『彼』や、『アンタ』、『お前』など、キャラが夢主を呼ぶ際にはバリエーションがある。
─1─
その時。思い出した。
この世界は、残酷なんだ。
体から急速に熱が失われていく。
寒い。寒い。
もはや何もできないのか。何か・・・何か・・・
「朝だぞー。早く起きろ」
寝ているところを父に揺さぶられ、私は目を覚ました。
さっきの感覚は夢だったのか。おぼろげで思い出せない。
あったかい毛布から出る。
845年。場所はウォール・マリア南端のシガンシナ区。とあるのどかな春の日。私が10歳の時の話だ。
「おはよう」
「おはよう、かあさん」
「紅茶を淹れるのもすっかりうまくなったわね」
「べつに厳しく教えたわけでもあるまいに。でも上達が早いのはいいことだ。偉いぞ」
「えへへ。ありがとう、とうさん。かあさん」
朝は紅茶とトーストをいただく。私たちの家庭でのしきたりだ。
もっとも、最南端であるシガンシナ区の好待遇にあやかってもなお、茶葉は希少であったし、子どもだった私には口に合わず、ただ淹れるだけの日々だったが。
紅茶の代わりに牛乳とジャムの乗ったトーストを一口食べる。父は新聞を読みながら紅茶をすすり、早めに食事を済ませた母は次の家事の支度にとりかかる。
「そういえば、今日は調査兵団が帰ってくる予定だったな」
「そうね。また凄惨な結果に終わったでしょうけど。いつもひどい大けがで帰ってきて、目を背けたくなるわ」
調査兵団。壁の外の世界へ歩を進め、さらに人類の領域を増やすための兵団だと、両親から断片的には聞いていた。だが調査のたびに数多くの兵士が死傷し、進展もほぼ無いため市民からの不満も多い。私の両親も、彼らのことをよく思っていなかった。
「辛気臭い話はやめだ。それよりお前、今日も学校に行くのか?」
「うん!もっとたくさんのことが知りたいから」
「そうか。楽しいならよかった」
「楽しいなら早く行かなきゃね。掃除が進まないから。ほら、あなたも早く」
「オイオイ。まだそんな時間じゃ─」
「もうそんな時間よ。あなたが早く起こしに行かないからやることが沢山詰まってるの。さ、早く」
私たち二人は大急ぎで朝食を掻き込み、父は母に尻を叩かれながら仕事鞄を握り、私は本と手記を昨日から詰めておいた背嚢を背負い、駆け足で家を出る。母が屋上で、洗濯物を広げて、ヒラヒラはたく音がする。見えないけど。
途中までは、父と同じ道を歩く。父の職場は私の学校と同じ方角にあるため、少し話す時間もできる。父と話しながら、学校へ向かう。
朝に調査兵団の血みどろな姿を見せられたが、実のところ町並みは平和そのもので、露店のおじさんに挨拶したり、ウォール教を唱える神父様に説法を説かれて面倒くさがってそそくさと立ち去ったり、川べりの水鳥に家からこっそり持ってきたパンくずを投げつけたり、いつものなんてことない登校を敢行していた。
「ところで」
父が切り出す。
「お前、将来はどうするんだ?」
「どうするって?」
「ずっと学校にいるわけじゃないんだぞ?いずれは父さんみたいに働きに出なくちゃいけないんだ。まだ10歳だからわかんないだろうが、学校でも何かそれらしいものは見つかったのか?」
「うーん、まだわかんない」
煮え切らない答えを返す私に、父はおそるおそる忠告する。
「兵団に行くつもりならやめておけ。いいな」
「入るなんて言ってないけど?それはどうして?」
私は父の顔を見ず、道端の小石を蹴っ飛ばそうとしていた。
その発想は正直なかった。漠然と父の仕事を手伝うか、本でそれらしい仕事を探してみるか、だなんて思っていたからだ。父が働くさまは見たことも無かった。子どもを職場に連れてくるわけにもいかないので仕方ないのだけど。働くことについては、よく分からなかった。今日は大事な仕事の報告があるらしい、くらいしか知らない。
「危険だからだ。駐屯兵団だろうが万が一のことはある。憲兵団は巨人に襲われることは無いだろうが、よほど優秀でなければなりえない。調査兵団などもってのほかだ。私は、お前に死んでほしくないし、危ないことはできればしてほしくないからな。」
「うん。わかったよ、とうさん。」
父母はたびたび私の心配をしていた。私たち人類が住んでいる土地には、三重の壁が存在し、外側から順にマリア、ローゼ、シーナと名付けられている。私たちが住んでいる場所はウォール・マリア。そこからさらに各方位の端に突き出た区画が一つずつあり、その南端の区画がシガンシナ区だ。つまり、巨人に最も襲われる可能性の高い地域の一つに、私は住んでいた。
だが、この壁は100年ほど前、巨人という人類にとっての天敵が現れてから、多少の問題がありながらも、ずっと破られることなく、私たちを守り続けてきた。今日もまた、父のいつもの心配性が出ただけだったのだろう。挙句の果てには、避難経路の諳そらんじて言えるかの確認までする羽目になった。もっとも、ここまで大袈裟な事態になることも、一度や二度では無かったが。締しめて、今日の登校はつまらなかった、と、私は結論付けた。
「考えておく」
「そうか。じゃあ、気を付けてな」
「うん!」
私は父と別れ、学校へと駆け出す。父は手を振っていた。私も後ろ歩きをしながら手を振った。書き忘れていたが、背嚢は私の肩から膝裏までの長さがあり、重心が思ったより低い。見上げて手を振る拍子に、のけぞって派手に尻もちを突いた。
学校は楽しい場所だ。新しいものやことが沢山学べる場所だ。読み書きや算術、そして、この壁の中の歴史も教えてくれる場所。とはいえ、あまりしっかりとした校風ではなく、登校する日も人によってまちまちだ。
そこに通う人もさまざまだ。おしゃべりな人。怒りっぽい人。いじめっ子。賢そうな子。でも、私ほど通い詰めている人はいないだろう。友達もこの学校でできた。絵が上手い人。身体を使った遊びが上手い人。町の情報に通じていて、醜聞の様を真似るのが上手い人の三人だ。
しかし、今日は私以外誰もいない。先生も今日はお休みだ。でも私はここに来た。字を書くためだ。私は木製の引き戸をガラリと音を立てながら、教室に入る。
いつもはワイワイガヤガヤ、大小様々な声が混じり合い、ちょっとうるさい程なのだが、今日は静かすぎて窓越しの小鳥のさえずりが聞こえるほどだ。
「あの鳥は……」
私は、教室に置いてあった本をむさくいに選び、自分の机に持っていく。まあ、教室の出入口に近い所に持っていくだけなので、なんてことはない。
積まれた本の中から一番上のものを取り、開き、自分の日誌に気になった箇所を書いていく。
人と話すのも好きだが、覚えたての字を日誌に書き連ねるのは楽しい。書く内容もさまざまだ。家族のこと、友達のこと、昨日食べた夕飯のこと、今日学んだこと。学校に来て書けば、なんとなく身に力が入るような気がして、どうしても来てしまうのだ。そういえば、今頃みんな何をしてるんだろう。あの金髪の賢そうな子は、またいじめられているんだろうか。珍しい黒髪を持つ女の子は、ある一人の男の子といつも一緒だ。あの人たち、いつも一緒にいるんだ。さぞ仲がいいんだろう。今度話しかけてみよう。また一つ、友達の輪を広げてみよう。
他のことは、また休みが明けて先生が来たら訊こう。そうしよう。
─2─
夕暮れ時を知らせる鐘が鳴り、気が付けば、すっかり夕方になってしまっていた。昼食も忘れて書いてしまった。図書も片っ端から調べて書いていたものだから大変だ。
いつもこの時間くらいに学校を出て、家に帰れば夕飯には間に合うようになっている。
そして、夕食時に書いた手記を二人に見せてあげる。見せた後は寝る直前までまた自室で書く。それが私の一日だった。
背嚢に荷物を詰め、学校を出る。
道を駆けあがり、急いで家へと向かう。また考えがたくさん頭に浮かんでくる。
今日は夕飯はなんだろう。好物のシチューだったらいいなぁ。とうさんはまだ仕事で遅くなるのかな。なら、先に風呂に入ってから、また仕事の話を聞いてみよう。心配性なとうさんのことだ。話くらい聞けば落ち着くだろう。そうだ。今晩こそは紅茶に挑戦してみよう。今日はなんだか飲める気がするんだ。
とうさんとかあさんを驚かせてやる!
あと、おうちに帰ったら、またあの本の続きを読もう。口外してはいけないらしい、あの本を。
そのとき、大きな地響きが一つ。私の体が少し浮かぶくらいの衝撃だった。
よろめき、そのまますっころぶ。
後ろを振り返ると、何やら赤い何かが、壁の上にあった。
最初は太陽か何かだと思った。
違った。
あれは、頭だ。蒸気を放ちながら、少しずつ、ゆっくりとだが確実にそれは顔を現していく。
そんなはずはない。あんなに大きなものなんて一つしかない。
それでも、あれほど大きな存在なんて、学校で教えてくれなかった。
それは、巨人だ。
50メートルの壁を頭一つ超える大きさの巨人が、私たちを見下ろしていた。
少しずつ、巨人の頭が前へと傾いていく。
時間がゆっくりと過ぎていくかのような感覚を覚えながら、ただあの巨人が何をするのか黙った見ていることしかできなかった。
次の瞬間、空を割らんばかりの轟音と強烈な勢いで吹き飛ばされるのと同時に、私の視界は真っ暗になった。
ーーー
……どのくらい時間が経ったのだろう。
目を覚ました私は、家屋の屋根に体を乗り上げていた。レンガのゴツゴツとした感触を背中に感じたためわかった。同時に全身に鈍痛が走る。顔をしかめながら上体を起こすと、町の全景を見渡すことができた。
町からは火が出ており、瓦礫があちこちに転がっていた。大きな瓦礫の下には血がのぞいている。
人が、死んでいる。
目の前の状況を認めたくなかった。何が起きているっていうんだ。呆然としていると、自分の体をすっぽり覆うくらいの影が差す。
見上げると、人間よりもはるかに大きな満面の笑みを浮かべ、人間よりもはるかに大きな開ききった瞳孔が、私を捉えていた。
巨人だ。
「ヒィ!」
私は声にならない声を絞り出し、身を翻して四つん這いでここから逃げ出そうとする。怖い。怖くて体が思うように動かない。誰か。とうさん。かあさん!助けて!誰か!
「うあああああああああ!!!」
叫び声とともに、肉を切り裂く音が聞こえた。
振り向くと薔薇の紋章を背負う駐屯兵が、先の巨人を切りつけていた。
「おい、大丈夫か!」
「お願いです。助けてください……」
「そのためにここにいる!」
巨人が怯んでいる隙に駐屯兵が私を地上に下ろす。彼は立体起動装置を付け、万全の態勢で巨人に再び向き直る。
「いいか!振り向かず走れ!時間は無いぞ!」
「とうさんとかあさんが──」
「今は自分のことだけを考えろ!親も逃げきってると信じてやれ!!」
私は返事をすることなく駆け出した。もはやここにとどまっていることはできない。駐屯兵の言う通りだ。
私は信じるしかなかった。両親が私よりも早く避難していることを。言葉にできなかったものの、頭では理解できていた。
散々教わった避難経路の道のりを実践するときだった。
一直線に北へ走る。生まれてから10年、散々走り回ったこの町を、矢のように走った。さっきの勇気ある駐屯兵の消え入るような命乞いを聞きながら、走った。
喉から血の味がする。呼吸も荒くなりよだれも滴っている口元をぬぐうと、唾液に血が混じっていた。それだけ死に物狂いで走ったんだ。とにかく、北の門までたどり着いた。
ここで立ち止まっては、巨人に食べられてしまう。
まだだ、まだ走らないと……。
私は門をくぐり抜け、先へと走る。
そこに、何度も見た二つの顔が見えた。
「!!……とうさん!かあさん!」
私は両親に向かって走る。
良かった!二人とも生きてたんだ!信じて良かった!
「無事だったんだな!良かった!」
「急ぎましょう!船が出る前に早く──」
轟音。
音のした方を向いた時には、巨大な瓦礫が一つ、こちらに飛んできていた。その刹那、私は突き飛ばされた。
背中と腹の痛みもよそに急いで起き上がる。すると、さっきまで私の両親のいた場所には、先ほどの瓦礫が突き立っていた。
「───え?」
何が起きた?さっきまで父さんと母さんと話してて、それで。それで。この瓦礫は──
「早く!急いで!」
避難民を誘導していた駐屯兵に背中を押され、私は何もわからないまま、両親がいた筈の場所の瓦礫を振り返りながら走った。瓦礫のさらに奥には、さっきの瓦礫を飛ばした犯人がいた。
全身が鎧のような外皮に包まれた巨人。
あれが門を破ったというのか。
あれが、父さんと母さんを?
いやだ。行かないでよ。父さん、母さん。
私を、おいて行かないで……。
─3─
滑車付きの船は私を乗せ、急ぎ出港した。多くの住民を置き去りにして。
船二隻では到底住民全てを運びきれず、子どもを優先的に乗せ、乗り切れなかった他は見捨てる外無かった。荷物も持てなかった。私は背嚢も、手記も置いていくしかなかった。
学校での学びも、あの場所でのあの日々も、人々との関わり合いのすべてを、置いて行くしかなかった。
住民は阿鼻叫喚になり、中には船に無理やり乗ろうとして、船に飛び掛かり、しくじって河川に落ちる人々もいた。
まさに地獄だった。
あの巨人は追ってはこなかった。霞のようにどこかへと姿を消した。
……もう私には、何も残っていない。
毎日両親に見せていた手記も。父さん、母さんも。温かかったあの家も。すべて今日一日で消えてしまった。
これから先、私はどうやって生きていけばいいんだろう。
瞬間、船の縁を一度、誰かが素手で叩いた音がした。
「駆逐してやる!」
声のする方へ見やると、私と同い年くらいの少年が、殺意と怒気を湛えた目で、空を睨み吼えていた。
「この世から、一匹残らず!」
そんなこと、できるわけがない。私たちは、何もできないまま死んでいくんだ。
奴らさえいなければ、父さんも母さんも死ぬことは無かったんだ。
……いや、違う。
あいつだ。あの鎧の様な巨人がやったんだ。そうだ。あいつが、あいつさえいなければ。あいつさえ殺せば───。
私の眼は血走る。同時に目の痛みで涙が一滴、掌に零れ落ちる。
あいつを。鎧の巨人を、殺す。私の手で。何としてでも。
この日を以て、私の復讐が始まった。
これは、私が鎧の巨人に復讐を果たすまでの記録である。