参考作品:
・漫画『BLACK CAT』(矢吹健太朗/集英社)
・ゲーム『Detroit: Become Human』(Quantic Dream)
・ネットドラマ『CODE ファウストゲーム』
第三章(ワーカホリック)〈NOTOにゃん監修版〉
【時間】午後5時台
「少し、散歩に付き合ってくれるか?」
署を出た途端、トレインは背後のコナーに声をかけた。BOSSが彼を引き留めて何を話したのか――そこに興味はない。
せっかく真面目に出勤してきたのだから、BOSSが情を汲んで現場復帰を早めてくれると思っていた。普通の上司なら、厄介事を喜んで彼に回しただろう。だが、今回は体調を見越しての判断だ。従業員を気遣う上司がいるなら、感謝すべきだ。
「光栄です、ハートネットさん」
あまりに丁寧な物言いに、トレインは思わず苦笑した。だが、これもコナーの“仕様”だ。突っ込むのはやめた。
太陽は西へ傾き、白い空は、淡い橙と薄紅に染まっていった。
「人間って、つくづく妙だよな」
両手をコートのポケットに突っ込み、冷たい風を受けながら、トレインはふいに口を開いた。コナーが返す前に、続ける。
「喧騒の只中で長く生きてると、ふと一人になりたくなる。けど、一人でいる時間が長くなると、今度は自分とばかり対話して、疑問や不安や……理由のない恐れまで湧いてくる。人間って、やっぱ変だろ?」
足を止め、振り返る。ここ数日、胸の内で渦巻いていた問いを、誰かに――たとえ相手がアンドロイドでも――口にしてみたかった。
「その感覚は、人間が社会的動物であることに起因します。他者との相互作用が生命活動の最適状態を保ちます。長時間の独居は負の情動を増幅し、思考の傾向を消極に偏らせます」
コナーは真顔で分析した。一般人なら“なんとか応えよう”とする気遣いの応答になるが、コナーは違う。ただ、問われたことに最適解で返すだけだ。
アンドロイドなら、こういう返答も自然だ。もし人間が同じことを言えば、“空気が読めない”と評されるだろう。白シャツに固い表情の研究者が頭に浮かぶ。
腕時計に視線を落とす。そろそろ夕食の時間だ。今日が“定刻に飯が食える最後の日”になるかもしれない。ちゃんと食っておくべきだ。
「腹減った。行くぞ、飯だ」
【時間】午後6時28分
「いらっしゃいませ」
ドアを引くと、揃った声が響いた。さすが日本企業系の店だ。
ラーメン屋に入り、トレインは馴染みの職人の前、カウンター席へ腰を下ろした。
「よう、親方。いつもの、頼む」
トレインが腰を掛けると、コナーも隣に座り、無言でやり取りを見守る。
「おう、小僧。やっと来たな! 最近はまた忙しいのか? ちゃんと飯食ってんのかよ!」
家の古い誰かのように小言は多いが、それが彼らなりの気遣いだ。
「案件はねぇよ。BOSSに一週間の休みを強制された。明日から戦場復帰だ。その前に、親方の一杯で気合い入れとく」
「ならしっかり食え。……ところで横の兄ちゃんは同僚か?」
視線を向けられ、コナーは丁寧に会釈する。
「コナー。俺の相棒だ。残念だがアンドロイドでな、親方の腕は味わえない」
紹介を受け、親方はコナーのこめかみの青いリングに気づく。
「アンドロイドか。時代は進んだもんだな。……ま、命のやり取りがある仕事だ。いつ何があるか分からねぇ。――やめだやめだ、飯の時間にする話じゃねぇ。しっかり食って、明日も働け」
湯気の立つ丼が、トレインの前に置かれた。
「いただきます。……にしても、もうちょい熱くない温度でもいいんじゃねぇか? 猫舌には地獄だ」
湯気が立ち昇る麺は旨そうだが、猫舌には試練だ。
「このくらいの熱さ、男ならなんでもねぇだろ!」
親方は格好よく言い切る。――あなたも猫舌だろ、とトレインは小声で突っ込んだ。
「ほらよ」
親方は氷水をコップに注ぎ、卓へ置く。
「助かる」
同じ猫舌だけが知る心地よさというものがある。理想は冷めてから食べること。だが、親方は仕事中だ。無礼は避け、許容できる熱さで食べ進める。
【時間】午後7時台
玄関のドアを回した瞬間、トレインはふと思い出して口を開いた。
「そうだ、俺ん家のスペアキー……BOSSが、お前に渡したんだよな?」
あの夜、意識は朦朧としていたが、施錠した記憶はある。こじ開けた形跡もない。ならば、同じ鍵を持っているはずだ。もともと、非常時に備えてスペアを預けておけと勧められ、友人に託せる宛てもなく、大家も近所にいない。結果、BOSSに預けた。
「はい」
コナーはドアを閉めながら答えた。
「靴は玄関に置くか、シューズボックスにしまってくれ。俺は部屋では靴を脱ぐ」
トレインは靴を脱いで上がる。床は木で、タイルのように熱が奪われにくい。コナーも靴を脱ぎ、後に続く。
廊下の右側にドアが二つ。突き当たり手前に洗濯機とキッチン。小さな廊下に機能が詰め込まれている。
突き当たりのドアの向こうが寝室。畳敷きで、低い卓とテレビ。ベッドはなく、隅に畳んだ布団が置かれていた。
「くつろいでてくれ」
そう言って、トレインは隣の引き戸を開け、着替えを取り出す。
寝室から廊下に戻り、樹脂製スライドドアの浴室へ。一坪ほどの空間で、様式は日本風。トイレは別、廊下のもう一方のドアの先だ。
衣服を脱ぐ。外窓はなく、冷え込みは厳しくない。換気は天井のファン頼みだ。
蛇口を捻り、シャワーを浴びる。水が肌を打つ瞬間、重さが洗い流されていくように感じた。
水は流れ続ける。だが、室内は湯気で白くならない。――冷水だ。半袖では寒い季節に、彼は冷水を浴びる。
食も、体に触れる温度も、トレインは“冷たい”を好む。人々が温泉を楽しむ季節に、それが理解できない。
いつも通り、手短に身を清め、いつも通り、蛇口を閉める。――はずだった。
視界が、ふっと暗くなった。
真っ黒ではない。手が見えなくなるほどでもない。薄暗い部屋の明かりが、急に遠のいたような。
まずい――そう思った時には、もう膝を折り、動けなくなりかけていた。
声も出しづらい。意識はある。思考もできる。だが、体は自分のものではないみたいだ。
ここがどこで、誰を呼べばいいか――それは分かっている。あとは、声さえ出れば。
くそ……意識が落ちる前に――
コナー……!
寝室の隅にいたコナーは、呼声を受け取り、こめかみのリングを赤く光らせた。
「ハートネットさん! ご無事ですか!」
コナーは寝室を飛び出し、浴室の扉を開けた。トレインは苦しげに蹲っている。
まず、壁のタオルを取って肩に掛け、臥室へと抱え、横たえる。
仰臥すると、覆っていた暗さが、ゆっくり退いていった。さっきまで、歩くのも辛く、吐き気すらあった。
「悪い……少し、休ませてくれ」
多くを語る気はない――コナーはうなずく。身を屈めて状態を見守っていたが、毛布を探しに立ち上がろうとした時、
「なぁ、コナー……さっきのこと、BOSSには言わないでくれないか」
明日には現場復帰だ。何があっても、これ以上、休みを延ばすわけにはいかない。
「率直に申し上げます。なぜ、そこまで仕事に固執するのか、私には理解できません」
コナーが静かに問う。
トレインは天井を見つめ、息を吐いた。
「仕事の他に……俺には、何もないからだ」
会社が喉から手が出るほど欲しがる“人材”。命を削って働き、寝食を忘れ、前のめりに残業し、問題は自分で拾い、誰にも押しつけない。
その代償に、家族を忘れ、友を忘れ、恋人を忘れ、生活を忘れ、楽しむことを忘れ、自分の面倒をも見失う。
最後に残るのは――仕事だけだ。
つづく