祝・追放 100回記念 特別編~犯罪コレクション~ 作:高見南純平
アジドⅭは空の下を歩いていた。右手側は切り立った崖、左手側には人工の広大な貯水湖が静かに横たわる。目の前を歩く道はダム本体の天端で、コンクリートが連なる巨大な堤体が両側に伸び、奥へ奥へと果てしなく続いている。貯水池と堤体は機能的に分かれており、堤体の巨大さは貯水湖が抱える水量を物語っていた。
遥か下方に覗く流路、巨大な放流口、整然と並ぶ取水塔の列。それらが圧縮されたスケールで視界を埋め尽くす。風が堤を走り、金属とコンクリートの匂いが混じって肺を殴るように迫る。視界の遠くには、山岳地帯を越えて荒廃した大地の連なりが見渡せ、さらにその先に街のシルエットが小さく影を落としていた。高所嗜好には言葉にし難い興奮を与える、圧巻のスポット。それがここだった。
「高所嗜好派にとっては、圧巻のスポットだね」
彼女は淡々と言い、それからゆっくりと堤の天端を歩き出す。マントが風をはらみ、歩幅ごとにコンクリートの振動が足裏を伝う。観光客向けに整備された時期があるとはいえ、普段は監視と維持のための立ち入りが厳格に制限される場所だ。その重厚な存在感が、アジドⅭの足元で静かに存在を主張している。
頭上を巡回する警備ドローンが機影を落とし、機械音とともに自動音声が投げられる。
「侵入者確認。警告、IDを提出してください」
アジドⅭは立ち止まることなく、片手を軽く上げた。人差し指をドローンに向けると、そこから精密に制御された電磁パルスが放たれた。センサーは瞬時に焼かれ、ドローンはスパークを上げて墜落する。鋼と電子の燃えた匂いが風に乗った。
「代わりに刺激的なデータを提出しよう」
放たれた電磁波を皮切りに、ダム全体の警報が低く唸りを上げる。取水口の警報、監視塔のサイレン、制御室からの遠隔アラートが連鎖して鳴り響き、コンクリートの谷間に重層的な響きを作る。白い蒸気が放流路から上がり、光が乱反射して堤の輪郭をいっそう際立たせる。
「爽快的で、なんて犯罪日和な天気なんだ。ではでは、激レア犯罪の収集と行きますか」
アジドⅭは崖の方へ視線を投げ、にやりと笑う。言葉は軽くても、そこに込められた意思は鋭い。
やがて、堤の向こう側から装甲を纏った警備隊が現れた。規律正しく整列し、肩や胸部に重装甲を付けた兵士たちが銃列と突剣を手に進む。先頭の隊長が息を詰めた声で威嚇を放つ。
「……貴様が、アジドⅭ……。首都の怪人かと思っていたが、ここまで到来するとはな」
後方の副官が続けて低く命じる。
「未知の武装を使うようです。みな、牽制しながら移動を停止しよう」
鉄の靴が堤板を踏みしめるたびに、低く重い音が波紋のように広がった。アジドⅭはその隊列を一瞥し、次の挙動を思案する。堤体の威容と取水構造の無骨な美しさが、彼女を背景としてさらに輝きを増した。
警備隊たちがアジドⅭへと向かおうとする時だった。最後尾から、異音が鳴り響く。
金属が軋み、破裂するような音がダムの上空に響いた。風が揺れ、空気そのものが振動する。最後尾の警備兵が吹き飛ばされるより早く、光の中から鋏の輪郭が現れた。刃面は冷光を帯び、可動部からは青白い放電が走る。その鋏はただの武器ではない。噛み合うたびに大気が悲鳴を上げ、地面がわずかに沈む。圧力と熱を孕んだその質量が、巨大な生物の顎のように動いていた。【アークシザー・T-03 ヒドロカスタム】。それが、戦場に再臨したヒドロFの新たな象徴だった。
「Ⅽ様の、偉大なる犯罪行為を、今度こそは成し遂げさせてみせる……!」
低く、金属を擦るような声が響く。ヒドロFは姿勢を沈め、滑るように地面を疾走した。ブーツの底からは油煙とスパークが走り、数メートル先にあった警備兵を一瞬で捕捉する。鋏が横薙ぎに振り抜かれた瞬間、衝撃波が空気を裂き、装甲ごと両断された腕が宙を舞った。電磁盾が悲鳴のように火花を散らし、崩壊する。
「くそっ、何者だあいつは! 下がれ、陣形を整えろ!」
「退くな! あんなの一人で暴れさせる気かよ!」
「バカ言うな、仲間がまだ生きてるんだぞ!」
乱戦の中で、鉄と肉の音が交錯する。ヒドロFはその中心を、迷いなく突き進む。両腕の駆動部からは過負荷の蒸気が噴き出し、装甲の継ぎ目が赤熱していた。それでも歩みを止めず、力を制御しながら兵たちを押し退けていく。
指揮官の短髪の男が声を張り上げた。
「総員、構えっ! ここはダム防衛第7区だ! 命を張ってでも死守する!」
その声を合図に、銃口が一斉に光を放つ。光弾の雨がヒドロFを襲うが、彼は鋏を広げて正面に構えた。金属の刃面が弾道を読み取り、寸前で弾丸を弾き返す。火花が散り、光の粒が闇の中に漂った。
「無駄だ。あなたたちの装備では、Ⅽ様の信念を止められない」
そう言って掌を掲げると、そこから眩い閃光が炸裂した。
【ホーリーフラッシュ】
効果……まばゆい光を放射する。
白光が爆発のように広がり、視界が一瞬で塗り潰される。
「うっ、目がッ!」
「熱源が見えねぇ!」
悲鳴が重なる中、ヒドロFの影だけが光の中を進んだ。ハサミが再び閃き、盾が砕け、銃を持つ腕が無造作に押し潰される。機械的な動作で、無慈悲に、正確に。倒れる兵士の間をすり抜けながら、ヒドロFはわずかに息を吐く。彼にとって、この戦いはもはや怒りではない。贖罪でもない。ただ使命の延長線。
「まだだ、まだ終わっちゃいねぇ!」
「防衛第7区の誇りを見せろ!」
「全員、再装填! 一発でも多く撃ち込め!」
叫びが重なり、銃撃が再び光を放つ。兵たちの勇気は確かにあった。しかしヒドロFはそれすら押し潰す。鋏の一振りごとに生まれる衝撃波が地面を揺らし、コンクリートを砕く。爆音が壁面を反響し、熱気が空間を満たす。破壊のたびに彼の装甲は焦げつき、煙を吐きながらも、動きは鈍らない。
「Ⅽ様……この場をお任せを。優雅に遂行してください」
その声は、風と衝撃の中で不思議なほど静かだった。崖の向こう、貯水湖が夕陽を受けて鈍く光る。アジドⅭは堤の手すりに手をかけ、無言で戦況を見下ろしていた。その瞳に動揺はなく、ただ計画が予定どおり進行していることへの冷ややかな確信だけが宿っていた。ヒドロFの破壊音が、彼女の代弁のように空を震わせ続けていた。