第2話 お姫様、到着
……馬運車が停まった。
エンジンが切れて、静寂が訪れる。
扉が開くと、春の風とともに、見たことのない景色が広がっていた。
美浦トレーニングセンター。
競走馬の、聖地。
人間だった頃、テレビで何度か見た場所。
まさか自分が、こうして馬として来ることになるなんて。
「よし、降りるぞ」
厩務員さん?が手綱を引いて、私をゆっくりと降ろしてくれる。
蹄鉄越しに蹄が地面に触れた瞬間、感じた。
ここは、違う。
牧場とは空気が違う。
張り詰めた緊張感。
研ぎ澄まされた静けさ。
遠くから聞こえる蹄の音、調教師たちの声。
ここは、本物の競走馬たちが集まる場所なんだ。
「水野厩舎だな。こっちだ」
案内されて歩く道の両脇には、いくつもの厩舎が並んでいる。
どの厩舎からも、馬たちの気配が感じられる。
鼻を鳴らす音、藁を踏む音、水を飲む音。
そして……目が合う。
隣の厩舎から顔を出していた鹿毛の馬と、一瞬視線が交差した。
その馬は私を値踏みするようにじぃ〜〜〜っと見つめていた。
……うわ厳しそう。
「お、サクラノヒメが気になるのか?」
その鹿毛の馬は、私を見つめて鼻を鳴らす。
ヤダそんなに見つめられたら穴が開いちゃいますことよ。
「う〜ん、同じ
おや、この子もドゥラメンテの仔だったの?
というか、どこかで見た気が………………しないでもない?記憶が曖昧。
「着いたぞ。ここが水野厩舎だ」
歩いていくうち目の前に現れたのは、清潔で整然とした厩舎。
木の香りと、馬具の革の匂いがする。
「おう、来たか」
低く、落ち着いた声が響いた。
振り向くと、50代くらいの男性が立っていた。
日焼けした顔、鋭い目、でもどこか優しさを感じさせる表情。
水野誠調教師。
「サクラノヒメだな。白毛か……珍しいな」
水野調教師が、私にゆっくりと近づいてくる。
その目は、値踏みするでもなく、ただ静かに観察している。
「……落ち着いてるな。輸送で疲れてるはずだろ?」
私は小さく鼻を鳴らして応えた。
案外馬運車の中って快適だったからねー。
そこまで心配されなくても良くってよ?
もちろん、言葉は通じない。
でも、水野調教師は何かを感じ取ったように、小さく頷いた。
「……いい目をしてる。こいつ、やる気があるな」
厩務員さんが、少し驚いたように言った。
「珍しいっすね、水野さんがそんなこと言うの」
「まぁな。でも、この馬は違う。なんかもってるぜ」
水野調教師が私の首を軽く叩いた。
その手は、大きくて、温かかった。
「よし、馬房に入れろ。明日から慣らし運動だぞ」
……
…………
私の馬房は、厩舎の一番奥だった。
窓からは、遠くに調教用の坂路が見える。
藁が敷き詰められた床。
清潔な水桶。
飼い葉桶には、新鮮な乾草。
人間の頃の部屋よりも、ある意味快適かもしれない。
だって、何もしなくても時間になればご飯が運ばれてくる。
まぁ、その、おトイレは恥ずかしいけど……藁だって汚れたら交換してくれる。
隣の馬房から、気配を感じた。
鹿毛の牡馬が、こちらをじっと見ている。
目が合うと、その馬は耳を少し動かして、それから視線を外した。
警戒、というよりは……観察、かな。
私も小さく首を振って挨拶する。
鹿毛の牡馬が、ゆっくりと首を下げた。
受け入れた、という意味だろうか。
「おい、新入り」
担当の厩務員さんが、ブラシを持ってやってきた。
まだ若い、二十代後半くらいの男性。
厩務員の仕事、大変でしょ。まだ若いのによくやるね。
「俺は田中。お前の担当になった。よろしくな、お姫様」
田中さんが、慣れた手つきでブラシをかけてくれる。
優しく、でも丁寧に。
毛並みを整えながら、体調をチェックしている。
「脚、綺麗だな。筋肉の付き方もいい」
「でも、まだ細いな。これから調教で鍛えないと」
ブラッシングされながら、私は窓の外を見ていた。
遠くで、調教が行われている。
馬たちが坂路を駆け上がっていく姿。
騎手の掛け声。
時計を見つめる調教師たち。
あそこで、私も走るんだ。
胸が高鳴った。
翌朝、四時半。
まだ薄暗い時間に、厩舎が動き出す。
まだ眠いって。
……寝かせてくれないらしい。
馬たちに朝飼葉が配られ、水が取り替えられる。
そして……調教の準備。
「サクラノヒメ、出すぞ」
田中さんが馬房の扉を開けた。
私は迷わず外に出る。
朝の空気は冷たくて、澄んでいる。
息が白く見える。
「今日は慣らしだからな。トレセンのコースに慣れてもらう」
鞍と手綱が装着される。
牧場で何度も経験した、あの感覚。
でも、ここでの馬具は少し違う。
より軽く、より競走用に作られている。
騎乗者は、調教助手の若い男性だった。
「よろしくな、お姫様。俺は佐藤。優しく乗るから安心しろ」
背中に人の重みが乗る。
さぁ、行こう。
調教コースへと向かう道すがら、他の馬たちとすれ違う。
みんな、凛とした表情で調教に向かっている。
ここにいるのは、全員が競走馬。
デビューを目指す若馬、既に実績のある古馬。
それぞれが、それぞれの目標に向かって走っている。
私も、この子達と同じ軌跡を辿るんだな。
……ちなみに白毛が1頭もいなかった。そりゃそうか。
コースに入ると、水野調教師が時計を手に立っていた。
「サクラノヒメ、まずはウォーミングアップだ。常歩で一周」
常歩——ゆっくりとした歩き。
私は指示通り、ゆっくりとコースを歩き始めた。
ダートの感触。
牧場の草地とは全く違う。
固く締まった地面が、蹄にしっかりと反応する。
これが、調教用のコース。
一周を終えると、水野調教師が頷いた。
「よし、次は速歩で一周」
速歩——少し速い歩き方。
私は自然に速度を上げる。
背中の佐藤さんが「おっ」と小さく声を上げた。
「反応いいな……」
速歩でコースを回りながら、周りの景色を観察する。
内側には芝のコース。
外側にはダートのコース。
そして遠くには、坂路調教用の急坂。
全部、テレビで見た場所だ。
でも、実際に自分の蹄で踏みしめると、全然違う。
もっとリアルで、もっと生々しい。
ダートって、ただの砂でしょ?って思ってた。
……こんなに走りにくかったなんて。でも、楽しいや。
「よし、最後は駆歩で半周。そこまでだぞ」
駆歩——いわゆる、キャンター。
走る一歩手前の速度。
私は、少しだけ興奮した。
走れる。
ここで、走れる。
佐藤さんが手綱を軽く操作する。
「行くぞ」
私は、躊躇なく駆け出した。
蹄がダートを蹴る。
風が顔を叩く。
心臓が高鳴る。
ああ、やっぱり……
走るのが、好きだ。人間の頃には感じえなかった感情だ。
駆歩でコースを回る。
まだ全力じゃない。
半分も出していない。
でも、それでもいい。
今は、このコースに慣れることが大事。
水野調教師の前を通過する時、彼の目が私を追っていた。
時計を見て、何かメモをしている。
半周を終えて、ゆっくりと減速。
常歩に戻る。
「……おい」
佐藤さんが、少し驚いたような声で言った。
「お前、初めてなのに……めっちゃ走りやすいんだけど」
私は小さく鼻を鳴らした。
そりゃそうだよ。
私、分かってるもん。
どう走ればいいか。
牧場にいる時に一人で特訓したもん。
コースを出ると、水野調教師が待っていた。
「……田中」
「はい」
「この馬、明日から本格的な調教に入れる。準備しとけ」
「え、もう?まだ入厩して二日目ですけど……」
「いい。こいつは準備ができてる」
水野調教師が、私の目をじっと見た。
「こいつ、普通じゃないな」
その言葉に、少しだけドキッとした。
気づかれた?
いや、まさか。
でも、水野調教師の目は、何かを見抜いているような……
「まぁいい。才能があるってことだ。大事に育てるぞ」
そう言って、調教師は私の首を軽く叩いた。
……
入厩から一週間。
私は、既に水野厩舎のルーティンに完全に適応していた。
朝4時半起床。
朝飼葉。
調教。
午後は休養とブラッシング。これが気持ちいい。もっとやってくれ。
夕飼葉。
就寝。
シンプルで、規則正しい生活。
人間の頃よりも、ずっと健康的かも。いや、健康的すぎる。
自堕落な生活を送ってた頃よりずっと健康的だ。
そして今日……
「サクラノヒメ、今日は坂路だ」
ついに、来た。
坂路調教。
競走馬の基礎体力を作る、最も重要な調教。
急な坂を全力で駆け上がることで、心肺機能と脚力を鍛える。
人間だった頃、テレビで何度も見た。
汗を飛ばしながら坂を駆け上がる馬たち。
その後ろ姿が、いつもかっこよかった。
そして今、自分がそれをやるんだ。
坂路は、想像以上に急だった。
下から見上げると、まるで壁のよう。
「最初はゆっくりでいい。無理すんなよ」
佐藤さんが背中から声をかけてくれる。
でも……
私の体が、疼いている。
走りたい。
全力で、この坂を駆け上がりたい。
馬の本能が、ドゥラメンテの血が、騒いで。
「よし、行くぞ」
スタート地点に立つ。
水野調教師が、下で時計を構えている。
他の調教助手たちも、興味深そうにこちらを見ている。
「サクラノヒメ、初坂路。さて、どうかな」
佐藤さんが手綱を操作する。
「行け」
私は——迷わず、全力で蹴り出した。
砂が蹄の下で弾ける。
急勾配の坂が、目の前に広がる。
登る。
前脚で地面を掴み、後脚で蹴り上げる。
息が切れる。
心臓が激しく打つ。
でも……止まらない。
もっと速く。
もっと強く。
坂の途中で、背中の佐藤さんが叫んだ。
「おい、速い!速いぞ!」
そのまま、一気に坂を駆け上がる。
頂上に到達した瞬間。
視界が、開けた。
遠くに、朝日が昇ってくる。
オレンジ色の光が、トレセン全体を照らしている。
綺麗だ。
息を切らしながら、私は景色を見つめた。
汗が体を伝って落ちる。
全身が熱い。
でも、気持ちいい。
「……嘘だろ」
下から、水野調教師の声が聞こえた。
「今の、何秒だ?」
「53秒……です」
「!?初坂路で、53秒???」
調教助手たちがざわめく。
「ありえねぇ……」
「ドゥラメンテの仔、マジかよ」
「白毛の、姫か……」
佐藤さんが、私の首を撫でながら呟いた。
「……すっげぇな」
化け物じゃないよ。
ただ……
走るのが、好きなだけだよ。
それから、私の評判は厩舎内で広がっていった。
「水野厩舎の白毛、見たか?」
「あの新馬、確実に他と動きが違うらしいな」
「調教タイム、めちゃくちゃいいって聞いた」
すれ違う厩務員たちが、ヒソヒソと話しているのが聞こえる。
でも、私は普通にしているつもりだった。
ただ、指示通りに走っているだけ。
調教師の言うことを聞いて、全力を出しているだけ。
それが、なぜか「異常」らしい。
「お前、本当に素直だな」
ある日、水野調教師が田中さんに言った。
「ムチも要らないんだ。手綱だけで全部理解する。果てには話しかけただけで反応してしまう」
「まるで……人間の言葉が分かってるみたいだ」
「田中、この馬を大事にしろ」
「はい」
「こいつは、特別だ。下手に扱うなよ」
特別。
その言葉が、嬉しいような、怖いような。
私は、ただの競走馬として走りたい。
特別扱いされたいわけじゃない。
でも、前世の記憶がある以上……
普通には、なれないのかもしれない。
「よし、今日はコッチに来てからの初めてのゲート練習だ」
入厩から三週間。
本格的なゲート練習が始まった。
トレセンのゲートは、牧場のものより立派だ。
電動で開閉し、よりレースに近い形式。
「新馬は大体、ここで苦労するんだよな」
田中さんが、少し心配そうに言った。
「お前は牧場でも大丈夫だったらしいけど……」
私は、ゲートをじっと見つめた。
大丈夫。
怖くない。
これは、走るためのもの。
「じゃあ、入れるぞ」
ゲートの前に立つ。
係員が後ろから優しく押してくれる。
私は、迷わず中に入った。
ガシャン、と扉が閉まる。
周りを鉄の壁に囲まれた、狭い空間。
でも、落ち着いている。
前を見つめる。
扉の向こうに、コースが見える。
あそこへ、飛び出すんだ。
数秒の静寂。
そして……
ガシャァン!!
扉が開いた。
私は、反射的に飛び出した。
蹄が地面を叩く。
一歩、二歩、三歩……
完璧なスタート。
「……すっ、げぇ」
係員の声が聞こえた。
「反応速度、完璧だ」
「しかも、真っ直ぐ出てる」
「この馬、本当に初めてなの?」
私は、ゆっくりと係員の元へ戻った。
どう?
完璧でしょ?
水野調教師が、腕を組んで頷いていた。
「……やはりな。この馬は、全部分かってる」
田中さんが不思議そうに首を傾げる。
「師匠、どういう意味です?」
「この馬はな、『走ること』の意味を理解してる」
「え?」
「普通の馬は、調教されて段々覚えていくだろ?何回やっても慣れない馬だっている」
「だけど、この馬は
その言葉に、背筋がゾクッとした。
……でも、水野調教師はそれ以上何も言わなかった。
ただ、私の首を軽く叩いて…………
「いい馬だ。大事に育てよう」
そう言って、微笑んだ。
……よかった、馬に対しては優しい人で。
幸せに、暮らしていけそうだ。
「サクラノヒメ、今日は併せ馬だぞ」
入厩から一ヶ月。
ついに、他の馬と並走する調教が始まった。
併せ馬——二頭以上で並んで走り、競り合いながら調教すること。
レースに近い状況を作り出し、馬の競争心を刺激する。
「相手は……あいつだ」
水野調教師が指差した先に、鹿毛の牡馬がいた。
雄は、やっぱり雌とは体格が違うのかな。
私と同じ2歳馬らしい。
その馬が、こちらをじっと見ていた。
何を考えているんだろう。
私は小さく首を振って応えた。
「こいつ、サクラノヒメが厩舎に来た時にジロって見てたんですよ。栗岡さんとこの」
「おお、やっぱり同じ父親を持つ者としてなんか感じるものがあるのかねぇ。同時期にデビューするだろうし、どっちも期待されてる馬だし、楽しみだな」
へえ、この馬があの時見てきた馬なんだ。
もしかして、聞いたことある名前だったり…………
「
……あ?
…………え?
ええええええええええええ!!!!!!!????
「おわっ、急にどうしたんだよサクラノヒメ」
「急に嘶きましたね。牡馬嫌いとかじゃなかったらいいけど」
いや!違いますって。
おかしいですって水野さん?
なんでいるんですかこの馬が。
なんでタイトルホルダーがいるんですか。
人間だった頃の記憶をなんとか手繰り寄せ、思い出す。
ドゥラメンテ産駒、メーヴェの2番仔、そしてメロディーレーンの半弟。
朧気だった記憶が鮮明に蘇ってきた。
なんでそこだけ鮮明に思い出せるのか。私が馬になったから?
いやいや分からんて……
ジロジロ見ないでくださいよタイトルホルダーさん。
スタート地点に並ぶ。
私とタイトルホルダー、横並び。
「よし、4ハロン併せだ。行くぞ」
調教助手の合図で……
同時にスタート。
タイトルホルダーが、すぐに前に出た。
私よりも大きな体で、力強くコースを蹴っていく。
速い。
逃げ馬の素質って、ここからだったのかな?
でも……
私も、負けない。
加速する。
タイトルホルダーとの距離が縮まる。
並ぶ。
横目で、タイトルホルダーを見る。
彼も、こちらを見ている。
お互いに、競り合う。
もっと速く。
もっと前へ。
蹄が地面を叩く音が重なる。
二頭の息遣いが、リズムを刻む。
そして……
…………
………………………
ゴール。
タイトルホルダーが、先着。
「……マジかよ」
タイトルホルダーに乗ってた人が、驚きの声を上げた。
「タイトルホルダーだって、かなり期待されてるんだぞ」
水野調教師が、時計を見つめたまま固まっていた。
「……この、タイム」
「どうしたんです、水野さん?」
「ここまでタイトルホルダーとの差が無いの、サクラノヒメだけだぞ」
田中さんが、興奮した様子で駆け寄ってきた。
「お姫様!すげぇ!すげぇよ!」
私は、息を整えながら、遠くの景色を見つめていた。
ああ、やっぱり。
競り合うのって、楽しい。
タイトルが、隣に並んだ。
彼は、少し疲れた様子で鼻を鳴らした。
でも、その目は……怒ってるようなものでもなく。
むしろ、認めてくれたような、そんな目だった。
彼が軽く首を振る。
私も、首を振り返す。
馬同士の、無言の会話。
「いい走りだった」
「お前もな」
そんな意味が、きっと込められている。
水野調教師が、私たちの元へ歩いてきた。
「サクラノヒメ。お前、もうデビューできるぞ」
……デビュー。
ついに、その言葉が出た。
「来月の新馬戦。メイクデビューだな。それにお前を出す」
胸が、高鳴った。
ついに……
レースだ。
本物の、競走馬としての戦いが始まる。
私は空を見上げた。
青く、高く、どこまでも広がる空。
あの空の下で、私は走るんだ。
人間だった頃、スタンドから見ていたあの景色を……
今度は、馬として、ターフの上から見るんだ。
風が吹いた。
白いたてがみが、揺れた。
サクラノヒメ。
桜の姫。
春に生まれた、白い牝馬。
いよいよ、物語が動き出す。
凱旋門賞 前哨戦としてどこ行くか
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ヴェルメイユ賞※牝限
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フォワ賞
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ニエル賞
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ギヨームドルナノ賞
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プランスドランジュ賞