デビュー戦から三日後。
水野厩舎の事務所に、主要スタッフが集められていた。
水野調教師、田中厩務員、主任調教助手の佐藤、そして馬主である桜井オーナー。
テーブルの上には、サクラノヒメのレース映像と調教記録が広げられている。
「さて」
水野調教師が口を開いた。
「サクラノヒメの次走について、話し合いたい」
全員が、真剣な表情で頷く。
「まず、デビュー戦の総評だが……」
水野調教師が、レース映像を再生する。
スタートの瞬間、出遅れ、そして直線での驚異的な伸び。
「出遅れは不運だった。虫が原因だと武司君から報告を受けている」
「しかし、その後の立て直しは見事だった」
映像を一時停止して、直線の場面を指す。
「この加速。そして、ゴール後の余裕」
水野調教師が、全員を見渡した。
「この馬はな……私が当初分析していた以上の素質を持っている」
田中さんが、少し興奮した様子で言った。
「直線の伸び、本当に凄かったですよね」
「ああ。だが、問題はそこじゃない」
水野調教師が、もう一度映像を巻き戻す。
「見てくれ。3コーナーから4コーナー、そして直線入口」
映像がスローモーションで再生される。
最後方から、じわじわと順位を上げていくサクラノヒメ。
「この馬は、長く脚を使っている」
「しかも、全く息が上がっていない」
佐藤調教助手が、頷く。
「確かに。普通なら出遅れからあれだけ追い込めば、最後バテるはずですよね」
「だが、この馬はゴール後も元気だった」
水野調教師が、深くため息をついた。
「私の見立てが……甘かった。それも、驚かされるほどに。完膚なきまでにな」
全員が、息を呑む。
「この馬の適性は、マイルから中距離だと判断していた」
「だが、違う」
水野調教師が、テーブルを軽く叩いた。
「こいつは、サクラノヒメは、もっと長い距離を走れる」
沈黙。
桜井オーナーが、慎重に口を開いた。
「水野さん、それは……どのくらいの距離を?」
「分からない。だけれど、少なくとも2400mは問題ないでしょう」
「2400m……」
オーナーが、息を呑んだ。
2400m。
それは、牝馬クラシック最長距離。
オークスの距離だ。
「では、次走は?」
水野調教師が、手元の資料を広げた。
「選択肢は、大きく分けて3つ考えています」
【選択肢A:牝馬限定路線】
「一つ目は、牝馬限定戦を使う王道ルート」
「次走が終わって、そのまた次走は、アルテミスS。阪神・芝1600m」
「そこから、阪神JFへ」
田中さんが頷く。
「それなら、確実ですね」
「ああ。牝馬だけなら、この馬の能力なら勝てるだろう」
水野調教師が、資料をめくる。
「そして、来春は桜花賞、オークスへ」
「牝馬クラシック二冠を狙う、最も堅実なプランだ」
【選択肢B:混合重賞路線】
「二つ目は、牡馬混合の重賞を使う」
「次走は、ラジオNIKKEI杯京都2歳S。京都・芝2000m」
「もしくは、札幌2歳S」
佐藤調教助手が、少し驚いた顔をする。
「牡馬混合ですか?」
「ああ。この馬の能力なら、牡馬相手でも通用すると思っている」
水野調教師が、真剣な目で続ける。
「そして、朝日杯FSもしくはホープフルSへ」
「2歳王者決定戦だ」
【選択肢C:慎重路線】
「三つ目は、焦らずじっくり育てる。牝馬にしては育ちが良いし、筋肉もかなり付けてきている」
「次走は500万下。確実に勝って、自信をつけさせる」
「その後、年内は無理をせず、来春に向けて調整する」
三つの選択肢が、テーブルに並んだ。
桜井オーナーが、水野調教師を見つめる。
「水野さんは、どれが良いと?」
水野調教師は、しばらく黙っていた。
そして……
「私は、Bだと思っている」
全員が、息を呑んだ。
「牡馬混合路線……ですか」
「ああ」
水野調教師が、レース映像をもう一度見つめる。
「この馬は、牝馬限定で使うには……惜しい。牝馬の枠に収まらないと、正直思ってる」
その言葉に、重みがあった。
「能力が、違いすぎる」
「牝馬だけと走らせるのは、もったいない」
田中さんが、戸惑った様子で言う。
「でも、牡馬相手は厳しいんじゃ……」
「厳しいさ。当然だ」
水野調教師が頷く。
「牡馬は、牝馬より基本的に強い」
「体格も、パワーも、スピードも、スタミナも」
「だが」
彼が、サクラノヒメの写真を見つめた。
「この馬は、例外だろう」
沈黙が、部屋を支配した。
桜井オーナーが、ゆっくりと口を開く。
「水野さん、まさか……」
水野調教師が、オーナーを見た。
「まだ、決めてはいません」
その言葉に、全員が耳を傾ける。
「ですが……」
水野調教師が、深呼吸した。
「もし、この馬が本当に私の予想以上なら」
「牡馬クラシック路線も、視野に入れるべきだと思っています」
…………牡馬クラシック。
皐月賞、ダービー、菊花賞。
牝馬が挑むには、あまりにも険しい道。
ヒサトモ、クリフジ、ウオッカが歩んできた路は、あまりにも遠いのだ。
グレード制導入以降に至っては、ダービーを制したウオッカのみ。
「師匠……本気ですか?」
田中さんが、震える声で聞いた。
「本気だ」
水野調教師が、即答した。
「ただし、条件がある」
彼が、指を一本立てた。
「次走で、もう一度牡馬に勝つこと」
「それができなければ、大人しく牝馬路線に戻す」
二本目の指を立てる。
「朝日杯かホープフルで、好走すること」
「できれば、掲示板に載ること」
三本目の指。
「そして…………この馬が、本当にクラシック距離を走れることを証明すること」
水野調教師が、手を下ろした。
「この三つをクリアできたら……」
「牡馬クラシックに挑戦する」
桜井オーナーが、長い沈黙の後、頷いた。
「……分かりました」
「条件付きで、了承します」
田中さんが、少し不安そうに言う。
「でも、無理はさせないでくださいよ、師匠」
「当然だ。この馬を壊すつもりはない」
水野調教師が、優しい目で写真を見つめた。
「サクラノヒメは、特別な馬だ」
「だからこそ、特別な道を歩ませたい」
佐藤調教助手が、慎重に聞く。
「では、次走は?」
水野調教師が、カレンダーを見る。
「札幌2歳Sか……芙蓉S、もしくは…………まぁ、選ぶレースを絞っていくとなるとこの辺がいいだろう」
「芝1800m以上、牡馬混合のOPもしくはGIII以上の重賞」
「ここで、力を試すのがいいと思っている。まぁ、サクラノヒメ自身の体調やコンディションを見て決めるのが大前提だけどな」
全員が、頷いた。
「勝てますかね?」
田中さんの問いに、水野調教師は笑った。
「わからない」
「だが……」
彼が、窓の外を見た。
遠くに、調教コースが見える。
「この馬なら、やってくれると信じている」
…………………………会議が終わった後。
田中さんと佐藤さんが、厩舎の外で立ち話をしていた。
「なぁ、佐藤さん」
田中さんが、小声で聞いた。
「師匠、本気で牡馬とやり合わせる気なんですかね?」
佐藤さんが、腕を組んで考え込む。
「……どうだろうな」
「でも、あの言い方だと……」
「ああ。視野には入れてるのはほぼ確実だろう」
二人とも、複雑な表情だ。
「牝馬で牡馬クラシックって……」
「前例はあるけどな。例えばダービーを勝ったウオッカ。しかし菊に至っては、去年あのタイトルホルダーの半姉が出て、5着に入ったくらい」
「……本当にほんの一握りですよね」
「ああ。ほとんどの牝馬は、牡馬に勝てないんだ。牡馬たちと互角にやり合っていた彼女らが異常なだけなんだ」
田中さんが、遠くを見つめる。
「サクラノヒメは……勝てますかね?」
佐藤さんが、少し考えてから答えた。
「分からん」
「でも、師匠があそこまで言うってことはさぁ……」
「何か、感じてるんだろうな」
二人の会話を、少し離れた場所で別の厩務員も聞いていた。
「おい、聞いたか?」
「水野厩舎の白毛、確かサクラノヒメだったか?牡馬相手に出すかもしれないって」
「マジで?」
「ああ。師匠が会議で言ってたらしい」
噂は、すぐにトレセン中に広がった。
「白毛の牝馬が牡馬と走る?ゆくゆくは皐月賞とかダービーに向かうって?」
「流石にドゥラメンテ産駒だからって、無理だろ。過剰評価としか思えないぞ」
「いや、でも新馬戦の内容見たか?あれは尋常じゃない」
「牡馬相手でも、通用するかもしれない?」
期待と懐疑が、入り混じっていた。
その夜。
サクラノヒメこと私は馬房で、静かに横たわっていた。
昼間の調教を終えて、体は心地よい疲労感に包まれている。
でも、眠れない。
会議の声が、聞こえていた。
牡馬クラシック。
牡馬との真剣勝負。
水野調教師の言葉が、頭の中で木霊する。
「この馬は、例外かもしれない」
例外。
私は、本当に例外なんだろうか。
人間だった頃の記憶があるから、調教がスムーズなだけ。
ゲートが怖くないのも、走ることの意味を知っているから。
でも、それって。
本当の「強さ」なのかな。
もう一度牡馬と走ったら、どうなるんだろう。
今度は真剣勝負だ。新馬戦なんかとは比にならないくらいの重圧を背負うことになる。
体格で負ける。
パワーで負ける。
もしかしたら、スピードでも負けるかもしれない。
それでも……それでも…………!
……走りたい。
自分の限界が、どこにあるのか知りたい。
窓の外を見ると、星が輝いていた。
初夏の夜空。
もうすぐ、夏競馬が始まる。
私は、どこで走ることになるんだろう。
牝馬限定戦?
それとも、水野さんが言ってる通り牡馬混合?
まだ、決まってない。
でも…………
どちらでも、全力で走る。
それだけは、決めてる。
隣の馬房から、別の馬が鼻を鳴らした。そして、首をこちらに向ける。
『……いつまで起きてるの?』
「ごめんね、もう寝るから」
私も、小さく鼻を鳴らし返す。
おやすみ。
明日も、調教頑張るから。
目を閉じる。
心臓の音が、ゆっくりと落ち着いていく。
牡馬クラシック……
その言葉が、夢の中まで追いかけてきた。
翌朝、四時半。
いつものように、厩舎が動き出す。
田中さんが、私の馬房にやってきた。
「おはよう、ヒメ」
いつもの優しい声。
でも、どこか元気がない。
ブラシをかけながら、田中さんが呟く。
「なあ」
私は、耳をピンと立てる。
「お前、牡馬と走りたいのか?」
牡馬と、走りたいか。
私は、首を軽く振った。
うん。
走りたい。
「そっか……」
田中さんが、少し寂しそうに笑う。
当たり前のように返してるけど、もしかして言葉通じてる?念力的な力働いてない?
そう思っていると、田中さんが続けて言った。
「お前、本当に変わってるよな」
「普通の馬なら、そんな目しないぞ」
……変わってる、か。
確かに、そうかもしれない。
人間だった記憶があるから。
競馬を見ていたから。
走ることの意味を、知っているから。
でも……
「師匠も、お前のこと信じてる」
田中さんが、私の首を撫でてくれる。
「だから、俺も信じる」
「お前が走りたいって思う道を、応援する」
その言葉が、嬉しかった。
ありがとう、田中さん。
「でもな、無理だけはするなよ」
「お前が怪我したら、俺……」
田中さんの声が、少し震えた。
「俺、すげぇ悲しいからな」
私は、田中さんの手に顔を寄せた。
大丈夫。
無理はしない。
でも、全力は出す。
それが、競走馬としての私の生き方だから。
「……よし」
田中さんが、いつもの笑顔に戻った。
「じゃあ、朝飼葉食って、調教行くぞ」
「今日も、頑張ろうな」
私は、小さく鼻を鳴らした。
うん。
頑張る。
朝の坂路。
佐藤さんが騎乗して、私を坂の下へ導く。
「よし、サクラノヒメ。今日は4ハロン、しっかり登るぞ」
水野調教師が、下で時計を構えている。
「まだ次走は決めてないが」
「どちらに転んでも対応できるよう、基礎をしっかり作る」
合図で、スタート。
蹄が地面を蹴る。
坂を、駆け上がる。
一歩、また一歩。
息が切れる。
心臓が激しく打つ。
でも、止まらない。
もっと強く。
もっと速く。
牡馬に負けないために。
頂上に到達した時、全身が汗で濡れていた。
「……52秒8」
水野調教師の声が、下から聞こえた。
「また成長してる」
佐藤さんが、驚いた声を上げる。
「この馬、まだ伸びてますね」
「ああ。成長期だ」
水野調教師が、私を見上げる。
その目に、何かが宿っていた。
期待。
そして……
確信。
「この馬は、まだまだ強くなる」
その言葉が、風に乗って届いた。
私は、遠くの空を見上げた。
青く、高く、どこまでも広がる夏の空。
あの空の下で、ターフの上で。
私は、どこまで走れるんだろう。
坂路のタイムってどれくらいが妥当かなーちょっと凄いくらいがいいかなーと思ったんですがどーでしょう?
ウッマたちは何時に寝るのか?草食動物だから眠りは浅いのか?ならいつまで寝てるの?はおかしいか?と思ったけど許して!!!
次走どこにしよう迷う迷う迷うぞおお!!!
凱旋門賞 前哨戦としてどこ行くか
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ヴェルメイユ賞※牝限
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フォワ賞
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ニエル賞
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プランスドランジュ賞