エルヴィン団長に連れられて、『彼』はザックレー総統の元を訪ねる。
木っ端の兵士である『彼』に待ち受けるものとは……。
─1─
入団から3日目。
普段手記に走り書きしていた程度の小さなものを、この大きなカンバスに描いてみせるというのは、素人にはどだい無理な要求だった。コンパクトに収まっていた陰影や濃淡も、万年筆で不規則に塗り潰すだけで誤魔化しが効いていたのに、この広大な白の大地には全く通用しない。
結局、描きたいと思ったものも満足に描けず、もっと描き込められるはずなのに、時間も随分余ってしまった。ダリス・ザックレーはカンバスのすみに『彼』の描いた小さな兵士を発見し、じっくりと観察する。
「ふむ。確かに、これは高い完成度とは言えないな」
「お目汚し申し訳ありません」
「いいや、一介の兵士に一級品の美的センスを期待するなど的外れだ。あまりに高望みであるし、もし上手ならばソッチの道でやっていくだろうからな」
「これは、何かの試験・・・とかなのでしょうか?」
(試験の場において試験と訊くのは明らかな悪手。だがこのまま意図もわからず宙づりだと、緊張でおかしくなる。)
「そうだとして、素直にああ、そうだとは言わんだろう。フフフ」
助け船を乞い、エルヴィン団長を見やる。彼は静かに二つの碧玉をこちら向けているだけだ。
「いやあ、すまない。若者と語らうとつい自分が年寄りだということを忘れてしまう。別に試験とか、そんな意図は無いな。単に、『一生懸命手記に何やら書き留めている勉強熱心な新兵がいる』と聞いたから呼んだだけだ。」
『彼』が現在いるのは、カラネス区にあるダリス・ザックレーのアトリエである。アトリエとは言っても、それ専用の意匠が分かりやすく外装に彩られた建物では無い、ごく普通の木造建築の家だ。「エレンの審議を行うに辺り、幾つか作品や材料を運び込んで置いたのだ」と総統は言っていた。
普段彼が勤務するウォール・シーナ内の兵団本部から、大きく離れた場所にアトリエを構えるのは珍しくないそうで、時には壁から離れた深緑の目立つ森の中に、また時には切り立つ岩壁の下に、ひいては澄んだ湖畔のそばに総統は居を構えて、創作に勤しむのだそう。カラネス区にあるこのいっけん普通の一軒家も、晴れてその拠点の一つとなったのだと、総統はのたまう。
総統はハンカチを口許に当てて一つ咳をし、エルヴィンに尋ねる。
「次の壁外調査はいつだったかな、エルヴィン?」
「はっ。2か月後です」
「そうだったな。お前が急に期間を延ばしたから何事かと思ったが、ははあ」
総統は眼鏡を越さず『彼』を見つめ、新兵に言葉を投げ掛ける。
「よし、新兵。一つ頼みがある。」
「なんでしょうか」
「壁の外で、絵を描いて来てもらいたい」
「…さっき実力のほどは見たでしょう。頼むなら、研究で散々描いてるハンジ分隊長なりその副長なり、他に上手なアテはあると思いますが」
「君の絵が見たいのだよ。なあに、戦地の真ん中でカンバスを立て掛けろとは言わん。君がやったように、日誌に走り書きする形式ででもよい。調査から戻って、思い出しながら描いても構わない。とにかく、描いてみせてほしい」
「それでいいんですか」
「うむ。残りの期間で絵の練習をしろなどと命じるわけにはいかん。兵士の本分を上官の我が儘で逸脱させるなど言語道断だ。君の最も適した形式で描いてみたまえ。訓練の合間に何か書き留めるのと、さして変わらぬように」
「ええ。分かりました」
『彼』は手遊びするザックレーの指先が、白くなっているのを発見した。怪我や病の類いでは無さそうだから、訊いてみる。
「総統、その指は……?」
「む、これは顔料だ」
「ああ、やはり。もしや、さっきまで何かお描きになっていたのですか?」
「ま、そんなところだ。描くに限らず、彫ったり組み立てたりもする。ワシの芸術はなかなか難解じゃから、まだ人には見せておらんのだ」
総統は乾いた絵の具の付いた二本の指を擦り合わせて語る。
「顔料を幾つか見てみても宜しいですか?」
「ああ。構わんとも。……そこまで珍しいものではないと思うが」
「シガンシナでは、先生が複数のチョークを用いて黒板を彩ったものですから、色味が懐かしくて」
総統はさらに奥の扉を開き、『彼』は頭を軽く下げ入室する。その部屋には、光源を確保するための格子窓と、瓶に詰められた絵の具とその原料となる顔料が並んだ棚、大小様々な絵筆と色とりどりの斑点が着いたカンバスが一枚、部屋の真ん中でスタンドに掛けられてあった。
さらに奥に続く扉が一枚あったが、目的の場所はここのため、『彼』は特に気にも留めなかった。
訓練兵時代は白の顔料のみであった。それゆえ、『彼』が手に取った顔料の数々は、また一つ郷愁を呼び起こす鍵であったのだ。育った故郷とは、また別の。
『彼』は多様な色の顔料に目移りしながらも、鼻に引っ掛かった一つの顔料を手に取った折、少し首を傾げた。
「この顔料、少し匂いが他より強い気がします」
「そうかね?原料が違うなら匂いも違うのは当然だが、強さに違いが…。いや、これも刺激臭を放つタイプではない」
確認のため、総統は瓶を『彼』から受け取り数度鼻をひくつかせた後、『彼』の手に戻した。
「私も、決して嗅覚が鋭い訳では無いのですが、しかしなぜでしょう。他の顔料は、見た目だけであの頃の楽しい記憶を呼び起こさせるには十分なのに、この青い顔料だけ、匂いで想起しました」
「つまり、どこかで嗅いだことがあると?」
手前の部屋と『彼』のいる部屋、その境目となる扉の側で、団長は覗き込んで『彼』に尋ねる。
「ええ。独特さからして間違いない。シガンシナの自宅の浴槽からです。私の家は雨漏りが酷く、水道も故障していたのか、風呂の水がほんのりこの匂いに近いものに変わることがあったんです。悪臭の類いでもないので、放っておいたのですが」
「…雨だけに。その匂いの源は分かるか?」
「両親が言っていました。北にある彼らの生まれ故郷の匂いに似ている、と」
(幾らか持ち帰りたいが、内容量が明らかに他の顔料と比べて減っている…)
「確かに、その顔料は北でしか取れない貴重なものだ。その上、今の作品にはどうしても欠かせない。郷愁を呼び起こしてすまないが、戻してもらえるかな?」
慇懃に頼む総統の態度に『彼』は気づき、そっと顔料を既定の位置に戻した。年上の世代が下の世代に丁寧に接する際には、その要因は二つにまで絞り込める。一つは本人が親身に接したいがためのもの。もう一つは激甚な感情の表出を抑える反動から来るもの。別段総統は怒っていなかったと、団長から後で聞かされたが、この時の『彼』にその区別はつかなかった。
(…置いた拍子にビンの底が割れたかもしれない)
「えーと、それで、何の話をしていたんだろうか」
「新兵に総統が頼みがあったというお話だったと思いますが」
「ああ、そうだったな、エルヴィン。新兵はもう下がってよいぞ。せっかく訓練をサボれる機会と思うなら、もう少し残って芸術の話をしても良いのだが」
「ご厚意感謝しますが、今日のところはご遠慮させてください。本日は、ありがとうございました」
「新兵、少し話したいことがある。悪いが、外で少し待っていてくれないか」
「了解しました、団長」
紋切り型の挨拶を実行し、『彼』は退室した。足音が完全に消え去ったことを確認して、総統はようやく口を開く。言葉を溜め息に混ぜて。
「やれやれ。あの年頃の若者に接するやり方は未だに分からん。かつては私もその年だったはずなのにな。審議所でのエレン・イェーガーの激昂で、私の若き血潮が呼び覚まされたとでも言うのかね」
「それで、いかがでしたか。『彼』のことは?」
総統は『彼』の描いた絵を神妙に見つめ、感想を述べる。
「なかなか光る物がある。細部への書き込みは甘いが、全体像に大きく崩れた箇所が無い。あの新兵、なかなか面白そうではないか。気でも変われば、こちらの道を示してやってもいいだろう。大成するとは言わないが、ややもすれば、私の”芸術”にも興味を示すかもしれないな」
「ふふ。…それで、本当の所は?」
「…ふむ。『奴ら』の一派では無いだろう。…あまりに無知だ。そして、純粋だな」
「確証は?」
「兵団の組織間での政争にもまれ続け、ここまで上り詰めた私の観察眼から来る結論だ。審議所での反駁も、早計から来る突発的な行動と鑑みればよい。私を前に示した態度も、そこらの新兵と変わらぬように見えた。まあ、全て演技と言われればそれまでだ」
「そういうものですか」
「それにしてもエルヴィン。珍しいな」
「私がですか」
「ああ。兵団内の人物の観察において、君が誰かを頼るとは思わなかった。大概、調査兵団の部下を用いていただろう」
「……どうも彼には、何かが引っかかるのです」
「というと?」
「その引っ掛かる何かを探るため、貴方を頼った次第です。続く言葉などありませんよ」
「何を笑っている。しかしそれならますます驚いたよ。こと人材において、君の采配は先代団長よりは優れていると思っていたのだが」
「私もそろそろ引き際なのでしょう、きっと」
「冗談を言え」
「……先代の団長は、個としての強さが全体に適用されると考える方でした。自分が特別な存在であると意固地になっていたかのように。その強さが兵団全員に至れるとお考えだった」
「まったくのお笑いだな。私達の代から見れば、あの者は紛れもなく、リヴァイが現れるまでは、兵団全体の評価は泣かずとはずだろうと、個として、人類最強との評価をほしいままにしていたのだ。歴代団長の中で唯一、生きたまま引退できたのもまた異例。それでもなお、もう五年は自分を特別なものではないと言い張っておる。卒業後の兵士の死者数の内訳、その統計でも、彼の受け持つ南方訓練地出身者が最も死亡率が低いというのに。……一体いつになれば、彼は己を認めるのだろうか」
「総統は、自分のことを、特別な存在だとお思いになることは?」
「私かね?いいや、全くそうは思わん。嘗て君のように兵服を纏い、壁を眺め続けて、やがてはこうして政争に揉まれる。ただそれだけの人生で、そう思えるものか。ああ、芸術の分野では一家言あるつもりだ。そこを譲る気はない……それで、エルヴィン」
「はい」
「君はどうなんだ?君は君自身を、特別だと思うかね?」
「……私からは何も。特別かどうかは、市民が判断するでしょう」
「……ふっ、それもそうだな。誰にでも実現可能な戦術を重視する、君らしい答えだ」
団長の模範的で公的な返答に、総統は微笑を以て応えた。
「『彼』のことについては、ミケにも探らせてみます。リヴァイ班に仮で加入させていますが、組織全体の風土を知ってもらうために、他の新兵達も交えて」
「例の、嗅覚の鋭い奴か?」
「ええ。」
ザックレーは問答の過程で深く座り込んでいた椅子、その肘掛けに力を込めておもむろに立ち上がり、背にしていた窓の外を見上げる。
「…また『彼』を連れてきたときに判断すればいいだろう。さっき特別だの話していたが、それとは無関係にな。現に我らには、さらに大きな脅威が潜んでいる。火急なのはそちらの方だ」
「存じております。」
「引き続き調査を任せるぞ。…一時的に北に異動しておるピクシスにも、よろしくと言っておいてくれ。トロスト区が本領のはずが、数か月前から北で張られざるを得ないのは同情するな」
「はい、必ず申し伝えます」
エルヴィンは部屋を後にした。
─2─
木造の一軒家の外で、『彼』は町を行き交う人々を眺めていた。普段ならその者達がどこへ、なんのために向かうのか、それを予想することもまた楽しみの一つだったのだが、先程の絵画の試験とやらに付き合った為か、『彼』には雑踏の一人一人がモデル人形のように抽象的に見えた。
目元を擦っている時に、『彼』の背後にある扉が開かれる。
「新兵、随分と待たせたかな?」
「いえ、全く。それで、これからどうしますか?」
「そうだね、もうすぐ昼が近い、それなら、少し軽食でもとるか。ここは私が持とう」
「お言葉だけで十分です。自分にも手持ちは少しはありますから」
「…私が新兵だったときは、ここぞという時にはご馳走になっていたが、最近の兵士は懐が豊かなのかな?」
実際のところ、『彼』にはそこそこのへそくりがあったが、それも旧調査兵団本部に隠してあるし、へそくりが多いからといって、財布をパンパンに膨らませておく趣味は無かった。そして、奢るという言葉には、発言者の顔を立てる不文律であることもまた、『彼』は知っていた。
その形式に則り、『彼』は発言を撤回し、近くのパン屋でバゲットサンドを奢ってもらった。しかし、上官を相手に言葉でことを構えることは出来ても、その最上位にあたる団長を前に好き放題振る舞う磊落さは無く、完食にはいつもよりやや時間が掛かった。
「ご馳走様でした」
「ああ。近いから立ち寄ってみたものの、思わぬ収穫だった」
「兵士の野戦糧食とは比べ物にならないですね。団長も、数日前まで壁の外にいたのなら、さぞ美味だったことでしょう」
「フッ。その通りだな。出来れば新しく加入した新兵達にも、こうして個別に話をして、人となりを知りたいところなのだが、私もあまり暇ではないからな」
「団長ですからね。私達雑兵でも忙しさで腸が煮えくり返る時があるのですから、団長ともあろうものなら、その多忙さなんて計りしれません」
「…訓練兵だった時のことを指しているなら、今でこそ私はこの立場だが、君達の言い分もよく分かる。」
「ええ。なにぶん、一人一人が生き残れるよう、厳しく指導されたものですから、それはもう…」
『彼』はあの日々を思いだし、わざとらしく大きなため息を吐いた。「兵士として当然なのは理解していますよ?」と言い訳しながら。
「確か君は、南方訓練地の出身だったね?」
「はい」
団長は顎に手を当て、「いかにもあの人がやりそうなことだ」と呟いた。
「あの、教官と面識があるのですか?」
「んん?まあ、四方に作られた訓練地にいる教官の殆どは、様々な理由で退役した兵団の関係者だからな。私にも多少、顔見知りはいる」
「…ええ、それもそうですね。少し、短絡的だったと思います」
「話を戻すが、君達の教官の主張は正しい。まず兵士一人一人の力が不十分なら、合わせたところで形無しだ。しかし、今の君達は、トロスト区という過酷な戦場をくぐり抜けている。煽てるつもりは無いが、君達に確かに実力は伴っていると、私は仮定している。そこで、君達には三日後に演習を行ってもらう。入団した新兵の数はあまり多くない。が、それを逆手に取る」
「逆手に取る…訓練兵時代では、まだ統制を取るのも難しい一年目は、複数の訓練兵を一人の上官で束ねて演習を行っていました。その再現をやるんですか?」
「その通りだ。四人の先輩調査兵と一人の新兵を組ませ、カラネス区の外門にある放棄された市街で演習を行う。君達には三日の間に、空白期間を取り戻してもらう」
「これまたすぐに戦線に送られている気もしますが」
「ふっ。君は、似たようなことをやっていたと思うが」
「えっ。それはどういう…」
「一年前、ハンジが嬉々として話していたよ。『鎧の巨人に興味津々な新兵がいる』とね。条件は当時と似ている。過信はしないし、あくまで演習と銘打っている。犠牲者を出すことが無いよう、小規模に抑えるつもりだ」
「……分かりました。私も、その状況を知る先輩として、できる限り、お力添え致します」
『彼』は敬礼した。
「ああ。この事を話しているのは君には伝令も兼ねて頼んでいるからだが、もう少しすれば…ああ、読み通り、来たか」
「ここにいたか、新兵」
「リヴァイ兵士長!」
エレンの監視のために旧調査兵団本部にいたと思われていた兵士長は、このカラネス区まで来ていた。
「エレンの監視はどうなったんですか?」
「地下にいる今は、班の連中に任せてある。それよりも、お前は確かに、昼頃には用事が終わると言っていたよな?おいエルヴィン。コイツ借りるぞ」
「本来君の所属なのだから、好きにしたまえ。それと、『彼』は私の話に付き合っていただけだ。決して怠けていた訳ではない」
「どうだかな。オイ、訓練に行くぞ」
(団長、兵士長に向ける目線が、私達に向けるものとは違うような…)
団長の顔に付いた二つの碧玉。それらにヴェールでも掛かったかのようにも見えたが、気のせいだろうと『彼』は思い、『彼』が視線を戻すのを待っていた兵士長についていった。
数日のブランクを取り戻すためか、同日午後に行われた地獄ともいえる程強化されたしごきにより、『彼』はせっかく団長の奢りで頂いた昼食を全て戻してしまい、地面の肥料にしてしまった。