比企谷八幡のやり方は自分も他人も不幸にしてしまうもの。
しかし、そのやり方で救われた者にとっては唯一の解決策でした。
とくに青春を生きている者には
冬の空気は、痛いほどに澄んでいる。
二月も半ばを過ぎ、総武高の校舎を包む風は、物理的に肌を刺す冷たさと、感傷的に胸を刺す卒業という名のタイムリミットを同時に含んでいた。
俺、比企谷八幡は、特別棟の廊下で自販機の明かりに照らされている。マッ缶を啜りながら、吐き出す息の白さを眺めていた。
もうすぐ、ここからいなくなる。
その事実に、不思議なほどの感慨はなかった。あるのは、微かな安堵と、それを上回る焦燥感だ。
「……寒い」
思わず漏れた独り言は、誰に拾われるでもなく虚空に消える。
いや、違う。拾われる相手は、いる。
「比企谷くん」
すぐ隣から、鈴を転がすような、しかし芯のある声がした。
見れば、雪ノ下雪乃が、俺と同じように白い息を吐きながら立っている。その手には、温かい紅茶のペットボトル。俺がいつも飲んでいるマックスコーヒーでも、彼女が好む銘柄でもない、その中庸な選択が、今の彼女の気遣いを表しているようだった。
「……おう。寒いな」
「そうね。……でも、もう少しだけ。こうしていたいわ」
そう言って、雪ノ下は俺の着ているダッフルコートの袖を、そっと掴んだ。
それだけ。ただ、それだけの行為に、俺の心臓は慣れない音を立てる。
高校三年生の冬。俺と雪ノ下雪乃は、いわゆる「交際」という関係にある。
あの長い長い回り道と、数えきれないほどのすれ違いと、お互いに差し出した不格好な「本物」の要求を経て、俺たちはようやく隣に立つことを選んだ。
選んだ、はずだった。
関係は変わった。世界も変わった、とまでは言わないが、少なくとも俺の周囲の景色は一変した。
だが、俺は。
比企谷八幡という人間の根幹は、果たして変わったのだろうか。
「……比企谷くん?」
「いや。なんでもない」
首を振り、ぬるくなったマックスコーヒーを飲み干す。
この、隣にある温かさに。手を伸ばせば触れられる「本物」の感触に。
俺は、まだ、慣れることができずにいた。
この関係性を「維持する」という、終わりのない作業に、無意識の緊張を強いられていることに、この時の俺は、まだ気づいていなかった。
「というわけでして! せんぱい、雪乃せんぱい! この案件、どうにかしてくださいよー!」
奉仕部室の扉を開けるなり、一色いろはがパイプ椅子を回転させながら大袈裟に嘆いてみせた。
対する小町は、テーブルに突伏し
「うー……小町の胃がキリキリ……」
と、こちらも実年齢に似つかわしくない疲労困憊ぶりだ。
「落ち着きなさい、一色さん。それに、私たちはもう部員ではないのだけれど」
雪ノ下が冷静にそう窘めつつも、コートを脱ぎ、当たり前のように紅茶の準備を始める。
「そーですけど! でも、これ、結構ヤバい案件なんですよ!」
俺はため息混じりに自分の席(だった場所)に腰を下ろす。
雪ノ下はそんな俺を見てはいたが、どこか遠い目をして、こちらを見てふと頬を緩めた。
俺はこれまでの紆余曲折を思い出し、振り払うように言った。
「で、なんだ。また生徒会でなんかやったのか」
「人聞きの悪いこと言わないでくださいよ。……ていうか、案件を持ってきたのは、私じゃなくて」
いろはが視線で示した先。
部室の隅、来客用のスツールに、一人の少女が固い表情で座っていた。
見慣れない、他校の制服。ブレザーに、チェックのスカート。
しかし、その顔には見覚えがあった。いや、見間違えるはずがない。
小学生の頃の面影を残しながらも、背は伸び、顔立ちは整い、なによりその瞳からかつての「澱み」は消え去っている。
意志の強さを感じさせる、まっすぐな目。
「……鶴見、留美」
俺がそう呟くと、彼女はビクリと肩を揺らし、それからゆっくりと立ち上がって、深々と頭を下げた。
「ご無沙汰、してます。比企谷、さん。雪ノ下、さん」
「鶴見さん……。大きくなったのね」
雪ノ下が驚きと懐かしさをないまぜにしたような表情で目を丸くしている。
確か、あの海浜総合との合同イベント以来だ。
かつて、俺が最悪の方法で「救った」と思い込み、その実、ただ問題を先送りにしただけの、あの少女。
聞けば、今は小町やいろはとは別の中学校に通っており、中学三年生。つまり、来月には俺たちと同じように「卒業」を控えている。
「あ、えっと、鶴見さんは平塚先生の友人の先生が担当する中学の生徒、みたいな感じで……」
小町が慌てて関係性を説明する。
なるほど。生徒会繋がりでいろはに相談が持ち込まれ、手に余るからと奉仕部に回ってきた、と。そういうわけか。
「それで、問題というのは?」
雪ノ下が紅茶を差し出しながら、本題を促す。
留美はカップを受け取ると、一度唇を引き結び、それから意を決したように口を開いた。
「私、今、通っている中学で、生徒会副会長をしています」
その事実に、俺は少し驚いた。あの、人間関係から完全に孤立していた少女が、生徒会。
「……すごいじゃないか」
「いえ……。あの時の……比企谷さんたちのおかげで、私は『慣れる』んじゃなくて、『変えよう』って思えたから。……でも」
彼女は俯き、手に持った資料――いろはが持っていたものと同じ――をテーブルに置いた。
「今、生徒会が、機能していません。……いえ、それどころか、すごく、汚いことになっています」
話は、こうだった。
鶴見留美のいる生徒会は、現在、次期生徒会長選挙の真っ只中にある。
発端は、些細な三角関係。生徒会内部の男子を巡って立候補者という袖ヶ浦いすみと東金ちとせが揉め、それが派閥争いに発展した。
そして、その対立は、最も現代的で、最も陰湿な舞台へと移行した。SNSだ。
「学校裏サイト、なんてものじゃありません。もっとオープンな……匿名で使える質問箱とか、鍵もかけないSNSのアカウントで、お互いへの中傷合戦が始まってるんです」
留美が差し出した資料は、その「中傷合戦」のスクリーンショットだった。
稚拙だが、悪意に満ちた言葉の羅列。それが、生徒会長選挙という公のイベントと結びついて、拡散されている。
「……で、鶴見はどういう立場なんだ?」
俺が尋ねると、留美は唇を噛んだ。
「私は、中立でした。どちらにも与せず、SNSでの中傷はやめるように、と。……そしたら、今度は私がターゲットになりました」
資料の最後の一枚。
そこには、鶴見留美に対する言葉が並んでいた。
『鶴見副会長、正論ぶっててウザい』
『どうせ自分は卒業だから高みの見物かよ』
『こいつも昔イジメられてたんだって』
「…………」
俺は息を呑んだ。
過去の傷まで掘り起こされ、攻撃の対象とされている。
彼女は、かつての自分と同じように、「正しさ」を振りかざした結果、再び孤立させられようとしていた。
「……そんなことはないわ」
雪ノ下が、きっぱりとした声でそれを遮った。
「あなたが我慢する必要はないし、間違っているのは、あなたではない。そのSNSでの中傷行為よ。これは、学校側がきちんと対応すべき問題だわ」
「で、でも……」
「まずは証拠を集め、生徒会として正式に教師に介入を要請しましょう。匿名アカウントの特定は難しいかもしれないけれど、これだけの騒ぎになれば、学校側も動かざるを得ないはずよ」
雪ノ下は、いつものように正しく、論理的な解決策を提示する。
「私も手伝いますよ、一応、現役生徒会長として。そういうのは教師をどう動かすかがキモですから」
いろはも、珍しく(打算抜きに)乗っかっている。
「そうだね! 小町も手伝うよ! 頑張ろう、留美ちゃん!」
小町も拳を握る。
三対一。いや、当事者の留美も、その「正しさ」に安堵したような表情を浮かべている。
…これでいいはずだ。
雪ノ下が、いろはが、小町が、正しい方法で、時間をかけて解決するだろう。
俺の出る幕はない。
俺のやり方は、もう、必要ない。
俺は席を立とうとした。
「……比企谷、さん」
呼び止めたのは、鶴見留美だった。
彼女は、雪ノ下たちではなく、まっすぐに俺を見ていた。
その目は、安堵などしていなかった。
それは、懇願の目だった。
『正しさ』では間に合わない、と。
『きれいごと』では救われない、と。
彼女は、わかっているのだ。
雪ノ下たちのやり方では、時間がかかりすぎる。そして、仮に教師が介入して表面的な解決を見たとしても、SNSの裏で燻る悪意や、一度貼られた「正論ウザい」というレッテルは消えないことを。
根本にある、人間関係の歪みは、取り除けないことを。
俺は、大きく、長く、息を吐いた。
そして、いつものように、自嘲気味に呟いた。
「……ま、お前らがやる『正攻法』と並行して、俺は俺で『裏口』を探してみるわ。保険みたいなもんだ」
「比企谷くん?」
雪ノ下が、訝しげに俺を見る。
「いや、ほら、SNSって言っても、どうせ発信源は限られてるだろ。そういうのを特定する『専門家』を知ってるから、そっちに話通しとくだけだ」
「専門家……って、まさか材木座さん?」
「あいつは専門家じゃなくてただの厨二病だ。……違う。もっと、こう、プログラミングとかに強いやつだ」
「……せんぱい。なんか、目が昔に戻ってません?」
いろはがジト、とこちらを見る。
「気のせいだ。目が腐ってるのは生まれつきだ」
「そう……なの? 比企谷くん、でも、無茶は……」
雪ノ下が何か言いかけたが、俺はそれを遮った。
「わかってる。俺は、俺ができることをやるだけだ。……じゃ、ちょっと連絡取ってくる」
俺は部室を出た。
廊下の冷気が、火照った思考をわずかに冷やす。
…嘘だ。
専門家(笑)に頼るつもりなど、毛頭ない。
俺がやろうとしていることは、もっと単純で、もっと悪質で、もっと「俺らしい」やり方だ。
鶴見留美は、俺に「期待」した。
あの夏、俺が見せた、「自己犠牲」という名の劇薬を。
そして俺は、その期待に、応えようとしていた。
雪ノ下雪乃という、「本物」の関係性を手に入れたはずの俺が。
またしても、たった一人で、すべてを背負うという、愚かな選択を。
俺は雪ノ下たち奉仕部の面々には、「専門家(笑)が調査中」とだけ伝え、表面上は彼女たちの「正論ルート」に付き合いつつ、水面下で準備を進めた。
雪ノ下は、俺のその態度に何かを感じ取っているようだった。時折、探るような、あるいは何かを言いたげな視線を向けてきたが、彼女は「言葉にする」関係を選んだがゆえに、確証のない疑念を口にすることはなかった。そして俺は、その彼女の「信頼」を利用した。
俺はまず、鶴見留美の中学校の生徒が使っているSNSに、複数の匿名アカウントで潜入した。
そして、袖ヶ浦派と東金派、両方の「悪口」を、これ見よがしに収集し、拡散した。
それだけではない。
俺は、意図的に、第三の悪意を注入した。
『そもそも、袖ヶ浦も東金も、どっちもどっちだろ』
『こんな低レベルな選挙やってる学校、終わってる』
『ていうか、副会長(鶴見留美)が一番陰湿って噂』
火に油を注ぐどころではない。ガソリンを撒き散らし、ダイナマイトを放り込むような行為だ。
中傷合戦は、俺という「扇動者」の登場によって、爆発的に激化した。
もはや、袖ヶ浦対東金、という構図ではない。
全生徒を巻き込んだ、匿名の泥沼だった。
そして、俺は最後の仕上げにかかった。
俺が「扇動」に使ったアカウントの一つに、意図的に「ヒント」を残したのだ。
『どうせ総武の奴らにはわかんねーよ』
「総武」。
この地域で「総武」といえば、俺たちの通う総武高校だ。
ご丁寧にも、俺のアカウントのプロフィール欄には、総武高校の制服の(顔が映らない)写真までアップしておいた。
これでいい。
問題は、「生徒会内の三角関係のもつれ」でも「SNSでの中傷合戦」でもなくなる。
問題は、『他校の悪質な高校生(=比企谷八幡)が、面白半分でよその中学の生徒会選挙を荒らし、中傷を扇動した』という、単純な「外部からの攻撃」という構図に切り替わる。
教師やPTAは、内部のゴタゴタを追及するよりも、このわかりやすい「外部の敵」を糾弾する方に動くだろう。
生徒たちもそうだ。内輪で揉めていたはずが、共通の敵の出現によって、奇妙な連帯感が生まれる。
「俺たちの学校を荒らしやがって」と。
そして、その「外部の敵」が、総武高校の生徒である、と。
鶴見留美に相談されていた、奉仕部の、比企谷八幡である、と。
そう特定されるのは、時間の問題だった。
俺は、俺自身の評判と、残りわずかな高校生活を「犠牲」にして、この問題を強制的にリセットする。
鶴見留美への攻撃は止むだろう。彼女は「被害者」の一人になるからだ。
袖ヶ浦と東金の対立も、この大騒動の前ではうやむやになる。
完璧だ。
実に、俺らしい、最低で、最悪の、自己満足な解決策だ。
ただ、一つ。
たった一つだけ、計算外だったことがある。
「……何を、しているの」
俺が、例の「総武」のヒントを投下した、その夜。
自宅の部屋で、やり遂げた疲労感(あるいは、これから来るであろう破滅への諦観)に浸っていた俺の元に、雪ノ下雪乃から電話がかかってきた。
その声は、冬の空気よりも、なお冷え切っていた。
彼女は、俺が嘘をついていることに気づいていた。
俺が「専門家」とやらと連絡を取っている素振りを見せながら、実際には奉仕部室のPCや自分のスマホで、例の中学のSNSを執拗に監視していたことに。
そして、彼女自身も、そのSNSをチェックし、あまりにタイミングよく現れた「総武の扇動者」が、誰であるかを、察してしまったのだ。
「……明日、部室で」
俺が何か言う前に、電話は切れた。
翌日、奉仕部室には、俺と雪ノ下だけがいた。
小町といろはには、雪ノ下から「二人で話があるから」と連絡が入れたらしい。
重苦しい沈黙。先にそれを破ったのは、雪ノ下だった。
「……説明してちょうだい、比企谷くん」
彼女は、自分のスマホの画面を俺に向けた。
そこには、昨日までとは比べ物にならないほど荒れ狂う、例のSNSのタイムラインが映し出されていた。
そして、ご丁寧に、「総武の奴」と特定され始めている、俺の捨てアカウントも。
「……見た、まんまだ」
「なぜ。なぜ、こんなことをしたの」
「……それが、一番早くて、確実だと思ったからだ」
「早くて、確実?」
雪ノ下の声のトーンが、一段階、低くなる。
「あなたがやったことは、ただの放火よ。問題を解決するどころか、より大きく、より悪質にしているだけじゃない」
「火事には火事だ。中途半端な消化活動より、いっそ燃え尽きさせた方が早いこともある。……それに、これで火元は『内部』じゃなく『外部』になる。あいつらの対立は、これで終わる」
「その『外部』に、あなた自身がなるというの!?」
雪ノ下が、テーブルを強く叩いた。
珍しく、感情的な、強い所作だった。
「あなたは、また、そうやって……!」
彼女は、悔しそうに唇を噛み、涙ぐんでいるようにさえ見えた。
「また、そうやって自分を切り捨てる。自分が悪者になれば、自分が傷つけば、それでいいと思ってる! あなたは、何も変わっていない……!」
それが、彼女が最も言いたかったことだったのだろう。
自己犠牲への逆戻り。
彼女が、俺たちの関係において、最も忌避したもの。
「……変わる必要があったのか? 俺は俺だ。俺のやり方は、これしか知らない」
「あるわ! 変わる必要があったの!」
雪ノ下の叫びが、狭い部室に響く。
「私たちは、言葉を尽くすと、理解し合うと、そう決めたはずでしょう!?」
相談がなかったこと。
俺が独断で、彼女に何も告げず、この愚行に及んだこと。
彼女の信頼を踏みにじったこと。
「……お前を、巻き込みたくなかった」
それは、本心だった。
この、汚くて、最低なやり方に、雪ノ下雪乃という、どこまでも正しく、清廉な存在を、巻き込むわけにはいかなかった。
…だが、その言葉こそが、最大の引き金だった。
「……巻き込みたく、なかった……?」
雪ノ下は、信じられないものを見るような目で、俺を見た。
「あなたは、まだ、そんなことを言うのね」
「……」
「あなたが傷つくやり方を選ぶということは、私を傷つける方法を選ぶということと、同じなのよ」
それが、俺たちの「本物」の関係性だったはずなのだ。
一方が負う痛みは、もう一方の痛みでもある。
俺は、それを、理解していなかった。いや、理解しようとしていなかった。
俺は、雪ノ下との関係を「守る」ために、雪ノ下を「排除」したのだ。
「あなたが、自分を犠牲にして、悪者になって、傷ついて、平気でいられると、私が、そう思っているの……?」
「……それは……」
「そうやって、私を『守った』つもりになって、私を『巻き込まなかった』つもりになって……。あなたは、私との関係までも『犠牲』にしたんだわ」
絶望したような、か細い声だった。
俺は、鶴見留美を救うために、雪ノ下雪乃を裏切った。
そういうことだった。
「……俺は、ただ……」
「もう、いいわ」
雪ノ下は、静かに首を振った。
その瞳は、怒りよりも、深い、深い失望に濡れていた。
「あなたのやり方は、理解できない。……いいえ。理解したく、ない」
その言葉は、かつて俺が、文化祭の時に、彼女に突きつけた拒絶の言葉と、まったく同じ響きを持っていた。
立場が、逆転している。
俺が、彼女を拒絶し。
今、俺が、彼女に拒絶されている。
雪ノ下は、コートを羽織ると、俺に背を向けた。
「少し、頭を冷やすわ。……あなたも、自分のしたことの意味を、よく考えた方がいい」
バタン、と。
部室の扉が閉まる音は、やけに大きく響いた。
一人残された部室で、俺はパイプ椅子に深く沈み込んだ。
……間違えた。
また、俺は、間違えた。
本物、だなんて、ちゃんちゃらおかしい。
俺は、結局、何も学んでいない。
誰かを救おうとして、一番大切な人間を、一番酷い形で傷つけた。
自嘲の笑いが漏れる。
「……はは。最低だな、俺」
自己犠牲? 違う。これは、ただの自己満足であり、傲慢だ。
雪ノ下を理解したつもりになって、その実、何もわかっていなかった。
俺は、どれくらいそうしていただろうか。
特別棟は、すでに放課後の喧騒が嘘のように静まり返っている。
冬の日は短い。窓の外は、もう茜色に染まり始めていた。
重い体を起こし、自販機でマックスコーヒーでも買って帰るか、と。
そう思って、部室の扉に手をかけた、その時だった。
「……あの」
控えめな、声。
扉を開けると、そこには、鶴見留美が立っていた。
制服姿のまま。いつからそこにいたのか、彼女の指先は赤くなっていた。
「……鶴見」
「……ごめんなさい」
彼女は、そう言うなり、また、深々と頭を下げた。
「私、が……あんなこと、頼んだから……」
「……聞いてたのか」
「……はい。全部、じゃないですけど……雪ノ下、さんが、怒って出ていくところを……」
気まずい沈黙が落ちる。
「……お前のせいじゃない。俺が勝手にやったことだ」
「でも……!」
「いいんだよ。これで、お前のところの問題は、一応、解決だろ。あとは、俺が総武の教師に絞られて、あっちの中学に謝罪して、終わりだ」
俺は、努めて軽く、自嘲的に笑ってみせた。
「……安いもんだ。どうせ卒業する身だしな」
「……どうして」
「ん?」
「どうして、そんなふうに、笑うの?」
鶴見留美は、俯いていた顔を上げた。
その瞳は、怒っているようでもあり、泣きそうでもあり……そして、かつて俺が持っていたような、強い、強い光を宿していた。
「あなたは、何も、まちがってない」
「……は?」
何を、言っているんだ、こいつは。
間違えたから、雪ノ下は怒って出て行ったんだろうが。
俺のやり方は、あの人の正しさとは、相容れないものだったんだろうが。
「だって、あなたは、私を助けてくれた。あの時も、今も」
「……助けた、ね。やり方が最悪だったけどな」
「いいえ」
留美は、一歩、俺に近づいた。
「あなたのやり方じゃなきゃ、ダメだった。……私、わかってたから。雪ノ下さんたちの『正しい』やり方じゃ、間に合わないって。私の心は、もう、折れちゃうって」
彼女の瞳が、まっすぐに俺を射抜く。
それは、小学生だった頃の、救いを求める弱々しい目ではない。
中学三年生、鶴見留美という一人の人間が、明確な意志を持って、俺を「選んだ」目だった。
「あなたは、自分が傷つくことをわかってて、それでも、私を選んでくれた」
「……買い被りすぎだ。俺はただ、そうするのが一番手っ取り早いと思っただけだ」
「……ううん。あなたは、優しいから」
その言葉に、俺は息を呑んだ。
優しい? 俺が?
その言葉は、俺にとって、最も遠い場所にある評価のはずだ。
「……八幡」
留美は、震える手で、俺のコートの袖を掴んだ。
ちょうど、昨日、雪ノ下雪乃が掴んだ、同じ場所を。
「私は、ずっと……八幡のことが」
その先を、彼女は言わなかった。
だが、言わなくても、わかってしまった。
ああ、そうか。
こいつも、そうなのか。
こいつも、俺と同じ、「共依存」という名の「本物」を求めている、同類だったのか。
俺がかつて、誰かにそうしてもらいたかったように。
自分の歪みを、欠落を、間違いを、それでも「いい」と、丸ごと肯定してくれる誰かを。
鶴見留美は、雪ノ下雪乃とは違う。
雪ノ下は、俺の歪みを「正そう」とする。俺と「対等」であろうとする。だから、俺の自己犠牲を許さない。それが、彼女の「本物」だ。
だが、鶴見留美は。
彼女は、俺の「自己犠牲」そのものを、肯定する。
俺の歪んだやり方を、美しいものとして、受け入れようとしている。
雪ノ下との「正しさ」を維持する関係に、俺は、どこかで息苦しさを感じていたのかもしれない。
「本物」を維持するための、あの、薄氷を踏むような緊張感に、疲弊していたのかもしれない。
だから。
目の前にいる、この少女の、自分を全肯定してくれる歪んだ好意が。
その瞳が。
とてつもなく、甘美なものに思えてしまった。
俺は、コートの袖を掴む彼女の冷たい手を、振り払うことができなかった。
雪ノ下を傷つけた、この手で。
「……風邪、引くぞ。とりあえず、中、入れ」
「……うん」
俺は、鶴見留美を、誰もいない奉仕部室に招き入れた。
雪ノ下の淹れた紅茶の香りが、まだ、微かに残っている部屋に。
それから、数日が過ぎた。
俺の「炎上工作」は、案の定、総武高校とあちらの中学校、両方の知るところとなった。
俺は平塚先生に死ぬほど説教され、雪ノ下と、なぜか由比ヶ浜も同席した場で、先方の中学校に正式に謝罪した。由比ヶ浜は「ヒッキー、またそんなことして……」と泣きそうな顔をしていたし、雪ノ下は、終始、冷たい仮面のような無表情を貼り付けていた。
俺が「主犯」ということで、鶴見留美への追及は一切なく、生徒会の選挙も「外部の妨害による異常事態」として、一旦、白紙に戻されたらしい。
俺は、卒業まで自宅謹慎……とはならなかったが、奉仕部室への出入りは厳禁、という生温い処分が下った。
雪ノ下とは、あの謝罪の日以来、まともに話していない。
LINEは既読スルー。電話にも出ない。
教室で顔を合わせても、彼女は静かに目を伏せるだけだった。
俺たちの間にあったはずの「本物」は、ガラス細工のように、脆く、ひび割れていた。
雪ノ下は失望している。俺の自己犠牲にも、それを相談しなかった裏切りにも。
俺は、そんな彼女に対して、どう謝罪すればいいのかわからなかった。
「ごめん」と口にしたところで、俺のこの歪んだ本質は変わらない。変わらない謝罪に意味があるのか?
そして、何より。
俺の心の片隅には、「俺のやり方でしか救えなかった」という、黒い自負が燻っていた。
それを抱えたまま、雪ノ下の「正しさ」の前に跪くことは、俺にはできなかった。
卒業式が、数日後に迫った、冷たい雨の降る放課後。
俺は、昇降口で傘を開きながら、スマホを取り出した。
雪ノ下への、何度目かわからない『話がしたい』というメッセージは、やはり既読のまま、返信がない。
俺はため息をつき、別の相手にメッセージを送る。
『今から、行く』
すぐに、返信が来た。
『待ってます』
俺は、雪ノ下との帰り道とは逆方向へ、傘を傾けて歩き出した。
向かう先は、駅前のチェーンのカフェ。
あの日、部室で二人きりになってから、俺たちは、こうして、密かに会うようになっていた。
カラン、とドアベルが鳴る。
店の奥の、窓際の席。
制服姿の少女が、俺に気づいて、小さく手を振った。
鶴見留美だ。
「ごめん、待ったか」
「ううん、私も今来たとこ」
彼女は、そう言って、はにかむように笑った。
雪ノ下とは違う、あどけなさと、年齢不相応な危うさをないまぜにしたような笑顔。
俺は、雪ノ下との関係を清算できないまま。
彼女に裏切りに対する謝罪も、弁明も、できないまま。
こうして、自分を「肯定」してくれる少女との、背徳的な逢瀬を重ねていた。
「学校、大変だった?」
留美が、心配そうに俺の顔を覗き込む。
「……まあな。だが、もう終わったことだ」
「……ごめんなさい。私のせいで、雪ノ下さんとも……」
「お前のせいじゃない、って言ったろ」
俺は、運ばれてきたブラックコーヒーを一口啜る。
甘ったるいマックスコーヒーを選ぶ気には、到底なれなかった。
留美は、目の前でココアを飲んでいる。
ふと、彼女が俺をじっと見ていることに気づいた。
「……なんだよ」
「ううん。……ねえ、」
彼女は、カップをソーサーに置くと、テーブルの上で手を組んだ。
そして、悪戯っぽく、しかし真剣な目で、俺にこう言った。
「ちゃんと、留美って呼んで?」
「……は?」
「わたしは八幡って呼んでるのにー、再会してからちっとも留美って呼んでくれない。」
その言葉は、中学生離れした妖艶さを持っていた。
俺の心臓が、雪ノ下とは違う種類の音を立てる。
「……わかったよ。…留美。これでいいか」
「うん、いいよ。……八幡」
ただ、名前を呼ばれただけなのに、何か禁忌に触れたような感覚を伴った。
「……なんだよ」
「ううん。照れちゃって可愛い。」
留美は、そう言ってくすくす笑う。
その仕草は、もう、あの夏の日の小学生ではなかった。
ブレザーの胸元は、中学生として相応の膨らみを持っている。化粧こそ薄いが、整った顔立ちは、彼女が「女」であることを明確に主張していた。
「……私のこと、どう思う?」
「どう…、とは」
「雪ノ下さんと、私。……どっちが、八幡のこと、わかってると思う?」
核心を突く質問。
俺は言葉に詰まった。
雪ノ下は、俺を「正そう」とする。
留美は、俺を「肯定」する。
どちらが俺を「わかっている」か、など。
「……八幡は、優しいから」
俺が答える前に、留美が続けた。
「優しいから、自分を犠牲にする。でも、雪ノ下さんは、それが嫌なんだよね。……わかるよ。大事な人に傷ついてほしくないもん。……でもね、」
彼女は、テーブル越しに、そっと手を伸ばしてきた。
俺の、コーヒーカップを持つ手とは反対の、テーブルに置かれたままの手。
その冷たい指先が、俺の指先に、触れた。
ビクッと体が跳ねそうになるのを、なんとか抑える。
「……私だったら、八幡がそういう人だって、わかってるから。……それごと、受け止めるよ」
「……お前、まだ中学生だろ。わかったような口、きくな」
「中学生だから、…ダメ?」
留美は、指を絡めてくることはせず、ただ、俺の手の甲を、彼女の指先で、そっと撫でた。
「私、もうすぐ卒業だよ。そしたら、もう高校生」
「……」
「……高校生になったら、私のこと、ちゃんと『女』として見てくれる?」
背徳、という言葉が、脳を焼く。
俺には、雪ノ下雪乃という、交際相手がいる。
目の前にいるのは、年下の、まだ中学生の少女だ。
やっていることは、どう考えても、間違っている。
だが。
雪ノ下に「拒絶」された、この歪んだやり方を。
目の前の少女は、「これこそがあなただ」と、その冷たい指先で、肯定している。
この接触は、俺にとって、麻薬のようなものだった。
「……悪いこと、してるみたい」
留美が、わざとらしく、そう囁いた。
「……そうだな。悪いこと、だ」
俺は、彼女の手を振り払うことが、できなかった。
それから、卒業式までの数日間。
俺と雪ノ下の関係は、修復されないままだった。
奉仕部での空気は、凍りついている。
由比ヶ浜が、何度も心配そうに俺たちを交互に見ていたが、彼女の優しさをもってしても、この深い亀裂はどうにもならなかった。
雪ノ下は、何を考えているのか。
彼女は、俺からの謝罪を待っているのか。
それとも、もう、俺との関係そのものに見切りをつけたのか。
俺には、それがわからなかった。
いや、わかるのが、怖かった。
彼女の「正しさ」と向き合うことが、怖かったのだ。
そして、俺は、留美との密会を続けた。
カフェだけではない。
人通りの少ない、海浜公園のベンチ。
市立図書館の、郷土資料室の隅。
俺たちは、共犯者のように、人目を忍んで会った。
留美は、会うたびに、大胆になっていった。
私服で現れた日は、中学生とは思えないほど、体のラインがわかるニットを着ていた。
「これ、高校生になったら着ようと思ってたんだけど。……八幡に、一番に見てほしくて」
そう言って、俺の隣にぴったりと身を寄せた。
「寒いね」
そう言って、俺のコートのポケットに、自分の手を滑り込ませてきたこともあった。
ポケットの中で、俺の手を握る。
そのぬくもりに、俺は、どうしようもない安堵を覚えてしまっていた。
「八幡は、卒業したら、どうするの?」
「……都内の大学だ」
「そっか。……遠く、行っちゃうんだ」
「……千葉から通う」
「よかった」
彼女は、心底、安堵したように息をついた。
「私、頑張って、八幡と同じ大学、目指そうかな」
「……馬鹿言え。お前、まだ高校生だろ」
「馬鹿じゃないよ。……私、本気だもん」
留美は、俺の肩に、こつん、と頭を乗せてきた。
甘い、シャンプーの匂いが、鼻腔をくすぐる。
「……雪ノ下さんとは、もう、話さないの?」
彼女は、時折、こうして雪ノ下の名前を出した。
それは、俺の罪悪感を刺激すると同時に、
「私なら、あなたを傷つけない」
という、無言のアピールでもあった。
「……あいつは、俺のやり方が、許せないんだよ」
「うん。……知ってる。あの人、すごく『正しい』人だもんね」
「……」
「でも、八幡は、『正しく』なんかないじゃん」
その言葉は、ナイフのように俺に突き刺さり、殻をこじ開ける。
「私と、同じ。……歪んでる。だから、わかるよ」
「……お前も、大概、性格悪いな」
「八幡に言われたくない」
そう言って、彼女は笑う。
この、共犯関係。
傷を舐め合うような、歪んだ肯定。
雪ノ下雪乃との、あの、息苦しいほどの「正しさ」と「本物」の探求とは、対極にある、安易で、背徳的な安らぎ。
俺は、もう、戻れないのかもしれない。
雪ノ下との、あの、冬の日の自販機の前のような、不器用だが、確かに温かかった、あの場所へは。
「ねえ、八幡」
留美が、俺の肩から顔を上げ、じっと俺の目を見つめてきた。
その距離は、危ういほどに、近い。
「卒業、おめでとう」
「……まだだろ」
「練習」
彼女は、そう言うと、ふっと、目を伏せ。
そして、ゆっくりと、顔を近づけてきた。
「……待て」
俺は、とっさに、彼女の肩を押さえた。
「……なんで?」
留美は、潤んだ瞳で、俺を見上げる。
その目は、拒絶されたことを、わずかに、非難していた。
「……お前は、まだ、中学生だ」
それが、俺の、最後の理性だった。
雪ノ下雪乃への、最低限の、裏切りにならないための、一線。
「……そっか」
留美は、あっさりと身を引いた。
だが、その口元には、勝利を確信したような、微かな笑みが浮かんでいた。
「……じゃあ、高校生になったら、いいんだね?」
「……」
俺は、答えられなかった。
卒業式は、明日だ。
雪ノ下雪乃と、最後に言葉を交わしてから、一週間以上が経っていた。
俺のスマホには、もう、雪ノ下からの着信も、メッセージも、何も、入ってこなくなっていた。
やはり、俺の青春ラブコメは、どこまでいっても、まちがっている。
俺は、俺自身の手で、手に入れたはずの「本物」を、粉々に砕き、そして、新たな「間違い」に、沈んでいく。
ご感想やご指導等あれば、どうぞよろしくお願いいたします。