─1─
入団から21日。貴重な休日。
草木が芽吹きを終えて、その花が未熟な実に閉じ籠り、熟れるまでの備えを働く季節。
『彼』とサシャは、再び狩猟に来ていた。
ただし前回とは目的も場所も異なり、狩猟区ではなく農村近くの森の中、報償金付きの依頼を承けてのことである。
作物を荒らす害獣の駆除も兼ねて、例年のこの時期になると狩猟の依頼が貼られることもある。そこに目を付けた二人は、意を決して森の中へ入っていったのだ。もっとも、今回入る森の近隣住民は、そのような依頼を出したことが無いためからかは不明だが、相場より少し高めの報酬を出していたが、特段、目ざとい誰かがそれに気づいた訳ではない。断じて。
依頼という形式上、正しい場所で標的の狩猟を果たしたかどうかの見届ける必要があるため、証人として憲兵が一人付き添わなければならない。が、その憲兵は森の外で待たされている。
「一日しか入れない関係上、先回りして罠を置くのは無理。結局ぶっつけ本番なのは、前回と変わらないな」
「仕方ありませんね。依頼だからといって一団体に何日も居座られたら、生態系の保持に必要な個体数を大幅に超えて狩る人も現れますから」
「カラネス区で過ごすからか、依頼の情報も早く掴むことが出来たのは幸運だった」
「訓練地では外の情報が日報くらいしかありませんから、狩りの適切な日を決められたこともまた、幸運でしたよ」
「違うのは休日が明らかに減ってること、だな」
「あー……そんで、なんで俺達まで呼ばれたんだ?この折角の休日とやらに」
「人員確保のためだ。今回の獲物は、二人ではそれなりにてこずりそうだからね」
依頼書に書かれていた駆除リストのうち、二人が選んだのは猪だった。しかし二人での狩猟は、危険性の観点でも、作戦の観点でも困難。そのため、『彼』とサシャは強力な助っ人を三人呼んでいた。
「森における最大の脅威は熊ですが、猪も侮れません。瞬発的に兵団の馬に肉薄する程の速度と、特にあの鋭い牙がです」
「牙の位置が悪さしてて、丁度『私』たちの脚の動脈を切り裂ける高さにある。それを高速の突進で振り回すんだ。そこらの暴漢より殺意が高いぞ」
『彼』は太ももの高さに手を沈め、サシャと共にうんうんと頷く。
「……それを狩りの素人である俺達を呼んでおいて言うのかよ」
「卒業生の中でもっとも背の高い二人であり、かつ優秀な二人だったから狩人様のお眼鏡にかなったんだ。なあに、巨人に比べたら些事だ」
「比較対象がおかしいんだよ」
「私は眼鏡掛けてませんよ?」
「そうだぞ。あと、デケぇ人が欲しいなら、なんで俺も呼んだんだよ?」
三人目の助っ人、丸腰のコニー・スプリンガーが『彼』に尋ねる。
「俺にも銃があった方が良くないか。俺は天才だけど、さすがに体格じゃ猪に勝てねぇぞ?」
「だから、君にはそれを渡してあるんだよ」
『彼』はコニーの腰の辺りに括ってある、数本の縄を指差す。
「これより、もっと確実に仕留められる武器の方がいいと思うんだけどなあ…」
「コニーの銃の扱いは、どうだったか…」
「…お前に言われたら何も言い返せねぇよ、ベルトルト。はーあ、やっぱ蹄鉄投げとは勝手が違ったんだ」
「なら、僕達に任せてくれ。やっぱり、コニーは不測の事態を埋める切り札として頼りたい」
ため息を吐くコニーに、ベルトルトは胸を張って答える。
「さて、こうして口を割ったのは見届け人の[[rb:憲兵 > マルロ]]を森の外に待機させてから一時間ほど歩いたからだが、そろそろ何か手掛かりがあってもよさそうだよな?」
「フフフ、ありますよ、ライナー。『彼』と私で見つけた獣道が!」
ライナーが身を乗り出すと、茂みを幾つか挟んだところに、横断する一本のまだら模様の線があった。草木がなぎ倒され、さらに踏み固められ、緑と茶が混じったその道は、人間が手入れしたにしては粗かった。
「生き物の通り道か。なるほど、探していたのはこれか」
「前回狩猟した時は比較的小規模な森だったから、こういう道は出来にくかった。依頼に載っていた獣のリストからして、ある可能性は高いと踏んでいたんだ」
「ええ。時間までは絞り込めなくても、ここを通る生き物は、ほぼかならず現れます」
「じゃあ、あとは待つだけだね。土まで見えるほど踏み固められた獣道なら、一匹かそこらは引き当てられるよ、きっと」
「よし、じゃあ皆さん」
サシャは湿った地面を掘り返し、手に左官のように塗ったそれを、四人に差し出す。
「え?何すんだ?」
「これ、塗ってください。出来るなら全身に」
「ええっと、どういうこと?」
ベルトルトは童心をくすぐられるその匂いを指差して尋ねる。
「匂いを消すんですよ。私達、自分では匂いが分からないかもしれませんが、今回の標的は鼻がききますから、私たちの匂いを嗅ぎとって、逃げ出すかもしれません」
「そ、そうか。……なあ、俺はそこの『彼』より風呂に入る頻度は少ないが、泥だらけになればさすがに一考はするぞ」
ライナーが言い終わらないうちに、『彼』は我先に泥を顔に、服に塗り終えていた。「予備の兵服を持ってこいと言われたのはこのためか」と三者三様に懸念、不満を払拭し、泥を被った。
─2─
『彼』らが所定の位置に付いて、二時間が経過した。
「色んな足跡が残っていますね。鹿に鼬に、ウサギに…猪も」
「足跡の向きもバラバラだが、いずれもこの獣道に沿って進んでいる。どちらの方角から来ても対処できるよう、配置は出来ていると思う」
「ええ。あちらの高めの丘にベルトルトを、やや離れた中間地点に『貴方』と私。北方面にコニーとライナーを待機させてます」
「サシャは耳がいいから、ここまで広く配置させる必要があったのかな。ちょっとやり過ぎた気もする」
『彼』はサシャに問いかけてみる。サシャは矢をつがえた弓の張りを少し緩めて、『彼』に答えた。
「そりゃあ、聞き耳を立てれば相当よく聞こえはしますよ。でも、こうして森のなかにいると、いろんな音が混ざって聞こえるんです」
「いろんな音が」
「そうです。訓練地だったら、静かな休憩時間に教官の足音を聞き分けることはできます。でも、貴方みたいに人々の話し声を掻い潜ってまで、聞き分けることは出来ません。意識を逸らされますから」
「そういうものなのか。てっきり、耳がいいことなら同じものなのかと思ってた。私は人の声を聞き分けるのが得意だと思ってたから」
「そうなんですか」
「サシャのように物音を聞き分けることももちろん出来る。でも、特に人の声は鋭く聞こえてくる。そんな気がするんだ」
『彼』はサシャに倣い、薬室を開いて次こそは弾が込められていることを確認した。雑談を切り上げるには十分な儀式だった。
「さて、果たして本命は出てきてくれるのか…」
「出てこなくたって、また行けば良いんだと思います」
「それ、今サシャが腹一杯だからだろ」
「ええ」
「認めるんだ」と『彼』がぼやこうとしたその時、
「うわっ!!」
ベルトルトが突然声を上げて坂を転がり落ちた。黒い塊がベルトルトに続き、彼を追い抜いて獣道に躍り出たところで止まり、ベルトルトを一瞥する。
「ベルトルト!」
行き掛けにベルトルトを轢いたその獣は、ぶくぶくと膨れ上がった猪だった。人間が走っても追い付けない速度で、猪は獣道に沿って走り出した。『彼』らはベルトルトの元にまず駆けつける。
「なんだあれは…二メートル近くはあったぞ!」
「ベルトルト!どこか怪我をしましたか!?」
「二人とも、コニーの方角に逃げられる!」
「私はベルトルトを診ておきます、『貴方』が追って下さい!」
「分かった!」
「私よりサシャの方が追うのに向いている」。『彼』はその言葉を喉の奥へ押し戻して、猪を追うべく走り出した。次の狩りのために三年間も技術を培ったのは、より優れた者を決めるべく争うためではなく、どちらが挑んでも問題ないと瞬時に確信させるためだったからだ。枝葉が体を霞め、クモの巣を幾重に顔をからめとられながらも、『彼』はガサガサと音を立てる方角に走った。
(猪は初速は恐ろしいが、人間の強みはその持久力。確実に速度は落ちてきている。)
森林を反響する音は、『彼』が見越していた獣道に終着している。どうやら標的は道を逸れていないようだ。
「読み通りだ。それなら──」
「うわっ、なんだありゃあ!」
「この角度じゃ射線が木に阻まれる!コニー、投げ縄を!!」
「ああ!任せろ!」
コニーは『彼』が指示を出すよりも早く、両手に一本ずつ携えた投げ縄に十分な遠心力を込めていた。コニーの放り投げた縄には両端に重りが付いており、横向きへの回転が加わりながら、一本は猪の眼前を通りすぎ、もう一本は猪の後脚に巻き付いた。
「うっし掛かった!!」
「ええい!まだ木々を抜けられない!」
「ライナー!行け!」
「逃がすか!!」
コニーの命令を合図に、森のさらに奥からライナーが飛び出して、坂を滑り降りる。
再び起き上がり、逃げ出そうとする猪を、ライナーが坂で付いた慣性を乗せたタックルで突き飛ばし、真っ正面から押さえつける。
ライナーは猪の口を両手で掴んで塞ぎ、万力が如く握りしめ、地面を踏みしめる。
猪もそれに応じるように、鼻を震わせ全身の筋肉という筋肉を隆起させる。猪は乾いた砂地で踏ん張りを利かせ、ライナーはぬかるんだ地面に何度も踵を叩きつけて、『彼』に叫ぶ。
「今だ!やれ!!」
「なおのこと撃てない!」
坂を滑り降りて『彼』も猪に飛び掛かり、腰の鞘に挿していた刃渡り7センチのナイフを猪の耳の後ろに突き刺す。『彼』は力を込め、こめかみ、頬、さらにその下へナイフを引きずり下ろしていく。
『彼』は仕留めたという確信を持っていた。しかし、それは机上で得た確信でしかない。
驚くべきことに、猪の首筋から血は一滴も流れ出なかった。
「はあっ!?普通の個体ならこれで死んでるのに!」
「すまん、もう限界だ」
「え?うわあっ!」
人を優に上回る肉厚な首を大きく震わせ、猪は『彼』ら二人をはね除けた。しかし十分に人間に恐怖を植え付けられたのか、猪は二人に敵意を向けず、さらに森の奥へと四肢を回転させ加速を始めた。首筋の皮膚に閉じ込められていた豊満な白い脂身を露出させ、揺らしながら。
「まずい逃げられる」
「地面がぬかるんでなけりゃまだ耐えられたが…」
「早く猟銃を!」
『彼』が猪から目を離さずナイフを投げ捨て猟銃に腕を沿わせたその時、ダンッ、と一発銃声がした。望遠でやや黒い塊になりかけていた猪は地面に倒れ、大きくのたうち回っていたが、軽快な音とともに刺さる一矢が突き立ち、やがて動かなくなった。
「銃に矢……今のはまさか!」
音の方角を振り向けば、ベルトルトが「ふう、間に合った」と一息付いて、猟銃の構えを解いていた。隣ではサシャが片膝立ちになり、次の矢の為の弓の張りをほどいたところだった。
「サシャ!ベルトルト!!」
『彼』はさっきまでの猪との格闘で昂った体熱が覚めぬまま、坂を駆け上がり思わず二人に飛び付いて、腕の力を込めて高笑いした。
「やった!やったよ!」
「ええ!ええ!遂にやりましたね、私達!!」
明らかに温度差が違う二人に抱き込まれたベルトルトは汗をかき口角をひくつかせたが、その苦笑を微笑に変え、声を弾ませる二人を肩に手を乗せる。コニーは坊主頭を掻いて、自分を指差して、「俺は?」とわざとらしくとぼける。ライナーは泥を払い落とし、猪を拾いに向かって『彼』らに呼び掛ける。
「出来るなら早いとこ森を出た方がいい。この森に奴がいない保証は無い。もしかすると、この猪みてぇにでかくなってるかもしれん」
「……何が?」
「お前らがリストの一番上じゃなく、二番目を選んだのはそういう理由だろ。俺達でも死ぬかもしれねぇあのデカブツとカチ遭えば、そもそも狩猟とも呼べねえ地獄になるって踏んだのはお前らだろ?」
ライナーが言及するリストの一番上に記されていた生き物とはは、この生態系の頂点、すなわち熊のことだった。
『彼』とサシャは雪中行軍で凍える背中を、生臭く生温かい息一つで解かされたあの一件を思い出して総毛立った。手早く猪を吊るし、深く裂いた首とベルトルトが撃ち抜いた胸の穴から血が流れ終えるのを今か今かと待ち、腹を開いて内臓を抜き取って森に還し、猪を背負い、足早に森を去った。幸い、『彼』らが去るまで匂いに釣られた獣はいなかった。
森の外で待っていた見届け人は獲物の姿を一目見て仰天していた。
─3─
「まあ、こんなところにまで運んできてくださったのねえ。本当にありがとうございます」
ある一軒家の戸を開けて、老婆がねぎらいの言葉を添えながら『彼』らを出迎える。一歩奥で覗き込んでいた老夫が「猪は外に置いておこう。血抜きと洗いが不十分だろう」と兵士達とともに、えっちらおっちら、猪を水道ポンプの近くの地面に運んで下ろした。
老夫の添えた手は、猪の体重の10分の1も支えられていなかったが、それは兵士達が気遣い、事前に一息高く肉の塊を持ち上げていたからだ。
兵士達が猪を担ぎ込んだ先は、ある老夫婦の家だった。この猪を仕留めた森から、そう離れていない村の家屋に、その二人は住んでいた。嘗てはそこそこの口を誇った村の人口も、時代の流れに応じ人々が町へと出ていき、確実に減らしていった。
残ることを選んだ夫婦は、木々に侵食されてゆく森にやがて制圧されんとしていたが、往年の住まいへの愛着ゆえに、未だ離れられずにいたのだ。
この老夫婦は、そんな中で依頼を出したのだ。水際対策でも抑えられない自然がどれ程の進歩を得たのか確かめるために。
依頼のリストに含まれた優先順位のうち2位であるその猪の巨躯を確認して、夫婦は大きなため息を吐いた。この住まいを諦める他ないと。
「私達夫婦もこの身体になる前じゃあ、それなりに狩りもこなしていたのじゃがな」と老夫は訴える。
「今じゃあ痩せ細り獲物を走って追うこともできん。罠仕事しか出来ん始末じゃ。こいつも長くはもたげてられんから、罠でもがく獲物をトドメるためだけに使っておる」
老夫はポンプの近くに立て掛けた猟銃を眺め、情けなくも答えた。老人の手は猪に向かい、「硬直が進んでるな」と独りごち、
ギコギコとポンプの水を出して、兵士達とともに猪の体表を洗っていく。ブラシも加えて、毛の隙間や蹄の泥を落としていく。
「なおさら依頼を出して良かったじゃない。全盛の私達でも、これほどの猪を狩るのは至難の業よ」
「でも口惜しいのう。やっぱりこの手で狩ってた頃を思い出してな」
老夫婦の手は節くれてしわだらけだが、指の平に薄まったたこは、ごく最近まで獲物を狩るための歴史を生きていたことを物語っていた。
「私もそう思いますよ。私達だけでは、多分、あれを狩ることは出来ませんでした」
サシャは猪の頭を見つめながら、その大きな牙に畏れを抱きながら、老夫婦に同意する。
「嬢ちゃんは兵士じゃろう?狩りまで出来るのか?」
「ええ。村では狩りで暮らしていましたから」
「ところでよ。食っていいのか、それ」
「いや、残念だが駄目じゃ」
首を横に振る老夫に、『彼』は疑問を投げ掛ける。
「的確に心臓を撃ち抜いているし、頸動脈も切っています。慣例より短い時間とはいえ、血抜きは十分ではありませんか?」
「いいや、処理が悪い訳じゃない。むしろ、素人だけでやった割には上出来だ。だが、依頼として仕留められた獲物は、原則最寄りの肉屋や皮屋に下ろす決まりになっている」
「ええー!!そんなあ!」
サシャは絶叫する。
「なんだ、知らなかったのか。あ、いや、依頼文には書いてないから、そもそも知る機会が無いのか。てっきり知ってる人が受け持つとばかり」
「私用で狩る人なら獲物は好きにしていいのだけれど、依頼となれば中間のマージンが必要になるのよ。公益と称してねえ」
「私の村では、そんなこと無かったのに」
「……嬢ちゃんの村は、自立した村なのじゃな」
「自立、ですか?」
「掲示板に貼り出された狩猟の依頼を見たとき、私達個人の署名と役所の捺印とは別に、何やら署名があったことは覚えてるかね?」
「はい。他の依頼にも、同一の署名がありました」
「あれが、ここらの地域での狩猟の連盟のものじゃよ。私達も、かつてはそこに所属して、狩りを行っていたんじゃ。そういった狩りの連盟は各地にあって、ときに助け合って生きていくのが、繋がりが希薄な私達にできる、狩りのやり方じゃ。私達の村も、人口が減り続ける中で自分で狩ることも依頼を出すこともあったんじゃが、弱った今でも依頼が出せるのは、連盟のお陰じゃ」
「繋がり……」
サシャは、なにかを思い出しているようだ。
「人によっちゃあ、嬢ちゃんのいう自己完結した村を、やれ閉じ籠りだあ、謎めいていて怖いとか言うが、私からすれば、そういった組織間での繋がりがなくとも、自分達だけで生きていけるのは、強く、立派なことじゃあ」
「……でも、褒められても、お腹は満たされませんよ」
「まあまあ、そう急くな。実は私はこの依頼をこなした人に、報酬を別に振る舞うと決めていたんじゃ」
「別ですか。お聞きしても?」
「肉じゃよ」
「ええ?でも猪は──」
「言ったじゃろう。罠猟をやっておると。この猪は無理じゃが、捕らえた野鳥の肉を振る舞うつもりじゃ」
鳥の肉。最早食べられずに何年も経つ肉という言葉に、調査兵全員が唾を飲んだ。
「鶏じゃなくてごめんねえ。少し前まで数羽飼ってたんだけど、領地の縮小に伴って、内地にめしあげられちゃって」
老婆はおずおずと申し出る。兵士達は両手を振ってその謝意を振り払う。
「もてなさせてくれ。私達の鶏を取り上げたのは兵士だが、この猪は君達があくせく働いてくれて手に入ったものだ。その礼はしっかりとさせてほしい」
「いや、さすがにそこまでの礼には及びません。兵士として当然のことをしたまでです。書面通りの報酬を頂ければ、他には何も───」
とライナーは断るが、横っ腹にサシャの肘がめり込む。あばらの隙間に入った肘は、ライナーを唸らせ、うずくまらせた。
「ん?でもよ、狩りの連盟にいたんなら、依頼の金がどのくらいとか、大体分かるんじゃないのか?」
「ほう、鋭いのう、坊主」
珍しく利発さを褒められたコニーだったが、滅多にない分野に賛辞を受けて、面食らっていた。
「金持ちの道楽に聞こえるかもしれんが、私達は備えのために、とにかく金を貯める主義だったのじゃ。どんな大ごとが起きても立ち向かえるようにな。だが、いくら貯めていようと、この年になるまで結局使いどころは無かったのじゃ。仮に起きたとしても、私達の届かない所で、それは起きてしまった」
壁から離れた緑豊かなこの村で、老夫は告白する。
「そうねえ。子どももいなくて、蓄えだけは多い私達に出来ることなんて、これくらいしかないんだもの」
「うむ。残念だが、もうこの家は畳み時なのだろう。尚早だがこの家の送別として、できれば賑やかに送らせてほしい」
「ちょっと倉庫を見てくる」と老夫は腰を上げ、家の裏手へ歩いていく。
「調査兵団は肉も食えないのか、可哀想に」
マルロは調査兵らに哀れみの目を掛けてやる。
「私、今からでも兵団を変えてきてもいいですか」
サシャの意気に、『彼』は釘を刺した。
「やるなら駐屯兵団の下っ端からだぞ。当然椅子を開けるつもりもないから憲兵になるためだけに何十年もかかる。領地を取り返した方がもっと早いさ」
「そ、そんなあ~~」
「フツーならそこで兵団を変えることを選ぶんだがな。真面目と言われる俺が言うのもなんだが、調査兵団は変な奴ばかりだな」
半べそをかいているサシャに、マルロは珍しく現実主義的な感想を述べる。
(食のことになるとサシャは人一倍表情豊かになる人だ。相も変わらず。)
「上位成績者10名のチャンスをみすみす逃した人には冷たいのが、制度ってものだからな」
ライナーはサシャに同情しつつも、風土に対し逆らうつもりは無さそうだった。
「俺ならそういう青田買いのような制度に頼らず、優秀な人材は年齢を問わず、兵団の垣根を超えて憲兵に挙げられるべきだと、思っていたんだがな」
「歯切れが悪いな、マルロ。やっぱり、今の腐敗ぶりを見ると、そうは思わないのか」
「ああ。悔しいが、まだ俺一人が変えるには、土台が小さすぎる。それならまず俺が正して、そう思える間口を広げてやる。それが理想だ」
そういえば、手紙伝いに知った情報で同じ所属となったヒッチとアニは元気なのか、とマルロに尋ねようとした所で、廊下からしゃがれた声が反響しながら近づいてくる。
「ああ!すまない。猪の臭みを取るための物資が足りなくなってた。今からでも買ってくるか」
「あなた。あの大きさじゃあ必要になる物資も大変なことになるわよ。誰かに買ってきてもらいなさいな」
「む……心苦しいな」
「私に任せてください。お料理を頂けるんですから、書面に載らない追加の依頼くらい、お茶の子さいさいです」
「ああ。そろそろ、俺もひとつ、働きたくなってきたところだ。往復で一時間くらい訳無いさ」
マルロは戸口にいる『彼』の隣に並び立つ。二人とも、すでに出掛ける準備は終えているようだ。「その前に、顔だけじゃなく、身体も洗って、着替えてらっしゃい」と老婆が泥まみれの服をまとった『彼』に親切に申し出た。後程ほかの兵らも洗われるよう提案し、兵士達はその厚意に甘えることにした。
「そうか。じゃあその費用は私から出す。近くの街まで、頼んだよ」
リストを受け取ったマルロと『彼』は馬にまたがり、真昼の街へと駆けていった。