─1─
848年、南方訓練地に、二度目の冬が来た。12月某日の夜、私たち訓練兵はある一つの山の中を歩いている。重装備に身を包み、吹雪く森の中、隊列を崩さないよう、一歩一歩踏みしめて歩く。すっかり日は暮れていた。ランプの灯りを頼りに、照り返す雪の道と暗闇に挟まれて。
「くそ、大分体が冷えてきた。」
私はぼやく。厚めのインナーととっくり付きの長袖、その上に来た兵士の服に加え、耳当てに手袋。さらに、毛皮のフードを持ち、全身を包み込む大きなコート。それらを着込んでいても、覆えない顔の上半分に吹き付ける風と、衣服と靴に染み込み続ける雪が確実に体温を奪っていく。体は震えが止まらない。
だが、道は下り坂だ。雲の切れ間から微かに見える星座の位置取りからして、もう少しで山の麓まで降りられそうだ。
不平を漏らしたのは長らく行軍してたった今ようやくだから、なかなか辛抱強いと思う。私は。両腕を交差し、二の腕をごしごし擦る。
「何もこんな悪天候に決行しなくたっていいのによぉ。」
コニーが呟く。彼は坊主頭を冷気から守るため、柔らかい生地のタオルを何重にも頭に巻いている。顔はほぼ目元しか見えない。
「仕方ねぇだろ。この環境じゃなきゃ、そもそもこんな行軍を教官が敢行するはずねえ。」
ジャンはそう言ったあと、大きなくしゃみをする。
「今は文句を言っている場合じゃない。早くこの山を降りないと。」
ミカサはこういうときでも冷静だ。真夏日でも手放さず、見ているだけで暑そうだったが、今ばかりは、彼女が巻いているマフラーがうらやましい。
「ミカサの言う通りだ。チェックポイントから出発して今のところ進路に問題はない。このまま突き進むぞ。」
隊列の先頭はライナーが受け持っている。もっとも優秀な二人が切る先陣は頼もしいものの、個々人の感じる寒さで萎縮する士気なんて二人にはどうしようもない。ライナーは分厚い筋肉で寒さを吹き飛ばしてそうだし、ミカサはそもそもなんとも思っていなさそうだ。…いいや、ミカサは表情に出にくいだけで、ちゃんと寒さは感じ取っている。これまでの日々でわかっている。
─2─
そもそも、なぜこんな真冬の吹雪く夜に、私たちがこんなことをしているのか。誰かが言い出して自主的に山に乗り込んでいるわけでは当然、ない。
この行軍は、三年間のカリキュラムのうちに割り当てられた、立派な訓練の一つなのだ。
真冬の夜に、私たちは山を一つ越えた先にある、麓の宿を目指さなければならない。各自割り当てられた班で隊列を組み、吹雪と森を掻い潜って突破することになる。
一年目で兵士としての基礎を身に付け、二年目の前期には十分な地力を連携で活かす訓練を行い、後期には力量と連帯の更なる向上を狙う。大方、そうなっていると私は考えた。
この狭い視野も伝達の困難さも、訓練が始まって二年が経った兵士ならば乗り越えられる、いや、乗り越えられなければならない試練なのだろう。
たった一度突破するだけの行事のためか、踏破する山も直前までは知らされなかった。二年目の兵站行進のコースは月を経る毎に色めきが変わり、獣道や山道、岩が転がる悪路も走破することが求められるようになっていたが、恐らく、この雪中行軍に向けての準備だったのだろう。
山には主に三つの行路があったが、この悪天候の影響で事実上、候補は一つに絞られた。山頂に登り、下るルートは雪崩による後続への被害の考慮、東側から回り込むルートは上官が下見したところ、途中の崖が崩落しており、そもそも通ることすら出来なくなっていた。しかし、これは訓練兵たちの進捗を把握しやすくなったことになる。
行軍の開始の数刻前、アルミンとライナーが提案をした。
講堂で、教壇に立つ二人の話を聞く。
「みんな、提案があるんだ。生存率を上げるため、全員で同時に行軍するのはどうだろう?なるべく安全に、全員で突破することを目指したいんだ。」
それは、例年の編成から大きく外れたものだった。講堂ではどよめきが起こる。戸惑いが主因だろう。
競争。訓練兵として研鑽を積み重ねてきた私たちには絶えず掲げられてきた指標である。それと同時に、力を合わせなければならない時もあることを、私たちは学んでいる。
今回の雪中行軍は、個別の、班ごとの行軍の踏破する能力を問われており、力を合わせる規模も班の規模を出る必要はないはずなのだ。
その騒ぎの中、鋭く一筋の挙手があった。ジャンだ。
「質問いいか?」
「どうぞ。」
「なぜこんなことをする必要がある?ゴールすることが目的ならわざわざ手を組む必要がない筈だ。」
普段なら詰められると怯むアルミンだったが、ライナーが側にいるからか、あるいは自分の考えに自信があるのか、ニヒルな彼の質問にも迎え撃てる備えがあるようだ。
「例年では班ごとに編成され、バラバラに出発していたが、このやり方はほぼ必ず死傷者が出ている。通年の立体機動での事故死の数とほぼ同数のな。」
ライナーが答えた。
「そして、今回は上官たちの下見によって、ルートが一つに絞られることになった。だから、前年までのように班ごとに分かれる利点が無い。あと、ジャンのいうように、ゴールすること自体が目標になっている。」
「おう、前年までなら、班ごとにルートやペース配分を決めることで、差異が生まれる。早くゴールできる班や疲労が少ない班や、適切なルートを決められるかどうかとかの差異がな。これまでならそれらを個別に評価することができた。 俺が教官ならそうするぜ。」
ジャンとアルミンは、前年までの雪中行軍の仕様に言及していた。
「けれど、今年はルートが一つになった。だから、ジャンが指摘したような差異は生じにくくなった、と思う。なら、教官の評価基準が変わってもおかしくない。例えば、兵士たちの疲労度にのみ評価の重点を置いたり、とかね。」
「・・・・・・。」
「評価基準の変更、その可能性に賭けてみる、ってわけだ。それと、誰かさんのように、力を合わせることで状況が好転することがこれまでの訓練で多くあったことは、皆も肌感覚で分かっているはずだ。」
講堂のどよめきは、少しずつ静まっていった。各々、話し合いながらも、納得したようだ。
「・・・決まりだな。俺たちで二列編成の長蛇の隊列を組み、行軍する。」
このように、訓練兵らが教官の評価の意図を勘繰って作戦を立案するようになったのは、二年目の春に行われた体験訓練で、私とマルコがナイル・ドーク師団長からそれなりに評価されていたこと、それと、夜間の立体機動訓練で抜群のチームワークを発揮し、出遅れたにもかかわらず、優秀な成績を修めたことが起因していた。現に、訓練の内容は過酷になっていくものの、兵士たちは力を合わせて突破するように成長していた。
ジャンのほかに質問をする者はいなかった。兵士として高い評価を狙う者はジャンだけではない。しかし、今回の行軍の関係上、争う意味が無いことを、皆は理解したようだ。
ただ、班が到着する順番で評価を決める、という可能性を否定しきれていないことは引っ掛かるが、それでもなお、私もこの方法に賛成だ。皆で力を合わせて生き残ることは、巨人と戦うためにも必要なことの筈だ。いわんやこの行軍をや。
アルミンは黒板に予め書かれていた地図を指しながら、詳しい作戦を説明していく。
「二列の隊列を編成はするけど、人数確認を円滑にするため、教官から配られた班員の構成を利用して、固まって行動してほしい。チェックポイントを複数設けているから、到達するたびに安全確認の点呼を行う。一班ごとに、人数がそろっていれば、ランプを一つ、真っ直ぐ高く掲げてくれ。もし、人数が欠けていたり、何か異常があったときには、ランプを大きく左右に振って合図してくれ。随時確認できるように、班員の中で一人、後方を頻繁に確認する者を決めておいてもらう。・・・以上が作戦だ。質問はあるかな?」
「休憩はいつ行うんだ?」
「点呼が済んでからだ。チェックポイントはかなり多めに確保しているから、万が一置き去りが発生しても、探す範囲はかなり絞りこめるようにできている。」
私ではとても思いつかない作戦だった。班は基本として、優秀な者と平均的な実力者、そしてやや不振な者とで構成されていた。隊列のバランスの配分として、申し分なかった。
先頭を実力者で固めれば、後方のペース配分を度外視した無茶なペースになり易いだろう。
「先頭は誰が受け持つ?競争にしない以上、誰でもいいのか?」
「冷静で、的確な指示を出せる人が良いと思う。あと、体力も十分に兼ね備えた人・・・。」
視線が、自然とライナーの方へ向いた。ライナーは気付き、ドンッと心臓を右手で打つ。
「任せろ。兵士としての責任は、俺が背負う!」
その一言で、訓練兵たちは力強くうなずいた。彼の頼もしさは、同期の誰もがよく知っていた。
─3─
訓練の狙いの把握のため説明しておくが、現在、我々は立体機動装置を着けていない。訓練の目的が山林の突破であり、巨人の討伐ではないからだ。
原則として、吹雪の中での立体機動は自殺行為である。徹底した防寒の重装備が要される冬季に、極力軽装であることを求められる立体機動は相性が悪い。路面や家屋の積雪や凍結は、高速で動き回る立体機動の慣性を想定以上に増加させ、事故死の件数が大幅に増えるためだ。
三重の壁を守る駐屯兵団や憲兵団も、装置は着けるものの、極力徒歩や馬で移動を行っている。壁面も装置で駆け上がらず、辛抱強くリフトの昇降を待つのだ。兵士たちのその慎重な傾向に乗じて、ひったくりや強盗などの事件も冬季に増える。もし、また超大型巨人や鎧の巨人が襲ってくるなら、冬がもっとも恐ろしい。
なお、調査兵団による壁外調査も春、夏、秋に行われた前例はあるが、冬に行われた例は存在しない。原因は上記と同じだ。
「おい、何をぶつくさ呟いてんだ?」
ジャンが肩で私にぶつかってきた。
どうやらほとんどのことを言葉に出していたらしい。
「・・・意識を失わないように、これまでの作戦を空んじていたんだ。」
「おいおいしっかりしろよ。もう少しで麓に着きそうなんだ。アレ、また飲んどいたほうがいいんじゃねえか?」
「・・・そうするか。」
懐からスキットルを取り出す。そのしぐさでギョッとする者はもういなかった。
アルミンは頭を、ライナーは力を発揮して、この行軍を支えてきた。私も何かしたかった。頼もしい二人に何かしらの助力をしたかった。
私に出来ること…。雪中行軍が行われることを知っていた私は、何ヵ月も前から仕込んでいたものがある。
私が持ってきたものは、紅茶だ。
自室でよく乾燥させたジンジャー、香料、蜂蜜、灰色の包みに入っていた茶葉、そしてわずかに牛乳を入れた特製のものだ。
たっぷり入った飲み物を、スキットルに仕込んである。腹に巻いた湯たんぽにも、念のため飲み水を入れてあり、同様の成分をそれにも含めている。
「アニ達と出かけたあの時、すげえ買い込んでたもんな。お前。」
コニーが指摘する。
「こういった物は必要になった季節には高騰してるか、大概売り切れてたりするからね。旬を迎える前にあらかじめ狙いをつけておかないと。あと、さすがに一人じゃ人数分買うのは無理だったから、同期の何人かにも頼み込んで、各町の別の市場から買ってきてもらったんだ。」
自室に貯め込んでおいたからか、少し部屋の香りが変わったが、まあいいだろう。行軍出発前に開けた場所で大鍋を敷き、ぐつぐつ煮込んで掻き回していた様はさながら呪い師のようだとエレンから評されたが、まあいいだろう。
「おお。俺の母ちゃんも同じようなこと言ってたぜ。俺の家は兄弟が多いからな、こういった買い物事情には特別ピリピリしてた。」
「それより、一つの市場で買い占めたりしなかったのはなんでだ?」
「自分たち以外に入用の人もいるかもしれないからね。避難してた頃のようなひもじさは見知らぬ人でも味わってほしくない。」
「んじゃ、みんな、少し飲んでいくか?」
コートを開き、下から服を捲り、巻かれた布を外して腹から湯たんぽを取り出す。
「お前、湯たんぽにも入れてんのか!?」
「水筒にもね。後続に渡しておいた分もそろそろ尽きてるだろうし、これらも隊列全員分には足りないかもしれないけど。」
私は、更に背嚢から大きな羊の革製の袋を一つ取り出す。もちろん、中身はさっきのと同じだ。ミカサは幾度か瞬き、目を丸くしている。後方の各班にも、出発前に袋を一つずつ持たせ、チェックポイントに着く度に少量ずつ飲ませていた。かかった費用はは言うまでもないだろう。
だがこれで、全員の体調を高めに維持することができるはずだ。成分による保温、味による多幸感。過酷な山道を通り抜ける体力があるなら、この紅茶で気力を支える。私なりのやり方だ。
「いや、でかした。宿の明かりは見えるが距離がまだまだある。ここで一旦水分補給と暖を取っていこう。よし、人数の確認からだ。」
最初にライナーがランプの明かりを持ち上げる。後方へ一つずつ、明かりは真っ直ぐ上へと掲げられ、ライナーが確認し、先頭の明かりが上下に2回振られ、後続がランプを下げる。下がるのを確認した次の後続の班が、ランプを掲げて、先頭の確認を待つ。
声は上がらない。必要ないからだ。山頂から下へ下へと続く度に冷やされてきた風が、立ち止まって後方を見ている私たちにびゅうびゅうと追い風を吹き付ける。まるで、これ以上先に進むことを拒むように。
これまで通り、確認は順調に済んでいく。十数回確認作業が済んでから、一つ、変化が起きた。
左右に振るランプが見えた。あれは、異常を知らせる合図だ。
進捗を確認するため、各休憩地点に着くたびに執っていたこの作業ももうじき終わるだろう、そう思っていたところでの異常だった。
私たちは一度停止し、伝令が先頭の私たちまで来た。
「最後尾の班が見当たらない!どこかで俺たちを見失ったんだ!」
フロック・フォルスターは大慌てで連絡する。
「連絡の担当は?」
「ダズだ。」
「なに!」
「あの野郎!まさかブッ倒れてんじゃねえだろうな?」
「待て。まずは見失った理由を聞こう。なぜ確認できなかった?」
ライナーは諌める。フロックは続けた。
「俺たちの班の確認担当はミーナだ。だが、ここより一つ前のチェックポイントで、彼女は体調を崩してしまった。あともう一人サミュエルがいたが、そいつもだ。ベルトルトと俺で二人を介助しながら移動していたが、多分、そのタイミングだ。」
「介助に手一杯で、見失ったと?異常があった際にすぐには伝えられなかったのか?」
「駄目だった。ランプも移動と同時に掲げられなかった。前方への伝達も口話では届かなかった。すまない。」
「責めてるわけじゃねえ。他にも伝達の手段を講じてなかった俺たちに責任がある。」
ライナーの表情は硬かった。
度重なる体調不良による伝達の不全。これは想定していなかった。
だが、他に伝達する手段は信煙弾しかないだろう。もっと突発的で、かつ大きな音を伝達する手段があれば…。
とにかく、私たちは想定が甘かったのだ。雪の中、かつ髙地での訓練は行われたことはない。だからといってこの状況を誘致したのは、他ならない私たちなのだ。兵士失格だ。
「…とにかく、捜索しなきゃならねえ。別途班を組むぞ。」
遭難者が出たときの対策は、私たちに通達してある。
全員を引き帰らせて捜索するのは現実的ではない。探索に秀でた少人数の班を一つ編成し、彼らに捜索を任せるのだ。
「最後尾には他に誰がいる?」
「たしか、クリスタと…ユミルだな。」
ライナーは指摘する。彼は全ての班と、構成された班員を記憶していた。
「…この中で探索に秀でてる奴は?」
「お前なら出来るんじゃねえか?サシャと一緒に狩りに行ってたりしたんだろ?」
コニーは、私の方を向いて話す。
「ああ。私とサシャなら、多分、出来ると思う。」
森で生きることを誇りとしてきた彼女の民族なら、出来るだろう。
「よし、後続からサシャを呼んでこい!」
ライナーは指示を出す。
「俺かよ。」
フロックはややうんざりした顔をしている。
「サシャを呼んだら、そのまま隊列に戻ってミーナとトムを連れてこい。あいつらのペースに合わせる。」
「フロック。こいつを持っていって。」
「これは…。」
フロックが走り出す前に、慌てて呼び止める。
「それとこの湯たんぽも。もう飲料は切らしてるんだろ?こいつらを使って暖めてやれ。」
「ありがとう!助かった。」
フロックは頭を少し傾けながら、急いで後方へと走って行った。
─4─
「結局、私たちだけになってしまいましたね。」
「ああ。」
捜索の班は、私とサシャの二人だけになった。理由としては、隊列の疲弊だった。
あの後隊列の体調の確認を行ったが、班員の約半数が体調を崩していた。エレンやマルコなど、優秀な兵達も例外ではなかった。
これまで遭難者、脱落者を出さないように慎重に行軍を進めてきたが、冷気は私達を待たなかった。私を含め湯たんぽを巻いていた人々はまだ症状が軽いが、留まっていればややもせぬまま倒れてしまうだろう。隊列は約10分の小休止の後、すぐに麓を目指して行軍を再開した。
私たちは来た道を戻りながら、ダズ達の手掛かりが無いか探していた。ルートを外れることの無いよう、明かりで道脇を照らす程度に抑えていた。だが、
「ああは言いましたけど、私も完璧じゃありませんよ。」
その通りだ。私もサシャに習ってはいるが、それでも素人判断だ。
「『森を舐めたら死ぬ。』、そう言っていたよね。」
「ええ。私も狩猟民族の出ですが、冬には極力狩りには出掛けず、備蓄で凌いでいますから。」
「君たちでも、やはり冬は耐えられないものなのか?」
「…昔にはいましたよ。冬にも森の奥へ奥へと進める勇ましい狩人が。…でも、そういう人たちはもれなく短命でした。」
「原因はやはり…。」
「そう。熊です。」
想像と違った。
「え?寒さに耐えきれなくてそのまま…とかじゃなくて?」
「それもそうですが…。冬眠に失敗した熊ほど、凶暴で危険なものはありません。眠気と飢餓のストレスで猛り狂った熊は、巨人と同じくらい手強いかもしれませんよ。」
「まさか。」
いいや、仮に毛皮に覆われた3、4メートル級の巨人と考えれば脅威なのか?もし襲われたらひとたまりもないだろう。枝を切り落とす鉈は一応持っているが、何かを切り裂くために最も有効なあのブレードが無い。
「私の村も、冬の寒さと熊、この二種には立ち向かわないよう、先祖から徹底されて教えられました。本来こうして冬の夜中に出歩いてるのもおかしいのです。」
「それに、私たちは森に詳しい、とは言ったけど、それは慣れた土地だからだ。」
「そう。同じ森に繰り返し入って、入念に下調べして、それでも不確定な何かで失敗する。狩りがそういうものであるのなら、今のような、ろくに踏破もしていない山を歩いてるこの状況が、どれほど恐ろしいか、あなたにもわかると思います。」
「ああ。君に散々言い聞かされてきたことだからな。ふいに、君の地元の方言が出たときにはびっくりしたっけ。」
「今はその話をしている場合じゃないでしょ!」
サシャと向かい合い、少し息を整える。腕を下に伸ばしきって提げているランプで照らされる私たちの顔は、冷気ですっかり白くなり、皮膚の下の血液が透けて見えるような赤身が頬の辺りを走っている。
ここはとても静かだ。山を吹き抜ける風の音は依然止まないが、隊列が発する息づかいは確かに存在を示していた。だが今はたった二人だけ。それが、これほど心細く、儚く感じられるとは。
捜索を始めてからおよそ2時間。
宿に到達するまでの期限は夜明けまで。そして体もかなり冷えてきた。肺の奥まで凍りつきそうだ。そしてランプの油も残り少ない。引き返して麓につくまでもつかどうか。握り込む手も緩まってきている。…時間的に、すでに限界だった。
「・・・もう、三人を諦めなくちゃいけないのかな?」
「・・・私だって嫌ですよ。ユミルさんは嫌な奴ですけど、せめてクリスタさんはなんとか助けたいです。」
「だがこのままでは三人どころか、私たちも危ない。サシャ、もう一度だけ、大声で三人の名前を呼ぼう。それで駄目だったら、諦める。」
「そんな―――」
ドザッっと大きな音がした。私の背後だ。だが、その音は明らかに、無生物が出す音では無かった。雪の塊とかではない、確実に生き物が立てた音が、それも、人の大きさに当てはまらない重厚な音だった。呼気が聞こえる。ハアハアと立つ息は、私の頭上から聞こえ、生暖かく白い霞を私の首元から前へ前へと流れていき、私の視線はおのずとサシャの顔へと向いていく。ランプの灯は弱く、彼女の表情は見えなかった。
私は祈る。
(駄目だ、サシャ。ランプを掲げるな。奴を刺激するな。)
わかっている。こんな巨大な生物、人間以外には幾つかしかいない。
「ああああああーーーーー!!!」
サシャは一目散に駆け出した。ルートの逆方向、森の奥へと。私も彼女に一拍遅れて思いっきり走る。雪に足を捕られても構わない。背後にいた熊を振り切るために、訓練でも見せられなかったほどのストライドで、汗と汗と汗を流しながら、懸命に走った。
─5─
「いざとなると、人間って凄まじい力が出るんだね。はあっ・・・あの力があったらアニにも勝てるかも・・・はあっ・・・。」
てっきり喀血でもするかと思ったが、存外体は丈夫に出来あがっていた。サシャと二人、肩で思い切り息をしながら、一本の木の下に座り込んでいた。
「・・・今、どのあたりです?」
「ここは・・・さっき捜索していたポイントから一つ逆走したところだ。ザっと数キロ走ったわけだ。」
コースから幸いにも離れていなかった。だが、想定外の体力の消費。もう、山を下りるほかなかった。
「もう、駄目か。」
「ええ。・・・私も、怖くなって逃げてしまいました。熊への対処法としては間違ってました。」
「もう山を下りるしかない。また、元来た道を戻ろう。」
「・・・あれは、あれを見てください。」
サシャが指さす方を見る。あれは、光だ。随分と低い位置を規則的に漂う光。あれはランプの光だ。
「人だ。」
「もしかして・・・。クリスタさーん!ユミルさーん!ダズさーん!!」
光は一度止まり、こちらを向いて、ゆっくりと向かってくる。やがて、光を持つ人の姿が露わになった。
クリスタだった。だが、ダズとユミルの姿はなかった。
「クリスタ!良かった!無事だったんだな!」
「ええ!貴方もサシャも無事・・・えっと、二人も遭難していたの?」
「いいえ。貴方達を探すために、私たちが別動隊として選ばれたんです。」
「そう、だったのね。ごめんなさい!心配かけて。」
「謝ることじゃない。助けるのは兵士として当然のことだ。」
きっとライナーならこう言うだろう。勇気づけよう。サシャは水筒を持ってきていた。少しずつクリスタに飲ませながら、そして下山しながら、私は訊いた。
「・・・ユミルとダズはどうなった?はぐれたのか?」
「ユミルが言ったの。『先に行って!』って。」
「ユミルさんがですか?ありえませんよ!」
「ああ。この状況でユミル一人でなんとかできるとは思えない。どうしてだ?」
「わからないの!ダズが体調を崩して、私たちで運んでいたら、どんどん隊列から引き離されていったの。それで、ユミルは私を突き飛ばして、私が起き上がったときには、彼女はいなかった。」
「突然消えたってことですか?」
「そう。私にも何が何だかわからない。」
「・・・極限状態での幻覚とか?」
「消える幻覚ってあると思う?」
「わからない。」
クリスタはユミルとはぐれた後、何とか地図を使って本来のルートに戻り、道なりに歩いて私たちと合流したのだそうだ。本当に幸運だった。私たちだけでは、彼女を見つけ出すことはできなかっただろう。
彼女の言動には疑問が残るが、おそらくは心細さと身体の弱化によりおかしくなってしまったのだろう。私たちは急いで下山した。私は彼女を背負い、サシャは私の一歩先を進んで適切な足場を探した。進もうと思えば実にあっさりで、私たちは迷うこともなく、麓まで下りることができた。どうやら先に見送ったライナー達は、無事に宿に着いたようだった。目に映る宿の明かりが、これほどまでに神々しくものだとは思わなかった。
宿へ向ける視界の端に、何かを捉えた。フードを被った誰かが、膝を抱えて座り込んでいる。
服装は、兵士の到達を確認するための上官のものでは無かった。私たちと同じ、訓練兵の装いだった。
(まさか・・・)
「ユミルか?」
「・・・そうだ。」
ありえない。
それが最初の印象だった。あの山奥からどうやって脱出したのか。私は後方の山を振り返る。私たちが下りてきた道筋のすぐ横は崖になっており、垂直に下りるにしても無茶な高さだった。私たちを追い越していたことも考えられる。だが、あの山の道以外はとてつもない悪路だ。
「無事だったんだな。良かった。だがそれはそれとして・・・どうやって、ここまで下りて来たんだ?」
「クリスタは、いるか?」
「ああ。今起こす。サシャは宿の様子を見て来て。」
「わかりました!あと、何か温めるもの、取ってきます!」
「助かる。」
サシャは走っていく。
ユミルの表情から陰りが消えた。
「・・・ほとんど賭けだった。」
「なんのことだ、ユミル。」
「クリスタを置いて行ったことさ。救助班としてお前らが選ばれなきゃ、あいつは見つからなかっただろうさ。」
「いいや。私たちでも危うかった。明かりはもうすぐ尽きそうだったし、松脂を採取して、私のフードを破ってたいまつにしてなければ、下山できなかった。君は、君の大切なクリスタを置いてまでダズを助けたかったのか?」
「やらなきゃどうしようも無かったのさ。彼女を信じてやるしかなかった。アタシがなんとかするって言葉を、あいつが信じてやれるだろうって・・・。」
「ん・・・ユミル・・・?ユミルなの!」
クリスタは起きだして、急いで私の背中から降りる。ユミルの下へ急いで駆け寄り、ユミルに怪我が無いか慎重に診る。
「ねえ、あれからどのくらい時間が経ったの?ダズは無事?あなたも、サシャも平気?」
「落ち着けクリスタ。アタシはこの通り大丈夫だし、そこのあいつも丈夫だ。むしろ熱いくらいだから涼んでただけさ。」
「熱いって・・・それ風邪でしょ!早く宿に行こう!ホラ、あなたも手伝って!」
「もちろんだ。」
クリスタは起きだしたらすぐに慈愛を振りまき始めた。疲れていたんじゃなかったのか。
「アタシは大丈夫だってのに・・・ったく。」
ユミルをクリスタと二人で肩車して運ぶ。左右で身長差が大きく、よろめきながらの道中だった。サシャは私たちそっちのけで、宿でダズと一緒に温かい芋のスープを飲んでいた。ユミルが彼女の尻を蹴った。
今回の雪中行軍の死者数は、異例の0名だった。第一期から訓練が始まって以来の快挙であった。少しの謎を残しながらも、私たちは生き残ったのだった。
─6─
全員の無事を確認出来てほっとした。私は暖かい屋内でずぶ濡れのコートを掛け、濡れて冷え切った手足をバケツに満たされた湯で温めた。温めるにつれ、体内の熱が中心から末端まで広がっていくのを感じた。
私も床に就こうと風呂も着替えも終え、自室の扉をくぐり、閉めようとしたところで、少し扉の勢いが弱まる。誰かが止めたのだ。
視線をドアノブから上げると、ユミルがこちらを見ていた。少し驚いた。なにぶん廊下はとうに明かりが落ちており、見張りの者たち以外はとっくに寝ている時間だからだ。
「どうしたんだ?もう寝るところなんだけど。」
真っ先にクリスタの所へ行きそうな彼女だろうが、一体私に何の用だろう。まさか今日までも何かやることがあるというのか。せめて日が昇ってからにして欲しいのだけれど。まあ、大事を取って行軍の翌一日は休暇になってるから、朝が来ても眠り通すつもりだけど。だが彼女の機嫌を損ねないように、煩わしさは態度に出さずに。
「これは、ものの数に入ることになる・・・よな?」
予感に対して、彼女の声はしおれていた。
ユミルは私から視線を落とし、気まずそうに右の頬骨のあたりを左手で掻く。私は少し首をかしげ、すぐに思い出した。そうだ。こういうとき彼女は、恩の貸し借りにうるさいのだった。疲れた頭だからか、私の発想が鈍っている。
「そういうの、私はあまり気にしないタチなんだ。私が運よく通りがかって、クリスタはたまたま助かった。私が何もしなくても、クリスタは無事下山していた。それでいいじゃないか。」
早く彼女を返して、いつも通りの訓練の日々に戻そう、私はそう考えた。眠たかったから。
だが、彼女はそれで終わらせるつもりは無いようだった。
「よくねえ。」
彼女は頑なだった。いつもの彼女ならあっさり引き下がりそうなものだが。
「お前に返せねえくらいの借しを・・・アタシは・・・。」
言い終わらないうちに、彼女の声は震え始めていた。私が目を凝らせば、彼女の眼はなみなみと涙を湛えているではないか。しゃくりあげて肩が小刻みに震える彼女のその様は、普段の彼女からは想像もつかなかった。
「ちょっとちょっと!」
私は慌てた。急いでハンカチを取り出し、彼女の頬に当てる。わけがわからなかった。ここまで悲壮感をこぼす彼女は見たことがなかった。彼女は、泣くのをやめない。
「・・・ずっと不安だったのか?」
「さっきも言ったが、あれは賭けだったんだ。・・・あいつが、生き残れるかもわかんねぇのに・・・・・・アタシは、何やってんだろな?あいつが一番大事だってのに、あいつがあんなこと言い出すからだ・・・・・・。」
「落ち着いて。もう大夫だから。」
何も大丈夫じゃなさそうだった。ユミルは言葉を続けるが、濁音と引きつけの混じった涙声はとても辛く聞こえ、私の胸まで痛め付けられた。
とにかく彼女を落ち着かせるために、ベッドに座らせた。
水の入ったポットを、ランプを改造した簡易な火にかけた。
彼女に少し待つように言い、食料などが置いてある倉庫へ向かった。皆を起こさないように、走らず急いだ。
一人にしても大丈夫だったかと心配したが、戻ってくると、彼女は少しだけ落ち着いてるように見えた。泣き止むまで、彼女の背中をさすった。
「紅茶か?」
「いいや、もうみんな飲みきってしまったし、今飲んだら目が冴えてしまう。」
そこで、私が取り出したものとは
「…野戦糧食だな。」
「うん。野戦糧食だ。」
残念ながら、あくまで兵士の拠点である宿舎に豪奢な菓子などあるはずもなかった。手持ちの瓶の塩を少し振ってみるが、齧ってみるも、無味の板に塩味が少しと、素直に言えば不味い。
飲み物も材料を切らしてしまった、ただのお湯だ。
(だが、無いよりマシだろう。)
取り敢えずマグカップに注いだものを2つ用意し、1つをユミルに、もう1つを私に。隣り合って座る。
彼女は、やや掠れた声で語り始める。
「…アタシは、あいつを頼りに、ずっとここで戦ってきた。」
「うん。」
「あいつを守る、そのためだけに今日まで頑張ってきた。」
「わかってる。」
(そういえば、こんな時もあったっけ?)
私は、また昔を思い出していた。
シガンシナにいた頃、喧嘩に負けて泣きながら帰ってきた私を、母が甲斐甲斐しく世話をしながら、がらがら声の私の話を辛抱強く聞いていた、あの時を。
その時は、とても悔しくて、不安だったけど、心がとても安らいだっけ。私に味方がいてくれることに。
「なのに、分からない。なんでアタシはあいつを置いていってしまったんだ?ダズを助けるために。なあ、なんでなんだ?」
ユミルは私の顔を覗き込む。
彼女はふざけていなかった。普段の冷笑し、嘲笑するユミルの姿は無かった。
(私は、ユミルの味方だ。砕けた今の彼女の味方になろう。)
「さあ、私にも分からないよ。前にも言ったと思うけど、私には君のことが分からない。普段のユミルは、兵士になるためにやってきたとは思えない態度だし、何かあればいつもクリスタのことばっかりだ。」
今度はこちらが彼女の態度を真似てみる。決して彼女を追い詰めるためじゃない。思い出してみてほしいからだ。
「けれど、そんなユミルでも不意に君らしくないことをする時がある。」
「ああ?そんなこと、あったか?」
「あるよ。ある時、悲観的になっていた訓練兵に、『向いてないだろ。やめちまえ!』って言いはなったことがあるだろう?」
「ああ、あれか。ただ目障りだっただけさ。弱え癖に世のため人のためと喚くヤツなんて、どこぞのゴリラが兵士として向かないだのなんだの言い出すだろうからな。」
「ゴリ……?まあいいや。でも、その兵士はやめなかった。」
「ああ。なんだってそこまでこだわるんだろうな。」
「彼女には家族が居たからだ。病気の親のために兵士を選んだ。そんな彼女がユミルの言葉で止まるわけがない。」
「……。」
「ユミルは知っていたんだろう?だから彼女に気付けのために辛辣な言葉を掛けた。」
「さあどうだか。アタシは目障りだと言ったんだ。それ以上の上等な理由なんざねえよ。」
ユミルはほくそ笑んだ。また彼女は、いつもの態度を出して覆い隠そうとする。今は、もう少し彼女の心に踏み込んでみる必要がありそうだ。
「さて、私が分からないのはここからだ。なぜに優しいユミルが自分のためだと意地を張るのか。そして、クリスタを弱いからと守ろうとするのか、だ。」
「アイツも同じだ。弱いから見てられねえ。アタシが見てやんねぇと、どこかにフラッと消えちまいそうだ。」
ユミルは鼻をすすり、すこし湯を口に含む。
「それはどうかな。もしもクリスタが弱いならあの兵士みたいに見てられずにいちゃもんを付けて灸を据えるだろうし、強いと思うなら私をこき使ってまで診療所で手伝わせなんてしない。」
「大事な人だから、心配だから守りたい。そうなんだろ?」
「・・・・・・そうだ。ったく、お前といると調子が狂ってばかりだ。」
「好きなのも本当?」
「てめぇ殺すぞ。」
「・・・君は、頼ることが出来るようになったんだよ。利用する、されるじゃなく、今日、真っ当に誰かを信じることが出来たんだよ。たとえそれが賭けだったとしてもね。」
「なんだって?」
「自分のためじゃなく、誰かのために動いた自分のことが信じられなくて、怖くなって、ここに来たんだと思う。」
「ハッ。クリスタの優しさが移っちまったのかね。」
「だから、私も君を信じる。全部が分からなくてもいい。だけど、えーと…」
なぜか、私が言葉に詰まってしまった。耳の辺りが熱い。
「…まあ、その…君だけが頑張る必要はない、って言いたかった。んで、私の所に来たのは、泣いてる姿をクリスタには見せたくなかった。そうだろ?君の泣いてる姿なんて見たらクリスタまで泣き出しそうだし。」
ユミルはうなずく。コニーやサシャとか、他の同期に見られれば驚かれる。もしかすると、弱みを握られるかもしれない。普段から弱みに漬け込んでやっかみを繰り返す彼女は、そう考えたんだろう。だから、私の所に来た。たぶん。
(うぬぼれかもしれない。ナメられているのかもしれない。それでも、)
「でもね、私はそれが嬉しかった。君が誰かを信じることを選んだことを。皆が当たり前にやってることを、君もやってくれた。今日の君のことは、誰にも言わない。二人だけの秘密だ。約束する。」
「当たり前だ。だからここに来たんだ。」
「それから、貸し借りはもう無しだ。」
「なんだって?」
「今度からは、私が助けたいから助ける。だから、私が困ったときは、ユミルの力を貸してほしい。いいかな?」
長い沈黙のあと、彼女は呟いた。
「わかったよ。」
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夜が明けてしまっていた。朝日がその頭頂をうっすらと出している。二言三言しか交わしていない気がしたが、明け方近い時も瞬き一つで終わらせるほどに、この言葉の数々は早く、遅かった。
「このままサボっちまうか。」
「・・・ああ。私も疲れた。今日ばかりはサボるとするよ。」
彼女は調子が戻ったのか、私を部屋から追い出した。
私に割り当てられた部屋だった筈なのに。
私はロッジの暖炉の火が消えていないことを確認し、
少し薪をくべて、近くのソファーで眠った。
途中でコニーにソファーを揺すられたが、狸寝入りを敢行した。