「死守せよ!我々の命と引き換えにしてでも、エレンを扉まで守れ!!」
阿鼻叫喚ひしめく渦中に、風に乗って、声が聞こえた。
悲鳴だ。
助けを呼ぶ悲鳴。
ここから北西のあたり。
気のせいだと思った。煙弾も上がっていなかった。
誰も気づいていなかった。無数に入り交じる声と音が、人々の聴覚を鈍らせていた。それでも、私だけがその一音を聞き分けることができた。
聞き逃すにはあまりに悲痛な叫びだった。
声のする方へ、一直線に跳んだ。
(なんで、なんでこんなところで、あいつの声が聞こえたんだ!)
別の誰かだったら、私の体は向いただろうか。救えたのだろうか。今となっては、全てが遅かったのだろうか。
間に合うよう祈るよりも先に、その疑念が向かい風に乗せられて付き纏う。
防衛戦では注意していた。
近くにいる者だけで戦うことを優先するべきだと。
すべて助けられるほど、実力も、仲間の力も溢れてなどいないからと。
だが、その声だけは聞き逃すことはできなかった。
その悲鳴は、私のよく知る者の声だった。
上位に食い込む程の成績を持つ一人の兵士の声だった。
「マルコ!!」
彼の存在が視界に入るころには、マルコは巨人の手に捕まり、頭を巨人に噛み砕かれようとしていた。
(だめだだめだだめだ!)
拒絶と裏腹に、ゆっくりと歯茎が閉じられていく。突然私の体が、全てが鉄で象られたかのように重く感じる。彼に差し伸べる手さえも、これ程の重さを感じたことはない。その命が潰える瞬間、マルコは、助けを求めて叫ぶために歪められた口も半開きのまま、私を見ていた。
そのまなこが、死者が浮かべる薄暗いあの色へと変わる瞬間を、まるで永遠であるかのように瞼に縫い付けられた。
私の体は、着地を仕損じて屋根を転がる。体を起こせば、私とマルコの距離は、家屋一つ分しか離れていなかったと気付いた。
なぜ、彼がここにいたのか分からなかった。
アルミンと私が、エレンの様子を窺うために飛び出したからなのか?
何が彼をここまで駆り立てたんだ?
・・・いや、分かるだろう。心優しい訓練兵だった彼なら、仲間の不在を心配をするのは当然だ。
きっと、いつまでも戻らない私達を探すために、飛び出したんだ。
なら、彼の心配を引き起こさせたのは誰か。他ならぬ私達ではないか。
私のせいで、彼は死んだのか。
私のせいで…。
「てめぇ、よくもマルコを!!!」
巨人の血液がうなじから噴きあがる。その者を倒したのは、ライナーだった。
「ああっ───がふっ!!」
マルコの亡骸を拾いに行こうとする暇を与えず、背中を家屋の屋根、出っ張った壁面に叩きつけられる。力は背中の一点に加わっていた。面積の狭さからして、背中越しに人間の仕業と分かる。
正面から喉を押さえられ、加減次第で、喉に指で穴を開けられる姿勢に技を極められた。
寸分の狂いの無い、いつもの動作。だが、訓練の時と違う。容赦などなく完璧に極まっていた。だが両手は空いてる。振りほどくことはいつでもできる。それでも、なぜだろう。私は迷っていた。
彼女のその目つきのせいで、戸惑っていた。
「アニ?それにベルトルトも?どうしてここに・・・。」
「あんたは・・・どこまで聞いたんだ・・・?」
「聞いたって何を?それにどうしてそんな目をするんだよ?」
「訊いてるのはこっち。答えるのはあんただ。」
「分からないよ。マルコの悲鳴を聞いて、全速力でここまで来ただけだ。」
なんで、そんな目で私を見るんだ。まるで、解散式の前夜に感じた、あの冷たい目線のような。喉が痛い。別に、喉を絞められているからじゃない。
わからない。
あの時でも、今でも、そんな目をする必要なんかどこにも無いのに。彼女は今歯を食いしばり、必死に私を押さえつけている。そんな必要はどこにもないのに。
こっちは何もしないというのに。なぜ突き放そうとするのか。
アニの顔を、じっと見る。風と、埃と煤で少し薄暗くなった彼女の顔に、彼女の本来の肌が浮かび上がる、二つの軌跡が見えた。
「アニ、もしかして・・・」
「・・・なに?」
「泣いていたのか?」
「ッ!」
絞め付けが強くなる。呼吸は辛うじてできる。しかし言葉を尽くそうにも息が足りない。
ベルトルトはアニのすぐ後ろに立っていたが、呼びかけも、干渉もしない。泡を喰って目は泳ぐが、何もしない。
「がっ・・・あっ・・・。」
「アニ、何やってんだ?!」
「こいつが何をしていたか訊こうとしただけ。」
「よせ。それでも兵士かよ。」
「あんた────。」
「ライナーの言う通りだ。」
「ベルトルト!?」
アニは驚いた。ベルトルトはさっきの慌てぶりと違い、なにか確信したような目つきに変わっていた。
「多分、大丈夫だ。だから離すんだ。」
アニは目線を、ゆっくりと後方から私へと戻し、手を離した。私は咳き込まない。首に刻まれた二ヶ所の真っ赤な痕をさする。
「怪我は無いな?」
「ああ。・・・でも、マルコが・・・。」
巨人の遺骸は既に骨だけに変わりつつある。それなのに、マルコの肉体は、重力に従うままに、脱力した体重を地面に横たえたままだ。
その対比が、あまりに現実的で、直視できないはずなのに、体を離そうとも目だけはそれに吸い寄せられ続ける。縫い目はほどけてくれない。
「私が・・・あんなことをしなければ、マルコは・・・こんな・・・ああ・・・こんな・・・・・・」
「違う。俺のせいだ。俺が間に合わなかったから、マルコは死んだんだ。」
「ライナー?」
私は、うつむいた顔を上げる。
ライナーは、両目に大粒の涙を湛えていた。声はいつも以上に掠れ、か細く、軋むように喉を震わせる。彼は五体投地して私に懺悔する。
「すまねぇ!お前に兵士の有り方など説いておきながら、俺はこいつを助けられなかった!すまねぇ…。俺のせいだ!!お前のじゃない!!あれだけ訓練したのに俺は誰一人守れねぇ!!」
ライナーは頭を屋根に叩きつけ、こみ上げる嗚咽で溺れていた。
ベルトルトも、アニも、彼の謝罪の迫力に気圧されたのか、呆気にとられるばかりだった。
「・・・・・・。」
私も例外ではなかった。誰も次の言葉が出てこなかった。
彼のこんな姿を見るのは初めてだったからだ。
このような、哀しみと無力を嘆く姿は、全く想像できなかった。
訓練兵時代で、泣き言を漏らす者はいた。それも一人や二人じゃない。
内地から来た者なら故郷に帰りたいと叫ぶ者、逃げ出そうとして教官に重罰を課せられる者もいた。嘆いていたら励まされ、その翌日に死んだ者も。
そんな中、ライナーは涙を見せたことは無かった。
むしろ、訓練の日々で弱音を吐く誰かの尻を叩くのは彼の役目のようなものだった。
私も、そんなしたたかな彼を見習おうと、訓練がどれほど苦しくても、痛くても、恐ろしくても、歯を食いしばって耐えてきた。
私の心は、今ここでバラバラになりそうだった。彼はその心を繋ぎ止めたのだ。自分の自責を盾にして。
さっき折れかけた私の心を救ってくれたのは、ライナーだ。
(彼も、完璧じゃないんだ。)
誰かを喪うことで傷み、苦しむことができる人だったんだ。兵士だからと一切を閉め出す人では無かったんだと。
こんな時でも、私を庇うのか。自責に駆られる私を止めようとしているのか。
「・・・いいや、どこまでも兵士だよ、ライナーは。」
「・・・へ?」
それなら、私が支える番だ。
担ぎ上げて、背中を押す番だ。
「顔を上げてくれ。まだ、戦いは終わってない。」
「お前…。」
「君は強い。だから、私達は付いてきたんだ。今でもその意思は変わらない。君は私達の兄貴分なんだ。だから、どうか立ってくれ。」
「……。」
ライナーは長く押し黙っていたが、涙を袖でぬぐい、立ち上がった。
「行かないと。マルコを放ってはおけない。でも・・・すぐあっちに戻らないと。」
「あっちって、まさかエレンの所にか?」
「きっと、ミカサやアルミンが助けを求めてる。早く行かないと。」
「ああ。俺達はほかに生存者がいないか探す。そいつらを集めて、すぐ援護に──」
「いいや。来なくていい。こっちには精鋭班が付いてる。それに・・・。」
「そうか。なら、言わなくていいよ。分かった。」
ベルトルトは私の意図を汲んでか、ライナー、アニにすぐ立ち去るように手振りする。
「絶対生き残るんだ。」
ライナーはそう言い残して、北へと向かう。
アニは目を閉じ、短く息を吐く。そして私をちらりと一瞥し、ライナーと同じ方角へ向かった。
(ごめん。マルコ。)
彼に背を向け、私は来た道を全速力で戻る。
多分、私はもう落ち着いた。視界はくっきりと見え、顔に風が打ち付けるのを痛いほどに感じる。
エレン達の様子を伺える高さの建物にたどり着き、すぐに現状の把握に取り掛かる。
エレンの歩みは遅かった。
人間の尺度で換算しても、運べる比率では無いからやむ無し。だが、彼が進む間にも、次々巨人は襲ってくる。エレンに向かって、一直線に。
兵士達は、地上を走っていた。
(なぜ?ガスが切れたのか?)
そう仮定するよりも早く、彼らの身の毛もよだつ作戦を感じ取った。
囮だ。
立体機動で惑わすよりも、エレンよりもさらに襲わせやすく見せるために、自分たちを犠牲にするつもりだ。
羽をむしられた鶏のように、彼らの足は素早く地を掛ける。だが、引き離せる距離はそう開かず、瞬く間に巨人どもの手の中へ吸い込まれてゆく。
イアン班長は、喰われそうになった兵士を巨人の口から放り出し、自分の身を挺していた。
私はもうこれ以上、ここで誰かを死なせることはしたくなかった。
「うああああああ!!!」
私は吠え、イアン班長を喰おうとする巨人の顎にブレードを差し込む。死ぬ物狂いで奴の耳の高さへと引き上げ、切り裂く。イアン班長の足は守られた。
だが、もう片方の顎は閉じられた。その向こう側には、イアン班長の首があった筈だった。
班長は、死んだ。
間に合わなかった。しかし、私は立ち止まれなかった。そのまま奴の顔から跳びのき、左側から急旋回し、うなじを切る。
(次だ。まだ、次の敵を狙うんだ。)
エレンの足は、着実に扉に近づいている。苛立つほど遅いが、それでも、岩で塞ぐ距離まであと十歩も必要ないだろう。
(助けるだとか、助けられないだとか、その気持ちは捨てられない。でも、それでも戦わない理由にはならない。)
助けられたかどうかも分からないが、自分に標的が向いていない巨人のうなじを一直線に切り飛ばしていく。次へ。また次へ。それが、今すべきことだと信じて。エレンの元へ行かせないよう、うなじがダメなら、奴らの目を、手を、足を切り刻む。どこでもいい。少しでも誰かがそれを切っ掛けに抜け出し、さらなる反撃の手だてを練り出してくれと嘆願する。もはや、状況を正しく見定めようとする気力も、涙を浮かべる猶予も、この瞬間にはなかった。
(戦え!戦うんだ!)
手が痛い。丸一日戦い続けたからか、指のたこから血が出ているのが、掌を流れる生温かい感触で分かる。それでも、刃を振るうのをやめない。望みと裏腹に、次々と兵士が喰われてゆく。視界の端で、ミタビ班長が喰われるのが見えた。
「いっけええええええエレン!!」
アルミンの絶叫に答えるように、エレンは雄叫びを上げながら、大岩を叩きつけた。
壁は震え、土煙が巻き起こる。穴から伸びていた日光は消え去り、我々を影で覆う。
壁には一点の隙間もなかった。穴は塞がれた。
人類は初めて、巨人に勝利したのだ。
銃声が一つ。だがそれは、人を殺すためのものではない。
作戦の成功を知らせる、信煙弾の打ち上がる音だ。
音のした方を振り向けば、リコ班長が上げたのだと確認できた。心の底から安心した。
これほどに脱力したのは初めてだ。疲弊からではない。勝てたという喜びからだ。
この血だらけの手も、ブレードをもたげてカタカタと震えている。
口角が持ち上がるのを感じながら、エレンの方を向き直れば、巨人がまだ二体、エレン達の方へ向かっていた。
アルミンはエレンをうなじから引き剥がし、地上の高さにまで落っこちて、無防備な背中を晒している。エレンのために両手は塞がり、格好の餌食だ。さっきの勝利の喜びは消え失せ、サッと血の気が引く。
(まずい。)
再び全速力で跳び、アルミンの前に立ちはだかる。二対一なんてやったことはないが、こんなところで喰われてお仕舞いだなんて認められない。ブレードを奴らの頭に突き付け、キッと睨み付ける。
奴らがおもむろに開いた口を切り裂こうとしたその時、何かが走った。
閃光が一つ。いいや、二つか。当時の私には一つにしか見えていなかった。
私には、何が起きたのか理解できなかった。暗闇の中から突然ランタンの光を、闇に慣れた目に突き付けられたかのようなまばゆさだった。とにかく、巨人二体は倒れた。どうやら死んだらしい。
「ミカサ!?」
今のを誰かがやったのだとしたら、ミカサ以外には思い浮かばない。だが、ミカサは私の背後に降りていた。
ミカサではないなら、一体誰が───。
一人の兵士が、巨人の死体の上に舞い降りる。その兵士は我々を背に立ち、振り向いた。そして、口を開いた。
「おい、ガキ共。これはどういう状況だ?」
彼の背には、象徴的な刺繍がされていた。
緑色のマント。その左に黒、右に白い翼。
「あれは、自由の、翼……。」
眠っていたはずのエレンが真っ先に溢した。
それは調査兵団の紋章を著す、自由の翼だった。