─1─
「アッいてて・・・」
全身が強く痛む。筋肉痛ではない。格闘訓練で事故を起こして、ド派手に転んでしまったのだ。全身打ち身に切り傷、擦り傷の見本市だった。先ほど医務室から出てきて、広場を目指すところだ。
「オイ、大丈夫か。」
エレンが心配そうに、前かがみに唸る私の背中をさする。
「格闘訓練くらいでしか怪我なんてしないのに、ここ一番の大怪我だよ。」
それ以外の訓練では死ぬか生きるかの瀬戸際を何度も味わうが、もう慣れた。むしろ格闘訓練でようやく怪我の大小にこだわれるようになる、とでも言おうか。如何とも説明できない、おおざっぱな感覚だ。
「それはさすがに大袈裟だよ。骨折までしたわけじゃないんだし。」
「アルミン、それはちょっと配慮がないと思う。」
「ミカサ!元は言えばお前がよそ見してたからコイツが大怪我したんだろうが!」
「うん。それは僕も思った。」
「わかってる。・・・本当にごめんなさい。」
エレン。ミカサ。アルミン。この三人は気づけばいつも一緒だ。同じシガンシナ区出身の私に、同郷のよしみかよく話しかけてくれる。だが、多くを話してくれるものの、やはり三人には謎は多い。たとえば、まったく毛色の異なる三人が、どうしてこんなにも仲が良いのか、とかだ。仲が良すぎて、およそ一年が経った今でも、この三人に入り込む隙は全く無い。
別に邪魔だとか、寂しいだとか、そんなことは全く思わない。今日も私を心配して、こうして三人ぞろぞろやって来たのだ。
「ミカサ、私は大丈夫だから。今日の訓練、いつにも増して過酷だったから、私もつい不覚を取ったんだ。だから、気にしないで。」
「あの時、エレンとジャンが言い争ってたから気になってしまって・・・」
「まぁ、いつものことだよね。」
「お詫びに何か、私にできることがあったら言ってほしい。」
「お詫び?お詫びって・・・」
正直困った。実のところ、ミカサはなんでもできる。兵士としての成績は、実技においてはライナー、ベルトルトも凌いでトップに座し、座学もアルミンに並ぶほどだ。
だが、あくまで兵士としての技能はなんでも、だ。
「珍しいというか、意外だね。ミカサがそんなこと言うなんて。」
気立ての良い人には見えない。クリスタのような親切さや気転の良さは感じられないのだ。冷酷無比な人ってわけじゃない。ただ、気持ちはありがたいけど、それで行動が伴うとは思えない。
「おいミカサ、困ってねぇか、ソイツ。」
「エレン。」
「ああ、ミカサには悪いんだけど、君には、あまり無理は強いたくない。」
「そんな・・・」
「兵士として君はすごい人だ。それはわかっている。でも、私はユミルじゃないから、人を罪悪感でこき使うとかはできない。」
「ねぇ、そのユミルのお使いはまだ続いてるの?」
アルミンが訊いてきた。
「ああ。一年経った今でも、一度の寝坊の庇い立てた彼女の恩を返し続けているよ。」
「それ、さすがに長すぎるんじゃ・・・。今更寝坊のことをチクられても、君に処罰が下ることも考えにくいし、もうやめにしてもいいんじゃない?」
「そうは言ってもなぁ。なんだか慣れてきたっていうか。いいや、それ以上に、兵士としての能力が上がってる気がするんだ。」
「え?それはどういう・・・」
「人一倍多く仕事をこなすうちに、同じ時間でも他の訓練兵よりも能率が上がってきているんだ。ユミルのためにテストの対策をしていくうちに、学力も上がってきているし。」
「現状を逆用してるってこと?」
「ああ。うまくいきすぎている気もするけど。」
「お前すごいな。」
エレンに感心されてしまった。こんな成長の仕方は不健全な気がする。ミカサは感心するエレンをやや心配そうな目で見ている。
「まぁとにかく、今は何も思いつかないし、ミカサの頼みはまたいつかにするよ。」
「うん。わかった。」
「宙づりなのもなかなか精神的にキツいと思うよ。」
アルミンはポンっと手を打ち、私に提案する。
「そうだよ。この際、ミカサの失敗を、アレに書いてもいいんじゃないかな?」
「あれ?あれって何?アルミン?」
ここ一年で分かったことだが、アルミンはその聡明さを、善意にも悪意にも使いこなす。今私に囁いている甘言は、私だけが持つ記録媒体に言質を残せと、下衆な提案をしているのだ。
「そうだな。言った言わないになっても嫌だし、記録しておくか。」
「そういやお前、いつも時間があればなにやら書いてるよな。それのことなのか?あれは何なんだ?」
「ああ。確かここに・・・あれ?」
懐をガサゴソとまさぐるが、私の手記は出てこない。いいや、手ごたえすらない。ジャケットの左側。その内ポケットにあるはずの手記は、無かった。
「無い。」
「え?」
「手記が無い!」
右ポケットにはいつものスキットルはある。だが、なぜだ。いつも肌身離さず持っていたはずだ。いつ、どこで失くしたんだ?
「おい、顔真っ青だぞ。大丈夫か?」
「いつも書いてるアレ、私が個人的に付けてる手記が無いんだ。」
「なんだって!」
私よりもアルミンのほうが心配そうだ。むしろ怪我のときより反応が大きい。
「あー・・・。また新しく買うんじゃだめなのか?」
「エレンンン!!」
アルミンがエレンに掴みかかる。
「アルミン!どうしたんだ急に───」
「ああいった物は、ひとたび誰かに見つかって読まれたら、取り返しがつかないくらい屈辱的なものなんだ!そんな無神経なことはできないよ!わかるか!」
「お、おう・・・そこまで書き物に熱心だったっけ?アルミン・・・」
エレンはアルミンの剣幕に気圧されている。アルミンは私の方を素早く振り向いて、キッと見据える。
確かに大事なものだし、人には見られたくはないのもまた事実だけど、アルミンが言うほどの屈辱を感じることはない。彼はやや気負い過ぎだと思う。
あるいは、もしやアルミンも何かを書いていて、あまつさえそれを読まれた経験があるというのだろうか。それくらい激しい動揺だ。
「とりあえず、この訓練地を片っ端から探してみようぜ。」
「そんな時間は・・・あった。」
「そうだ。今日は立体機動の訓練が夜間にずれ込んだんだ。だから午後は休みになっている。」
「じゃあ、さっきお前が出てきた医務室から探そうぜ!」
「ああ。そうしよう。」
─2─
「それなら、直前に手記を持っていた記憶を思い出してみよう。それならより効率よく見つかると思う。」
皆で私が手当てしてもらった部屋を漁る。だが手記は今のところ見つかっていない。
「最後に手記に目を通したのはいつ?」
「ああ。それは・・・。・・・あれ?いつだったっけ?」
「え?」
「そういえば、久しく手記を開いていない・・・のか?おかしい。覚えていない。」
「おかしくないか?大事な物なんだろ?じゃあ、なんで最後に見たときのことを覚えていないんだよ?」
「わからない。今になって手記のことを思い出すなんて。大抵、何か書き留めようとする事柄は起こるし、そんなに思い出さないことがあるんだろうか?」
「昨日とおとといは休日だったし、特に何もしないこともできたんじゃないかな?休日は何をしていたか、思い出せる?」
「ええっと・・・。」
まただ。休日に何をしていたのか思い出せない。何かあったのは間違いないんだけど。
「休日の前の日には、確か体験訓練が終わって、訓練地に帰って来てたんだよね?」
「うん。それなら、その間に失くした、ということになるのかな?」
「なるのかって・・・お前、本当に大丈夫なのか?」
「そうだよ。体験訓練から帰ってきてから、まだ三日しか経ってないけど、何かあったの?本当に大丈夫なの?」
三人とも心配そうだ。ここまで失くした時刻や場所の覚えが曖昧だと、私自身も自分のことが心配になる。
「そうだぞ。君と同行してたマルコも心配していたし、何かあったんじゃないの?」
「アルミン・・・。正直、自分でも自分が心配になってきた。」
「・・・あらかた探したけど、ここにはないみたい。場所を変えたほうが良い。」
ミカサが促す。私たちは医務室を後にした。
どこを探しても、手記は見つからなかった。宿舎の私の部屋、食堂、講堂にと、知る限りの場所は訪れたが、結局ありかのとっかかりも掴めなかった。他の仲間にも訊いてみたが、一人として手掛かりは持っていなかった。第一に、私が手記を書いていることを知っている者が少なかった。直近に訓練に同行していたマルコでさえも、
「てっきり報告書の下書きを書いているとばかり思っていたよ。ところで、もう体調は大丈夫なの?」
と、相変わらず親切な調子であった。
途中から三人と別れ、探していたものの、手掛かりもないまま、時間だけが過ぎていった。
─3─
時は夕暮れ、ひとり広場に戻ると、一人の金髪の駐屯兵が、食堂の近くに立っていた。短髪で、無精ひげをたくわた、中年の駐屯兵。街中で駐屯兵を見かけることはあっても、この広場にまでやってくる者はそういない。連絡のため遣わされたのだろうか。
念のため、声を掛けてみることにする。
「あの、なにか御用でしょうか?」
忘れず、敬礼。
「ん?ああ、名乗らねえとな。駐屯兵団隊長のハンネスだ。この手記の持ち主を探していてな。」
駐屯兵は、背の方から包みを取り出す。包みには、私の名前が書かれていた。
「これは・・・」
「おお、お前のだったのか。見つかって良かった。もう落とすなよ。」
「はい!しかし、なぜ、これがこんなところに・・・。」
「お前、体験訓練で王都に行ったろ。」
「ええ、そういえば行きました。」
体験訓練を終えて、それからそのまま数日の休日を挟み、そして今日を迎えた。ここまでは思い出していた。まさか、数日間も手記のことを忘れていたとは。
「憲兵団のナイル・ドーク師団長が気づいて、ウォール・ローゼまでコイツが郵送されてきたのさ。んで、俺が運んで来たってわけだ。」
いいや、もっと前なのだろう。王都を出発するときに、急いで荷物をまとめて出たことをようやく思い出した。休日に入るところで、何かをしていたことで、手記のことも忘れていたんだろう。
「ありがとうございます!もう本当に心当たりが無くて、途方に暮れていたんです。」
「そうかそうか。大事なものが見つかって本当に良かった。」
ハンネスさんは再び、
「あー、それでお前、104期訓練兵だよな?エレン・イェーガーってのは、ここにいるか?」
「はい。彼が何か?」
「手記のことも、配達員に任せても良かったんだが、行き先が南方訓練地だったからな。届けるついでに、あいつの顔を見たくなったのさ。」
「ええっと、彼との関係は?」
「俺はシガンシナ区で働いていたのさ。あいつとはよく喋った仲だったのさ。」
「そうだったんですね。ああ、丁度いい。呼んできましょうか?」
「ああ。あと、ミ───」
「ミカサと、アルミンのことですね。」
「ほう、あいつらとも知り合いなのか。」
「ええ。彼らは三人でいつも一緒ですから。多分、昔もそうだったのかって。」
「ああ。あいつら相変わらずなんだな。頼む。」
「はい!わかりました。」
昔の彼らの姿を知っているハンネスさんに、ふと、少しやきもちを感じながら、三人を呼びに、訓練所の方へ走る。
シガンシナ区にいた頃は、どの駐屯兵も同じに見えていた。ハンネスさんも含めて、酒臭くて、壁の手入れをして、門番や街の警備をして、それで終わりだった。兵士を志すことなど考えていなかった私にとっては、箸にも棒にもかからない、平凡な存在だった。
常に外の世界に行こうとしていたエレンにとって、駐屯兵は許せない存在だったのだろうか。壁から出ることもなく、巨人の脅威も知らぬまま過ごす兵団だと。この訓練地で過ごす中で、ひり立つ各兵団の姿を見て、そのような認識は、私は持たなくなっていった。今、彼はどう思うだろうか。今のハンネスさんの姿を見て、なんて声を掛けるんだろう。
昔話。ここ南方訓練地において、兵士としてやってくる者は、様々な目的、理由をもってここに来ている。巨人の脅威を知らない者ならば、世間的な体裁を守るため。巨人の脅威を知るものは、胸の内を話す者は多くはない。結果的に、目的を訊くことで、当人が"どちら"なのかを簡単に判別できてしまえる。
だが、私はあまり、昔のことは訊こうとも、話そうとも思わなかった。話すとしても、その結末を五年前にみんなが知っている。
ハンネスさんとエレン達、三人で仲良く話す様を、私は少し離れた尾根の下で、静かに眺めていた。・・・おや、この感じ、フードを目深にかぶり、独りで過ごしたがるあの人に、少し状況が似ているかもしれない。
「そういや、あいつも俺たちと同じ所出身なんだよ!オーイ、お前もこっちに来いよ!」
エレンが私の名前を呼ぶ。眺めていたため、すぐに目が合った。
「いいのか?四人の感動の再会に割り込んじゃって。」
大きめの声で茶化してみる。あの四人の中で話したほうが良いような気がする。
「俺たち、今決めたんだ!お前にも昔の話をするって。今ちょうどいい機会だし、お前も来いよ!」
「エレン・・・。」
ミカサは、珍しく戸惑っている。少し、面白い。ならば、お言葉に甘えて。
「じゃあ、私も混ざろう。」
「おう、来い来い。」
ハンネスさんも右腕でこちらへと振る動作を取る。
「それで、どこまで話したんだっけな?」
「ああ、ハンネスさんがいかに酒臭かったか、の話をさ。」
「今はもう飲んでねぇぞ。ちょびっとだけだ。言っとくがな。毎日大真面目に立体機動の訓練をして、それから食事にも気を配ってだな──」
「それ、兵士なら俺たちでも毎日やってるぞ。」
「・・・エレン、お前、訓練兵になってからますます俺に風当たりが強くなってないか?」
エレンには、やはりあの時のハンネスさんの、飲んだくれのイメージが染みついたままなのだろう。
「違う。・・・今ならわかるんだ。ハンネスさんも、この厳しい訓練に耐えて、そのうえで兵士になったんだろ?」
「まぁ、あの時はただの飲んだくれで、お前の母さんを助けられなかったがな。本当に、すまなかった。」
「母さんを助けられなかったことは、今言うことじゃない。そうじゃなくて、俺も、ハンネスさんのことを知ろうとしてなかったんだって、そう思うんだ。」
「エレン、お前・・・」
だが、彼の中でも、認識が変わりつつあった。
「まだ一年目だけど、兵士になる意義も、その重圧も、今なら少しわかる。ライナーっていう奴がいるんだけど、ソイツもすげえ奴で、俺も、そいつに追いつこうとしてるんだ。ハンネスさんも、そういう時期があったんじゃないかって。」
「お前、変わったんだな。・・・いや、お前だけじゃねぇな。アルミンも、ミカサも、強くなったな。」
「はぁ?」
「いやいや、町医者の親父さんのような思慮深さを感じたぜ?親子なんだな。やっぱり。」
「エレンの父さんって、町の医者だったんだ。意外だ。」
「お前知らなかったんだな。医者は町にあまりいなかったし、知ってるものかと思ってたぜ。」
「確か、私の家族はシガンシナに引っ越してきたと思う。その時は流行り病は治まってたし、風邪引いて診療所を訪ねて出てきたイェーガー先生は、エレンに似ても似つかないし。」
「お前・・・」
「はっはっは!確かに、はやり病の家内を助けてもらった時のあの手さばきや的確な指示は、エレンにゃ真似できねぇだろう!」
「ハンネスさんまで!」
「でもなエレン。お前はイェーガー先生とは違うんだ。お前にゃお前なりのやりてえことがあるんだろ。」
「ああ。巨人を一匹残らずぶっ殺して、故郷を取り戻してやる。それが俺の夢だ!」
エレンは首に提げていた鍵を取り出す。私はその鍵を、この日はじめて見た。
「危なっかしいから私も付いて行く。」
「・・・あの二人、いつもあの調子だな。」
「ああ、ここに来ても、それは変わらないよ。」
「そうか。・・・ところでお前さんは、どうして兵士になりたいんだ?」
ハンネスさんは、私の方に向き直る。
「・・・私にとって、シガンシナ区でのあの日々は、とても大切なものだったんです。その気持ちは、この三人と変わらない、そう思っています。」
置き去りにした。孤児の姿を思い出す。
「そうか。」
エレン達は、私を静かに見つめる。私は続ける。
「もう、あの日々はもう戻らないかもしれない。でも、仇は討つつもりです。鎧の巨人をこの手で倒して、シガンシナ区を取り戻します。」
「お前・・・」
エレンが溢した。私は、思い出していた。体験訓練の終わりに、自分たちがしたことを。善行だったはずの強盗の逮捕、そのために子どもを犠牲にしてしまったことを。
「そうか。お前も・・・。」
入団初日の宣誓なんて、すべて覚えている人なんていない。私も同じだ。もしかすると、私と同じ志の人がいるのかもしれない。だが、この三人の前で言うのは初めてだった。
いつかの子どもだった時の自分から、変われているのだろうか。無力なあの時から、少しは変わったのだろうか。
─4─
「まぁ、お前さんも、エレンも立派な心掛けだが、俺のはそんな上等なもんじゃねぇさ。だがまぁ、」
ハンネスさんは、外の方へ一度見やる。そして、また続けた。
「三人とも変わらずに安心したぜ。・・・元気でな。」
「ああ。また会おうぜ。どこかで。」
「お前さんも、夢が叶うといいな。」
「はい!頑張ります!ありがとうございました!」
「ああ、ところでお前さん───」
ハンネスさんは少し屈み、私の肩を持つ。
「あの日誌の中身、少し見ちまったんだがよ、」
「見たんですか?」
「まぁ聞け。・・・お前、結構よく書けてると思うぜ。ああいうのはなかなか、誰にもできないもんだ。大事にしたほうがいい。」
少し肝を冷やしたが、よかった。どうやら読まれたのは前半 の部分らしい。
「そんな大げさな。報告書や論文、もろもろ書いてる人だっているでしょう。」
「いいや。訓練兵時代の日々を記録したものなんてそうそうないんだ。忙しいからとか、文才がないからとか、何かと言い訳してやめちまう。かくいう俺も、書こうとして三日で投げ出したクチでな。」
ハンネスさんが日誌を書こうとしていた?なんのために?
「なんでなんですか?なんでこんな話を?」
「・・・忘れたくないからさ。昔のことを。何年も過ごすうちに、昔の大切だったものも、そうでないものも、やがて思い出せなくなっていくもんだ。」
「そういうものなんですか?」
「ああ。お前さんが答えあぐねていた、昔の日々ってやつ、俺もそうなんだ。あの日々も、イェーガー先生が家内を助けてくれたあの日も、もうすでに朧気なんだ。明瞭に覚えている日は、数えるほどしかない。」
「そんな・・・。」
「『カルラが喰われたあのときも、その数えるほどの覚えている日々にしてしまうんじゃねぇか?』って俺は恐れてんだ。…そこで、頼みがあるんだが、そいつを書き続けてくれないか?」
「これをですか?」
「ああ。見せてくれなくてもいい。ていうか、勝手に見て悪かったな。だが、忘れないためにも、記録を続けてほしい。老いぼれからのお願いだ。」
「老いぼれだなんてそんな・・・。でも、書き続けますよ。言われなくたって。」
これは大切な、私の日誌だ。もう、決して手放さない。
「そうか。ありがとな。」
「はい。」
「それじゃあ、もう忘れんなよ。今度こそ、またな。」
「ええ。また。」
大きく手を振って帰って行くハンネスさんは、影を大きく伸ばしていた。
「・・・思い出したよ。」
「え?何を?」
エレンが訊く。
「日誌を失くした、少し前のことだ。あのとき、マルコと一緒に、体験訓練から帰った時のことだよ。」
「おお、何を思い出したんだ?」
「小さな子どもが一人いたんだ。とてもみすぼらしくて、明日のご飯にもありつけそうもないような、危うい子ども。その子の親を、私とマルコは、内地で捕まえたんだ。」
「なんだって!?」
「その子どもは、今も両親の帰りを待っているのかもしれない。貴族の物品をひったくった両親のことを。・・・もう私たちが捕まえて、とっくに刑務所行きだろう。その子はそんなこと、何も知らない。」
「お前・・・」
顔を上げられない。今、三人がどんな顔をしているのか、見たくない。
「・・・突然理不尽が表れて、何もかもを奪っていく。子どもは何もできないまま、ただ飢えるだけ。そんな状況を、私が招いた。・・・そんなの、あの日、私たちの静かな日々を奪った巨人どもと、何が違うっていうんだ。避難区画で過ごしたひもじい日々を、小さな子どもに遭わせていいのか。」
話していくうちに、少しずつ、不意に味わった罪悪の仔細をわかりかけてきた。兵士としての本分を果たした結果が、権利に基づいた理不尽となったのだ。
「あのときから、私は、何も変われていないのだろうか?」
三人を見ないように、夕暮れの空を見上げる。あの日と変わらず、日は落ちては昇り続けている。兵士を目指しているのに、私は何も変われていないのか。
「変わったよ。」
間髪入れずそう言ったのは、アルミンだった。
「君は確かに変わった。あの時、初めて会ったあの時から、確実にね。」
「アルミン・・・。」
「そりゃあ、兵士だからってなんでもできるわけじゃないよ。僕は戦えないし、ミカサは口下手だし、エレンはやる気だけで僕たち二人に敵わないし・・・」
「アルミン、言い過ぎ。」
「でも、あの時からは変わった筈だよ。誰かを助けたり、戦ったり。そんなこと、三年前には絶対できなかった。」
アルミンは目を大きく見開いて、私を見つめる。夕日が差し込んで目が痛いだろうに、私を励ますために、私を見すえてくれている。
・・・何が「慣れる」だ。結局、立体機動の事故の恐ろしさも忘れていないし、教官の恫喝も怖いし、現に今日の格闘訓練の事故での痛みもひしひしと感じている。
あの子どもを見た時にも、きっと思い出したんだ。その日の恐ろしさを。
誰かが叫んだ、「駆逐してやる!」という言葉に喚起されて、踏ん張っただけだ。
私は、自分の両頬を両手で思いっきりはたく。破裂したような大きな音と、ジワジワと温まる頬を感じながら、答えた。
「ありがとう。もう大丈夫だ。」
「本当に?ほっぺ、すごく痛そう。」
「じゃあミカサが手当てすればいいじゃないか。それでお詫びもチャラってことで。」
「そんなもので返すつもりはない。」
「ははっ。じゃ、夜の訓練までに、腹ごしらえでもするか。」
「いつもの調子に戻ったみてぇだな。」
もとの少しお調子者の自分が戻ってきた気がする。四人で並んで、食堂へ向かう。
「でも、今から食べても大丈夫かな?揺さぶられて大変なことになりそうだけど。」
「じゃあ軽めにするか。半分くらい食べて、んで、訓練が終わったらまた食べようぜ。」
「その頃まで食堂、開いてるといいけど。」
急がないこの歩調で、また今度、四人で話がしたいな。