「エルヴィン。よく来てくれた」
「ピクシス司令、こちらこそご足労いただき感謝します」
ユトピア区の内門で調査兵団を出迎えたのは、ピクシス司令だった。彼は馬から降り、先んじて馬から降りていた団長と握手を交わす。
「前線を離れているあたり、例の標的は相変わらずのぐうたらのようだな」
リヴァイ兵士長は司令を睨んだ。
「そうじゃな。千日手とでも言うべきか、外門にいるヤツとは、依然膠着状態じゃ。まあ、ここは実際に見てもらった方が早いじゃろうな」
『彼』は馬の群れに隠れた三者の会話を、兵士達が並ぶ数百メートル後方から、特に耳をそばだてることなく聞き分ける。
「ヤツ……やはり、ヤツって…」
「新兵、聞こえるのか。この距離から」
「相変わらず凄い聴覚だな」
「確かにそうかもしれませんが、しかし」
あの三者の行う会話は、別段『彼』でなくとも、聞き耳を立てに立てれば聞き分けられただろう。
なぜなら、とっくに街が起き出しても良い時間帯なのに、数万人は居住する区の南端にしては、あまりに静かだったからだ。
門から漏れでてくるはずの市井の活気も、一切聞こえてこない。仮に消えたとして、彼らは一体どこへ行ったのか。
(調査兵団が行うと言っていた大規模な演習は、もしかして長距離索敵陣形だけじゃないのか?)
『彼』の予想に答え合わせをするかのように、ピクシス司令が口を開く。
「昼に近付きつつあるが、今から君達を戦闘員に加えても構わないかね?」
「ええ。総員!」
エルヴィン団長は後方の『彼』を越えて、最後尾の兵士にまで届く声量で指示を飛ばす。
「ユトピア区北の外門まで前進!」
兵士達は二時間ほどかけてユトピア区に到着した時の姿勢のまま、馬に乗って前進を開始した。
街に人はおらず、代わりに大砲があった。
街路という街路に幾つもの大砲が並んでいて、砲撃を阻害しない間隔で、一門一門が北の外門を向いて砲身をもたげている。その大砲の全てに、駐屯兵が着いていた。一門を御するための規定の人数に達していなかったが、人員を最も集中すべきなのは前線にあり、彼らはいわば控えの存在なのだろう、と『彼』は考えた。いつ北端から巨人がなだれ込んできても阻めるように、と。
大砲の近くには、トロスト区でも設営された簡易拠点である縦穴が複数作られており、トロスト区が破壊される前に急遽建築されたことを示すかのように、穴の総数は少なかった。
駐屯兵の窶れた顔とは反対に、街の家屋などに破損は見られず、ただ人だけがこの区から消え去っていた。巨人はこの区に入ってきていないし、人は襲われていない、と『彼』は確信した。しかし駐屯兵達の顔に浮かぶ疲労は、ものの数日で刻まれたものでもまた無いことも察知した。
「街の人達がここから逃げなければならない理由があって、しかも駐屯兵団の司令がトロスト区を離れてまで、ここに駐在している」
「それほどの脅威がいる、ってことだな」
ゲルガーが合いの手を入れる。
「ゲルガーさん、何か知らされているんですか?」
「ああ。ここまで来ていて勿体付ける理由はねぇな。新兵ら以外は、全員知ってる情報だ」
「いるんですね、異形の巨人。その一件目のヤツが」
「その通りだ。君の耳が良ければだが、今の我々の技術では、足止めが関の山だ。刃が通じないから、新兵達に白兵戦は求めていない」
「カラネス区で行われていた巨人の掃討でも、新兵はずっと砲撃と観察に注力してましたよね。ということは……」
「今回もまた、巨人の力を主力とした作戦を行うことになる」
ナナバが捕捉をし、ミケが解を出した。
「でも、ユトピア区の住民達はどこに行ったんでしょう?」
「突出した区は確かに人口が多いが、ウォール・ローゼの人口全体に比べれば、二割もあればいいところだ。各地に散らばるように避難させて、ユトピア区に割いていた運送も分散させれば被害は最小限に済む」
「突出区は単に居住するためだけじゃなく、労働も司る場所だったとも思います。雇用はあったんでしょうか」
「そうだな。だから、避難場所の区画での勤務先だけじゃなく、わざわざトロスト区まで出稼ぎに来た住民だっていたんじゃないのか?」
領土の大半を失い、失業者を口減らししてもなお、トロスト区で半年で築かれたガスの補給拠点の建造や、顔料の産地でも労働力の供給が素早く済んでいたのは、ユトピア区の人々が流れ着いていたからに他ならない、とナナバは主張していた。
エルヴィン団長は長距離索敵陣形の演習時の編成を解除し、日常の訓練で配属されている班に組み直すよう指示を出した。
主に移動となるのは新兵であり、約20名の兵士が隙間を縫って本来の所属へ戻っていく。『彼』はリヴァイ班に戻ることになり、ミケ達にこれまでの指揮の礼を述べて、『彼』は列の前方へと移動した。
「一体、どんなヤツが……」
と言いかけて、『彼』は言葉を飲み込んだ。
「知らされてなかったのは同情するぜ。だが謝るつもりはねぇ。なるべく情報が外部に漏れず、かつ兵団内に蔓延させるには、新兵を水際にするしかなかったんだ」
「オルオさん」
「お前だけじゃないかもしれんからな。鎧の巨人と聞いて、敵討ちと怒りに駆られる奴は。その拍子に市民に漏れちゃあパニック間違い無しだ」
「オルオ、お前は元から家族全員ウォール・ローゼの中だろ」
「グンタが前に異形の巨人に丸のみされた時、俺は確かに頭に来たぜ。たとえ死んじゃあいなくたってな」
「まあでも、今回俺達の担当は砲撃による支援だ。アイツに刃は通用しないからな」
「刃が通用しない……」
リフトに乗り、調査兵団は壁の上に到着する。そこから見下ろされる景色の中に、町内の過剰な武装に足る存在が、緩慢な足取りでたった一人うろついていた。
「あれが……」
「うむ。異形の鎧の巨人じゃ」
『彼』の独り言に、ピクシス司令が答えた。
その巨人は体表に沿うように硬質の破片を並べており、顔だけはその破片だらけの身体と対称的に、川で削り取られた丸石のように白く滑らかだった。ヤツの足下の地面は幾つもの砲撃で抉りとられた形跡を残していた。ユトピア区の北、門の外に並べられた家屋の数々は、度重なる砲撃で殆どの屋根を吹き飛ばされていた。
「鎧……なのですか、あれが」
「実際に証明した方が現実味も増すじゃろう。隊長」
司令は隊長の一人に指示を飛ばし、隊長は壁上にあらかじめ装填された一門の大砲を構える。砲声とともに、異形の巨人に向かって榴弾が飛んでいく。ギンッという金属音が鳴り響き、炸裂した火薬の煙から異形の巨人はこちらに目を向けるが、数秒後には視線を地面に落とし、また元通り徘徊を続ける。
着弾したその頭部の右側はわずかにへこんだかのように見えた。しかしその負傷も、へこみの内部から弾むように修復され、元通りになった。
「見ての通り、硬い外皮に覆われ、ぶどう弾はそもそも通用しない。質量の大きな榴弾ならばと我々の砲撃を浴びせても、次の装填が終わる頃には回復しきっている。他の巨人は全て片付いたが、コイツだけが何ヵ月も彷徨いている」
ユトピア区を本来受け持っていた駐屯兵の隊長は苦虫を噛み潰す。『彼』は尋ねた。
「失礼を承知で申し上げますが、大砲の数を増やすというのは?回復を上回る頻度で撃ち込めば……」
「既に試みようとしたが、壁上の砲門では足りなかった。壁の外へ追加の大砲の搬入を開始しても、あの巨人は運搬する人間を襲った。届かない高さからリフトで大砲を撃つこともまた無理だ。反動でリフトが壊れる。何より設置の前に襲われる。いずれにしろ、現状ではヤツにダメージを与えるほどに必要な門数には到底足りない」
「それなら───」
「もし、陽動の兵士を設けるつもりならやめておけ。陽動部隊はその数十門も横並ぶ弾道からの離脱が間に合わず死ぬからな。誰も砲撃を開始出来ない」
壁外の兵士が陽動する際に必要な立体物は、外門近辺に立ち並ぶ家屋を利用するのが合理的だ。しかし先の駐屯兵の発言の通りに作戦を実行するなら、家屋が砲撃を阻み、遮蔽の無い平地で撃つならば兵士は立体機動も出来ず木っ端微塵になる。『彼』や並みの兵士が想像のつく作戦では打開が困難になっていた。
その苦境に立たされた駐屯兵団に、調査兵団団長が言い出す。
「陽動を受け持つのが、ただの兵士なら、ですが」
「おお、何か他に手立てがあるのですか、エルヴィン団長?」
エルヴィン団長が生存のための戦略を執ったことについては、駐屯兵団にも知れるところだった。司令であるピクシスがトロスト区奪還作戦のために兵士を死なせたことに、隊長は反駁するつもりはない。しかし、その司令も不動となる現状に、兵士を生かす選択を取る調査兵団の団長に、奇策を期待するのもやむなしだった。司令は察知し、エルヴィンに確認を取る。
「エレン・イェーガーの出番、という訳じゃな」
「はい。エレンに家屋を破壊してもらいながら、さらに陽動を引き受けてもらいます。その隙に、異形の鎧を破壊するに十分な大砲を搬入し、我々の一斉放射で仕留めます」
「また巨人に頼るというのか。それで、死人の数も同じになるというのかい?」
「いいえ、陽動を担当するのは彼だけです。犠牲も限りなく抑制できるかと」
「不平を言っても仕方ないじゃろう。犠牲で成り立った奪還作戦と違い、今回は強力な『個』以外は足切りなのじゃからな。仔細を話そう」
ハンジ分隊長はピクシス司令の話も聞きつつ、モブリットとともに、徘徊する異形の巨人を望遠鏡で観察する。班の編成を告知されるまで団長階級の会話で手出しは不可能とひとり合点した『彼』は、二人の観察に加わる。
「件の鎧にしては、やはり知性を感じませんね」
「そうだね、モブリット。壁を破ろうとしない。この三ヶ月間ずっとそう。ああして壁の周りをうろついているだけ。他の巨人と同じだ」
「あの時の鎧の巨人とは、全然違う」
『彼』の心の奥底で眠る、邪悪とも呼べるほどの仇敵への憎悪は、今ここではまったく湧いてこなかった。当時の『彼』なら、一目みれば食いしばるだけで歯という歯を砕きかねないくらいに、あの巨人に対し屈辱を抱いていた。だがヤツを見ても想起されないということに、『彼』は実に利口な頭だなと胸中悪態をついた。
「鎧の形状が異なりますね。鎧というより、細かい鱗で身体を覆い隠している」
「そうだね。細い針のような鱗が、身体に沿ってびっしりと埋め込まれている感じだ。当たり前だけど、あの鎧の巨人とは明らかに違う。今のところ、私達はあれの捕獲を試みてるんだ。せめてあれの欠片一枚ほどは拝借したいところなんだけど」
「捕獲できればそれが叶うというわけだ」
「他の巨人の体組織みたく、蒸発しないといいんだけどなー」
エルヴィンの側に立つ兵士長は、異形の巨人から目を離さないまま、彼に尋ねる。
「それで?俺達の刃が通用しない相手に、エレンが何をしでかすっていうんだ、エルヴィン」
「この一ヶ月、エレンが我々の指示を聞き、従うかの実験を行ってきた。今回の作戦も、それに則ったものを行う」
「作戦の継続、中止は信煙弾で判断するように。それと……」
ピクシス司令は駐屯兵団、および調査兵団、双方の上位陣に尋ねる。
「名うての砲手を、壁上の大砲二門に充てたい。壁上の大砲も無論総動員するが、その中でワシの直々の指示で動ける者が二人必要じゃ。選抜を頼む」
エルヴィン団長には心当たりがあった。その候補者二人の名をピクシス司令に耳打ちすると、司令は満足げに頷いた。
「作戦は既に練り終えたようじゃな。それも、ワシと同じ内容で」
「ええ」
「やはり、盤で勝負をする折に引き分けになるだけはあるのう」
そうは言いつつも、司令は詳細を尋ねずにはいられないようで、髭を指二つでつまんでは撫で付けている。二度手間を省くため、団長は壁上から兵士達に向かって指示を出す。
「総員整列!!これより、異形の巨人の討伐の作戦を説明する!」
─2─
砲手に選ばれた二人の兵士は、両者とも調査兵団の新兵からだった。『彼』が推薦したベルトルトと、一年前のトロスト区の任務での活躍を密やかに知るエルヴィン団長から指名された、『彼』本人だった。
「基本大砲は威力の問題で一斉に放つ必要があるが、目的次第では使う門数を変動させる」とピクシス司令は言う。
「一部位の行動の阻害なら一、二門。足止めなら半数。殲滅で全門じゃ。信煙弾を打ち上げる過程を挟まず、ワシの指示で瞬時に動けるのは、たったの数門じゃ。その数門を、お主らに頼みたい」
二人に異存はなく、50メートル上の砲門に一人一門ずつ、その砲身を構えた。二人の周囲には、砲手が砲撃以外の過程で集中を割かないために、支援者が4人ずつ付いていた。ベルトルトにはハンジ班の面々が、『彼』にはリヴァイ班が。
「エルヴィンがおぬし達を選んだ理由、分かっておるじゃろうが、一切の動揺は許されんぞ。作戦の瓦解の兆しが見られれば、エルヴィンとワシの出番じゃ。おぬしらは砲撃に専念するんじゃぞ」
「はい」
『彼』はベルトルトと一瞬顔を見合せ、互いの瞳に緊張がないことを確認して、再び大砲に向き合った。その場の十名に言葉は無く、与えられた役割を全うすることだけを考えていた。
地上から25メートル辺りに止められたリフトの上で、モブリットはハンジに提案する。
「あの釘を使ってみますか」
「うん。試してみよう。ソニーとビーンを捕まえた時に使った、あの釘を」
約一メートル半の長さの釘。本来それは巨人の捕獲の際に槌で打ち込むモノだが、ハンジはこれをエレンに持たせてみることにした。
持たせるのは右手だけ。人差し指と中指の間、中指と薬指の間、薬指と小指の間に一本ずつ挟み、獣の爪のように鋭い先端を突き出させる。
「どうだい、エレン?」
ハンジが感想を聞こうとしたが、エレンは釘を挟んだまま数度右手を開いて閉じ、脇目も降らず異形の巨人に走っていった。ついでで砲撃の妨げになる家屋を蹴散らしながら。
それを皮切りに、
「大砲の搬入を開始せよ!」
ピクシス司令の一喝のもと、リフトに地上に配置された兵士達は大砲を運び始めた。大砲をありったけ積まれたリフトは激しく軋み、今にも砕け散りそうだった。地上では外門から押し合いになりそうな密度で、二列を組んだ大砲の群れは運び出されてゆく。横一列四人分程度の隙間から見える草原に向かって、兵士たちは鉄塊を押し出した。
異形の鎧はエレンの出現と同時に徘徊を止め、壁の方を睨んでいたが、エレンの接近を迎え撃つべく、両腕を下手に大きく足音を立てて走り出した。壁を破壊したあの鎧の巨人に比べて、速度は緩やかだった。
エレンは弓を引き絞るように右手の拳を引き、半月を描くように振り抜いた。ギィンと音響弾の数十倍の音量を持つ、甲高い金属音が鳴り響いて、異形の鎧は数歩後ずさった。あまりに不愉快な音色に音が届く前に耳を塞いだ『彼』でも吐きそうになる。ハンジは涼しげな顔で望遠鏡から目を逸らさず、エレンの攻撃力を分析する。
「うむ。やはりエレンの拳による攻撃は、砲撃と同じくらいか。これは、前に取り壊しが決まった建物を破壊する実験で取った記録通りだね。さて、釘はどうかな、モブリット?」
「ダメです!刺さっていません!」
「やっぱりダメか。壁にも刺さる、立体機動装置のアンカーくらいの硬度じゃないと」
「殴った衝撃が上手く伝わってなさそうですね。指の隙間から見える釘の先が、さっきより短くなってます」
「釘が細すぎて握り込めてねぇ。殴るにはある程度挟めるものがでかくねぇとな」
リヴァイの横槍から、ハンジは光明を得た。
「なるほど。グリップも大事か。あの釘は人間大なら長さはペンくらいだけど、太さの比はつまようじくらいだからね。もっとサイズを大きくしないと」
「釘の生産ラインに別途巨大な釘を作るよう頼んでもみましたが、『立体機動装置の生まれた時代ならともかく、現在の実績も挙げられない調査兵団に投資するのは、たとえ現状維持だとしてもこれが最大限の譲歩だ』と、断られたのは無念ですね」
モブリットはハンジの期待を後だしで打ち砕く。しかし、分隊長は折れない。
「ここで実績とやらを出してやるさ」
「あっ!鎧の巨人に動きが!」
モブリットの警告よりも先に、ハンジは作戦継続の音響弾と緑の信煙弾を打ち上げる。
異形の鎧は両手を振り上げ、エレンに走りよる。エレンは正面から鎧の腹部を蹴り飛ばして牽制し、右手の奥に入り込んだ釘を握り直す。エレンは異形の鎧に前面を向けたまま、背中を東に向けてにじり寄っていく。異形の鎧が体勢を戻す頃には、二体の巨人を繋ぐ間合いは、直線を描けば壁と平行になるよう大きく方向転換していた。門を境に異形の鎧が西に、エレンは東に立つ。
「よし、どうやらある程度、エレンは目的を覚えているようだ」
二体の巨人の衝突とともに再び金属が擦れ合うような不愉快な音が反響し、『彼』は思わず顔をしかめる。
「次はどうだ!」
「釘かひしゃげました!鎧がエレンに向かっていきます!!」
「彼の装備確保の隙を作るぞ!」
モブリットの報告に応じて、ハンジは音響弾を二つ放ち、続けて黄色の煙弾を二筋打ち上げる。この合図は、外門を境に西側の大砲を掃射するものである。
四人で一門を受け持つ大砲。その群れが左翼を大きくはためかせる。それが巻き起こす大風は、半数は異形の巨人に到達する前に家屋に命中し、粉微塵にした。異形の鎧に命中したのは、さらに半数。命中した箇所がまばらなためか、異形の巨人は着弾時の衝撃で足を止めただけだった。
エレンは東側の地面に配置された釘で満ちた箱から釘を三本取り出し、異形の鎧が大砲へ向かわないよう、家屋を踏み潰しながら突撃する。異形の巨人も身体を前傾させ、エレンに向かって突撃する。
エレンは異形の熱意に応じるように突進を続けていたが、衝突の直前に北へと突撃を躱して、すれ違いざまに足払いを掛けた。
(あの技は……)
別段『彼』が渡した本の中に書かれていたからといって、エレンがその通りに動いたわけではない。しかしその足払いには一朝一夕では身に付かないであろう手際の良さがあった。
頭から仰向けに転がった異形の鎧に、エレンはジャンプして落下を乗せた右手を叩き込む。再三の金属音とともに、骨と肉が潰れるような音がした。エレンがもう一度腕を振り上げたときには、その異音の原因が明瞭となった。エレンの右手は粉砕され、釘が拳の中に埋め込まれ、無作為に突き出していたのだ。
「実験で拳の耐久性のテストもしたのに!」
「体重を掛けすぎたか!」
ピクシス司令は『彼』に指示を飛ばす。
「隙を作るぞ。【異形】の右手を狙え!」
「はい!」
誰もがエレンの手の損傷に目を向けていた。たった一人を除いて。
「あれは……」
ーーーーーー
「幸い、上の彼らが足止めしてくれてはいるが、どうする?エレンの手が治るのを待つには、東側にも砲撃を頼むか…?」
「分隊長、団長に指示を窺いますか?」
「とてもそんな時間は───」
「エレン!もう一度だ!」
誰かが叫んだ。その声は『彼』のよく知る、聡明な一人の少年の声だった。
「もう一度、ヤツを殴ってみてくれ!ヤツの皮膚が再生する前に!!」
ハンジは緑の信煙弾を打ち上げる。分隊長もまた、その声を知っていた。アルミン・アルレルトのものだった。
エレンはその言葉に反応は見せなかったが、ハンジの合図にそのまま従ってみせた。異形のへこんだ胸板に、骨の剥き出しになった腕を突き込む。ガン、という衝撃とともに異形は一歩後退し、胸板のへこみはひしゃげた。異形が体勢を直す前に、更にエレンは腕を叩き込む。ひしゃげた箇所にヒビが入った。
「やっぱりだ!釘と掛けた体重の大きさで、傷が付くのが見えたんだ!」
異形はエレンを掴もうと手を伸ばすが、
ベルトルトの放った山なりの砲丸が異形の右手を弾いた。機を逃さずさらにエレンは腕を叩き込んでいく。彼の右腕の骨も無事では済まず、一撃を加えるたびに砕けていく。異形の胸のヒビが割れ目に、割れ目が裂け目になり、裂け目が孔になる頃には、エレンの腕は肘の辺りまでボロボロに崩れていた。
あと一撃で砕けそうなところで、異形の巨人に変化があった。右手をもう一度振りかざしたエレンの巨人の喉笛に、一瞬で鋭利な刃が貫かれた。異形の唐突な変化に、各団のトップを除いたその場の全員が刹那硬直した。壁上から遥か下、彼の名前を叫ぶ少女の一声が響く。
異形の鎧の右手の先から数メートルだけ、粘土を引っ張って伸長したかのような、その刃は真っ白で、その白さは異形の鎧が顔に纏っていた鏡面に似ていた。まるで顔に割いていた防御の配分を、攻勢に転じさせたかのようだった。その証拠に鏡面のようにすべすべな顔が、被せた布を払うように、汎用的な巨人の骨肉を顕わにしていた。
刃は確かにエレンの巨人の首を捉えていたが、平らに突かれたその刃でも刀身の幅が足りておらず、巨人の首を落とすには足りていなかった。もはやその異形を攻略するには、エレンが穿たれた僅かな孔だけで十分だった。鳥の嘴のようにエレンは左手の手指を尖らせ、孔に突き立てる。そして、右足を鎧の腹に当て、満身の力で左手を引いた。
格闘で異形に付けられた細かな傷、それらが裂創となり、錆びて閉じられた大扉を引いて開くように、異形の胸元から脇の下まで、鎧は大きく引き剥がされた。鎖帷子状の鎧はバラバラと音を立て地に散らばり、異形は体表の三分の一の鎧を欠損した。赤身が剥き出しになった異形は攻勢を中断し、露出した部分を庇うように左手を翳すが、追従する筈の右腕はだらりと垂れ下がっており、肝心の右半身を守れていない。
「右の鎖骨ごと、鎧を剥ぎ取ったんだ!!」
「まだだ!ヤツの鎧がまた治り始めてる!」
異形の鎧は先ほど見せた豹変も消沈したか、右手の刃先を縮め、頭部をまた覆い隠そうとする。ハンジの懸念もよそに、エレンは既に追撃を開始していた。鎧のもたげた左腕を掴まえ、鎧の背後に回り込みひねり上げる。我々に役割を明け渡すように。
二体の巨人が派手に暴れたお陰で、遮蔽となる家屋は全て取り払われ、廃材の畝の向こうに、開けた緑の地平が見えていた。
守りを引き剥がされた鎧に向けられるのは、おびただしい数の砲丸の嵐だった。
「撃てーー!!!」
横一列に並んだ数十門の大砲。
ピクシス司令の檄一つで西部から発射を始め、ドン、ドン、ドンドンドドドと追い立てるように砲声が響く。
炸裂した火薬の雨で巻き上げられた噴煙は、二体の15メートル級を覆い隠す。その煙幕は10秒も保てず、すぐに天下に結末を暴いて見せた。
エレンの拳数十発分の火薬を叩き込まれた【異形】は、頭から右脇下とそれ以外で二つに分かたれていた。
「うなじは!?」
異形であろうと巨人を生き永らえさせる綱であるうなじは、胸板や首筋ごと吹き飛ばされて、肉の殆どを失った異形の鎧に残されたのは、エレンが掴んでいた頭と、地面に蒔かれた四肢だけだった。背面に広がっていた硬い皮膚も、砲撃により霧散していた。あともう少し大砲の数が多ければ、エレンにまでその火力が及んでいた。異形の鎧の巨人の頭部は汎用的な巨人と変わらぬ仕様で、その形を保てず、蒸発してゆく。頭部に被せられた、金属のようなヴェールを残して。
全員がその状況に硬直する。奴は死んでいるのか、それとも動き出すのか。異形の鎧が瞬時に起こした異例の現象、部位の変形を目の当たりにしたゆえに、まだ何か隠し球があるのではないかと警戒を緩めていない。
そんな群衆の中で、たった一人でその空気を突き破った者がいた。
「はっはは!」
ハンジは目を見開いて、縮こまって身体をブルブルと震わせて一気に両腕を空高く広げて、
「ひゃっほおおおおい!!!」
と歓喜の叫びを上げてリフトから飛び出した。飛び下りた拍子に即座にホルスターから柄を取り出し、立体機動で華麗に着地して、分隊長は叫び足りないのか、
「ほおおおおい!!」
とさっきの続きをやり遂げるかのように叫んで、走る。
ハンジが役割を放棄することを織り込み済みだったエルヴィン団長が緑の信煙弾を打ち上げ、宣言する。
「異形の巨人、討伐完了!!」
─3─
「とんでもない宝の山だ!!!」
ハンジは異形の巨人が残した物を拾い上げる。それは、異形の巨人が消滅してなお残された、硬い材質の破片である。ハンジはそれを薪のように何本も拾い上げては腕の中に抱え込む。
「捕獲は叶わなかったが、感想はどうだ、ハンジ」
「確かに、あの巨人と語らう機会を失ったことに口惜しさを覚えるべきなんだろうけど、エレンが異形の巨人に勝ったことが、何よりも重要だ。異形とはいえ鎧の巨人に勝てる可能性をエレンが示してくれたんだ。まさしく快挙だ。それに……」
ハンジは拾い上げた破片をじっくりと見つめ、ごくりと喉を鳴らした。
「それ以上に何かのヒントを得られた気がする」
ハンジは異形の破片を束ねて縄で縛り、遅れて来た班員の一人、ケイジにそれを渡し、「エレンの骨がやったように、あの槍のような形状を活かせば…」とハンジは独り言を呟きながら紙にガリガリと筆を走らせていく。素材に数式に図で乱雑に紙を埋めつくして、まだ余白がありそうだが「次!」とハンジは右手のひらを横に突きだして催促し、モブリットがそこに紙を添える。
立ったまま書くことに我慢ならないのか、地面に紙を押し当てて書き始めた。口調こそ理性的な科学者だが、筆運びはすっかり狂熱に当てられていた。
じょうろからこぼれ落ちた一滴の雫が地面に落ちて消え入る前に掬い上げようとするかのように、その一滴の湧き出るアイデアを逃すまいと、向こう見ずながらもハンジは書く手を止めない。筆圧で紙に穴が開こうと、誤字脱字が起ころうと、その速記が少しずつ鈍ろうと、分隊長は書くのを止めなかった。
なにぶんこれは、たとえ知性を持たない巨人相手とはいえ、人類が鎧の巨人に勝てる可能性を示す、前例となる戦いとなったのだ。上層部に報告することもまた山ほどあるだろう、
「寝てやがるな。のんきなことだ」と、オルオは独り言を溢す。
リヴァイ班は兵長が手早く引きずり出したエレンを荷馬車に乗せ、外門に向けて運んでいる。
「まあ、今回の熟睡くらい許してやろうぜ。いやむしろ、じっくり寝かせてやるべきだ」
「なんだよグンタ。お堅いお前が珍しいじゃねえか」
「私もそう思うわ。今回の戦いは、私達だけじゃ絶対敵わない相手だった」
ペトラは首を横に振り、
「長らく拮抗していたこの窮地を、エレンが切り開いてくれた。寝かせるだけじゃ足りないくらいよ」
「…んで、俺達の荷馬車に乗ってるそこの、マフラー巻いてる嬢ちゃんは何しに来てんだ。他にやることあるだろ」
ミカサは茶々入れもどこ吹く風で、エレンの顔を無言でじっと覗き込んでいる。いつ目を覚ましてもその瞬間を逃さないために。訝しむ兵員の視線をさえぎるように、『彼』は片手を伸ばす。
「今回ばかりは、勘弁してあげてくれませんか。私に免じて」
班員らは一息ついて、各々飲み物を口に当てがうなり、装備を外した後の腰をさすったりしている。
「まあ、仕方ねぇな。新兵の昇進祝いも兼ねて、ここは見逃してやるよ」
「昇進ですか。いいですねえ。……いや、リヴァイ班にいる以上、これ以上の昇進なんて望めませんかね」
「まだ余力残ってんな、お前。また例の【実験】とやら、この後やるか?」
エルドの一声で、『彼』はおどけた猿真似を仕舞いこんだ。
その荷馬車の進路に、一人の老兵が巧みな立体機動で踊り出る。
「ああ、見つけたぞ。お主」
「ピクシス司令。これは…」
『彼』は慌てて荷馬車から降りようとするが、ピクシスは片手を掲げてそれを制止させた。
「この度はご苦労じゃった。急で心苦しいが、数日後、王都に報告に上る。のじゃが、その後、アルレルトとお主とで、話がしたい。良いかのう?」
「聞きたいことですか。それなら、フーバー調査兵にも声を掛けてきます。彼も本作戦の立派な功労者ですから」
「いや、構わん」
司令は穏やかな語気のまま、『彼』の発言を取り下げる。
「アルレルトが君のことを話しておったから、気になっただけじゃな」
「そうですか。彼がそんなことを……」
「司令、お言葉ですが、今回の作戦は、調査兵団、駐屯兵団の双方での活躍で収められた戦果と存じます。上層への報告で、数日は手狭になるのでは?」
ピクシスの傍に控えていた駐屯兵が進言するが、司令は意に介していなさそうだった。
「いや、上のことじゃ。案外直ぐに報告は終わるじゃろうて」
『彼』の頭には疑問符が浮かんでいたが、兵団が異なるとはいえ、上役は上役。その者から私事の申し出とくれば、なにかと目を掛けてもらえる好機である。エルドはにやけながら『彼』の背中を思い切りバシン、と叩いた。
『彼』が拾い上げて背中に隠した、ある一つの物が背中に食い込んでひどく痛んだ。
こうして、約三時間に渡る異形の巨人との戦闘とその後始末は、これにて幕を下ろした。