

 

 

 

私は小さくため息をついた。

 

馬の体でため息って、鼻から「ブフゥッ」て空気が出るだけなんだけど。

 

 

 

もっと馬らしく、振る舞えばいいのかな。

 

もっと暴れて、もっとわがまま言って、もっと分かりやすく。

 

気性難になってやるか、いっそのこと。

 

気性の荒いサラブレッドとして、振る舞えばいいのか。

 

 

 

でも……

 

 

 

それって、私じゃなくなっちゃう気がする。

 

 

 

人間だった記憶。

 

競馬を見ていた記憶。

 

走ることの意味を知っている記憶。

 

 

 

全部、私の一部なのに。

 

 

 

「姫ー、飯だぞー」

 

 

 

おっちゃんの声が聞こえた。

 

私は立ち上がって、厩舎の扉へ向かう。

 

 

 

おっちゃんが、いつものように優しい目で私を見てくれた。

 

「今日も頑張ったな」

 

 

 

その言葉に、少しだけ救われた気がした。

 

 

 

おっちゃんは、私のことを「変」だとは思っていない。

 

ただの「いい子」だと思ってくれている。

 

 

 

それだけで、十分だ。

 

 

 

私は鼻を鳴らして、おっちゃんの手に顔を寄せた。

 

おっちゃんは笑って、私の額を撫でてくれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、ある日。

 

 

 

「お姫様、今日は大事な日だぞ」

 

 

 

おっちゃんが、いつもより真剣な顔で言った。

 

 

 

大事な日?

 

 

 

私は首を傾げる。

 

馴致でもない、放牧でもない。

 

今日は一体何が……

 

 

 

「トレーニングセンターに行くんだ」

 

 

 

……え。

 

 

 

トレセン。

 

私の記憶が言っている。

 

競走馬の、本格的な訓練施設。

 

つまり、いよいよ……

 

 

 

「デビューに向けて、本格的な調教が始まる」

 

 

 

おっちゃんが、少し寂しそうに笑った。

 

「ここともお別れだな、姫」

 

 

 

胸が、ぎゅっとなった。

 

 

 

お別れ。

 

そうか、ここを離れるんだ。

 

おっちゃんとも会えなくなるし、自由に草原に出て柔らかい青草を食べるのも出来なくなるのかな。

 

 

 

……私の周りに、2頭ほどが寄ってくる。

 

 

私の寂しそうな雰囲気を察したのか?互いの匂いを嗅ぎあった。

 

忘れちゃわないように。

 

 

少しだけ、照れたように耳を揺らした。

 

 

 

馬の、別れの挨拶。

 

 

 

ありがとう。

 

みんなと一緒に走れて、楽しかった。

 

 

 

また会おうね。

 

レースで。

 

 

 

 

 

馬運車に乗り込む時、最後にもう一度振り返った。

 

おっちゃんが手を振っている。

 

 

他の馬たちが、不思議そうに見ている。

 

 

 

 

私は鼻を鳴らして、馬運車の中へ。

 

 

 

扉が閉まる。

 

エンジンがかかる。

 

 

 

動き出す車の中で、私は窓の外を見つめた。

 

 

 

牧場が、遠ざかっていく。

 

私が生まれた場所。

 

育った場所。

 

走ることを覚えた場所。

 

 

 

ありがとう、って心の中で呟いた。

 

 

 

そして……

 

 

 

トレーニングセンターへ。

 

競走馬としての、本当の道が始まる。

 

 

 

不安はある。

 

でも、怖くない。

 

 

 

だって、私は走るのが好きだから。

 

人と一緒に走ることが、嬉しいから。

 

 

 

馬運車が、高速道路に入った。

 

景色が速く流れていく。

 

 

 

窓の外に、桜の木が見えた。

 

まだつぼみが固いけれど、もうすぐ咲く。

 

 

 

春は、もうすぐそこだ。

 

 

 

サクラノヒメの、本当の物語が。

 

 

 

 

 

今、始まる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




サクラノヒメ 2歳牝 次走:未定

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